第18話 急襲

+シド・ヴィジョン+



 姉の肩を抱こうとしたその一瞬に、突然目もくらむような閃光に包まれ、そのままあまりにも唐突に真っ白な部屋の中に立たされたシドだったが、彼には現状を把握するための時間すら用意されていなかった。

 畳み掛ける強烈な痛み。

 足を引き裂かれ、思わずバランスを崩す。

 なんだ……何が起きた!?

 とっさに刀を抜いたが、一瞬、まだ前に姉がいる感覚を引きずって、居合が遅れる。

 混乱と迷いの最中さなかに、しかし、シドは見た。

 彼の肩を蹴りながら、背後に飛び退く一人の男の姿を。

 顔を完全に覆う、虫のようなマスク。

 長靴、黒いズボン。

 アリアネの青い魔導着。

 ゴキブリ……っ!! 

 一瞬にして頭に血が上り、全ての思考が吹っ飛んだ。

「会いたかったぜ、クソゴミが……っ!!!」

 だが。

 追いかけようとした瞬間に、がくんと足がもつれて、前のめりにバランスを崩した。足に激痛。痛み自体は戦いの中で慣れているが、この不自由さは……何か取り付けられたか?

 それでも怒りを押さえつけられず、無理矢理に前進しようと足を動かす。

 カチャリと、金属的な音。

 鎖か?

 おもりに繋がった鎖が、はやる体を引き止めていた。

 冷静に状況を掴むより先に、ゴキブリの左手が焦熱に光る。

 吹き上がる黒煙の真ん中に、青い、揺れ。

 この色には、見覚えがある。

 最高出力の……パイロキネシス。

 ファイア。

 とっさに張ったシールドの上で、爆炎が踊った。

 衝撃に骨がきしむ。

 なんて……馬鹿げた火力。

 ショック症状で、呼吸ができない。

 ……だが。

 これでもまだ、ザイルの全力パンチよりはマシだ。

 片手で一閃、冷静に、自分の足に括られた鎖を斬り裂いた。

 ゴキブリは熱さに悶ているのか、鳥か猿にも似た叫び声を上げている。

 その声を目標に、刀を脇に構え、まっすぐに斬りかかった。

 火炎を抜け、目の前に、新しいマスクを被ったゴキブリの姿。

 ……った。

 そう思った。

 ゴキブリの手に、新しい武器。

 細長い鉄の棒を二つ重ねたような、銃という名の飛び道具。

 向けられて。

 炸裂。

 両腕と胴体に、張り裂けるほど痛みが走る。

 想像を遥かに上回るダメージ。

 無意識に張っていたシールドの範囲を飛び越えて、痛みの塊が体に食い込んだ。

 爪が吹っ飛び、指が焼ける感触。

 一瞬、鼓動さえ奪われたと思えるほどに体が震え、刀が手から滑り落ちた。

 片膝を付きながら、なおもゴキブリのマスクを見上げる。

 目の前に、黒い、穴二つ。

「まじかよ……この距離のソードオフで生きてんのかよ……」

 あの武器が、今度は顔へと向けられていた。

「……期待、通りだ」

 ゾクリと、背筋が震える。

 咄嗟とっさに面をかばった。

 それがミスだと気がついたときには、遅かった。

 爆音。

 膝が砕け散り、足が吹き飛んだ。

 骨が割れ、全身がきしむ。

 悪夢のような痛み。

 直後、アゴに強烈な衝撃を感じた。どうやら全力で蹴り飛ばされたらしい。血が吹き出し、地面に倒れ伏す。オレンジの光が視界の端でランプのようにちらついた。アリアネの炎がまだ、あちこちでくすぶっているのだ。

「てめえ……っ!」

 と、声をあげようとした。

 だが、舌が喉に貼りついて、息が詰まる。

 ……しゃべれない。

 アゴが……。

 グシャグシャだ。

「シドくん……だったよな、お前。俺は……あんたが怖い」

 不気味にくぐもった、ゴキブリの声。

「あんたが俺を睨んでた緑の目とか、表情とか、全部を思い出すたびに体が震えるんだ……怖え、怖えよぉって……鼻の横のホクロの位置まで、心に焼き付いちまって……」

 鼻から血が、ドボドボとあふれ出す。

 苦しい。

 痛い。

 動けない。

 くそ……。

 焦げ付いた肌。

 興奮状態の体の上からでさえ、訴える痛みの残酷さ。

 伝わる、絶望。

「おかげであんただけは呼び出せた……トラウマも捨てたもんじゃねえな」

 手先が震える。

 意識が、遠い。熱病に侵されたみたいに、クラクラと吐きそうな気分だった。

 くそ、ダメだ、意識を切ったら……。

 こいつに……負ける。

「この……クソ野郎がっ!!!!」

 強烈な蹴りが、鳩尾みぞおちに刺さる。

「お前のっ! お前のせいで俺は! 火傷まみれでっ!! 風呂も、まともに、入れない体じゃねえかっ!!!」

 二発、三発と衝撃が続く。

「どうすんだよこれっ!? 変な震えが止まらねえよ!! こりゃなんだ、メンタルの問題か? 体ぶっ壊したのか!? どっちにしろてめえのせいだからなっ!! てめえと、てめえの姉ちゃんの……っ!!!」

 蹴りの乱打に、全身の骨が悲鳴を上げる。

 だが……。

 おかげで気付けにはなった。

 焼けた喉で、深呼吸。

 自分の体を意識する。左の脚はもうないし、腕も無事じゃない。内臓も明らかに潰れてる。体中が風呂桶をひっくり返したみたいに血まみれで、端から見れば、きっと生きてるようには見えないくらいに無惨なザマだろう。

 残っているのは……殺意だけ。

 ゴキブリが銃を下ろした一瞬の隙をつき、頭から突っ込んだ。

 膝の骨が、潰れる感触。

 構うものか。

「ひ、ひやっ!?」

 と、情けない声を上げてゴキブリは転がる。

 こいつだけは……殺さなくちゃいけねえ。

「や、やめ……悪かった!! 待ってくれえっ!!」

 ちくしょう……。

 負けたくねえっ!!

 こんなやつに……殺されて、たまるか!

 馬乗りになり、魔力を込めて殴りつける。

 だが、ダメージを受けるのはこちらの手ばかり。

 親指と中指以外の指が、ひしゃげていた。左手の指は、半分が吹っ飛んでいる。

 殴るたびに、カナヅチを叩きつけられたような激痛。

 それでも……。

 相手のゴーグルに向かって、頭突きする。

 砕けたアゴと歯が悲鳴を上げていたが、それでも、弱々しくとも、食らいつく。

 ここで諦めたら……。

 ガシリと、右肩を掴まれる。

 骨がこすれる。

 痛い。

 そして……熱い。

 吹き上がった煙が、目に入る。

 同時に火炎が、奔流となって互いを燃やした。

 焦熱に全身が硬直し、息が止まる。

 おそらく、そのまま一時意識が切れたのだろう。気がつけば、仰向けに転がったまま、ゴキブリに顔を掴まれていた。

「はぁ……はぁ……頼むよ、もう暴れないでくれ……もう十分だろ? なあ、なあ……?」 

 ……クソ。

 クソぉ!!

 こんなに悔しいのは……生まれて初めてだ……。

 痛みよりも、もどかしい。

 口惜しい。

 ゴキ……ブリッ!!

 こんな奴に……なんで俺たちが、負けるんだ……。

 目の前につっ立ってるだけの、ザコ一人に……。

 世界が、さらに遠のいた。

 気持ち悪い。

 泥の中にいるみたいに、死にそうだ。

 ふざけるな……と、朦朧もうろうとする意識の中で、呟いた。

 一騎打ちなら……俺は、負けないって……。

 姉ちゃんにも、言われてんだ!

 最後の力を叫びに変えて、血を吐き散らしながら、指のちぎれた右手で、ゴキブリのマスクを掴んだ。

(くた……ばれ)

 ヴェノムの赤い毒霧が、ズタズタの指先から、ゴキブリの顔に炸裂する。

 勝ったと……浅ましく、そう思った。

 瞬間、全身から力が抜き去られる。

 指一つ、動かせない。

「おぉおぉ……な、なあんだ、意外とあっさり使ってくれるんだな……」

 目の前が、暗くなる。

「これで……おめえの姉ちゃんにも勝てそうだ……」

 よどんだ声。

 向けられた銃口。

 シドがその意味を感じ取るよりも早く、ギリギリまで張り詰めていた意識は、一発の銃声に掻き消され沈んでいった。

「……5人目」

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