第17話 姉と弟

+フラー・ヴィジョン+



 リアンの頭に被せられていた、無機質なヘルメット。変形し、血がみ出しているその被り物を、フラーは決意を固めてゆっくりと頭から取り外した。

 たまっていた血が流れ落ち、懐かしい顔に空気が触れる。

 リアン……。

 薄く開かれたまぶたの奥の黒目の中に、泣いてる私の顔が映っていた。やっぱり……覚悟していたって、死んだ仲間の顔を見るのが辛くないわけがない。

 心が割れてしまいそうだった。 

 土気色の寂しい公園の中には、まだゴキブリが残した血まみれの刃物がたくさん転がっている。リアンはきっと、刃物でいっぱいの箱に詰め込まれたまま、スレイプニルに引きずられてここまで来たのだろう。突き刺さったままのナイフ、取れかけた乳房、おびただしい出血と打撲のあと、折れた腕、骨のはみ出た足……首に巻かれたタオルと頭のヘルメットは、即死させないための措置だろう。何も見えない暗い箱の中で、打たれ、刻まれ、失血で絶え果てるまで振り回されたリアンの死に顔には、恐怖のひずみがくっきりと焼き付いてしまっている。

 この顔は、今朝までは生きていた人の顔。笑ったり泣いたり、しゃべったりしてきた私の友だち、リアン。それが今は、動かない。唇は言葉をつむがず、息もしない。まばたきすらない、人形のように、空虚な表情。

 涙が止まるわけがなかった。

 この現実を前にしても、私たちはまだ戦い続けなくちゃいけないなんて……。

 向こうではダイトが、アリアネの焼けた体の上に自分の上着をかぶせて、ベンチの上に寝かせている。この世界で彼が一番長く付き合ってきたアリアネの体は、全身が陶器のように焼け焦げていて、元がどんな顔だったのかさえわからない有様だった。キレイだった桃色の髪もほとんどが黒く焼け落ちていて、本当に何一つ、面影らしいものが残っていない。

 ゴキブリがアリアネにかけた液体……ダイトは、それはきっとガソリンだろうと話していた。向こうの世界の油のようなものらしい。今あいつが持っている力がアリアネのパイロキネシスなら、このガソリンというものはかなり厄介なはず。警戒をおこたらないために、近くの止められた乗り物、バイクの中に入っていたそれの匂いを、私たちはしっかりと確認しておいた。

 そうやって……少しずつ勝つための冷静な行動を重ねるのは、私が落ち着くためというよりも、ダイトのことが心配だったからだ。

 彼は、大丈夫だろうか?

 ダイトは先から、ほとんどしゃべらない。それ自体は仕方がないことだと思う。私だって、こんな状況で冷静に話すのはとてもつらかった。ダイトは仲間を失わないための勇気ならいくらでも持ち合わせていた。だから勇者になれた。でもそれはつまり、それだけ仲間を殺されることを恐れていた裏返し。

 突然突きつけられた、最悪の失敗。二度と取り返しのつかない、死という結果。反動は計り知れない。ましてやその死が苦しみに満ちたものなら……。

 あぁ、だめ。今はまだ振り返っちゃいけない。きっとこれから先何日も、何年も悲しいままであろうと、今日だけはダメだ。

 涙を抑え、リアンの体を花のない花壇の上に寝かせる。

 ……死んだ体からは、とても嫌な臭いがする。

 それでも、空っぽの顔の上に、額を合わさずにはいられなかった。

 ごめんね、リアン。必ず、戻ってくるから……。

「ねえ……」

 ダイトが低い声で、ささやいた。

 彼の虚ろな瞳を、じっと見つめる。

「ゴキブリを倒したら……僕は、何をするべきだろうね」

「……どういうことだよ?」街灯にもたれかかっていたシドが、聞き返す。

「今まで僕らは、悪人でも、殺さなかった」

「おい、てめえ……今更殺すのがどうとか言いだす気か?」

 身を起こして声を荒げたシドとダイトの間に、さっと入る。今ケンカになるのは絶対にマズい。

「ゴキブリを殺すのは……当然、構わないって思ってるよ」ダイトは力なく、トボトボと話し続ける。「今までだって、自分や仲間が殺されるかもしれない場面で、敵を殺すのためらうなっていうのは……みんなで言い聞かせてたことだ。僕だって、あいつが死ぬほど憎いし……あいつは僕らを殺そうとしているんだ。殺してでも身を守る覚悟は、できてる。だけど……」

 そこまで言って黙ってしまったダイトだったが、言いたいことは、はっきりと伝わった。

「もし、殺さなくてもいい状況になっても……殺すべきなのかってことね」

「んなもん……っ!」と、叫びかけたシドを、目でしずめる。

 だってそれは、とても大事なことだと思ったから。こんな状況でもそれを悩めるダイトだからこそ、私たちはみんな彼を信じてきたんだ。

 そんなダイトだからこそ、私は……。

「殺すのは……間違えてるんだ。そうだろ?」力ないダイトの声は続く。「僕たちは今まで、誰かの復讐を止めてまで、人が人を殺すのを避けてきた。復讐にはなんの意味もないって……それなのに、自分たちの仲間が殺されたら、いきなり目の色変えて殺してやるだなんて……虫が良すぎるって、思わない?」

 …………。

「……僕は、あいつを許せない。殺さないでいられる気がしない。だってあいつは、レイアとザイルとリアンとアリアネを殺したんだ。殺してやるのは当たり前だって思う。でも……僕らはそうやって復讐に走ろうとした人を、今まで止めてきただろ?」

「だが、奴は俺たちを狙ってる。殺らなきゃ、殺られる」シドが苛立ちを隠さずに、吐き捨てる。

「それはわかってるよ……でも……僕はきっと、その状況を言い訳にしちゃう気がするんだ」

 鋭い言葉だと、そう思った。

「そんな曖昧な形で、僕らは……僕らを繋いだ僕らの旅を、否定しちゃうのかな」

「……てめえいいかげんにしろよ」

 シドが、ダイトに歩み寄った。

 慌てて止めようとしたが、今度は私が、弟に目で制された。

 瞳にこもった、強い意志。

 そこに、混乱はない。

「お前、自分がそんなこと悩めると思ってんのか? てめえがあいつの命の権利を持ってるって?」

 シドは力強く、ダイトの顔を見据える。

「俺は、あいつを殺す。絶対にな」

 ダイトの顔が、シドと向き合った。

「てめえがどう思おうが知ったことか。俺はあいつをブチ殺すって決めてんだ」怒りのにじむ、シドの声。「簡単になんて殺さない。腕も足も切り落として、目玉引き抜いて、泣き喚かせて、俺たちの仲間全員に謝らせてから、首をはねてやる。一つのむくいも漏らさねえよ……文句あっか!?」

 ダイトと、それに私も驚いて目を見張った。

「いいか、殺すなんてのはなぁ……はなから倫理じゃねえんだ」冷たい声音に熱い意志を込めて、シドは語る。「俺たちは正義の味方である以前に、武力集団だろ? いつだって力ずくでこっちの意志を押し付けてきたんだ。俺たちに復讐を止められた奴らだって、誰も納得なんかしちゃいなかったよ。俺たちに勝てないから、復讐をやめざるをえなかっただけだろ。その結果が正しかろうがなんだろうが、俺たちは俺たちの主張を、力で押し通したんだ、違うか?」

 シド……。

「武力行使が正しいわけがねえ。言葉で何もかも伝えていければ本当はそれが一番だって、最初に言ったのはお前じゃねえか。だがそんなキャパがないから、俺らは武器を取った。俺たちはずっと前からやり方間違えてんだよ。結果がどれだけ偉大だろうが、やってきたことは全部、意志の押し付けだ」

 シドはぐいっと、ダイトのシャツの胸ぐらを掴む。

「お前はなぁ……あいつを殺すかとかそんなことに悩まなくていいんだよ。お前がどう悩もうが知ったことか。俺はあいつをぶち殺すって決めている」

 力強く、シドは言い切った。

「それが嫌なら、戦って俺を止めるんだな」

 シドはダイトから手を離して、手の甲で、彼の胸を叩いた。

「お前なあ、この状況がわかってんのか!?」声を荒げて、シドは、怒鳴る。「あいつは俺たちの仲間を殺してきたってだけじゃねえ! 今、生きている俺たちのことも殺そうとしてんだ! 俺を、お前を……それ以上に、姉ちゃんをだっ!!」

 姉ちゃん……。

 久しぶりの呼び名に、ドキリとする。

「自分が殺されるかもって状況でてめえが悩むのは勝手だよ! 俺が殺されるときにそう悩むのも好きにしろ! だが今、狙われてるのは俺の家族だ! 姉ちゃんだ! 俺のことが心配でついてきただけの、俺が巻き込んじまった……戦いたくなかった、姉ちゃんだ!! そんな姉ちゃんに、今まで俺らどんだけ頼ってきた!? どんだけ助けてもらった!? 今まで散々っぱら迷惑かけといて、その人が殺されそうだってときに、悩み抱えたまま敵に挑むのなんて誰が許すか!!!」

 心が、震えた。

 振り返り、シドは私の前に立つ。

 もう、見上げないと向かい合えないくらいに、背が高い。

「……姉ちゃんだけは、死んでも殺らせねえ。指一本でも触れさせてたまるか」

 今までとは、違う涙が頬を伝っているのがわかった。

「シド……」

「情けねえ話だよ……」シドは声を落として、ため息をつく。「俺は道徳屋じゃねえからな……大事な仲間がこれだけ死んでも、姉ちゃんが生きててくれて嬉しいのさ。みんなの死に様を見て、姉ちゃんまでこんな目にあったらって考えたら……怖くて……」

「わ、私……も……」

 言葉が、詰まる。

 こんなの、ズルい……。

「姉ちゃんがいなかったら、俺は今頃、死んでたんだ。もう、カッコつけてらんねえ」

 私は泣きながら、弟に、歩み寄る。

 普段なら絶対に突っぱねるはずのシドも、すっと両腕を広げた。

 いつの間に、こんなにたくましくなってたのかな?

 その胸に、額が触れる。

「姉ちゃん……ありが……」

 ふわっと、風を感じる。

 温もりが吹き去られて。

 目の前にいたはずの弟の体が、忽然こつぜんと、消え去った。

 ……え?

 慌てて目をこすり、辺りを見回す。

 緑のない公園。

 血の跡と、焦げた地面。

 風も吹かない。

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