第16話 虫ケラ
+ゴキブリ・ヴィジョン+
震える右手で、ペットボトルから水を飲み込む。床に置こうとして取りこぼしてしまったが反応する気力もなく、ただ川のように流れる水を視界の端で意識しながら、ズキズキと痛いほどの鼓動に身を任せ続けることしかできなかった。
目を閉じれば思い浮かぶ、あの銀髪の男の殺意の刃。
命乞いの言葉すら消え入るほどに、恐ろしかった。
怖い。
怖い。
怖い。
怖い。
もう、やりたくねえ……。
「くそ……くっそがあああっ!!!!」
威勢だけはいい声が、白い部屋の中に虚しく反響して消えていった。
ちくしょう……しくじったなぁ。なんでバレた? どこでミスった? やはり、最初の一手であの女の子のスキャナーを使ってしまったことが最大の敗因だろうか。あれでこちらの力が”能力を奪う”ものであるとバレてしまったのだ。勇者がイミテーションとやらで使っているスキャナーを妨害できないものかと咄嗟に試してみたのだが、やはり慣れないことはするべきじゃない。
本当に、馬鹿だった。
震えながら、適当な布で応急処置した左腕を上下に動かしてみる。恐る恐る肩を上げたところで信じられないくらいの痛みが骨に走った。肉の中でグリグリと骨がズレているのがわかる。指はなんとか動かせるようだが、小指と薬指に妙な痺れが残ってしまっていた。あんな細腕の姉ちゃんの一撃で、まさかこんな……やはり、魔法の力を甘く見てはいけない。打てる手を打ち尽くしてなんとかあの場は逃げ切れたものの、かわりに全身ヤケドまみれである。下半身なんか見るに堪えない。上半身はまだマシなのは、きっとあの女のジャケットのおかげだろう。これが防火服であると見抜けていなければ今頃死んでいたかもしれない。それくらい、全身が火に包まれるのは地獄だった。感覚としてはサウナの中でヤカンに抱っこされているのに近い。きっとあの炎の女も辛かったろう。
右手で顔のヤケドをさする。パリパリと焼肉みたいな感触がした。
……炎か。
あの女が天井に炎で焦げ跡を作ったときには、心臓が止まるかと思った。
ダンジョン生成によるパーティ分割作戦は、言ってしまえばこちらの切り札だったのだ。一つの部屋からダンジョンを形成すると、箱は周りの箱を吸収して巨大化していくのだが、その際に最初の部屋の中にあったものは、相対的な位置関係を保ったままに距離だけが離される。全員を確実に分散できる、唯一の方法がこれだった。
唯一のチャンスだったのに……。
ダンジョン形成で降り立つ場所が確実にわかるのは、中心指定の座標を踏んだ一人だけ。誰を狙うべきか悩みに悩んだ末に、想像以上の足の速さを見せたあの最後尾の馬女を優先することを選んでしまったことが、結果的には大ポカだったのだろう。早めに機動力を奪うって判断自体は間違いじゃないはずだったが……流石に人の機転までは読めない。
……だが本当に恐ろしいのは、奴ら一人ひとりの戦闘能力。
モンスター如きではほとんど時間稼ぎにもならない圧倒的な個の力だ。
まさかあの炎の女一人に30体の鳥モンスターのほとんどを焼き殺されるなんて思ってもみなかった。それだけじゃない。刀男に差し向けた50近くの大群も10分そこらで壊滅、信じらないくらい可愛かったあの姉ちゃんはステルスで全スルー、勇者に至っては100体以上のモンスターを一人でねじ伏せてしまった。
まさしく、化け物。
プリセットのモンスターはまだ少しだけ残っているが、このまま送り込んでも犬死にするだけなのはよくわかった。奴らはモンスターでは絶対に殺せない。呼び出せる道具の数も、すでに底が見えつつある。
どうすりゃいいんだよ……。
使えそうな道具の候補について、あれこれ思いを巡らせる。道具の呼び出しはこの図書館の基本機能だ。知識あるものの召喚、つまり、自分が知っているものを、そこらじゅうに這ってる文字を”消費”して指定ポイントに呼び出せる。だが、知っているものならなんでもいいわけではなく、例えば銃にしても、形を知ってるとかだけじゃダメで、ちゃん動作原理までわかっている必要がある。バイクはまだしも重火器まで呼べてしまうのだから、そこまで詳しい必要はないのだろうが……。
床に残ってた黒い文字を指で引っ張って、愛飲していた天然水のペットボトルを描きつつ、指定通りの順に呪文をなぞる。文字が一瞬、赤く光った。これが成功のサイン。
黒いナイフで足元にポイント指定して、集中。
二秒も待たず文字が消えて、ペットボトルがカランと転がった。これくらい小さいものなら簡単に呼べるし、文字の消費も少ないのだが……。
ここまで逃げるために使ったワープも、ようはこれの応用みたいなものである。手引書から好きな部屋にアクセスして、文字を消費してそこへ飛ぶ。原理的には人間一人を召喚しているのと同じだから、消費は荒い。この街のダンジョンも同様の方法で現実世界から呼び出した。きっと向こうでは恐ろしいことが起きているだろう。
水をがぶ飲みして、軽くむせる。
残ってる文字のほとんどが、最後のダンジョン作成用だ。この図書館は、
嫌な匂いがして、思わず顔をあおいだ。振り返った先にあるのは、おぞましい変色を見せつつある筋肉男と少女の死体。
二人分の悲鳴の残響が脳裏をよぎり、無意味と悟りながらも耳を塞ぐ。
ずっと、声が消えない。
吐き気が止まらない。
俺だって……俺だってこんなことしたかったわけじゃない。できることなら楽に殺してやりたいし、そもそも誰も殺したくない。
でも、だって、他にどうすりゃいいんだ? 俺に選択肢があったか?
もう俺には、こうするしか道は残ってなかったじゃないか……。
片手で口を抑えながらヨロヨロと立ち上がる。必要な死体は、全部で6つ。殺すべきは、あと2人。銀色の髪をした、あの姉弟。
それさえ果たせば確実に勇者は殺せるが……問題なのは、いつだって時間だ。タイムリミットはすぐそこである。
また、白髪男の怒りの面相がフラッシュバック。
刀を構えて、まっすぐに仇を見据えた、緑の瞳。
血まみれの
体がガタガタと震えるのがわかった。
あぁ、いやだいやだいやだ……。
こええぇ……。
怒りに満ちた目、おぞましい猿叫……決意の上からでも、喉が震えるほどに、トラウマが焼き付いていて……。
くそう……。
ああ、畜生、最悪だ。もうやめたい、逃げたい、やりたくない……だけど、あんな小さな子まで俺は殺してしまったのだから、今更許してもらえるはずもない。失敗したら殺されるだけだ。
戦え、ゴキブリ。
もう後には引けないんだ。
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