第14話 回生

+シド・ヴィジョン+



 焦げ付く匂い。

 くすぶる炎。

 濁り、腐った血の匂い。

 何も生えていない丸い花壇と質素な柵に囲まれた、芝生のない土の空間。幾何学模様のタイルの地面。

 その狭間に倒れている顔の隠れた血まみれのリアンと、焼け焦げた裸の女……おそらく、アリアネ。

 シドは一瞬だけ、焦げ跡のある真っ白の天井を見上げて、唇を噛み締めた。

 クソ……。

 震えるほどの悲しみを押し込めて、灼けつく怒りだけを、全身の血に巡らせる。心の底からドロドロの怒りが、心地よささえ感じられるほど強く湧き上がってきた。

 アリアネ……ありがとな。

 お前が残してくれた目印のおかげで、俺は今、こうしてこの憎きゴキブリと巡り会えている。

 リアンと、それにレイアも……。

 必ず俺が、仇を取る。

 強く強く刻みつけた思いを胸に、刀を鞘から抜き去って、シドはゴキブリと向かい合った。

「よお、お前がゴキブリか……探したぞ」

 ゴキブリは小さな鈍器のような飛び道具を肩に構えて、微動だにせずまっすぐこちらを見据えていた。返り血の赤を吸った真っ黒な装いの上にアリアネの青い魔導着を羽織り、腰には見慣れない大型のナタのような武器をぶら下げている。

 軽く、右に視線を送る。車輪の付いた乗り物が一台、道端に無造作に停められている。おそらくはこいつの移動手段だろう。

 もう一度ゴキブリを見つめる。シドが立ちはだかるモンスターたちをなぎ倒してこの場所にたどり着いたとき、こいつは公園の左側から、ノソノソとあの乗り物の方へと歩いてきたところだった。

「てめえ……死体を置いてどこに行ってやがった?」

 シドは聞く。

 ゴキブリは、答えない。

「……姉貴が先に来たはずだろ?」

 姉はステルスの力の持ち主だ。モンスターを無視できる姉貴は、確実に彼より早くここにたどり着いているはずである。だが、なぜか姉は姿を表さない。作戦があってどこかに隠れているのか、あるいは……。

 いや、考えるのは後だ。

 どうせやることは変わらない。

 腰を落とし、刀身を寝かせる。

 あらゆる思考を封殺して、シドは、冷静に目の前の敵と相対した。

 この男は、あのザイルの動きでさえ完全に封じる能力を持っている。だが今は臨戦態勢を取る彼に対してそれを行使しない。余裕ぶって斬りかかってくるのを待っているのか、あるいは発動に何か条件があるのか……。

 汗が、首筋を伝う。

 怒りに燃え、頭に血を上らせてこの場に立ったシドであったが、戦う者に必要な飢えた冷静さは失ってはいなかった。

 ゴキブリは、こちらに向かって武器を構えることさえしていない。あまりにも無防備だ。それはつまり、こちらの攻撃に対して用意があるということ。

 だが……それでも彼の力なら、確実にこいつを殺せる。

 刀のつかから左手を離した。

 シドの異能は、”ヴェノム”。指先から毒の霧を発生させる、仲間の中でも最も危険な能力だ。ヴェノムの毒霧は、一度吸い込んでしまえば能力解除後でさえ対象の体をむしばみ続ける、致死性の異能。

 それゆえに仲間がいる前では使えず、逆に単独戦闘であれば、ダイトにすら通じる最強の力。

 首を鳴らす。

 相手を右目だけで意識して、全身に力を込める。本気を出すときの、自分なりの儀式だ。

 ゴキブリの腕が、ゆっくりと上がる。

 ……待ったなしだ。

 左手から毒霧を噴射しようとした、その刹那。

「使っちゃダメーッッ!!!」

 ステルスを捨て突然現れた姉に驚いて、シドはとっさに能力の発動を取りやめる。

「そいつは異能を使った相手の動きを止められるだけよ!! 使わなきゃ、拘束はできない!!」

 ビクッと、ゴキブリの肩が震えた。驚いたように後ろを振り返り、そしてまた慌ててこちらに向き直る。

 話が理解できず、一瞬体がフリーズした。

「こいつは、本当は強くないっ!」

 姉は更に、叫び続ける。

「シールドもきっと大して使えない! 異能も今はパイロキネシスだけ! シドなら刀だけで絶対に勝てるっ!」

 聞き慣れた、姉の声。

 生きていてくれたことへの、安堵。

 湧き上がる激情。

 シドは考えるのをやめた。

 ……姉貴に運命を託せるなんて、願ってもない。

「戦おう!! 二人で、みんなの仇を打つんだ!!」

 その声を合図にシドは、咆哮と共に全速力で突進した。

 右肩を相手に向けて、姿勢を低く保つことで、さらす体面積を最小限に留める。

 慌てたように、敵の武器の先端がこちらを向いた。

 シールドは既に半身に展開済み。

 閃光と爆音が、三発。

 当たったのは、一発。

 肩に衝撃が走り、一瞬だけ足が止まった。

 鋭く重い、痛烈な一撃。金槌を叩きつけられたような、骨のきしみ。

 だが……。

 決して耐えられない痛みじゃない。

 これなら勝てる。

 自信と、確信と、怒りと、狂気。

 万感の、殺意。

 すべてを込めた瞳で、シドはもう一度、まっすぐにゴキブリをめつけた。

 異国のものと思わしき、不気味なマスク。

 その昆虫のようなレンズの下に、確かに、怯えている生身の人間のまなこが透けて見えた。

 三歩であっという間にゴキブリを刃圏に捉え、逆袈裟に、一閃。

 ゴキブリも腰からナタを抜いて、逆手に刀を受け止めた。

 一瞬の抵抗。

 火花が散る。

 だが、刃と刃が触れ合う感触で、すぐにわかった。

(こいつ……大したことねえぞ)

 曖昧な角度で衝突したナタごと、力ずくで斬り飛ばした。

 マスクが割れ、ゴキブリの黒い髪が広がる。ダイトと同じ髪の色。

 体勢を崩しながら、ゴキブリは身をかがめることでギリギリ居合をかわした。そのままシドの右腕を掴み、タックルのように体に組み付く。

 身のこなしは、立派。肉体強化の魔法も使ってないわけじゃない。

 だが……。

 慣れが、基礎力が、練度が、まるで足りない。

 足を踏みつけ、逆に相手の髪を引っ掴んだ。

 無理矢理に、体を引き剥がして、顔を上げさせる。


「ひっ……ひいぃ……」


 震える口元。

 無精髭の生えた口元。

 平らな顔。

 かっぴらいた瞳孔。

 情けない、うめき声。

 おいおいおい……。

 なんだコイツ?

 こんな野郎が……レイアを、ザイルを、リアンを、アリアネを、殺したってのか?

 魔王を倒した俺たちが……四人も、負けたって?

 ふざけんなよ。

 自分の顔が、怒りに引きつっていくのがわかる。

 ゴキブリ……と名乗った男が奇声を上げた。

 湧き上がる、様々な気持ち。

 暖かな思い出、悲惨な死体、口惜しさ、懐かしさ……。

 取り留めのない記憶の奔流ほんりゅう

 全ての記憶が、たった一つの命令を、声高に訴えていた。

 殺せ。

 世界一憎い相手の顔に、頭を振り落とす。

 衝撃。

 互いの額から、血が吹き出すのがわかった。

 顔を上げる。

 ダラダラと、血が肌を伝っていく。

 目から星を散らしながら無様にわめくゴキブリの顔を、正面に捉えた。

 あぁ……なんか、最低に最高の気分だ。

 ふと、肌にけつくような熱を感じる。

 ゴキブリの煙を吹く右手が、顔にかざされていた。

 これは……。

 黒煙をおびたオレンジの炎が、手のひらの中にチラつく。

 とっさにシールドを張った。

 パイロキネシスが、顔に向かって撃ち出される。

 威力は大したことない。

 だが熱というのは、意志を超えた反射のラインで人の体を強張らせる。

 もがくゴキブリを、取り逃す。

 煙を振り払ってすぐに刀を構え直した。

 想像以上に遠くまで駆け抜けていた、ゴキブリの背中。

 舌打ち。

 だが、シドは焦っていなかった。

 ……ゴキブリが向かう先の正面で、自分と同じ色の長い銀髪が揺れているのを確かに見たから。

 抜き身になった、二本の小刀。

 ここからでもわかるほどに、未だかつてない、姉の姿。

 鳥のように甲高い叫びとともに、フラーはゴキブリへと斬りかかった。

 とっさに体をかばったゴキブリの左腕を、容赦なく斬り裂く刃。

 シドが、姉に教えた動き。だが練習時のぎこちなさは欠片もない。

 目を見張るほど美しく、輝くほどにおそろしかった。

(姉ちゃん……)

 涙が、自分の目からこぼれるのがわかる。

 泣きながら、彼は疾走はしっていた。

 ゴキブリは痛みに声を張り上げながらも、骨が断たれ血があふれ出す左手を、まっすぐに地面に向けて力を込めた。

 チリチリと、焦熱が空気を焼く。

 まさか?

 ゴキブリは自分の足元へと、迷うことなく炎をほとばしらせた。

 爆炎。

 反射的に、フラーは体をかばって飛び退いた。

 だがシドは炎の中にまっすぐに突っ込んだ。

 灯台のように燃え上がった炎の勢いは強く、体が焦げるほどに熱い。だが、耐えられなくはない。彼の耐火魔法は、パーティ内ではアリアネに次ぐ。

 火の中をかき分けて、ゴキブリの元へ。

 焼け付く体。

 燃え立つ呼吸。

 上回る、怒り。

 焦げた背中に、刀を振り下ろす。

 振り返る、奴の顔。

 オレンジの火に揺られてうまくは見えなかったが、それでも、心底怯えているのはわかった。

 ……死ね。

 一閃。

 刃が肩に触れた、その瞬間。

 ふわりと、ゴキブリは姿を消し、刀はくうを切る。

 炎が、晴れる。

 焼けた地面。

 熱気の余韻。

 立ち昇る煙。

 ……あの男の面影は、どこにもなかった。

 なんだ? どこへ消えた?

 ワープ?

 ……くそっ。

 怒りのあまりに、天に向かって声を張り上げた。

 くそがっ!!!

 ゴキブリめ、まだこんな切り札を……。

 ちくしょう、逃した!

 あと一瞬早ければ、殺せたのに……っ。

 最悪だ。

 だが。

 息を切らしながら、視線を下げた先で……同じく苦しく息を吐く姉が、彼のことを見つめていた。

 姉弟で、向かい合う。

 立っている。

 生きている。

 怒りと悔しさに満ちていた心が、徐々に徐々に、暖かな安堵感に溶かされていく。

 張り詰めていた姉の表情が、ゆるくほどけた。

 口をへの字にひん曲がり、あっという間に、くしゃくしゃの泣き顔へと変わっていく。

「シド……っ!」

 勢い良く駆け寄ってきた姉を、抱きとめた。

 抱きとめて。

 抱きしめて。

 抱きしめられた。

「姉貴……無事でよかった……」

「シド……リアンが……アリアネが……」

「あぁ、わかってる……」小さな肩に、頭をのせる。「だけど、姉貴がいなかったら俺だって死んでた。ありがとう……」

 そのまましばらく、姉はワンワンと泣き続けていた。多分、泣いてるのはお互い様だったろう。

 どれくらい、そのままだったのか。

 コトリと小さな足音が、二人の空気を引き裂いた。

 はっとしたように姉は体を離す。

 彼女の視線に釣られるように、振り返った先で……転がるリアンとアリアネの死体の、すぐ脇に、しゃがみこんでたたずむ男がいた。

「ダイト……」

 声に答えて、最強の勇者が、顔を上げた。

 感傷が、吹き飛ばされる。

 落ちくぼんだ目、こけた頬。

 異世界人……民族が同じせいもあるのだろう。

 その顔は、怯えていたあのゴキブリの表情とよく似ていた。

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