第12話 パイロ

+アリアネ・ヴィジョン+



 状況は、最悪だった。

 アリアネは、あえて高い塔の上から異能を使った。地上からでは火を天井に届かせる自信がなかったし、高所は下からでは意外と見えにくいという戦略的なことも考えた上での決断だった。近づいてくる対象への視認性も高いし、いざという時には時間稼ぎにもなるだろうと……。

 結果その判断は裏目に出て、彼女は隠れるひまもなく、飛翔能力のあるモンスターの大群と向き合う羽目になった。

 まずいなぁ……。

 高いところを目指してとっさに登ったこのスカスカの不思議な塔には、狭い道しかない。こういう場所で空を飛ぶモンスターに囲まれるのは最悪だ。退路が絶たれるし、能力の相性も悪い。やむを得ずに死に物狂いで地上まで降りて、ゴキブリに見つかることを覚悟して戦うしかなかった。

 土ばかりの公園の中で、アリアネは、空から襲い来る見たことのない鳥のモンスターに手をかざす。

 腕の中を伝わる、燃えるような熱さ。

 どんどん温度が高まって。

 熱を絞り出すようなイメージで、火を放つ。

 発火。

 直撃。

 焦熱に、肌が焼ける。

 炎を扱うからと言って、人間が火の温度に耐えられるわけはない。アリアネの出身民族自体が常人と比べて多少は高温に強いことと、魔導着による燃え移りの防止、鎮火魔法を組み合わせることで、炎の被害を最小限に食い止めているだけである。現に、炎の射出口を担う手の真ん中はいつだってヤケドしているのだから。

 それにしても……。

 さきほど焼いたはずの鳥が、また襲い掛かってくる。

 見回せば、確実に敵は増え続けている。

 これはキツい……。

 もし相手が植物性のモンスターであれば、こんなの物の数じゃなかった。動物型のモンスターたちは燃え移る媒体が少ないせいで、一体ずつにキチンと火を放たなければいけないし、うまいこと燃え上がってくれないと一撃じゃ倒せない。燃え上がってくれさえすれば連鎖的に火炎は増やせるのだが、自分自身で放つことができる火の量には限りがある。

 かなりまずい状況だ。

 ……これでも彼女は、勇者一行の最古参。これだけ広い空間ならば、逃げ回りつつ火を撃ち続けることで、モンスターはなんとかしのげるだろう。だけど、このままじゃあまりにも無防備すぎる。ゴキブリの襲撃に対して、一切の策がないのはマズい。

 早いところ身を隠すか、なんとか建物のどれかの屋根に移動しないと……。

 そんな心配が、逆に感覚を鈍らせてしまったのだろう。

 いつの間にか背後に迫っていた巨大なコウモリ。気がついた頃には、その爪が彼女の華奢きゃしゃな肩をとらえていた。

 シールドは間に合わず、爪が食い込んで、体が引きつった。

 飛翔の勢いは強く、猛烈な力で前方へと投げ出される。

 地面を転がりながらもアリアネは必死で体を起こして、前を見た。

 敵はすでに空中で軽やかにUターンをし、こちらへ向かってまっすぐに突進していた。コウモリの翼がなせる、空中機動。

 風を切る音が、鋭く響く。

 慌てて片手から火の球を撃ち出した。だが、火力を十分に上げられず、相手の勢いすら止められない。

 これは……やばいな。

 二撃目を覚悟して片目を閉じた、その瞬間。

 横顔に風を感じる。

 視界の端を駆け抜ける、青い影。

 目前に迫っていたコウモリの顔面を、影の足が踏み飛ばした。

 卵が潰れるみたいに羽がちぎれ、ピンク色の血が宙に撒き散らされる。

 駆ける俊足。

 ひずめの音。

 あれは……スレイプニル?

 リアン!

 生きてた!

 そう思った一瞬だけは、涙が出るほどに嬉しかった。

 だがすぐに異常に気がつく。

 スレイプニルの背に、なぜかリアンが乗っていない。かわりに後ろの右足に鎖が巻かれていて、その先には赤い箱が引きずられている。

 当然、最悪の可能性が頭をよぎった。

 相手はあの、ゴキブリ。なんのためらいもなくレイアの腕を切り落とし、その手に目玉を握らせた、残虐の権化ごんげ

 青い幻馬、スレイプニルがきびすを返して、こちらを向く。

 慣性でムチのように浮き上がった赤い箱が、街頭らしき近くの鉄柱にぶつかって、バラバラに砕け散った。

 赤い液体がびしゃりとしたたり落ちる。

 ガラガラと中に入っていた金具が、あたりにばら撒かれた。

 ナイフ、釘、ノコギリ、刀……。

 全部、刃物。

 真っ赤な血に染まり尽くしていて。

 その上に落下していく、見覚えのある服と、血みどろの体。

 頭に被せられたヘルメット。

 そこからのぞく、長い髪。

 かつてはキレイな黄金こがね色で、軽やかにフワフワしていたはずのそれが、今はべっとりと赤く重たく、濡れている。

 ……リアン。

 ズキリと、胸が痛んだ。覚悟はしていたはずの景色だけど、それでもずっと一緒に旅した日々の楽しい思い出が、目の前の景色を冷静に流すことを許さなかった。

 しかし、今がそれどころではないことくらい、わかってる。

 手のひらにゆっくりと火熱を溜めながら、前を向く。

 目の前にたたずむのは、スレイプニル。従うべきあるじを刃物の詰まった箱の中に閉じ込めて、ズタズタに失血死するまで引きずってきたのであろう最速の異能。

 そいつは今、アリアネを向いている。

 このことを、どう判断すればいい?

 なぜ、モンスターは襲ってこない?

 考え……なくちゃ……。

 だが、時は無情。

 一声高くいなないたスレイプニルは、そのまま土を蹴り、真っ直ぐに突進してきた。

 避けられる可能性は無い。

 それだけは確かだ。

 両手をかざし、イチかバチかで熱を絞り出す。

 スレイプニルは、一定のダメージを負うと、消失する。

 最高火力なら、あるいは……。

 ファイア!

 腕がしびれるほどの衝撃に、思わず目を塞いだ。

 火炎がほとばしる。

 景色を埋める、業火の嵐。

 息を止めて、覚悟を決めた。

 だが、スレイプニルの姿は、現れない。

 やったか?

 安心もつかの間。

 突然膝から力が抜けて、その場に崩れ落ちる。

 指一本動かせない。

 呼吸さえ苦しい。

 これは……まさか……。

 むずっと、背後から首を掴まれ、全身が冷たくなる。

 無理矢理に振り向かされた先に、白い天井を背景にして、虫のようなマスクが私を睨んでいた。

「ゴキ……ブリ……」

 呆然と、呟く。

 腕を動かそうとする。だがまるで動かない。

 歯の根が合わない。

 ビリビリと、指先が痙攣けいれんする。

「くそ……やろう……あんたなんか……」

 コー……コー……と、呼吸らしき音がマスクから染み出す。

 ゴキブリは何も答えない。虫のように何も言わない。黙ったまま、その指先が頬を撫で、唇をめくり、首筋をなぞる。

 左手には、黒いナイフ。

 全身が氷に包まれたみたいに、怖気おぞけが走った。

「おね……がい」

 喉に当てられた指に押し出されたみたいに、勝手に言葉が溢れ出す。

「ゆるして……」

 突然、ゴキブリの腕が震え始めた。

 狂ったように、笑ったように。

 苦しむように。

 何かを喋った。

 聞き取れなかったけれど、ひどく悪意のこもった恐ろしい声で。

「ひっ……」

 ゴキブリはナイフを振り上げ。

 叫び声。

 同時にドスリと、太ももに鋭い感触。

 足が潰れたかと思うほど、痛かった。

「……っ!!?」

 グリグリと、突き立てられた刃先が肉の内側をかき乱す。

 ピチャピチャと水が跳ねるような音が、息もできないほどの痛みと共に体内を這い上がった。

「あっ……ひ……い、いやぁ……っ!?」

 あえぐ体。

 こぼれる涙。

 泣いてる瞳に、まったくの無遠慮に、太い指が突っ込まれた。

 爪が、刺さる。

 恐怖に全身がすくみ上がった。

 脚にナイフを突き刺したまま、ゴキブリの片手が、頭の後ろに添えられる。

 抱かれる体。

 あまりにも不愉快な、温かさ。

「や……っ……やめ……」

 ズブリ。

 悲鳴。

 ぐちゃぐちゃとねじ込まれる指先。

 ぐちゃぐちゃにかき回される虹彩こうさい

 かつて感じたことがないほどの、泥のようなおぞましさ。

 あふれた血が、涙と鼻水に混じって、口に入る。

 ゴキブリが、指ごと瞳を引っこ抜いた。

 鼻の奥あたりに、何かがちぎれるような感覚。

 激痛。

 片目が……見えない。空っぽなのに、焦げるように熱い。

 恐ろしい絶望感だった。

 子どものように泣きながら地に伏した私の魔導着を、ゴキブリは引き剥がすように無理やりに脱がせ始めた。衣服をナイフで肌ごと引き裂いていて、切り刻み始める。

 なに?

 やめて。

 そんなのいや……。

 チリチリと、頭の奥が痛くなった。

 自分自身が、壊される恐怖。

 その深さは、アリアネが勝手に想像していた限界値を遥かに超えて、底無しだった。

 人間って、こんなにもおぞましい気持ちになれるのか……。

 レイア、ザイル、リアン。

 三人も、きっと今の彼女と、同じ気持ちで……。

 突然、裸の体に冷たい液体がかけられる。血の匂いに混じって、嗅ぎ慣れない臭さがモワリと香った。呼吸できないほど強烈な香りに思わず咳き込む。

 これは……なに?

 油?

「……4人目」

 黒い声。

 息も絶え絶えに見える方の目を無理やりこじ開けて、必死でゴキブリを見上げる。

 奪い取ったジャケットを羽織ったゴキブリが、こちらに向かって右手をかざしていた。

 その手のひらに、火炎がちらつく。

 うそ。

 待って、そんなの……。

 ファイア。

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