第8話 ダンジョン

+リアン・ヴィジョン+



 怒りを奮い立たせたダイトの、痩せているのにたくましい背を見つめながら、リアンは自分の震える体を必死の思いで抱き潰していた。

 呼吸が、おかしい。

 鼓動が、おかしい。

 体が逃げ出したがってるのがよくわかった。

 怖い。

 はっきりと、そう感じた。

 なぜだろう……騎士として戦っていた時代から、命の瀬戸際せとぎわに自分を放り込むことくらい慣れているつもりだったのに。

 今リアンが感じているのは、ただ命を投げ打つのとは違う、言い知れないおぞましさ。

 あの男。

 その、仮面。

 バラバラの、レイアちゃん。

 ……わかってる。私たちはザイルを助けなきゃいけない。共に戦ってきた仲間を、怖いってだけで見捨てられるわけがない。

 だけど……もしあいつに捕まったら……。

(私も、レイアちゃんみたいに……)

 心臓が、震えた。

 あぁもう、どうして自分はこんなに臆病になっているんだろう? かつて魔王のひそむ次元に一人飛び込んで、ダイトを助けたときの勇敢なリアンはどこへ行っちゃったの?

 今まできっと心のどこかで無意識に無視し続けていた、限度を超えた残酷さというもの。それをレイアちゃんの惨死という目を背けることが許されない最悪の結末で突き付けられた今、次に襲ってきたのは、次は自分かもしれないというリアルな恐怖だった。

 自分も、目をえぐられるかもしれない。

 腕を切られ、血がなくなるまで体中を切り刻まれて……。

 そんな止めるに止められない想像が、あの男の……ゴキブリの恐ろしい姿と重なっていく。

 あいつは……一体何者なの?

 ダイトと同じ転生者?

 なんて、悍ましいかたちだろう。

 思い出す、不気味な佇まい。一人だけ別世界の住人のように、モンスターと人のキメラみたいに虚ろな存在感を放ち続けていて……ダイトがそこへ斬りかかってからも、リアンは脚が竦んで動けなかった。

 レイアちゃんの死のショックと同じくらい、ゴキブリが怖かった。

 心のバリアが崩れ去ったリアンの心は、臆病な自分から逃げ出すため震える足で騎士団の門を叩いた頃の、か弱い少女時代へと逆戻りしていた。

 怖い……怖いよ……。

 ザイル。

 あんなに強かった彼でさえ、きっと今、彼女が恐れている残虐の犠牲となっている。そう思うと脚が動かせなかった。

 ダメ……こんなことでは、ダメなのに……。

 いざとなれば逃げ出せばいいと、そんな気弱な考え方で前に進もうとする自分が嫌だった。

 相手はどんな能力を持っているの?

 無条件に、相手の動きを止められる?

 本当は一番足の早い彼女が、ダイトを乗せて先導するべきじゃ?

 でも、それで追いついたとしてはたして……あんな男に、勝てるだろうか。

 一番前を歩く、シドとダイト。二人にはきっと負けない自信があるんだろう。ダイトには無敵の盾イージスがあり、シドは身動き一つ取れなくとも、相手に勝つ手段を持っている。

(でも、私は戦えない……きっと黙って、ズタズタにされるしかないんだ……)

 精神こころに吹いた、臆病風。

 彼女が今日まで隠し続けてきた根底の弱さが、仲間を追いかける足取りを鈍くした。

 それが、命取りだった。

 みんなから数歩下がった位置取りのまま、全員が次の部屋に足を踏み入れた瞬間に、それは起きた。

「なんだありゃ?」と、シドが呟く。

 確認する間もなく。突然地面が波立ち、風景がグラグラと軋み始めた。

「な、なに!?」アリアネが、叫ぶ声。

 あっという間に、遠のいて。

 空気が震えてる。

 動けない。

 彼女を中心に世界が白くなって、黒い文字が次々に形を成して、リアンは我知らず悲鳴を上げた。

 必死でつかまるものを探す。だが、何もない。

 一歩でも踏み出したら、奈落へと落下してしまう気がして、彼女は一歩も動けなかった。

 あたりに展開される、石の壁。

 四角く高い建造物。

 見たことのない看板。

 広い道。

 十字路。

 あっという間に、視界を埋め尽くした。

 …………。

 どれくらい時間が経ったか。あるいは、一瞬の出来事だったのか。

 冷たい空気を感じる。

 気がつけば、リアンはたった一人で、見たことのない威圧的な景観の中央に立ち尽くしていた。足元には、箱の中にあった文字に似た模様が、彼女の立つ場所を中心にしているみたいに展開している。

 遥か高い空に、白い天井が見えた。

 なに……これ。

 箱の中に、街が出現した……?

『くそ、何がどうなってる!?』

 頭の中に、シドの声。

『こちらアリアネ、意味不明の景色の中に孤立した! そっちも同じ?』

『わ、私も!』

 フラーの声。

『嘘だろ……』ダイトが、ささやくように声を絞り出す。『どうして、僕らの世界の街が、ここに?』

『はあ?』

『あいつは銃もバイクも持っていた……いったい、あいつは何者なんだ?』

『驚くのは後にして!』

 アリアネが叫んだ。

『男二人はともかく私たちが孤立するのはまずいって! ザイルはどこ!?』

 一瞬の間。おそらくは、ダイトが能力に集中している。

『……リアン、逃げろ』

 冷たい声。

 背筋が、凍りついた。

『ゴキブリが……そっちに向かっている。も……ちか……』

 同時に響き出す、ブロロロロ……と、空気を震わすみたいに鈍い音。 

 通りの向こうから黒い乗り物にまたがり、恐ろしい勢いで近づいてくるゴキブリに、リアンも気がついた。

 体が、すくみ上がる。

 ひっ……ひいっ!?

 反射的にリアンは、スレイプニルを召喚していた。

 背中に、飛び乗る。

 に、逃げなきゃ……!!

 レイアと同じ目になんて、あいたくないっ!!

 いやだ!

 いやだ!

 助けてえっ!!

 きびすを返して、憎き仇に背を向けて、リアンは逃げ出した。

 風のように、全速力で。

 だが、ほとんど走らないうちに、突然、全身に凍えるような金縛りが走る。

 スレイプニルが、消え去った。

(うそ……どうして……)

 放り出されて、硬い地面の上で、体が転がる。

 受け身すら取れず、全身を強打して、息が止まった。

「かっ……がはっ……」

 口から血がこぼれ出した。でも、痛いとか、そういう感情は現れない。

 やだ、待って、逃げなきゃ……。

 お願い、来ないで!

 やだ、やだ……。

 怯える彼女の眼前に、真っ黒な脚が映る。

 ガチガチと、歯の根が震えた。

 あ……あぁ……。

 ゴキブリが、笑う声。

 長いポニーテールが掴まれて、無理矢理に、顔を引き上げられた。

「……3人目」

 片手に持つ、鈍く光る刃物。

 とっさにシールドを顔に張ろうとした。だが、全く反応がない。

 使えない。

 逃げられない。

 いやだ……。

 誰か……助けて……。

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