第6話 昭和初期 葉狩創輝の手記より

 妖怪を妻にする。

 そう決意すると、行き詰っていた人生が動き出した。

 東京で大学に入り、医学の道を進み始めたものの、父が病気で死に、学費が払えなくなった。他に頼る者もいない。どうにも立ち行かなくなっていた。

 そこに舞い込んできたのが、この縁談だった。

 縁談の相手は、妖怪と噂される女だ。この昭和の時代に妖怪などと下らない。要するに病気持ちの女ということだ。家は資産家でも、それでは婿もこない。そこで、経済的に困窮している私に話がきたのだ。学費の面倒はみるから、婿になれと。そんな女は私もごめんだが、ここは我慢して学費をもらい、外で妾でも作れば良い。医師になり、人々を救う為、そして、自分の立身出世の為、この結婚を飲まねばならない。

 顔合わせの日がきた。どんな女がくるのか内心恐々としていた。

 座敷に入ると、座って頭を下げた女性が目に入った。

 私が座ると、女性が顔を上げた。あまりの美しさに息を飲んだ。本当に妖怪と噂される女性なのか。美しさのあまりに、変な噂が流れたのか。

 陰織希代かげおりきよは、伏し目がちな女だったが、話すときは私の目をはっきり見た。静かに澄んだ湖の様な目をしていた。私は希代の目に引き込まれ、釘づけとなった。

 頭で決めた金目当ての結婚だったが、心が動いた。

 希代を救う。人生の目的が変わった。

 居心地の悪い入り婿生活になるかと思ったが、希代の微笑みを見ているだけで活力がみなぎった。学業にも身が入る。自分は、もっと冷静な人間だと思っていた。現在の自分は、客観的に見れば、浮かれた愚か者だ。しかし、今まで生きてきて、こんなに高揚していたことはなかった。

 希代の母は既に他界していて、義父は再婚していなかった。義父の真治氏は、穏やかな男だった。この人のおかげで、希代は過酷な運命を背負っていても、笑顔を浮かべることが出来るのだろう。

 ある夜、義父と二人で話す機会があった。


「知っての通り、希代は、呪われた血筋だ。呪いと言うか、正確には、病気の血筋なのだろう。あれの母親も、妖怪の様な姿になって死んだ。信じられないかもしれないが、本当の話だ」


 昔は、映画業界で働いていたという話だが、そんなやくざな世界にいたとは思えない、温厚そうな話し方を義父はした。既に亡くなっていたが、希代の祖父は、元警察官の武闘派で、立派な人だったが、恐ろしい男だったとの噂も聞く。自分の義父が、この人で良かったと思った。


「希代の母親仁枝に言われた。希代の病気を治す努力をするなら、その時間を一緒にいることに費やしてくれと。私は、それを守ってきた。仁枝は仁枝で、思うところがあったのだろうが、大切な人の運命を知りつつ、何もしないというのは、本当に辛いものだった」


 義父がどれだけ辛かったか、今の私には良くわかる。現在私の人生は、希代を助ける為にあると言っても過言ではない。


「希代は、あまりわがままを言う子でもないのだが、結婚して子を残したいと言うので、創輝君に婿に来てもらったのだ。創輝君が医学を志しているから婿に選んだ訳ではない。だから、希代を治す重圧など感じる必要はない。私の様に、治す努力をするなとも言わない。自分の生きたいように生きてくれ。家業の方は、どうにかする。あの子が先に逝ったら、後添いをもらうのも良いだろう。ただ、希代が生きている間は、大切にしてやってくれ。私にとって、大切な存在なのだ。よろしく頼む」


 義父の希代に対する愛情が、痛い程に伝わってきた。力強く返事をして、頭を下げた。

 必死で勉強に打ち込み、大学でも好成績を収め、無事卒業することが出来た。

 臨床の道へ進み、患者を治すという選択肢は、今の私にはなかった。大学に残り、希代の治療法を研究するのだ。

 しかし、現実は甘くない。大学を出たばかりの若造が、自分の好きな研究をすることなど、出来るはずもなかった。教授の下で、自分が目指すところではない研究の手伝いを続ける日々が続いた。

 空いたわずかな時間で、希代の治療法を探そうとするが、そう上手くはいかない。

 いかんせん症例が少ないし、希代の母仁枝の遺体も残っていない。暗中模索とは、正にこのことだった。

 何年か前に始まった戦争は、終わるどころか激化している。物資は枯渇し、食べる物にも事欠く有様だ。自分の妻の為だけの研究などしている空気ではない。自分の研究は、人に気付かれないように、こっそりと行った。

 どこかに何か糸口があるかもしれないと、様々な文献に当たってみると、希代の一族と似たような症状を現す病気が記されているのをみつけた。医学的な症例というよりは、伝説に近いのだが、それでも何か糸口になるかもしれない。その病気は、瘧狼病と呼ばれていた。患者に現れる症状は似ているが、希代の一族の病気とは違って、噛まれると感染するらしい。感染力は弱く、噛まれてもすぐに洗浄すれば、発症することはない。ただ、発症したら、治療法はなく、死ぬしかないのは、希代達と一緒だ。日本各地で突発的に発生し、すぐに収束しているようだ。この病気を研究すれば、希代の治療につながるかもしれない。

 更に瘧狼病について調べようとしたが、文献だけでは行き詰ってしまって、希代のことは隠して、教授に瘧狼病について質問してみた。

 教授の話では、まだ治療法はみつかっていないが、ウィルスを取り出し、培養に成功した人が、日本にいるらしい。私が頼んで紹介してもらう運びとなった。

 紹介してもらう石井四郎先生は、軍属として、満州の研究所の責任者をしている方だった。偶然日本に帰国していたところを会わせてもらうことになった。

 石井四郎先生のことは私も知っていた。濾過装置を開発し、尿を飲料水に変えることに成功したり、戦場での病気対策に成果を上げ、表彰されていた。

 瘧狼病の研究をしていることは知らなかった。石井大佐の様な偉大な方の元で瘧狼病の研究をすれば、希代の病気を治せるかもしれない。胸を膨らませて、面会の日を迎えた。

 高田馬場にある、防疫研究所へ足を運んだ。外観は立派な建物だったが、陰うつな空気をはらんでいた。

 教授と共に応接室に通された。部屋の中には、髭をたくわえた一人の男性が椅子に腰掛けていた。

 一しきり挨拶が終わり、教授が私を紹介してくれた。


「君が葉狩創輝君か。噂は聞かせてもらっている。優秀だそうだな」


 軍医というので、もっと厳格な人を想像していたが、快活に良く喋る人だった。

 私は謙遜しながら照れ笑いを浮かべ、名字が陰織に変わったことを告げた。

 名字が変わったことは意に介さず、石井隊長は話を続けた。


「瘧狼病に興味を持っているそうだな。良いところに目を付けている。今は感染力も弱く、治療法もみつかっていないが、そこを解決すれば、細菌兵器として利用できる」


 石井隊長が言っていることを、最初は飲み込めなかったが、話を聞くうちにわかってきた。瘧狼病の治療法をただみつけようとしているのではない。戦闘に使おうとしているのだ。感染力が弱ければ、敵に広めることが出来ないし、治療法がなければ、味方に感染した時どうしようもなくなる。そこを解決しようとしているのだ。この人は、ただの医者ではない。軍医なのだ。


「戦場では敵に殺されるより、病気で死ぬ兵士の方が多いのだ。だから、病気に対する防御は、重要な課題となる。そして、裏を返せば、病気は攻撃にも使えるということだ。資源の少ない日本が生き残るには、細菌兵器の開発は、必要不可欠なのだ」


 人を助ける為の医学を、人を殺す為に使う。明らかに道に反する行為だ。

 教授を横目で見ると、こちらに目くばせしてきた。余計なことは言うなという合図だ。

 こちらの内心はお構いなしに、石井隊長の話は続いた。


「規制された毒ガスと違って、細菌兵器は国際法には抵触しない。軍部も多大な期待を寄せていて、高額の予算を組んでくれている。一緒に日本を救おう」


 詭弁だ。石井隊長は、自分の名誉欲を正当化しているにすぎない。しかし、正義なんてそんなものかもしれない。私の様な若造が、研究資金を集めるなど出来ないし、陰織家が裕福と言っても、湯水の様に研究に仕える程ではない。軍から出ている潤沢な研究資金は、非常に魅力的だ。青臭いことを言っていたら、希代に残された時間が終わってしまう。肚を決めた。


「石井大佐のもとで瘧狼病の研究をさせて下さい」


 満州行きを希代に告げると、特に反対もされなかった。


「せっかく夫婦になれたのだから、一緒にいましょう」


 単身満州に渡ることも考えていたが、希代がそう言ってくれたので共に行くことにした。言葉には出さなかったが、内心嬉しかった。治療法がみつかったら、すぐに希代に使えるという利点もある。希代と共に海を渡ることにした。

 横浜から船に乗り、大連、旅順へと着いた。船酔いに悩まされる者もいたが、私も希代も、そこまで苦しまずに済んだ。

 旅順からは陸路でハルピンに向かった。列車の窓から見る景色は、日本の景色とは違い、広大な大地が広がっていた。空さえも広く感じる。ここは大陸。露西亜、欧州まで地続きなのだ。

 希代は体調を崩しもせず、長旅を乗り越えていた。遺伝の病気を持っているという先入観から、ひ弱な印象を勝手に持っていたが、そうでもないらしい。


「私の母は、日本の外を見てみたいと言っていました。それはかなわず死にました。母の希望を私がかなえるとは思いませんでした」


 窓の外を眺める希代の目は、幸せそうに輝いていた。そんな希代の表情は、期待と不安で揺れる私の心を落ち着けてくれた。

 ハルピンに着くと、駅まで軍の車が迎えに来てくれていた。その車に乗り込み、埃っぽい道をしばらく走った。

 ハルピンの郊外、平房にそれは建っていた。荒野にそびえ立つ高い壁。明らかに普通の建物ではなかった。これが、これから私が研究を行う、七三一部隊の研究施設だ。

 まずは、希代と暮らす官舎に入り、旅の荷解きをした。

 それから、希代を官舎に残し、研究施設に赴任の挨拶をしに行った。

 建物の中に入るには、厳重な検査を受けることになった。入ってからも、滅菌された白衣に着替え、足にも長靴を履き、消毒漕の中を歩いた。

 研究施設の中で、石井隊長と、その部下の静沢しずさわ大尉が私を出迎えてくれた。


「はるばる良く来た。ここが我が七三一部隊の研究施設だ。日本国内にもない、最新の設備がそろっている。成果を上げて、大日本帝国を勝利に導こう」


 石井隊長が熱く語った。

 横にいた静沢大尉も、知性の光が宿る鋭い目で私の目をみつめ、挨拶してきた。


「君には知力、体力、精神力が備わっているようだ。どれが欠けてもここではもたない。共に頑張ろう」


 私は、背筋を伸ばし、気合を込め返事をした。

 希代とは東郷村と言われる村の中にある官舎で暮らした。コンクリート三階建ての、水洗トイレも暖房も付いた、なかなかの住居だった。

 食糧にも事欠くことはなかった。日本では戦局悪化と共に食糧事情が悪くなっていたが、ここではそんなことはなかった。白米に肉に野菜に砂糖。昼食は隊の食堂で食べたが、朝食と夕食は希代の作った料理を食べた。心の安らぐ時間だった。

 朝食を食べ終わると、徒歩で研究施設へと向かった。衛兵の検査を受け、建物の中に入った。建物の造りは特殊で、建物が中庭を囲む形で作られていたので、ロ号と呼ばれていた。ロの真ん中には、マルタと呼ばれる人体実験用の人間が囚われていた。関東軍と敵対し政治犯とされた中国人、モンゴル人、ロシア人達だった。石井四郎部隊長が、日本での人体実験は無理だと判断し、満州に研究所を設立したのだ。

 人体実験が行われているという事実に、私は衝撃を受けた。薬の治験という話ではない。人体実験された人間は、間違いなく死ぬのだ。これは人間が行うことなのか。これが正義なのか。間違いなく道を外れた行いだ。


「最初は、皆怯む。だが、すぐに慣れる。マルタは、皆政治犯だ。結局は死刑になる運命の者達だ。それを科学の発展の為に役立てようとしているのだ。罪の意識を感じることはない」


 静沢大尉が、動揺する私に語りかけてきた。

 そうは言っても、すぐに割り切れるものではない。私の心は、揺れに揺れた。

 希代の顔を思い出した。

 希代を救う為なら、この心を悪魔に売り渡そう。ここで研究をすることを誓った。

 天然痘、ペスト、チフス、炭疽菌、朝凪風邪、マラリアなど、瘧狼病以外にも、様々な病気が、細菌兵器に使用する為に研究されていた。

 人体実験は凄惨を極めた。凍傷の研究の為、腕を水に濡らしたまま極寒の満州の屋外へと立たされたマルタ。腕は凍傷にかかり、後に壊死して切断された。

 チフスに感染させられたマルタ。ペストに感染させられたマルタ。

 ホルマリン漬けにされた、首、腕、足が所狭しと陳列棚に並べられた。

 わたし自身も、瘧狼病ウィルスをマルタに注射した。自然界で出現する瘧狼病は、感染力が弱いが、既に改良を重ね、感染力を強めてある。注入されたマルタは、発症して、人格をなくし、よだれを垂らしながら他の人間を襲おうとする食人鬼へと変貌していく。発症していく過程を撮影し、記録に収めた。現時点では治療法をみつけていないので、マルタは苦しみながら、死んでいく。私が、殺しているのだ。更に研究を重ね、治療法を見つけ、感染力を高め、発症時間を制御し、細菌兵器として実用化していくのが、私の仕事だ。実用化されれば、更に死者が出る。私の仕業だ。

 マルタと呼んで人間性を否定しているが、実験用の捕虜も人間だ。知能も人格もしっかりある。そこを意識していたら、とても平静を保つことなんて出来ない。わたしは良心の呵責をひたすら押し殺し、研究に励み、人体実験を行った。

 実験で出た遺体は、施設内の焼却炉で燃やされてから、埋葬された。埋葬というよりは、遺棄といった方が近い処理ではあったが、埋葬と呼んで、罪悪感を少なくしたかった。

 研究者の中にも、菌やウィルスに感染し、体調を崩したり、死んだりする者もいた。心を病んで、研究所から去る者もいた。ここは肉体的にも、精神的にも過酷な環境だった。

 中国人捕虜に瘧狼病ウィルスを注射した。縛られた捕虜は、怯えた目でこちらを見ていた。罪悪感がこみ上げてきたが、それをかき消した。これが戦争だ。捕虜を人間ではなく、マルタだと思い込んで、罪悪感を薄れさせた。

 しばらくすると、マルタが苦しみだした。全身を震わせ、白目をむき、涎を垂らしながら叫び声を上げた。瘧狼病に感染したのだ。

 感染したマルタは、もう元の人間とは同じ人間には見えなかった。目が血走り、視点が定まっていない。手を縛っていた縄を引きちぎり、唸り声を上げて檻の外のわたし達に向かって襲いかかろうとした。さすがに鉄格子は破れず、感染したマルタの腕は空を切った。

 わたし達は、もう一人のマルタを連れてきて、無理矢理檻の中へ入れた。

 恐怖の叫び声を上げるもう一人のマルタに対し、感染者が襲いかかった。何とか逃れようとしていたマルタだったが、感染すると筋力は強めに発揮され、痛みには鈍感になる。狭い檻の中で逃げ続けるのはほぼ不可能だった。瘧狼病感染者に檻の端に追い詰められ、マルタは首に噛り付かれた。苦悶の叫び声がこだました。やがて声が小さくなって、最後は静かになった。

 わたしは表面上平静を装っていたが、本当は恐怖と罪悪感で吐きそうになっていた。

 これは人間ではない。マルタだ。科学の発展の為だ。お国の勝利の為だ。自分にそう言い聞かせた。

 感染者は、静かになったマルタから体を離し、またこちらに襲いかかろうとしてきた。

 しばらく観察していると、先ほど噛みつかれたマルタも瘧狼病ウィルスに感染して、血走った目で起き上がってきた。そこには人間としての人格は残っていなかった。

 噛みつかれてから、食人鬼に変貌するまでの時間は、かなりばらつきがあった。この時間をある程度調節出来るようになれば、兵器として使いやすくなる。

 ウィルスは、感染者に噛まれた際に、神経から体内に入り、増殖していく。血液による感染は認められない。

 感染し発症した後、知能に関しては、ほぼなくなってしまうようだ。道具の使用も現在までは認められない。行動様式や運動能力には個体差がみられる。感染前の個体の持つ特徴がある程度は残るようだった。

 感染の経過観察が終わらず、泊まり込み作業となりそうなとき、研究所に石井四郎部隊長が現れた。

 石井部隊長は、かなりの夜型で、昼間は部屋で寝ているという話は本当のようだった。


「どうかね。研究は進んでいるかね」


 わたしは突然の視察に驚きつつも、進んでいると答えた。


「このウィルスを制御出来るようになれば、使い勝手は良いと思うのだ。捕虜に感染させて送り返せば、敵国は大混乱だ。よろしく頼むぞ」


 石井部隊長は、かなりの高身長と態度も相まって、かなりの威圧感を受けた。私はかしこまって返事をした。

 石井部隊長は、そのまま部屋を出て行った。

 しばらくわたしは硬直したままだった。直接話す機会が唐突に訪れるとは思わなかった。瘧狼病の研究に興味を持っていてくれているのは嬉しかった。ペストやチフスの方に興味がいっている感じを薄々と感じていたので、研究が休止されるのではと心配していたのだ。

 わたしは大きく息をして、緊張を解き、研究に戻った。

 研究は続けられ、人体実験も続けられた。希代の為、お国の為とはいえ、わたしの心も押し潰されそうだった。

 そんな夜は、官舎に帰り、希代を強く抱きしめた。そうやって常軌を保っていた。

 私の腕の中で、希代がゆっくりと語りかけてきた。


「こちらに来てから、辛そうですね。私に言えないこともあるでしょう。無理に話せとは言いません。ただ、本来の目的を思い出し、素直に生きれば、もっと楽に生きることが出来るのではないでしょうか」


 私の本来の目的とは何だっただろうか。人間の、生物の本来の目的とは何だっただろうか。


「最近の人は、目的と手段を混同してしまっているのではないでしょうか。学問も、思想も、仕事も、遊びも、戦争も、本来は手段であって、本当の目的は、子を産み育てることなのではないでしょうか」


 いつもは大人しく、どちらかと言えば無口な希代の言葉に、心を刺し貫かれた気分だった。

 確かにそうだ。男は、名誉や富に振り回されて、本当の目的をすぐに忘れてしまう。本当の目的は、すぐそこにあるのに。

 答えはすぐそこにある。日本に帰って、希代の短い人生を受け入れ、その中で子孫を残すのだ。だが、その答えを受け入れられない。

 希代が、私を慈しみ深き目で見ていた。何も言ってないのに、全てを見透かされているようだった。

 視線から逃れるように、希代を強く抱き締めた。

 私は瘧狼病ウィルスの研究を続けた。やめることが出来なかった。人の道に反していたとしても、希代の病気を治してやりたかった。遺伝性と感染性の違いはあれど、治療法の糸口はあるのではないかと期待していた。

 兵器として使うには、治療法も確立しておく必要がある。友軍まで感染してしまって、被害を出しては意味がないからだ。わたしは兵器としての使用なんて、本当はどうでも良かった。細菌兵器の開発で名を上げるような、功名心は忘れてしまっていた。しかし、研究の進展が見られないと、石井部隊長に、研究の中止を言い渡されてしまう。この間の態度を見る限りすぐに研究中止は無いだろうが、ペストやチフスの方に興味がいっているようだ。ここで瘧狼病の研究をやめる訳にはいかない。

 朝、官舎から研究所に向かう途中、東郷神社に希代の病気が治るようにお参りした。

 守衛の検問を通過し、体を消毒して研究所に入った。

 同僚の鴨下が既に到着していた。鴨下は私と同い年だが、まだ独身で単身満州に渡ってきていた。満州には来たくなかったようだが、色々な事情のせいで、来る羽目になってしまったらしい。おかげでわたしは毎日のように愚痴を聞くことになった。

 瘧狼病の研究には、他に鎧塚と、早乙女の二人がいた。

 鎧塚は気難しい男で、日本の医学界に居場所がなく、仕方なく満州に来ている男だった。頭は良いが、どうも取っ付き辛いところがあった。

 早乙女に至っては、医者になりたくなかったのに、家族によって無理矢理医者の道に進まされた男だった。本当は芸術の道に進みたかったようだ。確かに医者よりもそちらの方が向いているような繊細な部分があった。それに加え、人体実験も行うこの七三一部隊だ。精神に変調をきたしているのは、誰の目にも明らかだった。

 自分のことも心配だったが、同僚達は、更に危険な気がして、研究に支障をきたす前に、どうにかしなければいけないと思っていた。


「こんなところに詰まっていたら、石井のオヤジみたいに気が狂ってしまうぜ。今度の休日にでも、ハルピンの町に出て、ぱあっと羽目外そうぜ」


 鴨下が言った。研究所のある平房から車で一時間程走ると、ハルピンへと行くことが出来た。ハルピンは西洋風の街並の大きな町で、日本の銀座を凌ぐほどの繁栄振りを見せていた。そして、ロシア人や中国人の美しい女性がたくさんいた。独り身の鴨下はそれが目当てだろう。


「石井のオヤジは、企業に賄賂もらって満州各地に愛人囲っているんだ。俺たちがちょっと遊んだくらいで罰はあたるまい」


「言葉を慎め。盗聴器を仕掛けられているかもしれないぞ。聞かれたら飯にチフス菌入れられるぞ」


 鴨下はおどけた素振りで会話を打ち切った。

 鎧塚と早乙女は、何事もなかったかのように、作業を開始していた。

 石井部隊長が、たくさんの愛人を囲っているのは公然の秘密だった。軍事企業と癒着して金を受け取っているのも事実だろう。一人の女の為、こんなに必死になっている自分が滑稽に感じた。まあ良い。人は人、自分は自分。自分なりの生き様がある。

 次の休日に、同僚達とハルピンの街へ繰り出すことにした。本当は希世と共にいたかったが、同僚と親睦を深め、研究を進めるには必要なことだと割り切った。鴨下は自分から率先して街に繰り出そうとしていたが、鎧塚と早乙女は、無理矢理誘う形となった。

 これまでも、時折ハルピンの街へは出かけていた。出かける度に、研究所にこもっていてはわからない、満州の混沌とした部分を感じていた。

 満州は、五族協和を理念として掲げていた。日、漢、満、蒙、朝の五族の協和だ。建前では、五族は平等のはずだったが、実際は、日本人が優位な立場であった。やはり、満州国は日本が、軍事、国防を考え、強引に作り上げた傀儡国家なのだ。街に出ると、痛切にそれを感じた。

 日本から、一山当てようと渡ってきた怪しげな男達も、ハルピンの街中で良く見かけた。近付きたくはないが、私も似たような者かもしれない。いや、それよりもっと酷いか。

 夜のハルピンは、怪しげな熱気を放っていた。昼間に見せる西洋風のきれいな街並みとは、違った顔だった。

 ロシアとの混血が進んでいるのか、東洋人離れした美しい体型の女性達が、我々に誘いをかけてくる。鴨下などは既に鼻の下を伸ばしているが、阿片窟にでも引きずり込まれたら、身ぐるみ剥がされて、生きて帰れる保証すらない。その危うさが、夜のハルピンの魅力を更に強くしていた。

 日本人が良く来る、我々も良く使う店に入り、料理と酒を頼んだ。

 話題は仕事以外のことになった。研究内容には守秘義務もあるし、外で話せる内容のものではないから当然だ。

 早乙女は、好きな芸術関係のこととなると、良く喋った。残念ながら、彼は進むべき道を間違えているようだ。酒が進むと、さらに饒舌になり、七三一部隊のことを喋ってしまうのではないかと、内心肝を冷やした。

 鎧塚は、頭はとても優秀だが、性格が独特だから評価はされ辛い。ここに来たのも、何か事情があるのだろう。酒を飲んでもそれ程変わらなかったが、時折笑顔を見せるので、楽しんではいるようだった。気難しい人間の笑顔を見ると、何故か安心する。

 鴨下はいつも陽気だが、酒を飲んで更に陽気になった。

 殺伐という言葉すら生ぬるい研究で、身も心を疲れ果てていたが、ほんの少し、苦悩が和らいだ様な気がした。

 そんな酔っぱらった我々でも、店の空気が変わったのがわかった。

 店の入り口を見ると、日本人の集団が入ってくるところだった。その中の一人が店の空気を変えていたのだ。関東軍の軍人で、満州映画協会会長の甘粕正彦だ。

 陽気な鴨下ですら、言葉を飲み込み、料理をつまんだ。

 無理もない。甘粕は、有名な殺人者だ。関東大震災の時、無政府主義者の大杉栄と、その妻伊藤野枝、伊藤の甥まで虐殺したのだ。それが今では、満州で大手を振って歩いている。その上、全く似つかわしくない映画協会の会長にまで収まっていた。これもまた、満州という国を表している事象だ。

 気配を消してやり過ごし、隙を見て店を出ようと思っていたが、我々を見とめた甘粕が、こちらへ近付いてきた。眼鏡の奥の鋭い目は、充血して焦点があってない。進んでくる足がふらついていて、酒の臭いがした。甘粕は酒癖の悪さでも有名だった。我々の背筋が凍った。


「お前ら、石井のところの青二才か。大陸まできてせこせこと何やっている。大和男児ならば、小細工しないで正面切って戦え!」


 呂律の回っていない口で、まくしたててきた。我々は座ったまま苦笑いを浮かべ、嵐が過ぎ去るのを待とうとした。甘粕のお付きの者は、必死に甘粕を止めようとした。店の中国人も困った顔をしていた。


「こんなところで酒飲んでいる暇があったら、映画を観ろ、映画を!」


 世界で一番芸術とは縁遠そうな男が、何を言っているのだ。恐れを通り越して呆れてしまった。

 甘粕は、他の客にも絡み始め、その隙に我々は店を出た。

 帰り道では、甘粕の悪口に花が咲いた。早乙女は、特に酷く罵った。彼は軍人も嫌いなようだ。彼には、本当に生き辛い時代だ。

 そんな中で、鴨下が意外な発言をした。


「俺は、満映に知り合いがいるのだが、甘粕は理解ある良い会長らしいぞ。最初、甘粕が会長に就任することが決まった時は、社員全員が嘆き悲しんだそうだ。そりゃあ、あの甘粕が上に立つのだから、当然の反応だろう。だが、就任すると、しっかりと前に出るところは出て、引くところは引き、満映の発展に本気で尽力しているらしい。社員の賃金の引き上げ、労働環境の改善にも取り組んだそうだ。日本人だけでなく、中国人社員に対してもだ。映画の資金提供する有力者が、女優を抱かせろと言ってきたときは、しっかりと突っぱねたという話だ。そんなこともあって、満映の社員は、甘粕に心酔しているらしいぞ。まあ、あの酒癖を除いてな」


 甘粕の意外な一面を耳にしたが、まるで信じられなかった。早乙女も鎧塚も同感のようだ。

 機会があったら、希代を連れて、映画でも観に行ってみようか。



 治療法はなかなかみつからなかった。多額の資金をかけ、多くの人員を裂き、日本では許されない人体実験までしている。それでも治療法は見つからなかった。

 感染した患者の観察を続けたところ。人間の血肉は求めるが、それ以外の食物は接種する事例はなかった。水分すら取らず、放置すると五日から二週間程度で餓死または病死した。死んだ感染者や、麻酔で眠らせた後解剖した感染者は、研究所内の焼却炉で荼毘にふされた。墓石は建てられなかった。

 感染してから発症するまでの時間を操作する研究もなされたが、それも進展は見られなかった。

 研究の内容は家族にも言ってはならない規約を頑なに守っていたので、希代もわたしがやっていることを知らなかった。しかし、夫の様子がおかしくなっていることは感付いている。夜中にうなされて目が覚めた時、隣の希代も起きてきて、心配そうな眼差しで、わたしの顔を覗き込んできた。

 大丈夫だ。心配ない。わたしはそう答え、汗ばんだ体で、無理矢理笑顔を作った。

 限界が近付いていることは自分でもわかっていた。それでも研究所へ足を運んだ。

 静沢さんが私に声をかけてきた。この七三一部隊では、石井隊長に次ぐ地位にある人だ。信望という面では、石井隊長よりも上だった。


「研究頑張っているようだな。石井隊長も評価していたよ」


 知的な笑顔を静沢さんは見せてきた。私のことを心配して声をかけてくれたのは、すぐにわかった。


「ここでの仕事は、まともな精神ではやっていられないよな。ただ、戦争中でなければ出来ない研究もあるというのが事実だ。人間の技術は、戦争が発展させてきたと言っても良い。ここでの研究の主な目的は、細菌兵器を作ることだが、病気の治療法の研究も行っている。兵士にとって病気は、銃弾と同じくらい恐ろしい敵だからな。だから、この戦争で日本の医療技術は格段に進歩するだろう。我々が、汚れ役を担い犠牲を出すことにより、より多くの人間を救うことになるのは確かだ。人々が我々の行いを知れば、必ず糾弾してくるだろう。しかし、人々は糾弾しつつ、我々の医療技術の恩恵を享受するのだ。戦争も、我々も、人類を進歩させる為の、必要悪なのだ」


 人類を俯瞰した目線で見ればそうなのかもしれない。長い歴史で見れば、我々の行いは、殺す人数より、救う人数の方が多くなるかもしれない。ただ、今私の目に見えるのは、目の前で死んでいく人間だけなのだ。


「ありがとうございます。少し気持ちが楽になりました」


 出来る限りの笑顔を見せ、静沢さんに礼を言った。

 静沢さんは、私の肩を軽く叩き、背を見せて去っていった。

 この状況でも理性を保ち続け、私にも気を配ってくれる静沢さんの背中を、羨望の眼差しで見送った。



 その頃、日本が米国の飛行機に爆撃されているという話が伝わってきた。葉羽村の家は無事だったようだが、敗戦の色が濃くなってきているのは、私にもわかった。

 そして、ソ連軍が侵攻してくるという噂が流れ始めた。不可侵条約を結んでいるのでそれはないと思ったが、もし侵攻してきたら満州は真っ先に戦場になる。七三一部隊内にも陰鬱な空気が流れた。

 石井部隊長は、ソ連との戦闘を見据え、ペストを媒介するノミの大量生産を命じた。細菌兵器がいよいよ日の目を見ることになりそうだ。部隊内は慌ただしくなった。


「ソ連の軍隊は、恐ろしいらしいぞ。まず突撃部隊として、囚人兵が送り込まれるんだ。囚人兵は、殺人、略奪、強姦、放火、何でも許されているらしい。この世の最後とばかりに、暴れに暴れるそうだ。そして、囚人兵があらかた街を破壊した後に、正規軍が進軍し、囚人兵もろとも、その地に止めを刺すんだと。怖い怖い」


 鴨下が、いつもの調子で言った。日本で平和な時に聞けば、ただの怖い噂話だが、それが現実に起きようとしているのだ。恐怖で身がすくむ。せめて希代だけでも守らなければならない。

 そんな中、日本の広島に新型爆弾が落とされたという話が伝わってきた。真偽の程はわからなかったが、我々の気持ちは更に沈んだ。

 そして、新型爆弾の話は、石井隊長の方針にも影響を与えた。ペスト蚤の量産を中止し、七三一部隊の研究全てを破棄することとしたのだ。敗戦を見据えて、証拠を隠滅するのだ。ここでの研究内容は、敵軍に知られてはならない。

 培養されていた菌を処分し、ホルマリン漬けになった人体を焼却炉で焼いた。中に配管が通された厚さ四十センチの壁を爆破するのは困難だが、やるしかなかった。

 そして、生き残っていたマルタの処分も待っていた。機密を守る為には、残すわけにはいかなかった。部屋に通された配管から毒ガスを噴出して殺し、焼却することとなった。

 全ての研究資料は破棄するように言われたが、瘧狼病の研究資料は、隠し持って日本へ帰るつもりだった。なんと罵られようと、希代を助けるという目的を投げ出すことは出来ない。

 研究資料を確保しようと、瘧狼病研究の部屋へ行くと、部屋の鍵は開いていたが、中に研究員の姿はなかった。ただ、檻の中の瘧狼病感染者が、唸り声を上げながら、鉄格子にぶつかる音が部屋に響いていた。いつもの光景だが、何かがおかしかった。

 室内を見渡してみた。何も変化はないような気がする。いや、床に何か付いている。赤い。血だ。人間の血のようだ。

 感染者の口を見返してみた。唸り声を上げる口には、赤い血が付いていた。同じ檻には何も入れていないはず。餌など与えた記憶もない。

 誰かが噛まれたのだ。

 床の小さな血の跡は、出口の方につながっていた。

 噛まれたのは誰なのだ。鴨下か。鎧塚か。早乙女か。それとも別の誰かか。

 感染した者が出口の外に立っているかもしれない。いや、まだ室内にいるかもしれない。何が武器になるものを探したが、何もなかった。

 部屋の中には誰もいないようだ。とにかく部屋から出て、隊長に報告しなくては。

 私はおそるおそる扉を開け、廊下を確認してみた。血の跡は、外へと向かっていた。発症して誰かに噛みついたら大変なことになってしまう。

 急いで石井部隊長の部屋へと向かった。

 向かう途中の廊下で、鎧塚と鉢合わせした。噛まれたのは、この男か。

 有無を言わさず身体に噛まれた痕がないか確かめた。傷跡はみつからなかった。鎧塚は、訝しげな顔をしていたが、私の説明を聞いて、普段無表情な顔を引きつらせた。

 私は、石井隊長の部屋へ行き、鎧塚は噛まれた者の探索へ向かった。

 部屋に飛び込んであわてて説明すると、隊長の顔色が変わった。研究所付きの軍人に緊急捜索命令が下された。

 部屋から出て、外へ向かおうとすると、早乙女に呼び止められた。既に鎧塚から状況は説明されていた。噛み痕も見当たらない。そうなると、噛まれたのは鴨下だ。

 噛まれたのが鴨下だとわかった途端に、鴨下との思い出が頭に甦ってきた。楽しい男だった。心が切り裂けるほど悲しいが、始末しなければならない。

 感傷的な気分を振り切り、すぐに探索を開始した。衛兵に聞くと、鴨下は検問所を通って研究所の外に出たらしい。変わった様子はなかったと衛兵は言った。感染を気付かれぬよう、健康体を装ったのだろう。見つかったら確実に殺されるのだから、当然といえば当然だが、理性を働かせ、思い留まって欲しかった。

 血の跡は途切れていた、この線から鴨下の行く先を探すのは、難しくなった。

 非常警報が鳴らされ、東郷村の住人に室内へ避難するように伝えられた。研究内容を知らない住人達は、敵襲か何かだと思っているだろう。

 東郷村に探索の兵達が赴き、騒然となった。官舎では鴨下の姿を見た者はいなかった。わたしは自宅に顔を出し、驚く希代に戸締りをしっかりして外に出ないように言った。

 鴨下の自宅には姿がなかった。鴨下が車に乗った形跡もなく、研究所内の引き込み線から汽車に乗った形跡もなかった。まだ東郷村の中にいるのだ。

 鴨下は、まだ理性を保っているのだろうか。それとも既に食人鬼と化しているのだろうか。噛まれてからそれほど時間は経っていない。鴨下にまだ理性があるのなら、どこへ向かおうとする。

 研究所から、静沢さんが駆けつけてきた。さすがに血相を変えていた。


「大変なことになったな。とにかく感染を広げないことだ。何としても止めるぞ」


 石井隊長に呼ばれた、応援の軍隊が東郷村へ来てくれた。指揮をとっているのは、甘粕正彦だった。

 内心驚いたが、私の動揺など意に介せず、甘粕は私に説明を求めてきた。

 瘧狼病の症状や感染経路を説明し、研究員が感染して施設外へ逃げ出したこと、治療法がないので、感染者は殺すしかないことを告げた。鴨下のことを思い出すと、心が痛んだが、仕方なかった。

 甘粕も他の軍人達も、にわかには信じられないという顔をしていた。

 だが、甘粕は、私の話を信ずるに値すると判断した。


「とにかく今は感染の拡大を食い止めねばならない。捕獲出来るのならしろ。噛みつこうとしてくるのなら、ためらわずに撃て」


 先日酒に飲まれていたのとは別人のように凛々しい姿で、甘粕が言った。

 兵士達が、各々散らばっていった。

 私も探索へ向かった。銃も剣も支給されていないので、そこにあった棒を手に取った。感染したものは、痛みに鈍感になるし、通常よりも力を発揮する傾向にある。出会ったら、噛まれないように倒さねばならない。

 静沢さんは、手に銃を持っていた。扱い慣れている感じではなかったが、責任感と意気込みは感じた。

 鴨下はどこへ行ったのか。一番近い村までも、歩いていくには結構な距離がある。だが、感染したものが死ぬまでにたどり着くには短い距離だ。そうなれば、瘧狼病は拡散されてしまう。人の手によって改造され、凶暴化したウィルスだ。自然に収まるのは期待できない。何としても封じ込めねばならない。

 目撃者が出た。東郷村の住人で、研究員の妻の中年女性だ。


「鴨下さん、様子がおかしかったですよ。顔が青白くなって、目が充血していて、何かに憑りつかれたみたいでした。声をかけても、変な唸り声を上げるばかりで、しまいには噛みついてくる始末ですよ」


 女性は、噛みつかれて血がにじんだ腕も見せてきた。

 その場に重い沈黙が落ちた。


「隔離して下さい」


 私が小声で甘粕に耳打ちした。

 甘粕が兵士に命令し、詳しく話を聞くという名目で、研究所の中へ連れて行かせた。

 鴨下は既に発症して、被害者を出していた。もっと感染者がいるかもしれない。

 何故こんなものを作ってしまったのだ。後悔が心を支配し始めた。


「何ぼんやりしている。悩んでいる暇などないぞ」


 甘粕の声で我に返った。そうだ。後悔するのは事態が収束してからだ。

 兵士達と鴨下を捜す。そこまで広くはないが、隠れる場所はいたるところにある。中々みつからない。瘧狼病の人に噛みついて感染を広げようとする性質上、村から出るとは考え辛いが、出てしまっていたら、本当に一大事だ。

 そんな中、村に出入りしている、中国人の業者が、こちらに背を向けて立っているのをみつけた。嫌な予感がした。

 振り向いたその顔は青ざめ、真っ赤に充血した目には、理性は見て取れない。首筋には噛まれた傷口が、赤く口を開いていた。

 鉄格子無しで、発症した感染者と向き合うのは初めてだった。操作する側と、される側の関係は終わったのだ。今度は私が狩られる番だ。棒を握り締めたまま、硬直してしまった。

 銃声が真横で鳴り響き、感染者の腹に穴が開いた。

 固まっていた私は我に返り、横を見た。甘粕が構えた拳銃から、煙が出ていた。

 感染者は、叫び声を上げたが、まだ倒れなかった。続けて発射された弾丸が次々と命中し、ようやく、その場に崩れ落ちた。

 何体もの感染者の死を見てきたはずなのに、目の前の光景に衝撃を受けていた。

 しかし、呆然としている暇はなかった。また感染者が現れたのだ。それは子供だった。男の子でまだ十歳にもなっていないだろうか。

 兵士達も、子供を撃つのにはためらいがあった。赤い殺意に満ちた目でこちらへ向かってくるのに、中々引き金を引かなかった。

 静沢さんも銃を構えたものの、発砲できずにいる。

 そんな中、甘粕が弾丸を放った。銃弾は、脳天を打ち抜き、発症した子供は、仰向けに倒れ、体を痙攣させていた。

 甘粕の顔に、苦悶の表情が浮かんでいた。震災の時に、大杉栄と共に、子供にまで手をかけた冷血漢のはずだが、人の心を持ち合わせているようだ。


「この村から、感染者を一歩も外へ出すな!」


 子供の死に沈んでいた兵士たちも、甘粕の号令に、勇んで駆けだした。私も後に続いて駆けた。

 今度は、少し離れたところで銃声が鳴った。そうすると、目の前を走っていた兵士が倒れた。頭部に銃弾を受けたようだ。誤射か。

 銃声がした方を見ると、そこには仲間の日本軍ではなく、獰猛な顔をした外国人がいて、銃を撃ちながらこちらに向かって来ていた。

 ソ連の囚人兵だ。

 甘粕が何か叫び、何が起きたか理解出来ていなかった兵士達が我に返り、ソ連兵に向かって銃を撃った。何発もの銃弾が飛び交い、ソ連兵が何人か倒れた。

 私は目の前で倒れた兵士を物陰に引きずり込み、傷口を見た。脳天に穴が開いていた。残念ながら助からない。兵士の目蓋を閉じて、その場を離れた。

 噂には上っていたが、本当にソ連の兵士が攻めてくるとは思っていなかった。日ソ不可侵条約を破って攻めてきたというのか。非道な仕打ちだが、捕虜に対して人体実験を行っている私が言える義理でもない。これが戦争だ。善も悪もない。

 銃弾が飛び交う中、身を低くして移動した。静沢さんともはぐれてしまった。どこにいるかさえわからなかった。

 まずは希代のもとへ行こうとしていると、目の前に山の様な大男が立ちふさがった。整えられていない髪と髭、汚れた軍服、手には銃が下げられていた。ソ連兵だ。

 聞き取れない言葉を怒鳴り、こちらに銃を向けてきた。

 終わりか。そう閑念した時、横から人が飛び出してきて、ソ連兵の首元へかぶりついた。感染者だ。

 ソ連兵は、叫び声を上げながら感染者を振りほどき、地面に転がった感染者に銃弾を撃ち込んだ。

 至近距離で何発も銃弾を浴び、その感染者は穴だらけになって息絶えた。鴨下ではない。私が予想していた以上に、瘧狼病は広がっているのだ。

 大男のソ連兵が、憎悪がこもった目でこちらをにらんだ。そして、躊躇せずにこちらに銃を向け、引き金を引いた。しかし、弾切れだった。感染者に全弾撃ち込んでしまったのだ。

 ソ連兵は、片手で首の傷口を押さえながら、もう片方の手でナイフを引き抜いた。そのナイフで私を切り裂こうというのだ。

 この大男も、じきに瘧狼病を発症してしまう。そうなれば更に感染者を増やすだろう。しかし、無力な私には、この場をどうにかすることは出来ない。私は、大男に背を見せて逃げ出した。

 横から飛んできた銃弾が頭をかすめたが、構わず走った。

 先程までは、平和だった東郷村が、地獄の有様となっていた。

 巨体のソ連兵は、途中で追ってこなくなった。ただ疲れただけか、発症し始めたのか。確かめることなく、死体を乗り越え、希代が待つ官舎へ走った。

 集合住宅三階の我が家が見えた。流れ弾が建物に着弾している。我が家には当たっていないようだ。

 階段を駆け上り、希代が待つ部屋の扉が見える位置まで来た。

 扉の前には、発症した感染者がいた。鴨下だった。

 鴨下は、扉の横の窓の格子を力任せに外し、ガラスを割って中に侵入しようとしていた。何人もの人間に噛みついてきたのだろう。胸元は血にまみれ、口には肉片がぶらさがっていた。

 駆け寄って阻止しようとしたが、鴨下の上半身は、窓の中へ入っていた。慌てて足をつかんだが、物凄い力で中へ入っていく。

 家の中から、希代の悲鳴が聞こえた。


「希代逃げろ!」


 大声で怒鳴りながら、鴨下の足を引っ張ったが、つかんでいたズボンは破れ、靴も脱げた。私が後ろへ体勢を崩しているうちに、鴨下は窓の中へ吸い込まれていった。

 もう一度、希代の叫び声が聞こえた。

 無我夢中で窓枠に飛びつき、室内に入った。

 希代は、部屋の隅に追い詰められ、恐怖で目を見開いていた。

 鴨下は、希代に襲いかかろうと、こちらに背を向けていた。その頭を、そこにあった鍋で叩いた。鴨下の足元が揺らいだ。容赦なく、もう一撃を食らわした。鴨下の頭が歪んだ。

 頭の形が変わった鴨下が、こちらに顔を向けた。充血した目、血まみれの口と胸。顔にも手にも血管が浮き出ていた。その青白い手を、こちらに伸ばしてきた。

 発症前の陽気な鴨下のことが、頭の中にちらついた。暗くなりがちな研究班の空気を、ましなものにしてくれていた。お調子者だが、良い奴だった。その鴨下が、変わり果てた姿で目の前にいる。思い出から目を背け、目の前の鴨下を見た。もう一度鍋を振るった。

 鴨下は、床にうつぶせに倒れ、手足をばたつかせた。床に倒れた鴨下を、もう何発か叩いた。鴨下は、手足を動かしていたが、もう起き上がることは出来なかった。

 台所から包丁を持ってきて、希代に目を閉じているように告げた。

 息を大きく吸い込み、鴨下の背中に突き立てる。鴨下は、短くうめき声を上げ、動かなくなった。

 鴨下の遺体から目を上げると、希代と視線が合った。目を閉じているように言ったが、全て見ていたようだった。

 希代が私にしがみついてきた。震えていた。


「これは、鴨下さんですか?」


 希代の質問に黙ってうなずいた。

 噛まれていないか確認したが、希代は無事なようだった。ひとまず安心だ。

 現状を理解出来ていない希代に、研究していたウィルスが、施設外に出てしまい、感染者に噛みつかれたら、同じように瘧狼病になってしまう事を教えた。そして、ソ連の兵士が、東郷村に攻めて来たことも伝えた。

 一発の銃弾が、窓ガラスを破って、部屋に飛び込み、壁に穴を開けた。戦いはすぐそこまで迫っている。ここで恐怖におののいている時間はない。

 希代と二人で家を出た。

 階段を下り切ったところで静沢さんに出会った。手には銃を携えている。体は硝煙の臭いが巻き付いていた。かなり銃を撃ったようだ。

 息を上げている静沢さんに、発症した鴨下をみつけ、殺したことを告げた。

 悲し気な顔でうつむき、「よくやった」とだけ静沢さんはつぶやいた。


「ところで、石井隊長を見ていないか」


 静沢さんの質問に、見ていないと言うと、静沢さんが苦々しい顔をした。


「研究所の中にもいない。あの男、我々を見捨てて逃げる気かもしれない」


 石井隊長なら、やりかねない。こんな状況で取り残されたら、たまったものではない。


「私は飛行場の方を見てくる。君たちは安全な場所に隠れていろ」


 走り去る静沢さんの背中を見ながら、安全な場所などどこにあるのだ、と心の中で毒づいた。

 研究所の中に避難することにした。希代を中に入れることは規則に反するし、実験内容は知られたくはない。しかし、今は四の五の言っている場合でもない。分厚いコンクリートの壁は、飛び交う銃弾から守ってくれるだろう。

 希代と二人で、研究所の入口へと向かったが、様子がおかしかった。入口のところへ人が集まっている。中へ避難するどころか、中から人が出てきていた。外では戦闘が始まっているというのに、これはどうしたことか。

 鎧塚がいたので、何が起きているのか尋ねてみた。


「実験の証拠を消すために、マルタを収容している部屋に毒ガスがまかれたのだ。通風孔は特殊な造りになっているし、気密性は高くなっているが、完璧ではない。部屋から漏れ出す危険性は十分ある。今研究所の中へ入ると死ぬ」


 いつもは感情を見せない鎧塚が、声を荒げていた。


「石井隊長が命令を出したらしい。こんな状況で何を考えているのだ」


 空からの轟音で上を見上げた。飛行機が飛んでいた。良く見かけていた飛行機だ。日本軍のもので、石井隊長が頻繁に使用していたものだった。

 石井隊長は逃げた。我々は見捨てられたのだ。

 研究所の入り口に溜まっていた者達の反応は様々だった。呆然と空を見上げるだけの者もいた。石井隊長が逃げたとわかった者は、空に向かって罵声を浴びせた。

 地上の叫びなど意に介さず、飛行機は空の彼方へ消えていった。

 石井隊長への怨みが沸いてきたが、まずは生き残るのが先だ。静沢さんの指示を仰ぎたいが、石井隊長を捜しに行ったまま戻ってこない。待っている間に行動を起こした方がよさそうだ。

 東郷村の住人全員が乗れる分の自動車はない。引き込み線から、貨物列車に乗って脱出するのが良策だろう。幸い、敗戦を見越して研究資料を運び出す為、研究所のところに汽車がとまっている。全員乗れなくとも、女と子供だけでも逃がさなければならない。

 他の研究班の者に汽車の準備を依頼した。私は、東郷村へ戻り、住人を汽車へと導かねばならない。

 横にいた鎧塚と早乙女に、共に東郷村へ行くように声をかけた。

 鎧塚は力強くうなずいたが、早乙女は何の反応も示さなかった。


「どうした早乙女」


 呼びかけてみたが、聞き取れない程の声で、何かを小さくつぶやくのみだった。目の焦点も合っていない。元々不安定な精神状態だったが、最後の一線を越えてしまったのだ。


「私が、早乙女さんを汽車まで連れて行きます。あなたは、東郷村の人達を避難させて下さい」


 希代が早乙女の手を引いて、汽車の方へと向かい始めた。

 静の印象だった希代の動の面を見て、少々驚いた。危険を冒させるのは嫌だという気持ちもあったが、希代に頼ってみることにした。


「頼む」


 私の顔を見つめ返す希代の視線は、いつもは見せない力強さを持っていた。

 鎧塚と共に東郷村へと走った。

 住宅群のあたりに着き、戦火の中を逃げ惑う親子連れを、汽車の方へ誘導した。

 村は煙と土埃が立ち込め、火かついている建物もあった。戦況はどうなっているのか、瘧狼病はどこまで広がっているのか、現時点では何もわからなかった。

 村の道に、日本兵が倒れていた。既に死んでいる。鎧塚が走り寄り、横に落ちていた銃を拾った。


「撃てるのか」


 私の問いに、鎧塚は無言でうなずいた。

 射撃の訓練は、私もほんの少しだけしたが、自信を持って撃てる段階ではない。銃を持つ鎧塚は、それなりの心得がありそうな雰囲気があった。

 住居の中に取り残されていた母と子供を発見した。外に連れ出し、汽車へ向かわせようとした時、道の先から一人の男が母子の方へ走ってきた。ソ連兵ではない。日本人だ。元々は知った顔だったが、今は別の存在へと変わっていた。瘧狼病に感染し、目を真っ赤にして親子に襲いかかろうとした。

 鎧塚の銃が火を噴き、すんでのところで感染者を撃退した。

 母と子は何が起きたのかわからず、その場で身をすくめていた。


「とにかく汽車まで走れ」


 私の声で我に返った母親が、子供の手を引いて走り出した。

 鎧塚は、射殺した感染者を悲し気な目で見下ろしていた。私と同じく、細菌兵器の研究を悔いているのだろう。

 その後も避難誘導を続け、かなりの人数が汽車に向かわせた。その際に、感染者に噛まれていないかも確認した。噛まれた人間は現れなかったが、油断は出来なかった。

 鎧塚は、いつもの陰気な男とは思えない程、積極的に避難指示し、住人を危険から守った。走り回っても、大して息切れもしていない。頭だけでなく、体も優秀なようだ。

 村の奥に進むに連れて、戦いは激しさを増した。銃弾が流れ飛び、あちこちに死体が横たわっている。

 物陰に隠れつつ、ソ連兵と交戦している日本兵の一群をみつけた。その中の一人は、甘粕だった。

 甘粕に現状を尋ねると、「なかなか手強い」という短い言葉が返ってきた。戦況はかんばしくないようだ。


「女と子供を汽車に乗せて逃がします。無事に出発出来るように守って下さい」


 私の要請を聞いた甘粕の表情が険しくなった。


「瘧狼病感染拡大の怖れがある。発車は認められん」


「そんな。研究所に毒ガスが撒かれて、隠れる場所がないのです」


「毒ガス? 何故そんなものが」


「研究内容が敵に知られないように、石井隊長が指示したのです。もう、被害は出ています。せめて女子供だけでも助けて下さい」


 甘粕は、私の発言など無視して、部下に命令した。


「汽車を発車させるな。歯向かう者、感染した者は、射殺しろ」


 命令を受けた甘粕の部下は、腰を低くして汽車の方へ走り出した。

 その部下を追おうとして、甘粕に止められた。


「感染者がハルピンの街に着いたら、とんでもないことになる。ここで食い止めねばならない。多くの人間の為、少数の者が犠牲にならねばいけない時があるのだ」


 甘粕の決断が正しい。感染の有無を確認出来ていない状態で、他の集団と接触させるべきではない。甘粕は広い視点で物事をとらえている。それに対し、私は狭い視点で、目先のことしか見えていない。瘧狼病ウィルスに手を加え、凶暴化させたのは私達だ。自分で蒔いた種を、他人に刈り取ってもらおうとしているようなものだ。しかし、わかっていても、割り切れなかった。

 悩んでいる間にも、弾は飛び交い、手榴弾が炸裂した。


「そんな顔をするな。ここで全員玉砕するとは言っていない。敵軍と瘧狼病感染者を殲滅したら、ハルピンでも、日本でも好きなところへ行ける。我々が勝つ」


 嫌悪感を抱いていた甘粕だったが、今は頼りがいのある立派な軍人だった。

 銃撃戦が激化した。甘粕や軍人達が、敵兵に向かって銃を撃ちまくる。鎧塚もそこに参戦していた。私は頭を低くして身を守るだけだった。

 前方のソ連兵に気をとられている最中、後方から気配を感じ振り向くと、感染者がよだれを垂らしながら、すぐそこまで迫っていた。

 慌てて棒を拾って殴りつけた。殴られて体勢を崩した感染者に、甘粕と鎧塚が銃弾を撃ち込んだ。

 一人倒したのも束の間、別の感染者が次々と姿を現した。

 敵軍から銃弾を浴びせられ、まわりを見れば、瘧狼病感染者。この世の終わりがすぐそばにあった。

 日本兵の一人が、銃弾に頭を撃ち抜かれ、一瞬で死体になった。

 手榴弾の爆風に揺さぶられ、飛んできた破片で皮膚を切り裂かれた。

 村の建物は炎上し、黒い煙を噴き上げ、熱気で我々を焦がした。

 そうこうしているうちに、感染者の赤い口が、すぐそこに迫っていた。

 誰かが放った銃弾により、感染者は倒れ、私は救われた。

 甘粕が、こちらに向かって何か怒鳴っていたが、まわりの音に遮られ聞き取れなかった。

 最早どう行動すれば良いのかわからなかったが、とにかく倒れた兵士が持っていた銃を拾った。軍属として満州に派遣されるにあたり、多少の訓練は受けたが、本物の戦闘など想定していなかった。弾を当てる自信などまるでない。

 感染した巨体のソ連兵が、私の前にそびえ立っていた。

 銃口を向けて引き金をしぼった。反動で体に衝撃が走り、ソ連兵の太鼓腹に穴が開いた。二発目を撃てずに立ち尽くしていたところ、鎧塚が止めを刺してくれた。巨体が土煙を上げて倒れた。

 初めて人を撃った感傷に浸る間もなく、ソ連兵の攻勢は強くなってきていた。素人目にも状況は悪かった。

 ここでソ連兵を食い止めねば、残された民間人にも過酷な運命が待っているだろう。しかし、瘧狼病の感染拡大を考えると、人々を脱出させるわけにもいかない。

 次々と敵の銃弾に仲間が倒れていった。

 燃えていた建物が倒壊した。声を上げた時にはもう遅かった。火が付いた材木に、鎧塚が押し潰された。

 すぐに材木を払いのけ、鎧塚を救出したが、顔に重度の火傷を負っており、意識は失われていた。

 そんな混乱した状況の中で、一人の日本兵が走ってきた。伝令か何かだと思った。多分、他の者もそう思ったのだろう。それが判断を誤らせた。瘧狼病に感染した日本兵だった。その感染者が、ソ連兵に銃を向けていた甘粕に噛みついた。引きはがして射殺したが、もう遅かった。甘粕の腕に、噛まれた傷口が赤く開いていた。

 全員、何も声を出せなかった。

 甘粕は、傷口を見て、小さく息を吐いた。そして、副官と思われる男に、「後は頼む」と告げ、腰から拳銃を抜き、こめかみに銃口を当てた。


「いや、違うな」


 拳銃を下ろし、甘粕は部下に命じて爆薬と軍用車を急いで用意させた。そうしている間にも、甘粕の体が瘧狼病に蝕まれていくのがわかった。皮膚に血管が浮き始めている。

 用意された軍用車の運転席に乗り込み、甘粕は誰かの名前を小さくつぶやいた。妻と子供の名前と思われた。誰もが聞こえぬ振りをした。

 甘粕が運転する車は、ソ連軍に向かって直進した。銃弾が何発も撃ち込まれたが、止まらなかった。敵陣に差し掛かった頃、車は大爆発を起こし、炎上した。

 直後に、日本軍が、敵陣目掛け突撃を開始した。

 私は、瀕死の鎧塚の横で、日本軍の背中を見送った。

 激闘が繰り広げられ、勝機を逃さなかった日本軍が、ひとまずの勝利を収めた。

 死体が折り重なり、煙が漂う中、疲れた体を引きずって、感染者の捜索が行われた。

 何人か残っていた感染者は、発見してしまえば、武器を持った兵士よりたやすく倒せた。

 汽車の中で足止めされていた者達や、村や研究所のまわりに取り残されていた者の中にも、感染者は確認出来なかった。

 人に噛みつこうとする性質を考えれば、感染者が、村の外の荒野を目指すとは考え辛い。感染拡大は何とか防げたようだ。

 希代も無事だった。私の顔を見て、涙を流していた。希代の涙を見るのは、初めてだった。汚れた頬を、一筋の涙が通った時、私もつられそうになったが、どうにか堪えた。

 爆薬で吹き飛んだ甘粕の遺体は、確認できなかった。甘粕を偲ぶ兵たちの表情が、私の印象と実像がかけ離れていたことを物語っていた。大勢の為、少数を犠牲にする。その言葉の通り、男らしい最期だった。

 軍人達は車に乗って去って行き、我々は後始末にかかった。

 毒ガスを換気した研究所の中へ入ってみると、マルタは全員死んでいた。残った研究員で死体を焼却し、中庭に大きな穴を掘り、そこへ埋めた。

 瘧狼病の研究資料は消えていた。他の研究資料も軒並み無くなっていた。石井隊長が持ち去ったのだ。他の研究員の怨嗟の声が響く中、私は虚しさでいっぱいだった。

 培養されていた菌を処分し、ホルマリン漬けになった人体を焼却炉で焼いた。細菌兵器の製造、人体実験の証拠は軒並み消し去り、最後に研究所に爆薬を仕掛け、建物を破壊した。中に配管が通された四十センチの壁を爆破するのは困難だったが、どうにか遂行することが出来た。これで、ここで行われていたことは、闇に葬り去られることになった。

 身も心も消耗しきっているとき、弱々しい電波を受信したラジオから、玉音放送が流れてきた。日本は戦争に負けたのだ。

 泣き崩れる人もいたが、私はその姿を醒めた目で見つめるだけだった。現実を受け止めることすら出来なかった。

 引き込み線の汽車に乗り、まずはハルピンまで行くことになった。

 心の均衡を崩してしまった早乙女と、顔に火傷を負って苦しんでいる鎧塚を汽車に乗せた。そして、希代と二人で私も乗り込もうとすると、汽車の中から声が飛んできた。


「こっちに来るな妖怪」


 地上から汽車を見上げると、敵意に満ちたいくつもの視線が、私と希代に降り注いでいた。


「お前のせいで何人も妖怪になったんだろ」。

「知らないとでも思っていたのか」。

「お前のせいでうちの人は死んだんだ」。

「近寄るな妖怪。噛みつくつもりか」。


 最初の声に追随し、次々と罵声が降り注いできた。

 希代が、妖怪の様な姿になってしまう病気だということを、皆知っていたのだ。知っていて、今までそこには触れず、暮らしていたのだ。私が研究していた瘧狼病ウィルスが、外に漏れ出し、妖怪の様な姿の感染者を見て、希代が広げたものだと解釈したのだ。


「違う。あれは全部私のせいなんだ」


 私の声は、浴びせ続けられる罵声と、投げつけられる物によって、かき消された。

 希代の前に立ち、飛んでくる物品から守った。何かが額に当たり、痛みが走った。

 我々を責めているのは、研究員の家族達だった。夫が研究所で何をしているのか知らされず、ある日突然理不尽に生活を踏みにじられた。無知と不幸からくる怒りが、希代という標的に向かっているのだ。

 私と同じく脛に傷持つ研究員達は、それを止めるでもなく、冷たい目線でこちらを見ていた。希代ではなく、静かに私を責めているのだ。

 汽車は、ゆっくりと車輪を回し、線路の上を進み始めた。我々を残し、旅立とうとしている。


「待ってくれ。せめて妻だけでも」


 願いは受け入れられるわけもなく、汽車は、私と希代を残し旅立っていった。

 汽車は徐々に小さくなり、遂に姿は見えなくなった。

 満州の広い大地と広い空の間に、たった二人取り残された。

 後ろには、破壊された研究所と村。使える自動車も馬も無い。近くの村まで行っても、私達は戦争に負けた日本人だ。何をされるかわからない。線路伝いにハルピンまで歩くにしても、数十キロ離れている。その道中には、中国やソ連の兵士、馬賊が待ち構えているのだ。困難を極めるのは想像に難くない。

 希代の顔をみつめた。青白く、憔悴した顔をしていた。無理もない。かつては隣人だった者達の、むき出しの敵意にさらされたのだ。

 すると、希代は、無理して作ったとわかる笑顔を浮かべて言った。


「ここで一緒に死にましょうか」


 それも良いかもしれない。これ以上苦しむより、ここで二人死を迎える方が、幸せなのではないだろうか。希代はともかく、私は、死んで当然の行いをした。ここで死ぬべきなのだ。

 無理な笑顔を作っていた希代の表情が崩れた。足元もふらついている。慌てて肩を抱いた。


「どうした。大丈夫か」


 希代は体調が悪そうだったが、ひとまず落ち着いた。そして、私の腕の中で、何か考え込んでいた。言葉を出そうか出すまいか迷っているようだ。


「子供が出来たようです」


 何の事情もなく、平和な場所にいる時に聞けば、喜ばしいことなのだが、希代は、病気の家系の身、瘧狼病の治療法もみつかっていない。その上、目の前に広がっているのは、満州の荒野。どう感じれば良いというのか。

 希代を見つめた。ここで一緒に死ぬべきなのか。一番近い街までも極めて苦難の道程だ。そこから港にたどり着き、運よく船に乗って日本に渡れたとしても、そこは焼け野原で、何も残っていないかもしれない。それでも生きるべきなのだろうか、明るくない未来の為に苦しむべきなのだろうか。希代は、私の選択に従ってくれるだろう。私が死を決断すれば、二人の血脈は、ここで途絶える。悪魔に魂を売った穢れた私の血も、希代の呪われた血も、ここで終わるべきなのかもしれない。

 腕の中に生命の温もりを感じていた。その更に内部には、新たな生命も宿っている。この二つの生命の未来は、私の手に委ねられている。


「生きよう」


 悲観的な思いとは真逆の言葉が、私の口から発せられた。頭では冷静に現状を分析していたが、心では希代と共に生きたいと願っていた。


「生きよう」


 もう一度言葉にした。

 希代が、私の瞳を見つめ、「はい」と返事をした。顔色は悪かったが、笑顔だった。

 我々は線路に沿って歩き始めた。道半ばで行き倒れるかもしれない。終着点には、何も無いかもしれない。そして、希代も、お腹の中の子供も、妖怪の様な姿になって、悲しい最後を迎えるかもしれない。それでも、この最初の一歩は、希望と呼びたい。

 体調不良の希代を担いでいく心構えだったが、希代は自分の足で歩いた。


「私の先祖は、滅びた村から、たった一人で旅立ったそうです。私は二人です。いえ、三人です。進みましょう」


 希代の先祖の話は、以前聞いた。飢饉の末に殺し合い、その肉を食べ合い、最後の一人となった先祖が、呪いを背負って旅立ったという話だ。荒唐無稽な伝説とも思えるが、今置かれた状況は、その伝説以上に作り話のようだ。

 荒野に伸びる線路を歩いた。空は残酷なまでに広く、青い。

 私の心配をよそに、希代は力強く歩いた。体調の悪さを押し隠そうとしているのがわかる。これが母親になるということなのか。

 線路をたどれば、確実に街が待っているはずなのに、果てしなき道を歩いている様な気がしてくる。

 気の変わった東郷村の人々が、汽車で引き返して、私達も乗せてくれるのではないかと淡い期待を抱いていたが、足元の線路が、振動することはなかった。

 黙々と歩いた。振り返れば、東郷村も研究所も見えなくなっていた。後戻りは出来ない。進むしかないのだ。

 しばらく進んでから、疲労が溜まってきたので休憩した。

 豊富に供給されていた食料も、これからは手に入れるのさえ難しくなるだろう。少しずつ口に入れた。

 しばしの休息の後、再び歩き始めた。

 人の足はかくも遅いものか。文明の力を借りればあっという間に着く距離なのに、まだ街に着く気配もない。それでも弱音を吐けない。希代も頑張って歩いている。

 結局、先が見えぬまま、日が暮れてしまった。

 線路から少し離れた場所で夜を明かすことにした。

 身も心も憔悴しているが、横になってもまどろむことも出来ない。眠れぬ夜は長かった。

 風に揺らぐ草の音に怯え、闇の中に敵の姿を想像してしまう。休んでいるはずなのに、むしろ心が削られていった。


「星がきれいですね」


 希代の小さなつぶやきが、すぐ隣から聞こえた。

 上を見上げてみると、満天の星空が広がっていた。美しかった。


「私の先祖を導いてくれたほうき星は、いませんね」


 ハレー彗星が訪れるのは、まだ随分と先のことだ。今見上げる空に、姿を現すことはない。


「ほうき星の代わりに、私がいる」


 私の言葉に、希代が微笑んだのが、暗闇の中でもわかった。

 言葉を出したら、恐怖心が少し和らいだ。こちらが助けなければいけないのに、希代に助けられてばかりの気もする。情けない。

 暗い長い夜を抜け、太陽が広大な大地を照らし始めた頃、私達は再び歩き出した。

 旅立ってしばらくすると、希代が線路から外れ、下を向いて吐いた。つわりだ。屈んでいる希代の背中をさすりながら、少し休むことを提案したが、希代は立ち上がって歩き出した。

 今日も、雲は日差しから守ってくれないようだ。青空に太陽が輝いていた。

 更に歩を進めると、線路脇に、人が倒れているのを発見した。一人ではない。まわりに危険が無いか確かめてから近付いてみると、日本人家族の遺体だった。敗戦を知り、祖国へ帰国途中の開拓民が、盗賊に殺され、身ぐるみ剥がれたのだ。その中には子供もいた。可愛そうだが、埋葬している余裕はない。手を合わせて、先へ進むことにした。

 線路上を歩くのは、道には迷わないが、襲われる危険性も高まるようだ。線路から少し離れた場所を歩くことにした。

 線路から離れ過ぎず、近付き過ぎない距離を保ち、先へ進んだ。

 人の気配がしたので、草むらへ希代と共に隠れた。息をひそめていると、線路の方から、中国の言葉が聞こえてきた。草の陰からでは良くわからないが、それなりの人数いるようだ。盗賊か、軍人か。どちらにしろ、みつかれば殺される。

 草むらの中に身を隠していると、人が遠ざかっていった。やり過ごせたようだ。

 希代と目で合図し合い、足音を立てぬようにして、先へ進んだ。

 足も心も、崩れそうになってきた頃、ハルビンの街が見えてきた。

 ハルピンに到着したものの、そこは安息の地ではなかった。銃弾こそ飛び交ってないものの、日本人は、中国人や朝鮮人に、金品を奪われ、暴行され、殺されていた。五族協和をうたいつつ、日本人が他の民族を支配していた歪んだ国家満州国。そこに溜まった鬱屈が、日本敗戦により噴出したのだ。ソ連軍がここまで侵攻してくれば、更に大変な状況になるだろう。研究所で人体実験をしていた男と、妖怪の様な姿になる病気を持った女の夫婦など、捕まったら、確実に殺される。必死に歩いてたどり着いたが、西洋風の美しい街並みが、魔窟のように思えた。

 混乱の中、汽車は動いていないし、自動車の手配も出来ない。日本人が狩られる側に回った今、歩いて遠くの街を目指すのは危険過ぎる。どうしたものか途方に暮れてしまった。

 そんな中、ハルピン駅から、汽車が出るという話を耳にした。流言や誤情報が錯綜している。信じてよいものか。しかし、ここから出るなら、その汽車に乗るより他にない。わらにもすがる気持ちで、ハルピン駅を目指した。

 身を隠し、気配を殺しつつ先を急ぐ。視界に入る全ての人間が敵に思えてきてしまった。

 駅に近付くと、私と同じく、汽車で脱出を図る日本人達が押しかけてきていた。

 人の流れに従い、駅の中へ向かおうとしている時、道端にたたずむ見覚えのある姿が目に入った。早乙女と鎧塚だった。

 早乙女は、定まらぬ視線を宙に漂わせ、何かつぶやいていた。その足元で鎧塚が寝そべり、火傷の痛みに苦しんでいた。七三一部隊の連中はまわりにいない。置いていかれたのだ。

 近付いて話しかけてみたが、早乙女にはこちらの言葉が届いていない。鎧塚も意識がもうろうとしていた。顔に巻かれた包帯には、血と膿がにじみ、悪臭を放ち始めていた。医療器具も薬も無い。治療など不可能だ。だが、二人を見捨てることは出来ない。早乙女は希代に誘導させ、私は鎧塚に肩を貸して汽車へと進んだ。

 汽車には、ここから逃げ出そうとする日本人が群がっていた。客車はおろか、天蓋の無い貨物車にまで人が乗っていたが、それでも場所が足りない程だった。

 我々は、どうにか貨物車に居場所を確保出来た。怪我人と妊婦がいるのだから、屋根の下に入りたかったが、乗れただけでも良しとしなければならないだろう。

 汽笛が鳴らされ、汽車が動き出した。大きな安堵を感じ、体から力が抜けた。しかし、これからも越えなければならない関門がいくつもある。先を思うと気が滅入ってきた。

 汽車が吐き出した煙が、我々の頭上を流れていった。

 鎧塚の体調は依然悪かった。痛みと熱にうなされ、自分を捨てた石井隊長や研究所の仲間への怨みを、うわ言の様に口にしていた。生きて日本の地を踏むのは難しいかもしれない。

 早乙女は、水や食料は口にするのだが、基本はぼんやりとしたままだった。

 そんな二人を、自身も体調不良の希代が、献身的に世話した。

 汽車の旅はいつ終わるともなく続いた。大雨に遭遇しなかったのは幸いだったが、飢えに苦しみ、中国人の報復や、ソ連軍の襲撃に怯え、私達は疲弊していった。

 長き旅の途中で、命尽きる者も出てきた。年老いた者は、病気に感染すれば抗う力もなく倒れ、赤子は母親に背負われたまま息をしなくなった。

 私が医者であると聞きつけると、具合の悪い者が集ってきた。医療器具も薬も、ましてや食料もろくにない状況では、治せるものも治せなかった。そんな私にでも、一応診察すれば、礼を言われた。悪魔に魂を売り渡し、人道にもとる行いをし、目の前の病人は、まるで助けられない。心がえぐられるようだった。

 希代の腹の中の子供も、いつ流れてもおかしくなかったが、どうにか持ちこたえていた。

 いくつもの街を過ぎ、何度も昼と夜を越え、釜山に着いた頃には、昨日生きていた者が、今日死んでいる光景に慣れてしまっていた。

 釜山から日本に向かう船には、大陸各地から帰国者が集まり、一人一人に与えられる空間はわずかなものだった。

 早乙女は少しずつ意思疎通が出来るようになってきていたが、まだ正常とは言えなかった。

 希代は船酔いとつわりに苦しみ、臥せっていた。

 助からないと思っていた鎧塚は、徐々に持ち直してきているように思えた。彼をつなぎとめているものは、石井隊長に対する怨念なのだろう。包帯の隙間からのぞく目には、怒りと狂気がこもっていた。

 船の中では、日本はアメリカに占領され、男は殺され、女は犯されていると、まことしやかに囁かれていた。暗い気持ちにさせられた。

 船が下関に着いた。久々に踏む日本の大地は格別だった。やつれた希代も、目に涙を浮かべて喜んでいた。

 下関で見た日本人は疲れた顔をしていたが、思ったより平穏な空気が流れており、噂程酷い状態ではなさそうだった。

 満員の汽車で東京へと向かった。もう少しで家に着けるという喜びと、東京の惨状を見る怖さが、心の中で混ざり合っていた。汽車の窓からのぞく景色も、空襲の爪痕がしっかりと残っていた。日本が爆撃されたという実感が沸いてきた。

 東京へと向かっている最中、いつの間にか、早乙女と鎧塚が消えていた。各自実家へ帰ったのだろうか。満州から、自分達のことで精いっぱいの中で、二人の世話をしてきた。せめて一言告げてから去って欲しかった。今の二人には望むべくもないことだが。

 満州からの長い旅路を経て、ようやく東京へと到着した。そこは焼け野原だった。あるはずの建物がなくなり、遠くまで見渡せた。満州は広大で、東京は空虚だった。復興など出来るのだろうか、このまま日本は滅びてしまうのではないだろうか。

 希代も私の横で、瓦礫と灰にまみれた東京を見つめていた。腹の中に子供がいて、体調も悪いだろう、先行きが不安だろう。やつれた横顔に力がなかった。

 日本に帰ってきたが、破壊されて何もない。私も実験の内容が発覚し、戦犯として裁かれれば、死刑は免れない。治療法をみつけることが出来ない以上、希代にも遠くない死が待っている。お腹の中の子供にどんな未来が待っているというのか。この状況には、絶望という言葉しか見当たらなかった。

 希代がこちらを見た。何も言わなかった。私も何も言わなかった。しばらく見つめ合った後、言葉をしぼり出した。


「未来がなくとも、明日がなくとも、生きよう」


 そう言うと、希代が少し笑った。


「いや、違うな。生きて、明日を、未来を作るのだ」


 希代の少しだった笑顔が広がった。

 私は無理に強気なことを言っていたし、希代は無理に笑顔を作っていた。そうやって無理にでも生きていくのだ。

 葉羽村の家は、焼けずに残っていた。出発前に比べて老けた義父が迎えてくれた。希代に子供が出来た事を告げると、最初複雑な表情を浮かべたが、祝福の言葉を与えてくれた。

 私は、大学の病院に仕事をみつけ、働き始めた。医者として、本来の仕事に戻ったと言えるが、瘧狼病の研究。希代の治療法をみつけることを諦めてはいなかった。満州の研究所から消えた研究資料を取り戻すべく、石井隊長の行方を捜した。

 帰国して、医学界に復帰した七三一部隊の者は、比較的すぐにみつけることが出来た。その者達は、私の顔を見ると、亡霊でも見るような顔で、あからさまに動揺していた。無理もない、満州の荒野にうち捨ててきた者が姿を現したのだ。復讐しにきたと思ったのだろう。危害を加えるつもりはないこと、むしろ瘧狼病ウィルスを研究所の外へ漏洩し、被害を出したことを詫びたいことを告げると、安堵した顔を見せた。しかし、石井隊長の行方は、誰も知らなかった。医学界には戻ってきていないようだ。


「戦争犯罪人として裁かれることになれば、確実に死刑だな」


 元研究員が表情無く語った。

 皆が追及の手が伸びてくることを恐れていた。七三一部隊の研究所は爆破し、研究の内容は口外しないと決まっている。それでも、安心は出来なかった。

 石井隊長も瘧狼病の研究資料もみつけることが出来ぬまま、希代が出産した。可愛い女の子だった。今までの苦労を思ってか、これからの苦境を思ってか、私の目から涙が一筋流れた。

 子供はかえでと名付けた。

 明日や未来なんて考える余裕もない、今を生きるだけで精いっぱいの毎日が続いた。

 仕事に追われ、持ち去られた研究資料を探すことも、瘧狼病の治療法を探すことも、希代や楓と接することもままならない日々が続いた。

 夜、寝入っている楓の顔をのぞき、そのあどけない頬を撫でた。その光景を見て、希代が微笑んでいた。

 石井隊長の情報が入った。病死し、葬儀が営まれるとのことだった。

 葬儀が行われる、千葉の山武へと向かった。山武は、石井隊長の出身地だ。千葉市街から更に進んだ場所だったが、東京から、さほどの時間もかからず到着した。

 石井隊長は、地元の英雄の様な存在だと聞いていたが、葬儀はこじんまりとしたものだった。軍医としては頂点まで行った男にしては、寂しい最期だった。しかし、戦犯として裁かれずに終われて、幸せだったのかもしれない。七三一部隊にいた者の顔は、参列者の中にはなかった。恨んでいる者も多いだろうし、戦犯が裁かれている中、大人しくしていた方が得策なのは確かだ。

 地元の人達から、あからさまな敵意を受けはしなかったが、排他的な空気は感じ取った。隊長の死因は病死とだけ曖昧な事を言われ、棺の中の遺体とも対面させてもらえなかった。

 石井隊長の棺と遺影の前に進み、焼香し手を合わせた。背中には山武の人々の含みのある視線を感じていた。

 石井隊長は、本当に病死なのか。部隊の秘密を守る為に、殺されたのではないか。もしくは、自分の行いを悔いて自殺し、世間体を気にして病死としたのか。それとも、戦犯として裁かれることから逃れる為、死んだと偽装しているのか。とにかく、この葬儀には裏がある。手を合わせながらも、頭の中は、疑念が駆け巡った。

 焼香を終え振り返ると、人々の感情の無い暗く静かな目が、こちらを見ていた。泣いている者など一人もいない。親族さえもだ。

 私はお悔やみの言葉を口にして、山武を後にした。研究資料のことなど、切り出すことは出来なかった。

 山武から帰ってきた夜は、悪夢にうなされて目が覚めた。瘧狼病に感染した石井隊長に追われる夢だった。汗まみれになって布団をはいでみたが、暗く静かな寝室で、横には希代と楓が寝ていた。大きく息をついて、眠れない夜を、天井を眺めて過ごした。

 私がしたことは、生きる為に隣人を殺して食べたという希代の先祖よりも酷いことだ。戦争中だとか、妻の為だとか、正当化しようとはするが、罪悪感を消し去ることは出来なかった。気持ちがふさぎがちな時は、自ら命を絶つことに心を支配されてしまう。死んでしまえば楽になれるが、死ぬことは出来ない。希代の治療法がみつからず、義父が亡くなれば、楓は私が育てねばならなくなる。生きねばならない。

 親の気苦労も知らず、楓は元気に成長していく。近所に同年代の友達も出来、活発に遊んでいた。戦争に負け、食べる物もろくにないというのに、子供は逞しい。他の人間にとっては、とるに足らない些細なことだが、私にとっては、暗闇に差す唯一の光だった。

 七三一部隊での瘧狼病研究資料をみつけることは一旦諦め、独自に研究しようともしたが、設備も資金も時間も足りなかった。

 焦ってもがいてみても、時間は刻々と過ぎていった。

 希代の様子は変わらなかった。出会った頃のままだった。既に自分の運命を受け入れて達観しているようだった。


「私が死んだら、あなたの手で解剖して下さい」


 解剖なんてしたくない。しかし、楓の為にせねばならない。


「私の父は、心の暖かい人でした。とても良く育ててくれました。でも、過去にとらわれ過ぎだったと思います。母が笑っている映像を何度も何度も観ていました。愛情が深かったのはわかります。でも、再婚したら人生が変わっていたかもしれません。あなたは未来に向かって生きて下さい」


 再婚なんてしたくない。未来など捨てて、希代と共に死にたい。


「最後に一つ訊かせて下さい。私のこと、好きでしたか」


 大声で叫んでいた。


「当たり前だろう!」


 初めて会った時から心を奪われていた。海を渡り、悪魔の所業に手を染めた。私が思い描いていた人生とは、まるで違う道を歩むこととなった。ただ、希代を助けたいが為に。それなのに、肝心な想いを、言葉にして伝えていなかった。

 希代が発症した。

 私の所業も、多くの犠牲も、無駄に終わったのだ。

 希代に噛みつかれた。私も瘧狼病に感染し、人の心を飛ばしてしまいたかったが、ただ激痛と悲しみが残るだけだった。

 満州の研究所で、何度も見てきた経過をたどり、希代は死んだ。

 全てが終わったような喪失感を抱えているのに、まだ仕事が残っていた。希代の解剖だ。

 知り合いの警察に前もって話を通していたので、簡単な検死で、事件性なしとしてくれた。本当は、希代の遺体を見て、驚いていたのだろうが、動じない振りをしてくれた。

 大学病院の一室を借りて、希代の解剖をし始めた。手伝いを名乗り出てくれる人もいたが、丁重に断った。希代の体を他人に触らせたくない。

 変わり果てた姿とはいえ、希代は希代だ。遺体を見下ろしていると、様々なことが浮かんでくる。出会った時のときめき。満州での日々、そして苦難の引き揚げ。焼け野原となった日本での、出産と生活。平穏な時など、ほとんどなかったはずなのに、今では輝かしい思い出となって甦ってきた。もう息を吹き返すことなどないのに、メスを入れることが出来なかった。


「あなたの手で解剖して下さい」


 希代の声が頭の中に響いた。

 やらねばならない。私の使命だ。未来の為に過去にメスを入れる。

 希代の体を開き、その様子を克明に記録し、主要な部位は、切除し保存した。

 これが、私なりの希代への供養だ。楓を助ける為の医療行為であり、希代に対する愛情表現でもある。

 記録が一通り終わり、開いた箇所を縫い合わせ、元の姿へ近付けた。

 希代の冷たい手を握った。ずっと握っていた。そして、握りながらつぶやいた。


「当たり前だろう」


 希代の遺体を火葬場に運び、荼毘にふした。

 楓は、しばらく涙に暮れる日々を送った。私と義父が慰めても、涙は止まらなかった。最愛の母親がいなくなったのだ。無理もない。

 娘とどう接すれ良いのか悩む毎日だったが、悩みながらでも時間は過ぎ、時の経過は、心の痛みを薄れさせてくれた。

 近所の友達が、楓を迎えに来てくれて、共に遊ぶようになった。体を動かしている時は、悲しみを忘れているようだった。次第に笑顔も見せるようになっていった。友達というものは、本当に素晴らしい。

 楓の友達と接していると、一人一人違う個性を持つことに気付かされる。子供と大きく一括りには出来ない。大人になる過程で、積み上げていくものもあるだろうが、この時点で、持っている素地の違いというものもあるのだ。

 鷺澤賢吾さぎさわけんご君は、明るい楽天家だ。沈んでいた楓が笑顔を取り戻せたのは、彼のおかげだろう。

 至嶋永劫しじまえいごう君。随分と珍しい名前の彼の家は、武術の道場を開いているらしい。その影響なのか、同じ年代の子供と比べると、運動能力が図抜けている。

 益貝茂人ますがいしげひと君は、口が達者な少年だ。言っている内容は適当だが、これだけ口が回る子供も珍しい。

 他にも見かける顔はあるが、良く遊んでいるのは、この三人が多い。失った母の愛情を、友情で埋めることは出来ないかもしれないが、悲しんでいる時間より、楽しんでいる時間が多い方が良いに決まっている。

 そんな頃、警察から協力要請が入った。何事かと思えば、豊島の方の銀行で、大量殺人事件が発生したとのことだった。私が呼ばれる理由が明確にはわからないまま、現場へと向かった。七三一部隊のことと関係があるのだろうか。胸騒ぎがしていたのだが、希代が死んだとき、世話になった知り合いの警察官からの申し出だったので、断ることは出来なかった。

 銀行内に入ると、建物の内部には、死臭が立ち込めていた。

 出勤していた行員は、十三名全員死亡。現金が持ち去られた形跡もあった。これだけでも異常な事件なのだが、銀行内に転がった行員達の遺体は、とにかく異様だった。青白く、血管の浮き出た肌。見開かれたままの目は、真っ赤に充血している。全員が瘧狼病に感染した形跡があった。

 知り合いの警官が私に目くばせしてきた。彼は、私が七三一部隊でしてきたことを知らない。希代の遺体と銀行員達の遺体の似通った外見から、私に連絡してきたのだ。私は、無言でうなずき、遺体を検分し始めた。

 瘧狼病に感染しているようだが、噛みつかれた痕らしきものはなかった。しかし、遺体全員の腕に晴れ上がった箇所が見受けられ、その中心には、何かで浅く傷付けられた痕跡があった。多分、刃物か何かで腕に傷をつけ、そこに瘧狼病ウィルスを塗布したのだ。しかし、瘧狼病ウィルスだけでこんなに早く死ぬはずはない。銃創などの外傷もない。被害者の多くが嘔吐しているところを見ると、瘧狼病とは別の毒物を注入されたのだろう。私の研究では、瘧狼病によって嘔吐する例はなかった。吐瀉物の中から、何かしらの毒物が検出されるはずだ。

 想像の域は出ないが、まず犯人は、銀行に入り、伝染病が広がっただのと嘘をつき、検査の為と上手く言いくるめ、腕に傷口を作り、そこに瘧狼病ウィルスを塗布する。そして、検査の結果、伝染病陽性なので、治療薬と言って毒物を口から飲ませる。瘧狼病ウィルスの効果が出て、銀行員達は妖怪の様な姿へと変容するが、すぐに別に飲んだ毒物が効果を発揮し、発症した銀行員達を死に至らしめる。そんな仮説が頭に浮かんだ。

 しかし、何故そんなことをするのか。金を奪うだけなら、毒だけを飲ませれば良い。瘧狼病ウィルスを拡散させ、日本を混乱に陥れたいのなら、毒物を飲ませて殺すことはない。これはどういうことなのだろう。

 その時、警察が話している内容が耳に入ってきた。マスクと帽子で顔を隠した男を、目撃した近隣の住民がいるとのことだった。

 顔を隠した男と聞いて、真っ先に鎧塚のことを思い出した。満州での戦闘中に、顔に火傷を負いながらも、生き延びて日本まで共に引き揚げた鎧塚だ。引き揚げの途中では、ずっと怨嗟の言葉を口にしていた。その恨みが、罪も無き人達に向いたのではないだろうか。しかし、彼も瘧狼病ウィルスを持って帰ることは出来なかったはずだ。この数年間で、自分で作り上げることも可能と言えば可能だが、設備も資金も無い中では、かなり難しいだろう。

 そうなると、石井四郎隊長が怪しい。隊長の葬儀は、明らかにおかしかった。隊長が死んだなんて、私はまるで信じていない。あの人なら葬儀の偽装くらい平気で行う男だ。満州から飛行機で逃げる際、瘧狼病ウィルスを持ち帰り、どこかへ保管していたのだ。そして、ここで使用したのだ。金の強奪が動機とも思えない。他に何か理由があるのだろう。

 色々な考えが頭を駆け巡ったが、どれもさしたる証拠もないままに思いついた推論に過ぎない。早く犯人をみつけなければ、次の犯行が起きてしまうかもしれない。阻止しなければならない。

 死体から顔を上げると、知り合いの警察官がこちらを見ていた。別段変わった様子もないが、私の心に恐怖が沸いてきた。私を疑っているのか。七三一部隊のことがばれているのか。いや、それはないだろう。


「私の妻の病気も、ここの被害者と似たような症状が出ますが、遺伝性で感染はしません。この事件とは関係がありません。私の記憶にはないですが、この様な症状で中毒死する毒物があるのでしょう。調べてみます」


 知り合いの警官は、深くは質問してこなかった。

 私は、もう少し死体を検分してから、銀行を去った。

 犯人も動機もわからないが、七三一部隊の者が事件に関係しているのは確かだ。部隊の者に会って話をしたかったが、過去から目を背けたい者達は、私と会うことすら拒絶した。会えた者も、特に情報は持っていなかった。

 豊島銀行毒殺事件は、世間を大きく賑わせた。殺害には青酸カリが使われたと報道され、瘧狼病に触れられることはなかった。目撃証言のある、帽子とマスクの男の人物像について、様々な憶測が飛んだが、犯人逮捕には結びつかなかった。

 瘧狼病ウィルスによって被害が出るのは阻止しなければならない。しかし、戦犯として捕まり、死刑になるのは嫌だ。利己的な想いが、警察への協力の障害となっていた。そして、更に自分勝手なことを言えば、この流れを利用して、瘧狼病の研究資料も入手したい。なんとも見下げ果てた身勝手さだ。

 悶々としつつも、仕事に追われ、何も出来ぬ日々が続いていた。

 たまの休日、我が家に楓の友達が遊びに来ていた。楓の元気な姿は嬉しいが、子供達の騒ぐ声が、疲れた身には少し煩わしくも感じていた。そんな私の思いも知らず、子供達は大きな声で会話している。子供達の間で流行っている、怪談的な噂話のようだ。白い仮面、もしくは白い包帯を顔につけた男が、銀座の地下に住んでいて、夜な夜な地上に出て来ては、路上で歌を歌い、金を要求する。金を払わないと、地下に引きずり込まれて殺されるとのことだった。その男の呼び名は、「歌舞伎座の怪人」。戦争で怪我をして、働くことが出来なくなった傷痍軍人が、歌を歌ったり、楽器を演奏したりして、金銭を恵んでもらう姿は良く見受けられた。その姿と、一時期人気を博したガストン・ルルーの怪奇小説「オペラ座の怪人」の影響を受けて作られた話だろう。

 いつもだったら、他愛もない荒唐無稽な怪談として聞き流してしまっただろうが、顔面に火傷を負い、引き揚げの道中、苦しみながら呪いの言葉を吐く鎧塚の姿を頭に浮かべていた。

 次の日、仕事が終わると、楓のことは義父とお手伝いさんに任せ、銀座へ向かった。

 銀座は空襲で大きな被害を受けたが、かなり復興を遂げていた。怪しげな露店もたくさんあったが、大きな建物も造られていたし、しっかりとした造りの店に、着物姿の艶やかな着物姿の女性が、洒落た背広の男性を迎え入れている光景も目に入った。歌舞伎座も帝国劇場も公演を再開していた。

 朝鮮戦争の開戦で、日本の景気は上向いてきていた。その影響が、夜の銀座にも出て来ているのだ。焼け野原だった日本が、息を吹き返してきていた。

 感傷的な気分で銀座の街を眺めながら歩いていると、希代と訪れたことを思い出し、感傷的な気分に拍車がかかった。

 昔はいたる所で見かけた傷痍軍人も、最近は少なくなってきた。顔に包帯を巻くなり、仮面を被るなりした男がいたら、かなり目立つはずだ。子供達の口から出た噂話を手がかりにして、こんな場所を一人でさまよっていると、馬鹿馬鹿しい気分になるが、他に手がかりが無い。仕方なく徘徊を続けた。歌舞伎座の怪人という呼び名を意識して、歌舞伎座中心に銀座を歩き回ってみたが、鎧塚の姿をみつけることは出来ず、空振りに終わった。

 子供達が話していた内容は、オペラ座の怪人の影響を受けていると感じた。そうすると、歌舞伎座よりも、帝国劇場の方が似つかわしいようにも思った。我ながら根拠の無い気まぐれだと思ったが、銀座から線路を越して、丸の内方面へ向かった。

 丸の内は、商店、飲食店よりも、企業や官公庁が入っている建物が多いので、夜になると、人通りも少なく、ビルの谷間を通り抜ける風が冷たかった。

 このあたりの建物は、一つ一つが大きく、造りもしっかりしている。街全体も整然としていて、昔は一丁ロンドンなどと呼ばれていた。

 帝国劇場は、異国情緒あふれる建物だった。パリのオペラ座には行ったことなどないが、この様な建物なのではないかと、勝手に想像した。

 今日の公演は終わっていて、中には入れなかったので、劇場のまわりを歩いてみることにした。観劇の帰りだろうか、高級そうな服を着た男女が、仲睦まじく駅の方へ歩いて行った。

 私にもこんな人生があったのだろうか。現在の自分との差異に、ふと考えてしまった。学力はあったが、親に死なれ、学費目当てで陰織家の婿養子になった。希代が病気持ちだということは事前に知っていた。言うなれば政略結婚だった。勉強して、出世して、財を成し、こんな街で豪遊して、愛人でも作れば良いと思っていた。それがどうだ。希代の病気を治したいが為に満州へ渡り、人体実験を行い。結局希代を救うことが出来なかった。今は、楓を救う為、瘧狼病の被害者を出さない為に、夜の街をさまよっている。良い服に身を包み、きれいな女性と肩を並べて歩く男性を見ていると、道を誤ったことを実感し、惨めな気分になった。だが、過去は変えられない。私は私の道を歩くしかないのだ。医者の本分に戻り、多くの患者を治す、楓の病気を治す。華やかに遊ぶのは、別の人間がやれば良い。思い描いていた未来とは違くとも、前を見て歩かねばならない。戦争中たくさんの命を奪ってしまった。それよりもたくさんの命を救わねばならない。

 ぼんやりと物思いに耽りながら歩いていると、私の視界に異質なものが入ってきた。顔中に白い包帯を巻いた男だ。私には気付いていない。一つの建物を見上げていた。鎧塚だ。この男を探しにここまで来たのに、実際に目の当りにすると、その光景を処理することが出来ずに、立ち尽くしてしまった。

 鎧塚は、暗い色の丈の長いコートに、暗い色の帽子を被っており、顔に巻いた包帯の白さを、より際立たせていた。顔の部分がぼんやりと発光して、闇の中に浮いているようにも見える。そんな姿で、建物を見つめていた。何をしようとしているのか。瘧狼病ウィルスを広めようとしているのか。


「鎧塚」


 とっさに名前を呼んでしまった。声を出してから考えてみると、銀行員を毒殺したかもしれない男だった。そうだとすると危険な行為だ。

 鎧塚が声に気付き、私の姿を見た。包帯の隙間からのぞいた目が丸くなっていた。一瞬の後、鎧塚は背を向けて逃げ出した。

 私は反射的に追いかけた。鎧塚は、深い闇の様な背中をしていた。

 曲がり角の向こうへ消えた鎧塚を追い、私も角を曲がった。そうすると、鎧塚の背中は、本当に闇の中に溶け込んでしまっていた。街灯に照らされ、都心の夜から闇は消えたはずだが、鎧塚の姿は、闇の中へ消えてしまっていた。

 探してみたが、鎧塚の姿は見当たらず、気配すら感じない。途方に暮れた。

 仕方なく引き返し、鎧塚が見ていた建物の前に立った。日比谷生命館という、ギリシア神殿を思わせる芸術的な建造物だった。戦中までは、保険会社の社屋だったが、GHQが接収し、日本の拠点としている場所だ。米兵が警護している姿も見える。凝視し過ぎると怪しまれるので、さり気なく歩きながら観察した。堅牢で警備もしっかりとしていた。

 ここで瘧狼病ウィルスを使うのか。もう一度戦争を始めるつもりなのか。鎧塚の考えが読めなかった。

 夜の中に浮かぶ日比谷生命館は、美しくもあったが、不気味さも感じた。

 その日は帰宅し、次の日から、日比谷生命館、GHQなどについて情報を集めた。耳に入るものは知っていることばかり、占領軍の司令官のいる気密情報など、たやすく手に入るものでもない。

 仕事を早退して、夕方から丸の内へ向かった。

 皇居側から日比谷生命館を見上げた。沈む夕日に照らされ、建物は更に美しくそびえていた。太く丸い柱、白い壁面が夕日に照らされ、朱色に輝いていた。窓には、防犯と芸術を両立させた独特な鉄格子が付いている。形容するなら美しい神殿。しかし、今の私には難攻不落の要塞だ。

 余計なことをして捕まったら、七三一部隊のこともばれて、死刑になるかもしれない。瘧狼病研究資料への道が、一歩間違えれば、死刑台につながってしまう。散々道に反することをしておいて身勝手だが、せめて楓の病気を治してから死刑台へと上りたい。

 そうこうしているうちに日は沈み、日比谷生命館は、朱色から青みを帯びた白へと変わっていった。

 建物の通用口から、数人の人間が出てきた。米兵でも日本人の役人でもなさそうだ。清掃関係の業者のようだ。もしかすると、ここが突破口になるかもしれない。後をつけた。

 数名の男性達は、すぐには帰宅せず、皆で飲みに行くようだった。新橋方面へ向かい、途中にある居酒屋へ入った。

 少し逡巡したが、私も店の中へ入った。

 店の中は雑多としており、簡素な卓に、簡素な椅子が並び、酒も料理も大したものは出てこないであろうことは推測出来た。しかし、独特の暖かさがあり、受ける印象は悪いものではなかった。

 客は満席に近かったが、席に着くことは出来た。尾行してきた集団のすぐ隣だった。

 酒とつまみを頼み、運ばれてきたものを口に運んだ。隣の会話が気になり、料理の味もわからなかったし、酒にも酔えなかった。

 隣の集団は、推測通り日比谷生命館の清掃作業員のようだ。話している内容は、仕事の愚痴がほとんどだ。米軍にも日本人の職員にも、嫌な人間はたくさんいるそうだ。私が聞きたい七三一部隊関連の話は出てこない。当然と言えば当然だ。清掃作業員に、そんな話を伝えるはずもない。

 清掃作業員の一人が、便所へと立った。酔いが回っているのか、足元がふらついて、座っている私にぶつかった。その時、男の服から、私の椅子の下に何かが落ちた。私は下を見下ろし、それを拾おうとした。目に入ったものは、入館証だった。これがあれば日比谷生命館に入ることが出来る。しかし、入館証をおとした清掃員も、その仲間も、何か落として、私がそれを拾おうとしていることに気付いている。盗むのは不可能だ。私は、床から拾い上げる少しの間に、入館証を凝視した。これだったら偽造することは出来る。全神経を集中して、表裏、細部に渡り、頭の中に叩き込んだ。

「落ちましたよ」と入館証を手渡すと、笑顔で礼を言われた。

 入館証の偽造はたやすく出来た。後は怪しまれないように平静を装えるかどうかだ。入館者の流れに乗れば、どうにかなるのではないだろうか。GHQが接収している建物への侵入なんて馬鹿げているが、瘧狼病ウィルスを悪用される可能性がある。ただ、待っていることは出来ない。

 入館証を偽造したばかりの時は、謎の使命感に燃えていたが、一晩明けると、冷静になってしまった。こんなことをして、一体何になると言うのだ。私は今、法を犯している。捕まれば、良くて刑務所行き、下手をすれば死刑台、その場で射殺もあり得る。何を血迷ったことをしているのだ。

 少しの間、二の足を踏んでいたが、仕事の休日を利用して、日比谷生命館へ赴いた。地上六階分の高さがある太い円柱は、今日も荘厳だった。

 日比谷生命館を遠巻きにして歩いてみた。歩を進めれば進める程、自分の行動への疑問が大きくなっていった。

 心も足も帰路へと向かおうとした時、日比谷生命館に一台の車が止まった。後部座席のドアが開き、中から人が降りてきた。石井隊長だった。更にもう一人降りた。静沢さんだ。生きていたのだ。車から降りた二人は、建物の中へ入って行く。慌てて追いかけそうになったが、そのまま建物の中へ入れるわけもなかった。

 石井隊長が現れた。どこかで鎧塚が見ている。姿は見えない。しかし、絶対どこかで見ている。そして、瘧狼病を使って、復讐しようとしているのだ。銀行での毒殺事件は、ここで起こす惨劇の予行演習だったのだ。阻止しなければならない。

 偽造した入館証を握り締めて、通用口へ向かった。着ている服も違和感を与えないように、本物の清掃員の出勤時を参考にしてきた。警備員は米兵だ。東洋人の顔は、そこまで見分けがつかかないだろうし、戦争が終わってかなりの時間が経過している。気も緩んでいるはずだ。そう願いながら、偽造した入館証を警備員に見せた。警備員は、険しい顔でにらみつけてきたが、見咎めることもなく、通過することが出来た。

 勢いで建物内に侵入したものの、中の構造がまるでわからない。先走りし過ぎただろうか。

 まごまごしているうちに、後ろから人が入って来た。大きな鞄を持った男だった。納品業者のようだ。私とは目も合わせずに通り過ぎていった。

 先に進むことにした。廊下を進んでいくと、扉に突き当たった。扉に近付くと、向こう側から大勢の人がやってくる気配がした。反射的に隠れる場所を探した。すぐ横に階段があった。地下への階段を足早に駆け下り、向こうからやって来た人達をやり過ごそうと息をひそめた。

 地下一階は照明が薄暗く、華美な装飾もされていなかった。

 上の階の人間をやり過ごすことは出来たのだろうか。地下特有の圧迫感から、早く解放されたかった。

 背後に気配を感じて振り返った。そこには鎧塚が立っていた。

 黒い帽子に黒い服。顔中に白い包帯が巻かれていて、包帯の隙間から見える目だけ、やけに生々しくこちらをにらんでいた。

 金縛りにあったように、体が動かなかった。この男が、罪も無い銀行員達を毒殺したのだ。


「鎧塚。これ以上罪の無い人を巻き添えにするのはよせ」


 鎧塚は、無言のままだった。包帯の隙間からのぞいている目からは、表情が読み取れなかった。

 その時、上の方から声が聞こえた。話し声とか笑い声ではない。叫び声だ。

 私が階段の上を見上げていると、横を鎧塚が通り抜け、階段を駆け上がっていった。

 何が起きているのか理解出来なかったが、私も鎧塚を追って、階段を上がった。

 先程の扉を抜け、一階の広間に出た。広間は建物の外見と同じような造りになっている。西洋風の石造りの壁と柱。天井も高かった。

 米国人も日本人も、慌ただしく動いていたが、動いている彼らも、何が起きているのか、良くわかっていない様子だった。

 どうやら騒ぎのもとは、上の階のようだ。

 中央階段で上の階を目指した。上を見上げると、鎧塚が既に階段を上り切っていた。

 階上からも階下からも、日本語と英語の怒声が飛び交っていた。


「入り口を封鎖しろ。誰も出すな」


 聞き覚えのある声の方を見ると、静沢さんが立っていた。彼も私の存在に気付き、目を丸くしていた。


「何故君がここに?」


 静沢さんの問いに答える前に、二階の大会議室内の光景に目を奪われた。瘧狼病ウィルスに感染した人間が、他の人に襲いかかっていた。感染したのは日本人男性だった。米兵の肩に噛みつき、服の上から肉を食いちぎっている。戦時中、満州で繰り広げられた地獄絵図が、再び始まろうとしていた。

 拳銃を持った米兵が、何が起きたかわからず、引き金を引けずにいた。「撃て」と叫んでみたが、撃つ前に感染者に噛まれた。

 噛まれた拍子に、米兵が拳銃を落とした。私はその拳銃を拾い上げ、妖怪と化した日本人男性を撃った。銃を撃つなんて満州以来だったが、至近距離だったので、日本人感染者の腹に命中した。彼は倒れ、声を上げてのたうち回った後、息絶えた。

 噛まれた二人の米兵は、床に倒れて苦しんでいた。この男達も、すぐに発症してしまう。今のうちに撃たねばならない。銃を向けた。すると、英語で何か怒鳴られた。そちらを見ると、米兵の一人が、こちらに銃を向けている。私が仲間を撃とうとしていると思っているのだ。瘧狼病ウィルスについての知識が無いのだ。訳を説明しようにも、日本語は通じない。私はゆっくりと銃を床に置いた。

 そうこうしているうちに、倒れていた米兵達の肌が青白くなり、血管が浮き出てきた。目も充血し始めている。もうすぐ起き上がり、よだれを垂らしながら、他人を襲い始める。

 静沢さんが、長官らしき人に英語で必死に説明しているが、米国人は、中々理解出来ないようだ。

 私に銃を向けていた米兵が、倒れていた兵士に近付いた。倒れていた兵士は既に発症しており、近付いた兵士の足に噛みついた。悪夢が加速していった。

 混乱した会議室に、石井隊長の姿は無かった。逃げ出したようだ。鎧塚の姿も見えない。

 静沢さんが、感染した米兵を射殺するように説得していたが、長官は部下を殺すことをためらっていた。そうしているうちに、事態は悪化していく。私自身がどうにかしなければいけないのだが、床の銃を手に取って殺されるのは勘弁だ。

 仕方なく、一旦会議室の外に出た。すると、そこで私を更に混乱に陥れる、信じられないものを見た。

 そこには、娘の楓が立っていた。幻覚でも見ているのだろうか。


「お父さん…」


 本物だ。楓も驚いて立ち尽くしていた。ついでに見知った顔の友達も三人いる。

 会議室のドアが内側から開き、感染者が出ようとした。私は外からドアを押し返し、感染者を室内に押し戻した。


「おじさん、今のは?」


「説明は後からする」


 子供達をここにいさせる訳にはいかない。階下を見下ろした。扉も窓もシャッターで閉ざされ、その前には状況をつかみかねている米兵が、緊張した面持ちで待機していた。

 子供達が悲鳴を上げた。後ろから感染者がドアを開けようとしてきたのだ。何とか開かせないようにしたが、感染者の人数も増えている。防ぎ切れない。室内にいる静沢さんや米兵は何をしているのだ。別のドアから逃げたのか。それともやられたのか。

 下の階では、状況を把握していない米兵達がいる。下手に外に出ようとしたら、射殺されるかもしれない。正面玄関は封鎖されているし、通用口も駄目だろう。どうするのだ。

 廊下の向こうに、エレベーターの乗り口が見えた。


「エレベーターに向かって走れ」


 私の怒鳴り声に反応し、子供達はエレベーターに向かって走り出した。

 ドアから出てこようとする感染者に蹴りを入れた。先頭の者が、後ろの感染者を巻き込みながら倒れた。その隙にドアから離れ、エレベーターに走った。廊下の先を見ると、子供達がエレベーターを開けて待っていてくれた。後方から感染者が声を上げながら追いかけてくる。

「早く」、「急いで」、「後ろにいる」、子供達が口々に叫んでいた。

 全速力で走り、エレベーターに乗り込む。箱の中から振り返ると、感染者が数体、こちらへ向かって来ていた。エレベーターのドアが閉まる速度は、心の焦りと反比例して遅く感じた。見る見る姿が大きくなっていく感染者達。間一髪ドアが閉まり、ドアの外側に感染者が衝突する音が響いた。

 エレベーターは、最上階を目指してゆっくり進んでいった。内部には、全員の荒い息遣いが充満していた。

 最上階に到着し、ドアがゆっくり開き始めた。そこに立っている感染者を想像して、身を強張らせたが、エレベーターホールには誰もおらず、静寂が広がっていた。

 私は子供達を促し、廊下を少し進んだ先の部屋の中へ移動した。全員が入ったのを確認してドアを閉める。空気の流れが無くなり、埃臭さが鼻についた。部屋の中には、机や椅子が重ねられていた。物置として使われているようだ。

 子供達は、楓の他に、賢吾君、永劫君、茂人君の三人がいた。いつも遊んでいる友達だ。全員が恐怖で青い顔をしていた。

 泣きべそをかいていた子供達が、幾分落ち着くのを待ってから訊いてみた。


「どうしてこんなところにいるんだ?」


「歌舞伎座の怪人を見てみようって話しになって、ここに来てみたの。そうしたら怪人がこの建物の前で消えたから中に入ったの」


 楓が詰まりながら答えた。ここまでは、電車に無賃乗車して来たそうだ。子供の好奇心と行動力は侮れない。


「しかし、建物の中へはどうやって入ったんだ?」


「枠をくぐって窓から」


 建物の外観を思い出してみた。窓には独特な形の芸術的な鉄格子が付いていた。見た目は美しいのだが、格子の隙間が広めなので、子供だと抜けられてしまうのだ。


「あのお化けみたいな人は何なの?」


「あれは、ウィルスに感染した病気の人だ。お化けではないけど、ある意味お化けより怖い。病気がうつるから、噛みつかれないようにするんだぞ」


 楓とその友達は、理解したのかわからないが、一応納得したようだ。

 下の階から銃声が聞こえ始めた。ようやく発砲許可が下りたようだ。しかし、許可が下りるまでの間に、会議室の外にも感染者は出てしまっていた。駆逐するのは容易なことではないだろう。この階にも感染者が迫っているかもしれない。感染者もろとも米兵に殺される可能性もある。こんな状況では、感染者と非感染者の区別はつくまい。せめて子供達だけでも脱出させたい。しかし、窓のシャッターもしまっているので、鉄格子の隙間を抜けることも出来なくなっている。

 ドアをノックする音がした。


「陰織そこにいるのだろう。俺だ。鎧塚だ。開けてくれ」


 心臓が握り潰されるような恐怖を感じた。何人もの銀行員を殺し、この場に瘧狼病ウィルスを拡散した張本人が、扉の向こうにいるのだ。この扉以外に出口は無い。ここは地上六階。窓から飛び降りることも不可能だ。

 子供達は、扉の向こうの男が何者かわからず、私と扉を交互に見ていた。


「俺は敵ではない。開けてくれ」


「お前が、銀行員を殺し、ここに瘧狼病ウィルスをまいたのだろう。世の中を憎む気持ちもわからなくないが、罪も無い人を巻き込むのは間違えている」


「何を言っている陰織。銀行の事件も、ここで瘧狼病ウィルスを使ったのも俺ではない」


「では、誰の仕業だ」


「多分、銀行もここも石井の仕業だと思うが、証拠はない。とにかく、犯人は俺ではない」


 嘘を言っているようには聞こえなかった。大きく呼吸してから、ゆっくり扉を開けた。

 包帯を顔に巻きつけた鎧塚が現れ、子供達から短い悲鳴が上がった。

 身振りで、子供達に大丈夫だと伝えようとしたが、実物の怪人が登場し、子供達は部屋の隅まで後ずさりして怯えていた。

 鎧塚は、子供達に一瞥をくれて言った。


「何故子供が?」


「私の娘と、その友達だ。歌舞伎座の怪人を追いかけていたら、この建物に入り込んでしまったそうだ」


「歌舞伎座の怪人…? 俺のことか」


 包帯のせいで表情は読み取れなかったが、鎧塚は苦笑いしたようだ。


「申し訳ないが、銀行の毒殺事件も、今回も、鎧塚が犯人だと思っていた。そうでないとしたら、やはり、石井隊長が瘧狼病を使ったのか?」


「満州から帰ってきて、自分なりに調査してきた。石井は俺達を見捨てて飛行機で逃げ出した時、様々な研究資料や、培養された菌を日本に持ち帰った。それは、防疫研究所で保管されていたようだ。保管は部下に任せ、石井自身は、医学界には戻らず、息をひそめていた。戦争犯罪人から逃れる為、偽の葬式まで上げていた。あの時、お前も葬式に行っただろう。陰から見ていた」


 鎧塚に見られていたのか。気付かなかった。


「結局、七三一部隊のことは、GHQの知るところとなり、石井と静沢が呼び出されて、尋問されているのだ。今日はそれの何回目かだった。それがこんなことになるとは。こんなことをしても、石井には何の得も無いはずだ。石井なりの自殺の仕方なのかもしれない」


 石井隊長が自殺するとは思えない。彼だったら、生き延びる道を選びそうな気がするが、それが出来ない程に、追い詰められているのだろうか。もしそうなら、ここを生き延びても、私も死刑台行きは免れそうもない。

 私と鎧塚が話している後ろで、子供達が言い争いを始めた。


「賢吾が悪いんだ。怪人を探しに行こうなんて言うから」


「茂人だって乗り気だっただろう」


 罪のなすりつけ合いが始まっていた。


「こら。こんなところで喧嘩するな」


 割って入って、子供達をなだめた。

 子供達の気持ちもわからなくないが、正直怒りを覚えた。好奇心にかられてこんなところに入り込み、事態をより困難なものにしている。そして、つまらない小競り合いまで。爆発しそうな感情を飲み下し、努めて冷静に言った。


「大丈夫だ。必ず家に帰れる」


 楓は今にも不安に押し潰されそうな顔をしていた。他の子と平等性を欠くとは思ったが、楓を抱きしめた。楓もしがみついてきた。まだ小さく温かかった。

 賢吾君と永劫君は、少し落ち着いたようだが、茂人君は、まだ自分に非は無いなどとつぶやいていた。

 大丈夫だと言ったものの、脱出の具体案は無かった。助けが欲しくて、鎧塚の顔を見た。


「地下の機械室の抜け穴から逃げよう。俺が作った抜け穴だ。下水道につながっている」


「そんなもの作ったのか。すごいな」


「何年か前から掘り進めていた。GHQが七三一部隊の存在に気付いて、石井を追っているという情報はつかんでいた。だから、自分でも石井を追いつつ、ここで待ち受ける準備もしていた。予想通り、奴が現れた。あの時の復讐はさせてもらう」


 余程怨みが深いのだろう。物凄い執念だ。この力を別の方へ向けていたら、大きな業績を残していたかもしれない。性格はともかく、頭脳も運動能力も優れた男だった。


「お前と奥さんには世話になった。礼はする」


 そう言えば、満州からの引き揚げの際、傷付いた鎧塚を、希代と二人で看病した。そのことを覚えていてくれたのだ。

 我々は、部屋から出て地下を目指すことにした。

 エレベーターホールに向かうのかと思ったが、鎧塚は何か気にかかっているようだ。


「司令官室に、誰かがいるようだ」


 司令官と思われる男なら、先程二階の会議室にいて、静沢に説得されていた。あんな騒ぎが起きているのに、自室に戻るなんて考え辛い。感染者か。

 鎧塚の目つきが鋭くなって、殺意に燃えていた。司令官室の中にいるのは、石井四郎隊長なのか。

 私自身は、脱出を優先したかったが、鎧塚を止めることは出来なかった。

 鎧塚が、司令官室のドアを開けた。私と子供達も、後ろから部屋の中をのぞき込んだ。

 部屋は、皇居がある西側に大きな窓があり、その窓を背に執務机が置かれていた。その机の椅子に、一人の男が着席していた。

 GHQ司令官リッジウェイでも、石井四郎隊長でも、感染者でもなかった。七三一部隊で、共に瘧狼病の研究をした、早乙女だった。


「何故、早乙女がここに?」


 早乙女は、窓を背に、少し口元に笑みを浮かべているようにも見えた。その目は、我々を見ている様な、別のものを見ているような、焦点の定まらない目をしていた。


「何故僕がここにいるか? そんなわかり切ったことを訊かないでくれ。僕がここにいるのは、世界を浄化する為だよ。この汚れきった世界を浄化する為だ。満州の七三一部隊研究所にいる時から、ずっと考えていたよ。僕が存在する理由を。何故進みたくもない医学の道に進み、何故日本を離れて細菌兵器の研究などしているのか。考えて考えて、ある時気付いた。それは、この汚れきった世界を浄化する為なのだ。陰織、鎧塚、君達も浄化の使命を担った者なのだ。石井隊長も静沢さんも来ている。仲間はそろった。今日はその日なのだ」


 七三一部隊にいて、精神に異常をきたしてしまう者は多かった。私もかなり蝕まれていた。早乙女は、完全にあちら側へ行ってしまったのだ。


「満州から持ち出され、防疫研究所に保管されていた瘧狼病ウィルスを盗み出した。そして、現時点での日本の中枢へばら撒いてやった。お前らと共に人体実験して作り上げた瘧狼病ウィルスをな。後は、外へと続く扉を開放し、終末を解き放つだけだ」


 早乙女が椅子から立ち上がり、机に隠されていた胴体が見えるようになった。胸や腹に、いくつもの手榴弾がくくり付けてあった。


「逃げろ!」


 子供達と共に、室外に逃げ出した。エレベーターホールまで走り、呼び出しボタンを押す。反応しない。エレベーターを停止させているのだ。感染拡大を防ぐ為には当然の処置だが、我々にとっては痛い処遇だ。仕方なく非常階段を使うことにした。

 金属製の扉を開け、薄暗く狭い階段を駆け下りた。鎧塚が先頭、中に子供達をはさみ、私が最後尾につけた。早乙女が追ってくる気配はない。それでも焦りで足がもつれそうになった。

 子供達は、恐怖に急かされながらも、身軽に階段を下りていった。大人の私より速い程だった。

 そろそろ二階に差し掛かろうという時、金属の扉に何かぶつかる音が響いた。

 蝶番が壊れ、扉が半開きになり、感染者が顔をのぞかせた。真っ赤に充血し殺意に満ちた目、口からはよだれと唸り声を発していた。

 鎧塚が素早く扉を押さえ、感染者の侵入を食い止めた。

 子供達の悲鳴が非常階段に反響し、耳をつんざいた。


「先に行け」


 尻込みしていたが、子供達は扉を押さえる鎧塚の後ろを通り、階段を下り始めた。

 私は扉の隙間から感染者に蹴りを入れ、鎧塚と共に扉を閉じた。そして、子供達を追って、階段を駆け下りた。

 二階から一階にかけては、銃声、悲鳴、怒号が非常階段まで聞こえてきた。硝煙と死臭も漂ってくる。まだ戦いは続いているのだ。

 地下一階に到着し、扉を開けて廊下へと出た。薄暗く、低い天井の地下の中を、機械室目指して進んだ。地下特有の圧迫感が、感染者襲来の恐怖を助長させたが、運良く遭遇しなかった。

 どうやって手に入れたのかはわからないが、鎧塚が機械室の鍵を持っており、扉を開けた。

 中は埃臭く、寿命が近い蛍光灯は、人の顔色を土気色に変えていた。機械が動く音も、止まない風音の様に耳障りだった。感染者が潜んでいるには、お似合いの場所だった。

 鎧塚は、機械室の奥へと我々を導いた。そして、壁の前で立ち止まり、手を当てて何か操作した。すると、コンクリートの壁の一部が外れた。開いたところには、なんとか人が一人通り抜けることが出来そうな穴が現れた。


「凄いな。本当にお前が作ったのか?」


「俺は歌舞伎座の怪人。東京の地下は俺の庭だ」


 鎧塚が不敵に笑った。


「鎧塚、すまないが子供達を安全な場所まで連れて行ってくれ。俺は戻って早乙女を止める。瘧狼病ウィルス開発は俺の責任だ」


 包帯の奥の目が、無言で私を見ていた。


「早乙女は、手榴弾を爆発させ、シャッターを吹き飛ばすつもりだろう。そうなったら、感染者が外に出てしまう。東京のど真ん中に、感染者が解き放たれるのは、何としても止めなければならない」


「わかった。ただ、石井は殺すなよ。奴は俺が殺す」


 私はうなずいた。そして、しゃがみこんで楓と向かい合った。目に涙を浮かべ、怯えた顔でこちらを見上げていた。


「大丈夫だ。この人と一緒に行け。お父さんは後から行く」


 楓は嫌だと言ってしがみついてきた。まだこんなに小さいのに、こんなに過酷な状況に置かれているのだ。無理もない。しかし、ここで時間を食っていたら、早乙女はパンドラの箱を開いてしまう。

 賢吾君が、楓の肩に手を置いた。


「行こう。楓は、俺が守るから」


 ひょうきん者という印象だった賢吾君が、凛々しい面を見せた。やせ我慢だということはわかるが、見直した。

 楓は私から離れ、穴へと向かった。

 鎧塚が穴の中へ消え、茂人君、永劫君と続いた。

 楓はこちらに振り向き、動きを止めた。私と一緒にいたいのだ。私だって一緒にいたい。

 賢吾君に促され、楓は穴の中へ消えた。最後に賢吾君が穴へ入った。

 全員の背中を見送って、私は壁の穴を塞いだ。そして、機械室の扉へ向かった。

 早乙女を止め、ウィルスが広まるのを阻止しなければならない。しかし、どうする。どうやって早乙女を止めるのだ。下手に近付いたら、手榴弾のピンを抜くだろう。早乙女の様子を見る限り、話せばわかるとか、そういう次元ではない。

 階段を上り、一階の広間に出た。何体もの感染者の死体が転がっており、硝煙と血の臭いが広がっていた。

 そして、広間の真ん中には、体中に手榴弾をくくり付けた早乙女が立っていた。

 米兵達が、拳銃を構え、早乙女に狙いを定めていたが、撃ちたくても撃てない様子だった。少しでも弾が逸れたら、手榴弾が爆発してしまうのだ。

 責任を感じて戻って来たが、どうやって事態を収束すれば良いのか。途方に暮れてしまった。

 足元を見れば、死体の間に拳銃が落ちている。しかし、私の腕でこの距離から早乙女の頭を撃ち抜くのは不可能だ。

 感染者を上手く誘導して早乙女を襲わせることは出来ないだろうか。手榴弾が爆発しても、感染者の体で、爆風を防げるかもしれない。いや、そんなことは無理だ。机上の空論以下の妄想に過ぎない。

 爆弾の爆風は、上と横にいくはずだ。上の階に早乙女をおびき寄せ、そこで爆発させれば良いのではないか。この頑丈な建物が崩壊することはないはずだ。それならば一階の扉から感染者が出ていくこともないだろう。壁の破片やガラスが、下に集まった野次馬に降り注ぐことになるが、的確に避難させれば、被害は少なくて済むはずだ。しかし、早乙女をどうやっておびき寄せるのだ。話し合いが通じる相手でもない。どうすれば良いのだ。

 悩んでいる私の目に、一つの事象が映った。私はゆっくりと動き出した。

 何やら不可解なことをわめき立てる早乙女。それに銃を向けて固まっている米兵達。その張り詰めた空気を壊さぬように、ゆっくりと一歩ずつ足を進めた。

 視界に進み出てきた私に向かって、米兵達の銃口が向けられた。渇いた口元から、つたない英語で、撃たないでくれという言葉を発した。同時に手の平を向けて、射撃を制しようとする。銃弾は飛んでこなかった。

 私は、米兵と早乙女のちょうど中間地点に立った。


「陰織創輝。我が同朋」


 早乙女の目は、生々しいのに人形を思わせた。意思がこもっているような、ただの空洞のような。


「満州にいた頃から、ずっと考えていた。ここにいる意味を、存在する意味を、人の体を使って実験する意味を。私の役目は、日本を戦争に勝たすという、小さなものではない。人類を浄化するのだ。堕落した人間を浄化するのだ。この扉を開き、終末を開放しなければならない」


 戦時中で一般的な倫理観が通用しない状況とはいえ、七三一部隊の所業は度を越していた。その中で早乙女の精神は病んでいってしまったのだ。私も、希代の存在が無ければ、こうなっていたかもしれない。早乙女の瞳を見つめていると、鏡を見ている気分になった。


「早乙女、これが神の意思なのか。我々が満州で行ったことは、神の意思なのか。堕落した人間を、お互いに殺し合わせるのが、神の意思なのか。私にはわからない。例え、この扉を開き災いを広めるのが神の意思なら、私は神の意志に背く悪魔となる」


 私の言葉に、早乙女が目をむいた。手榴弾を炸裂させる気だ。しかし、悪魔の爪はそこまで迫っていた。私が、先程見た事象は、手に注射器を持った静沢さんだった。靴を脱ぎ、靴下だけになっていた。足音を消す為だ。私に目で合図をしてきた。注意を逸らせと。私は早乙女の前に進み、視線が静沢さんの方へと向かぬよう早乙女の意識を誘導した。同時に、両手を広げ、米兵の視線から静沢さんの存在を悟られないようにもした。短い時間の中、色々と思考を巡らせたが、結局単純な作戦を選択することになった。

 これまでに何人もの人間に針を刺してきた静沢さんが、早乙女の背後に立っていた。黒い背広を着て注射器を構える冷酷な姿は、悪魔と形容するのが相応しかった。

 静沢さんが、逆手に持った注射器を、表情も変えずに早乙女の首に突き立て、中の液体を注ぎ込んだ。

 早乙女は大きく目を見開き、短く声を上げ、手榴弾のピンを引き抜く間も無く、前のめりに倒れ、絶命した。何が起きたのかさえわからなかっただろう。

 一階の広間は静寂に包まれた。早乙女の遺体を見下ろしていると、安堵と共に、悲しみが沸き上がってきた。私は医者なのに、人を殺してばかりいる。

 いつの間にか、石井隊長が現れ、早乙女の遺体を見つめていた。隊長の姿を見ても、怒りは込み上げてこなかった。悲しみが勝ってしまったのだろうか。

 米兵が拳銃を構えたまま倒れた早乙女に近付き、手榴弾を回収していた。

 静沢さんが、司令官と話し合い、米兵が建物の中に散った。残った感染者掃討が始まったのだ。

 楓のことを思い出し、建物の外に出してくれるように頼んだが、当然のごとく拘束された。

 感染者を射殺する銃声が響く中、一階警備室内で話し合いが設けられた。その場にいたのは、石井隊長、静沢さん、私、リッジウェイ司令官他、米国人数名だった。基本的には、静沢さんと、リッジウェイの話し合いが中心に、その場は進んだ。米国人の一人は、日本語もわかる男で、通訳の役割を担っていたのだが、静沢さんはリッジウェイと直接英語で会話していた。

 いくら弁明したところで、七三一部隊の行いが知れれば、極刑は免れない。しかし、死ぬのなら、楓に一目会って死にたかった。

 石井隊長を横目で見ると、かつての狂気じみた勢いは面影も無く、諦めた表情でこちらを見つめ返してきた。石井隊長も私同様観念しているようだ。

 それでも静沢さんの熱弁は続いた。私の拙い英語力でも、静沢さんの言っていることは何となくわかった。七三一部隊が生み出した、細菌兵器の威力、その有用性を伝えようとしているのだ。そして、それが、ソ連などの東側諸国に伝わった場合の危険性も。

 リッジウェイ達も思慮していた。瘧狼病ウィルスの恐ろしさを目の当りにした直後なら、静沢さんの言葉に心が揺さぶられて当然だ。

 七三一部隊が戦時中に行ったことは、明らかに戦争犯罪で、断罪に値する。しかし、戦争犯罪人として裁判にかければ、研究資料も証拠として提出され、東側諸国の知るところとなる。

 正義をとるか、国益をとるか、リッジウェイ達も迷っていた。

 静沢さんの熱弁は更に続いた。ここで目先の小さな正義感に流されれば、アメリカは、大きな損失を被ることになると断言していた。

 それからもしばらく討論は続き、長時間に渡った話し合いは終わりを告げた。

 研究内容を全て米国に渡し、これからも細菌兵器の研究に協力することで、戦争犯罪人として裁かれることは免除されることとなった。こぼれ落ちたはずの命が、また戻ってきた。

 席を立ち、室外へと出た。足が地面についていない、雲の上を歩いているような感覚だった。

 感染者は、全員始末されたようだが、日比谷生命館の封鎖は続けられることになった。

 感染者に噛まれた傷がないか、銃を持った兵士に、裸にされ、体中調べられた。

 ようやく外に出た時には、次の日の朝だった。太陽を見たら、命を拾った実感が沸いてきた。

 集まっていたであろう野次馬は、いなくなっており、米兵と警官が、にらみを利かせて立っているだけだった。

 三人で顔を見合わせた。笑顔はなく、中々言葉も出てこなかった。


「生き延びた」


 必死の交渉により、げっそりとやつれた静沢さんがつぶやいた。

 私と石井隊長は、無言でうなずいた。

 これからのことを話す元気はなく、今日は別れることにした。二人は車に乗り込み、どこかへ消えていった。私は、一人でふらふらと歩き、東京駅の前まで来た。

 行幸通りの上に立ち、皇居を背に、東京駅を眺めた。昇りゆく太陽の下で、レンガ造りの東京駅が、私を見下ろしていた。

 鎧塚や楓達が無事に脱出出来ていたら、この辺りから出てくると聞いたが、私にはわからなかった。楓達が無事に帰宅していることを祈りながら、家路に着いた。

 疲労困憊の体で、どうにか家にたどり着いた。そこには、義父に付き添われ、涙が枯れ果ててしまった楓が待っていた。

 楓を抱きしめた。温かかった。生きて帰ってきたのだ。最愛の娘を失わずに済んだのだ。心の底から安堵した。楓は私の胸の中で、ただ身を任せていた。しがみついてくることもなく、魂が抜けてしまったかのようだった。

 友達三人の家を回って確認したところ、賢吾君、永劫君、茂人君、三人共無事帰宅していた。三人共、怒られると思って、日比谷生命館に忍び込んだことは黙っていた。鎧塚は、下水道から脱出した後、東京駅付近で四人をタクシーに乗せ、どこかへ消えたようだ。

 少年達には、今回の出来事を他言してはいけないと念を押しておいた。他言したところで、誰も信じないだろうが。

 日比谷生命館は、一ヶ月封鎖の後、何事も無かったかのように、GHQ本部として再開した。

 楓は、笑うことが少なくなり、ふさぎがちになった。希代が死んだ時も、ふさぎ込んだが、しばらくすると元に戻った。しかし、今回は中々戻らなかった。無理もない。妖怪の様な姿の感染者が襲ってきたのだ。小さな子供が受け止めるには、あまりに重すぎる光景だった。楓の不安定な心を支えたいとは思うものの、私の体は一つしかなく、一日は二十四時間しかなかった。医師として患者の治療もあったし、楓の治療法の研究もあった。楓の未来の為、楓の現在とは向き合えなくなっていた。楓の世話は、義父とお手伝いさんに頼むことが多くなった。たまの休みの時、共に時間を過ごしても、楓が笑顔を見せることはなかった。私の思いとは裏腹に、楓との距離は遠くなっていくばかりだった。希代がいてくれたら。そんな情けない愚痴を、何とか飲み込んだ。

 笑顔が無くなった楓とも、賢吾君、永劫君は、変わらずに遊んでくれていた。楓に友達がいる。普通に考えれば当たり前のことだが、私には、心の底から喜ばしいことだった。

 瘧狼病の研究資料は、米軍に一時没収されたが、研究経過を報告することで、返却され、研究を続ける許可も得た。静沢を通じて米国から雀の涙ほどの研究資金を渡されたが、満州時代とは比べるべくも無かった。そして、研究の性質上助手を雇うことも難しかった。資金も人手も足りなかった。時間は刻々と過ぎてゆく、楓の発症まで時間があるとはいえ、焦りと自分へと失望感が募った。

 数年が過ぎ、楓もかなり大きくなった。自分の子供だから当然可愛いと感じるが、他人から見ても美しく成長していることだろう。

 仕事が終わり、自宅へ帰った。楓がいたので、「ただいま」と言うと、「おかえりなさい」と返ってきた。


「お父さん」


 いつもほとんど会話の無い楓から急に呼びかけられ、返事が少し遅れた。


「どうかしたか」


 楓が少し溜めてから言葉を発した。


「お父さんは、戦争中、人体実験したの?」


 自分から告白したことなど無かった。日比谷生命館での事件の時、早乙女が口走った言葉を、幼いながらに理解していたのだ。

 私を見る目が冷たかった。

 楓がふさぎ込んでいたのは、希代の死も、日比谷生命館での出来事も、自分自身の病気も要因に挙げられるだろう。しかし、一番の要因は、私が七三一部隊で人体実験したことを嫌悪し、蔑んでいたのだ。


「ああ、したよ」


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