第5話 現代 至嶋時積
貫井真治の手記を読み終えた。明治でも大正でも、同じ悲しみが繰り返された。気分が重くなる。目の前で、最愛の人が変貌していく様を見るのは、絶望という言葉でも足りないのではないだろうか。僕は、それに耐えることが出来るのか。
一度は、香沙音を捜し出し、受け止めることを決めたのに、弱気で無責任な自分が鎌首をもたげてくる。思考回路は、香沙音の行方ではなく、都合の良い言い訳を探索し始める。楽な方へと逃げようとする自分を、香沙音への想いが押し留めた。香沙音ことが好きだ。それは確かだ。
思えば香沙音の友達に会ったことはないし、話題に上ったこともない。冗談めかして友達がいないと言っていたが、本当にいなかったのではないだろうか。病気のことが知れて、孤立していたのかもしれない。もしくは、自分から殻に閉じこもっていたのだろうか。香沙音は、こちらには笑顔を向けて、背中はずっと孤独の風に吹かれていたのだ。
心が揺らいだ自分を恥じた。香沙音は僕を必要としている。僕が背中まで包み込むのだ。
僕の気持ちを察することなく、戻ってきた咲田さんが明るい声で言った。
「これとは他に、関東大震災の映像も残していますけど、それは上の展示室で観られますから」
勒賢が手記を読み終えるのを待って、フィルムセンターを後にした。
「超能力者に百発百中を求めるのも無理な話だ。野球のバッターなんて三割打てば優秀なのにおかしいだろう」
「比べるもの間違えているだろう」
「それはそうなのだが、アメリカに実在した超能力機関の代表的人物は、透視の正答率は七十五パーセントだったそうだ。衆人環視の中、一回失敗したからといって偽物と決めつけるのはおかしい」
気まずい空気を紛らわせようと、勒賢はわざと本題からずれた話をした。
僕は勒賢の心遣いを有難く思いつつも適当に受け流し、僕と香沙音が初めて会った場所に足を向けた。ここからならばすぐに行ける。
僕らは日本橋の上に立った。僕と香沙音が初めて会った場所だ。
中学が終わりの頃だった。進学先も決まり、早めの春休みに入った。
時間を持て余した僕は、秋葉原へ向かうことにした。
電車代を節約して、自転車で向かった。春と言っても良い時期なのにやけに寒い日だった。片道二十キロもない。一時間程度で到着した。
自転車置き場に駐輪し、目的地へと向かおうとすると、突然足元が揺れ始めた。自分だけがおかしいのかと思ったが、まわりの人にも異変が訪れていた。口々に「地震だ」「これは大きい」とか言っている。建物も身を震わせて、音を立てていた。
大きめの地震は、しばらくすると収まった。建物の中では、物が倒れたりしたようだが、目につく範囲では怪我人はいなさそうだった。葉羽の家も、せいぜい棚の物が落ちた程度だろう。僕は買い物を続けることにした。
電車が止まったとか、震源は東北地方だとか話す声が聞こえてきたが、気に留めなかった。
買い物を終え、店の外に出ると、道路は人であふれ返っていた。電車が動かず、駅から出てきた人達の群れだった。
いつもと違う光景を見て、ようやく非常事態だと認識した。
携帯電話から家にかけてみたが、つながらなかった。母にメールを送ってみるが、返信がこない。急に不安が押し寄せてきた。
早まる鼓動を聞きながら、自転車置き場へ行き、自分の自転車を確認すると、少し安心した。
歩道は駅から出てきた人であふれ、車道も渋滞が始まっていた。自転車にまたがってもこぐことが出来ず、引きながらゆっくり進んだ。
海外では、災害が発生すると、暴動や略奪が起きたりする。そんなものに巻き込まれたらたまったものではない。
大人達の顔色を伺いながら、自転車をこぎ出すタイミングを見計らっていると、日本橋の上に差しかかった。
人の流れに沿うことなく、橋の手すり付近にたたずむ一人の少女が目に止まった。少女もこちらを見ていて、目が合った。
年は僕と同じくらいだろうか、肌の白い美しい少女だった。
何故だか目が離せなくなり、通行を妨害していることさえ忘れ、立ち止まっていた。僕の心は、地震より大きく揺れていた。
「出会ってしまったね」
そう言って、女の子は寂しげに笑った。
言っている意味も、笑顔のわけもわからなかったが、僕は、とりあえずうなずいた。
女の子の名前は、陰織香沙音といった。
電車が止まって帰宅できなくなった香沙音を家まで送ることにした。僕は自転車の後ろに香沙音を乗せ、車道の端を走った。
歩道は人であふれ、車道は自動車が立ち往生している。日が暮れて、いつもの帰宅時間になると、それに拍車がかかった。
全く動かない車の窓から、運転者達が疲れた視線を向けてきた。
香沙音の家がある世田谷は、結構な距離があり、途中何度か休憩した。自動販売機の温かい飲料を口にしながら耳する周囲の会話は、不安を煽るものが多かった。
何を信じて良いのかわからなかったが、否定的な情報を耳にするほど、香沙音を家まで送り届けなければならないという使命感が湧き上がってきた。
非常事態の中、可愛い女の子を後ろに乗せ自転車を走らせている。不謹慎ながら心が躍った。
長い時間自転車をこぎ、香沙音を家まで着いた。長い旅から解放されるはずなのに、この時間が終わるのが悲しかった。
どうにかして次に会う口実が欲しかったが、何と切り出せば良いのかわからなかった。
「地震、雷、火事、親父って言うから、次は雷の時に会おう」
我ながら変なことを言ってしまった。
「早く雷が来るように、へそを出して寝るよ」
そう言って香沙音は笑った。
そこから細々と交際は続き、突然香沙音が消えた。
初めて出会った日本橋の上を見渡してみる。残念ながら、あの日とは違い、ここに香沙音はいなかった。だが、断線していた記憶回路がつながっていくのを感じた。
貫井真治と陰織仁枝の日本橋での出会いは、初対面ではなく再会だった。僕と香沙音も、初対面ではなく、再会だったのではないだろうか。真治と仁枝は一緒にハレー彗星を見ていた。僕と香沙音は、一緒に何を見ていたのだ。
「青い鳥探索の時、お前いなかったと言っていたよな」
「ああ、そんな記憶はない」
あの時、横にいたのは、勒賢ではなかった。
香沙音の居場所は、ずっと前から自分の中にあった。
震災の時、日本橋の上での香沙音の目を思い出す。帰宅難民であふれる中、香沙音は僕だけを見ていた。あの人数の中から、成長し変わってしまった僕を探し当てたのだ。
「わかったのか?」
勒賢の問いかけに、無言でうなずき、走ってきたタクシーを止めた。勒賢と共に車内に乗り込み、行先を告げる。
「そこなのか…」
行先を聞いて、勒賢がつぶやいた。
タクシーは、東京の街を西に抜け、僕らの故郷笹架市葉羽に入った。
運転手にとめてもらい、見慣れた街並みに降り立った。
街中にある、古ぼけたビルを下から見上げた。
「ここで待っていてくれ」
勒賢を残し、僕は鉄条網をくぐり、敷地の中に入った。住宅街の中に、朽ちかけた姿をさらす雑居ビル。もう誰も使用しておらず、取り壊されるのを待っている。
エントランスへと続く一階の扉は開いていた。建物の中は暗く、陰うつな空気が充満していた。
圧迫感のある階段を上り、屋上に出ると、青空が広がり、その中に香沙音が立っていた。
「思い出した?」
僕はゆっくりうなずいた。
香沙音は、世田谷の祖父母の家に引き取られる前、笹架市葉羽に住んでいた。僕達は、そこで出会っていた。香沙音の居場所は、僕の中にあったのだ。
「青い鳥探したこと忘れていたでしょう。私は覚えていた。地震の時、日本橋で時積を見た時、一目でわかった」
申し訳なくて、答えられなかった。
「お母さんが死んで、お父さんもいなくなって、賢吾おじいちゃんも入院して、寂しくて、悲しくて、本当に心細かった。世田谷のおじいちゃんの家に引き取られるのも、本当は嫌だった。それに、私もお母さんみたいになって死ぬことも、子供心にわかっていた。もう、消えてなくなりたかった」
子供時代の僕は、初めて出会った女の子が、そんなに悩んでいるなんて、全く気付かなかった。
「離れることが決まった街で、最後に青い鳥を探したこと、私にとっては、かけがえのない思い出なの」
不幸とは縁遠かった幼少期の僕には、片隅に追いやられ形すら曖昧になった数ある思い出の一つだった。
「国立近代美術館にある、貫井真治の手記は読んだ?」
僕はうなずいた。
「多分、時積もあれにたどり着くと思っていた。私達、真治と仁枝みたいだね。子供の時出会っていて、大人になって日本橋の上で再会した。男の方は忘れていて、女の方は覚えていたのも一緒」
香沙音は、寂しげに口元だけほころばせた。
いつも儚げだった香沙音の線は、前にも増してまわりの景色との境界が曖昧で、屋上の外側へ吸い込まれてしまいそうだった。
「お母さんは、変わってしまう間際に私に言った。子供を産んで、命をつなげなさいって。とんでもない病気持っているのに、良くそんなに無責任なこと言えたものだわ。この呪われた遺伝子は、私の代で終わりにする」
インターネットの検索履歴に残された「自殺」の文字と、香沙音の言葉がつながった。恐れていた事態が、現実の事象として目の前で起ころうとしている。
「待ってくれ。もう、次につながったのだろう。もう、子供いるのだろう」
僕の言葉に、香沙音は目を見開き、ゆっくりと目を伏せた。
「ごめん。ごみ箱ひっくり返してしまって、中の妊娠検査薬を見てしまった」
気まずい沈黙の後、香沙音が静かに口を開いた。
「子供は作らないつもりだったのに、気が緩んでいたわ。胃腸炎になった時、避妊薬も戻してしまったみたい…。時積の子供が、お腹の中にいる」
僕が歩み寄ろうとすると、香沙音は後ずさりした。このビルの屋上には高い柵がない。香沙音がその気になれば、僕が駆け寄るより速く、宙に舞うことが出来る。
「ごめんね。この子はあなたの子でもあるけど、生まれるべきじゃない。もう百年以上、私の一族は妖怪の様な姿になって死んできた。努力しても駄目なものは駄目なの。病気でも呪いでもどっちでもいい。とにかく私達は苦しんで死ぬ。だから、ここで終わりにするの」
上手く言葉を選ばなければ、香沙音を失ってしまう。だが、考えている時間もない。
「国立近代美術館に残されていた、仁枝さんの映像を見たよ。幸せそうな良い笑顔をしていた。辛いだけの人生なら、あんな笑顔は出来ないよ」
香沙音は、今にも青い空に溶け込んで、落ちていってしまいそうだった。あの日の、青い鳥のように。
あの日、僕らは、青い鳥を追いかけて、ビルの屋上へ上った。屋上で待っていたのは、金持ちの家から逃げ出した孔雀だった。僕らの前で、孔雀は華麗に装飾された羽根を広げた。宝石を散りばめた扇のようだった。
後から聞いた話によれば、孔雀は逃げ出さないように、羽根に細工され飛べなくなっていたらしい。それでも歩いて脱走し、歩いて階段を上り、屋上へたどり着いた。そして、僕らの目の前で、空へ向かって飛び立とうとした。
香沙音が、あの日の青い鳥のように、飛び立とうとしている。あの日、僕は青い鳥を捕まえようとしていたのだろうか。ただ、見ていたのだろうか。青い鳥は、もがくように羽ばたいて、落ちていった。
「病気のことを知っても、香沙音のことが好きな気持ちは変わらない。一緒にいよう」
少しでも風が吹いたら、香沙音は飛ばされて、落ちてしまいそうなくらい、か細く見えた。
にじり寄るように、少しずつ香沙音に近付いていった。風を起こしたら、良くないことが起きそうで、空気を乱さぬよう、ゆっくりと静かに進んだ。
「今はそうでも私が妖怪になった姿を見たら気持ちが変わるわ。お父さんはお母さんの変わり果てた姿を見て、私を捨てて出ていった。絶対に帰ってくると言っていたのに、結局帰ってこなかった」
僕をみつめる目から、涙が一粒流れた。涙は頬を伝い、宙に舞った。ゆっくりゆっくり落ちていき。コンクリートにぶつかり砕け散った。
「あなたにはわからないでしょう。理不尽な苦しみを与えられる気持ちが。どんなに頑張っても、悲惨な死が待っている気持ちが」
「香沙音。お前の苦しみがわかるなんて言えない。俺には、病気は治せない。呪いも解けない。でも、珠江さんも、仁枝さんも、不幸せなだけの人生ではなかったはずだ。悲惨な結末でも、そこまでに幸せはあったはずだ。香沙音にも、お腹の子供にも、幸せだったと言わせるから、死なないでくれ」
言いながら、自分でも無責任だと思った。僕は医者でも霊媒師でもない。香沙音の不幸な死を覆すことは出来ない。でも、生きていて欲しい。
「結末を変えることは出来ないかもしれない。でも、それまでの過程は、幸せな人生にする。結末以外は、ずっと幸せだったと言わせてみせる」
香沙音の目に、暖かさが灯った。
僕は香沙音に手が届く場所まで来ていた。
静かに手を伸ばし、優しく香沙音の手をつかんだ。涙に濡れた目に、僕がうつっていた。
「二人で、いや、三人で一緒に暮らそう」
香沙音が、胸の中に入ってきた。僕は、香沙音が孤独の風にさらされないよう、強く抱き締めた。
「時積。青い鳥がどうなったか覚えている?」
「うん。思い出した」
あの日、僕達は、廃ビルの階段を慌てて駆け下りた。地上に降りてみると、僕達のことなど気にすることなく、青い鳥は、悠然と地面を歩いていた。
僕と香沙音は結婚した。
僕は葉羽の実家を出て、香沙音と二人で家を建てた。陰織家の土地と財産を使うのは、少し恥ずかしくもあったが、僕の収入が増えるのを待つ時間はなかった。
最初は、旅行に出て、ホテルにでも泊まっているような気分だったが、すぐに慣れた。
朝起きて、香沙音の作った朝食を摂り、仕事へ行く。仕事が終わって帰宅し、一緒に食事をする。休日は近場へ出かけたり、家でのんびり過ごしたりした。とにかく平凡な毎日がった。終わりがくるのがわかっているからか、その平凡さがとても幸せだった。
香沙音の病気を治す為に何かをしなくては、という衝動に駆られる時もあったが、そばにいて欲しいという香沙音の願いを聞き入れ、穏やかな日常を送った。
変化が感じられないような生活だったが、香沙音のお腹は少しずつ大きくなっていった。この子が誕生するとき、大きな変化が訪れるのだろう。
子供の名前を考えた。女の子の名だ。二人で候補を出し合うのは、楽しい作業だった。
ある晴れた朝、その日が来た。
子供が生まれた。女の子だった。名前は
希由美は、気分のままに乳を飲み、泣き、笑い、便をする。全く自分勝手な生物だった。
「妖怪になる前に死にそう」寝不足の疲れ切った顔で、香沙音は苦笑していた。
先祖たちは、様々な事件や問題と戦いつつ、子育てとも戦ってきたのだ。
希由美は、元気に成長した。運動も会話も、他の子供より達者なくらいだった。
ある日、香沙音が美容室に行くというので、希由美の世話をすることになった。行きたいところはあるかと尋ねると、有名スイーツ店のパフェが食べたいと言うので、連れて行くことにした。近所のファミレスでも変わらないと思うが、違うらしい。
出かけようとしたら、勒賢から連絡があり、一緒に出かけることになった。
「希由美ちゃん。相変わらずおきゃんな子だな」
「おきゃんって何?」
「俺も良くわからないけど、使ってみたよ」
勒賢と希由美が笑い合っていた。二人は前から仲良しだった。
勒賢に、銀座の有名スイーツ店へ向かうことを告げると、「ザギンでフェーパーか、セレブだな」と言って笑った。希由美も「ザギンでフェーパー」と言って喜んでいた。
東京駅で降りて、少し歩くことにした。丸の内口から皇居方面に出た。
丸の内口そばのビルに、大型スポーツジムが出来ていた。ウェイトトレーニング施設はもちろん、マッサージ、シアタールーム、ダイビング練習プール、屋内テニスコートまであるという。会費は高めだが、会員数は多いという話だ。
食事をとることに精一杯の人もいれば、とった食事を消費することに多額の金を払う人もいる。格差は進むばかりだ。
少し歩いてから振り返り、駅庁舎を眺めてみた。東京駅の観光地化を狙ってか、夜になると、プロジェクションマッピングで、駅庁舎に江戸・東京の歴史が映し出される。一時ほどではないが、かなりの賑わいを見せているようだ。一度観てみたいものだ。
「前に読んだ貫井真治の手記覚えているか? あれに出てくる憲兵隊司令部は、現在の住所だと丸の内一丁目にあたるらしい。多分あのあたりだ」
勒賢が指差す先には高層ビルや鉄道の線路があり、昔の面影はまるでない。大杉栄が殺された場所だ。縁起は良くない。
僕達は、東京駅から有楽町方面へ進んだ。
仲通りのきれいな並木道を見て、希由美は、嬉しそうだった。走ってみたり、高級ブランドのショーウィンドウを眺めたり、楽しそうにはしゃいでいたが、高級ガラス製品の店に入りそうになった時は、慌てて止めた。
「希由美ちゃん。そこに入るのは、もっとお金持ちになってからにしよう」
「お前のところの神社、東京御利益ランキング十位に入ったのだろう。賽銭で儲かっているのではないのか?」
「残念ながら、十一位に下がった。それに、参拝客にセクハラされたアルバイトの巫女さんが、呪われろって言ってしまって、客足が遠のいているのだよ」
神社稼業も楽じゃない。
少し歩くと、三菱一号館に差しかかった。香沙音が失踪した時の記憶が甦ってくる。今日は美術館で刀剣展が催されていた。日本の名刀の数々が展示されているようだ。観てみたかったが、希由美には退屈だろうと思ってやめた。
銀座方面へ向かおうと、有楽町の高架をくぐると、なにやら、あたりが騒然としていた。
大道芸でもやっているのかと思ったが、様子がおかしい。人の隙間から、二人の人間が取っ組み合っているのが見えた。喧嘩をしているようだ。片方の人間が、もう片方の人間に噛みついていた。それをまわりの人間が懸命に引き離そうとしていた。叫び声と怒号が、他の音をかき消していた。状況が把握出来ず、混乱に拍車をかけた。
どうにか引き離された噛みついていた男の顔を見て、息を飲んだ。肌は青白く、その上に血管が浮き出ており、口元は血に塗れていた。その目は真っ赤に充血しており、理性はまるで感じさせなかった。まるで、石走錬造や貫井真治の手記の中から抜け出してきた、珠江や仁枝の最期の姿の様だった。
取り押さえられた男が、取り押さえた警察官に噛みつき、叫び声が上がった。
人混みの中の様々な場所から、悲鳴が上がった。そちらに目をやると、人が人に噛みついていた。噛みついていた人間は、どれも青白い顔に、充血した目をしていた。
「時積。逃げるぞ!」
勒賢の声で我に返った。大人の背に隠れ、状況が見えていない希由美を抱きかかえ、有楽町の駅に向かった。
改札の前は、最早恐慌状態で、電車で逃げようとする人で埋め尽くされていた。騒乱の中で、かすかに聞こえるアナウンスが、電車が動いていないことを告げていた。
地下鉄の入り口も似たようなものだった。むしろ、もっと酷かった。階段で人が将棋倒しになり、とてもホームまで行けそうになかった。
後ろからは、叫び声が聞こえてくる。誰かが襲われているのだ。助けてやりたいが、希由美を守るのが優先だ。申し訳ないが、ここは逃げるしかない。
有楽町のガードをくぐり抜け、丸の内方面へ向かった。
駅の反対側も、人でごった返していた。しかも、事故を起こした車が道を塞ぎ、車道も渋滞していた。タクシーで逃げることも選択肢から消えた。
人に挟まれ、希由美が苦痛の声を上げたが、構っている余裕はなかった。
今、大勢の人の中に紛れていては危険だ。勒賢も同じ考えのようだ。
国際フォーラムも大型電気量販店も人がたくさんいる。逃げ込むのはまずい。通り過ぎて駅から離れていくと、人の数が減ってきた。
僕らは大きなオフィスビルの中へ入った。地下へと続く階段もあり、地下鉄にも通じているのだが、電車は動いていないというアナウンスと怒号が、地下道に響いていた。下には降りられない。仕方なく階上を目指した。
一階には店舗が入っていたが、上の階はオフィスとして使われていた。休日なので人気がない。廊下に留まっているのは不安なので、オフィスの一室に侵入することにした。
「緊急避難だ。罪にはならない」
勒賢の言葉に、僕も同意した。
幸い鍵がかかっていないドアを発見した。入ってみると、パソコンも部屋の照明もついたままだった。人の気配はない。騒乱に驚いて逃げ出したのか、野次馬根性を出して巻き込まれたのか。とにかく人はいなかった。
このオフィスには窓がなく、外の状況を見ることは出来ない。それでも、外の狂騒はうっすらと耳に届いてきていた。
希由美を椅子に座らせ、僕らは荒げていた息を整えた。
「どういうことだ。噛みついていた人、怪物みたいな顔になっていた。香沙音さんの一族に伝わる病気を発症したら、ああいう風になるのではないのか?」
僕も同じことを思っていた。しかし、何が何だかわからない。香沙音以外にも、あの病気を発症する人がいるということか。しかし、あそこにいただけでも、何人も発症していた。外の騒ぎから判断すると、他にもたくさんいそうだ。とにかく理解不能な事態だ。
「バチカン公認のエクソシストも認める、残りの三パーセントなのではないか?」
いつもだったら笑ってしまうような僕の弱気な意見に、「そうかもな」と暗い声色で勒賢が返してきた。
重苦しい空気に耐え切れず、椅子に座らせていた希由美が泣き始めた。
大丈夫だ、と声を出そうとしたが、言葉にならなかった。僕自身が動揺しているのだ。次はしっかりと声を出し、震える希由美を抱きしめた。
勒賢が、懐から一枚のお守りを取り出した。
「我が神社に伝わる厄除けのお守りだ。本当は俺のものだけど、希由美ちゃんにあげよう。これがあれば、怖い人達に噛みつかれることはない」
希由美は小さい声で「ありがとう」と言い、お守りを受け取った。
僕はオフィスの机の引き出しの中から安全ピンを探し出し、希由美の服にお守りをくくり付けた。
「これで大丈夫だ」
希由美が落ち着くのを待って、勒賢が話しかけてきた。
「昔、香沙音さんを捜していた時に、国立近代美術館に保管されていた貫井真治の手記に、仁枝の症状に似たような病気があると書かれていなかったか? 軍医の石井なんとかが、研究しているとかいう病気が」
勒賢の言葉で思い出した。確かに書いてあった。貫井真治の手記を読んだのは、もう何年も前だが、確かにそんな記述があった。戦前の軍の研究が、この状況に関係しているのか。
「石井が研究している病気は、感染するって書いてなかったか?」
僕の問いに、勒賢が息を飲んだ。
「あったな」
被害は拡大するということか。
この銀座丸の内以外の場所も、あのような症状の人間が現れているのだろうか。香沙音の身が心配になり、電話をかけたが、何度かけてもつながらなかった。嫌な想像が頭をよぎった。(そちらは大丈夫?)とメールを送ってみる。送信は出来たが、香沙音から返信はこなかった。
置いてあったパソコンは、起動にパスワードが必要で使えなかった。
テレビを点けてみる。銀座に通り魔事件発生と報じられていた。電車は、JRも地下鉄も全線不通。道路も通行止めらしい。銀座以外の被害は報じられていないので、他の地域には、被害は発生していないのだろう。ほんの少し安心した。
「ネットでは色々書き込まれているぞ。通り魔とか、刑務所から囚人集団脱走とか、軍事クーデターとか、神の怒りとかな」
スマートフォンを操作しながら、勒賢が苦笑を浮かべた。
情報が錯綜するのは、ある程度仕方ないが、安全地帯から身勝手なことを書いて、混乱を加速させるのはやめて欲しい。僕は苦笑すら出来なかった。
携帯電話を色々操作してみていると、香沙音からのメールを受信することが出来た。
(こちらは美容室終わったよ。希由美とは仲良くやってる?)
こちらの緊急事態を、まるでわかっていない文面だった。
(まだ確かなことはわからないけど、非常事態発生。香沙音は、家に帰って戸締りをしっかりしてくれ。外には出ないで)
こちらも状況を把握出来ていないので、上手く説明することは出来ない。電話はいまだにつながらない。
(よくわからないけど、時積も気を付けてね。希由美をよろしく)
香沙音が無事なことを確認出来ただけでも良かった。
希由美が、べそをかきながら、心配そうな目を向けてきた。
僕は、希由美の頭をなでながら優しく言った。
「お母さんは、家で元気にしている。美容室行ったから、美人になって待っているぞ」
か細い声で、「ママ」と希由美は言った。
とにかくこの子を守らねばならない。僕はどのように行動すれば良いのだろう。
「外の様子を見てみよう」
状況を把握する為、窓のないオフィスから出ることにした。慎重に廊下の様子を確かめ、部屋から出る。人気のない廊下を進み、外を見下ろせる窓にたどり着いた。
外の光景は、予想以上にひどい有様だった。ビルの下の通りは、青白い顔をした人間が何人もふらふらと歩いていた。その中の一人は、僕らが見ている前で噛まれた警察官だった。青白い顔のどの人間の体にも、噛まれたと思しき出血の痕が見受けられた。
やはり、この症状は感染するのだ。おそらく噛まれることによって。
このままでは、東京中に、いや、日本中に、下手をすれば世界中に広まってしまう。想像するだけで体が震えた。
どうにかして食い止めねば。
一一〇番と一一九番してみたが、通じなかった。
「本格的にまずくなってきたな」
下の道路を見下ろしていると、一人の男が必死の形相で走ってくるのが見えた。後ろからは感染者が二体後を追って来ていた。男は僕らのいる向かいのビルに逃げ込もうとし、回転ドアの中に入った。逃げ切れたかと思ったが、ドアの回転が途中で止まった。ビルの中にも感染者がいて、向こう側へ行くことが出来ないのだ。後ろから迫っていた感染者にも追い着かれ、男は挟み撃ちされる形で回転ドアの中に閉じ込められた。
「あれはまずい。助けに行くぞ」
勒賢の言葉を受け、ビルの中に武器となるものを探した。掃除用の箒やモップがあった。振りやすいように先の部分を外して、ただの棒にした。
「剣道がこんなところで役に立つとはな」
「噛みつかれたら俺達もああなる。手加減はするな」
「わかってる緊急避難だろ」
「いや、今度は正当防衛だ」
どちらでも良い。
「希由美。お父さん達は、あの人を助けてくる。ここで待っていてくれ」
希由美は嫌だと駄々をこねた。当然だ。僕もこんなところに残しておきたくはない。しかし、勒賢一人で、感染者の群れの中へ行かせるわけにもいかない。
希由美の目を真っ直ぐ見つめた。
「良く聞いてくれ。人の命がかかっている。絶対にすぐ戻ってくるから、ここで待っていてくれ」
べそをかきながら希由美はうなずいた。
最初に入ったオフィスの中へ希由美を移動させ、早口で希由美に言い聞かせた。
「お父さんが出ていったら、すぐに鍵をかけるのだぞ。お父さんが帰ってくるまで、開けちゃ駄目だ」
勒賢が、目で「大丈夫なのか?」と問いかけてきた。僕は無言でうなずき、棒を握った。
ドアを閉め、鍵がかかる音を聞いてから、下りの階段目がけて駆け出した。
階段を駆け下り、一階の入り口から外に飛び出した。向かいのビルまではすぐだ。
回転ドアのガラスをかきむしっていた感染者が、こちらに振り返った。
勒賢が何か呪文のようなものを唱え、感染者に向けて気合を飛ばした。
何も起こらなかった。
「九十七パーセントの方だ」
感染者が、唸り声を上げて、こちらに向かってきた。攻撃性に満ちた真っ赤な目、よだれを垂らした口の隙間からのぞく歯は、尖っていないのに牙に見えた。理性の欠片も感じない。確実に話し合いは不可能だ。ただ、僕に噛みつこうとしている。
恐怖を感じている暇さえなかった。反射的に感染者の頭に、棒を振り降ろしていた。
鈍い音と同時に手に衝撃が走り、一撃で感染者は前のめりに倒れた。
横では、勒賢が感染者を倒したところだった。勒賢の飄々とした冷静さは消えていた。目を大きく見開き、剣道の試合以上の殺気を放っていた。僕も同じ顔をしていることだろう。
回転ドアへ走った。中の男は、こちらに怯えた表情を向けて、ドアを回転させまいとしていた。
「俺達は、まだ正常だ。助けにきたのだ」
僕達の呼びかけに、男は回転ドアを動かし、こちら側に転がり出てきた。
「あそこまで走るぞ」
希由美が待つビルへ走った。
後ろでは、回転ドアが動く音の後に、咆哮と走って追いかけてくる音が聞こえてきた。振り返らずに走った。
ビルのガラス扉を押し開け、滑り込むように建物の中へ入った。後ろの二人も続いてくる。
階段を上ろうとすると、一階のエントランスの奥から、人が走ってきた。感染者だ。躊躇せずに棒で頭を叩いた。倒れなかったので、もう一発叩いた。感染者の頭がへこみ、その場へ倒れた。
このビルの中にも感染者が侵入していた。感染は拡大しているのだ。希由美を一人で置いてきたことを後悔した。
後ろを振り返ると、入り口のガラス扉に、感染者が迫ってきていた。
僕達は全速力で階段を駆け上り、希由美が待つオフィスへと向かった。
幸い希由美がいるオフィスの前には、感染者の姿はなかった。
「俺だ。お父さんだ。希由美開けてくれ」
「パパ?」
希由美の声がした。生きている。鍵が解除される音がしてドアが開き、中から出てきた希由美が飛びついてきた。小さい温もりを、強く抱き締めた。
「一人にしてすまなかった。もう大丈夫だ」
どれだけ不安だったかは、しがみついてくる力の強さで測れた。
僕に続いて勒賢が到着し、助けた男が最後に入ってきた。
ドアを閉めて鍵をかけても、鼓動はなかなかおさまらなかった。
息を荒げたまま勒賢がつぶやいた。
「棒で叩くのは、竹刀とも真剣とも違うのだな…」
僕も同じことを感じていた。
まだ祖父が健在の頃だから、中学の時のことだ。僕と勒賢二人は、道場で真剣を持たされた。防具をつけて竹刀での打ち合いと、真剣で斬ることの違いを学ぶ為の祖父の提案だった。
初めて手に持つ抜き身の刀は、吸い寄せられるような輝きを放っていた。
刃を立てることが出来ず、僕と勒賢は巻き藁を斬ることにも苦心したが、祖父は難なく斬り落とした。
「思い切り頭を叩いてしまった」
「俺もだ」
罪悪感が込み上げてきた。なるべく怪我を負わせないように戦闘力を奪おうと思っていたが、感染者を目の前にして、恐怖心が制御出来なかった。
「正当防衛…だよな」
希由美がもう涙を引っ込めて、「戦国戦隊モノノフジャーみたいで格好良かった」と嬉しそうに言った。オフィスから抜け出して窓から見ていたようだ。危険なことをして怒るところだが、僕達は生返事を返すだけだった。
先程は観察する余裕もなかったが、思い返してみると、僕達が叩いた二人は中年の男性だった。平服を着ていた。休日に遊びに来ていて、感染してしまったのだろうか。仕事は何をしていたのだろうか。家族はいたのだろうか。良い人だったのだろうか。僕があの人達の人生を終わらせたのだろうか。
「ありがとう。助かった。もう駄目だと思った」
助けた男の声で、思考が中断された。
男の礼に答えつつも、噛まれていないか、体中観察した。どうやら大丈夫なようだ。
男は
勒賢が、スマートフォンを見ながら、苦々しくつぶやいた。
「空気感染するウィルスが広がっている、とネットに書かれている。これが本当なら、俺達も終わりだ」
「このウィルスは、空気感染はしないはずだよ」
拒口が、言葉を発した。
「何か知っているのか?」
「このウィルスは、
瘧狼病? 貫井真治の手記に出てきた病気も、そんな名前だっただろうか。革世黎源教は、新興宗教だったはずだ。時々世間を騒がせたりしている。身近なところでも耳にした気がするが、どこでだっただろう。しかし、宗教組織が、何故ウィルスをばら撒くような真似をするのだ。
「僕も元信者だから、確かだよ。あいつらは本当に狂っている。ウィルスをばら撒いて、世界を終わらせようとしている。格差だらけの矛盾した社会を、真の幸せな社会に変える為には、破壊が必要だとぬかしていた。本当にいかれている」
真面目に話してくれている拒口には悪いが、胡散臭く感じてしまう。
「ただの宗教団体が、そんなウィルス作れるのか?」
「ウィルス自体は、昔から自然界に存在していたらしい。研究を重ねてそのウィルスの感染力や症状を劇症化させ、細菌兵器にまで発達させたのだ。信者からむしり取った金で、優秀な研究員を雇ってね」
貫井真治の手記の中にも、仁枝の症状と似た病気を研究する人物が出てきた。森林太郎だか、石井四郎とかいう名前だった。拒口のいう瘧狼病のことを指していたのだろうか。
「今の教主は、三代目なのだが、瘧狼病を細菌兵器並みに強力なものにしたのは、先代の二代目教主の時代なのだ。そして、二代目教主は、瘧狼病の治療薬と共に、どこかへ消えた。その治療薬の製造方法が、銀座の地下に眠っているという情報を入手した。その薬をみつければ、この事態を収束させることが出来るのだ。一緒に世界を救ってくれ」
随分と軽々しく世界を救うという言葉が出てきた。胡散臭いという印象は、まだぬぐえない。だが、その薬を手に入れれば、この騒乱は終わらせることが出来る。そして、瘧狼病は、香沙音の一族に伝わる病気に症状が似ている。もしかすると、瘧狼病の薬が、香沙音や希由美にも効くかもしれない。
香沙音と結婚して、希由美が生まれても、遺伝の病気を治す努力は特にしてこなかった。病気を治すことに時間を費やすより、一緒にいる時間を選んだからだ。しかし、治すことが出来るなら、それに越したことはないのだ。自分どころか娘が死ぬかもしれない状況の中で、未来への一筋の光に心が躍るのを感じた。
心は決まっていたが、一瞬考えるふりをした。そして、言葉を発した。
「一緒に世界を救いに行こう」
僕の返事を聞いて、拒口がにやりと笑った。
「わたしも世界を救う」
希由美の言葉に、少しだけ場が和んだ。
「愛は地球を救う。蟻は地中に巣食う。目指せ幻の地下街」
良くわからないが、勒賢もやる気を出してくれたようだ。
「瘧狼病を広めないように、色々と努力はしたのだが、防げなかった。すまんな。警察にも連絡したのだが、警察の中にも黎源教の信者が紛れ込んで妨害してくるし、東京オリンピック事件のせいで、こちらには手が回らなかったようだ。一人でなんとかしようと、ここまで来てみたが、地下の入り口にたどり着く前に、ミイラ取りがミイラになりかけていたってわけだ」
拒口が訊いていないことまで喋り続けた。
「しかし、僕を助けた時の二人の動きは凄かったね。剣道でもやっていたのかい?」
勒賢は、僕を破って全国大会まで行った腕前だったが、「昔少し」とだけ答えていた。
外を見る為、ビルの西側、日比谷通りを見下ろせる場所へ移動した。慎重に廊下を進み、皇居を見下ろしてみた。
ふらふらと歩く感染者が、数名いた。ここまで感染の手は伸びているのだ。
感染者の進む先に、目が止まった。遠くに迷彩服を着こんだ男達が見える。自衛隊だろうか。
乾いた発砲音がして、歩いていた感染者が倒れた。もう一発音がして、次の感染者が倒れた。
射殺したのだ。
「ここって日本だよな」
治安の悪い国ならいざ知らず、ここは平和の国日本だ。自衛隊なのか警察の特殊部隊のなのかわからないが、感染者とはいえ、市民に発砲した。自分の見た光景が信じられなかった。
「この対応の早さは、警察もある程度情報をつかんでいたのだろうな。ここいら一帯を封鎖すれば、感染拡大は防げるだろう。しかし…」
勒賢の言葉が、「しかし」で止まった。その続きは、不吉なものになりそうだ。
「感染者とそうでない人の区別はつくのか? 空気感染の噂もあるし潜伏期間についてもわかっていないだろう。近付いたら、俺達も撃たれるってことじゃないか」
予想通り不吉な言葉だった。
感染拡大を防ぐには、仕方のない決断だと思う。大を生かす為に小は切り捨てるということだ。僕らは切り捨てられる「小」に入ってしまった。やむを得ないことなのかもしれないが、やはり自分が死ぬのは嫌だ。何より、希由美が死ぬのが嫌だ。
「早く治療法をみつけないと、感染者の仲間入りか、脳天に穴が開く」
自分で言った言葉に、自分自身の恐怖心が増した。
「銀座の地下に、造ったまでは良かったが、消防法の改正で使われなかった地下街があるのだ。そこに瘧狼病の治療法が眠っている。平和な時だったら、目と鼻の先だが…」
拒口が持っていた地図を見てみる。東京駅近辺の地下街は、ほとんどつながっているので、地下を通っても行けるのだが、感染者のことを考えると、ぎりぎりまで地上経由で行った方が良さそうだ。
「使われいない地下街は、封鎖されているから感染者は入り込んでいないだろう。管理は中央区がしているのだが、その鍵は入手済みだから安心してくれ」
誇らしげに拒口が鍵を取り出し、指先にぶら下げた。
入手方法は確実に不正な手段だろうが、今は詮索しないことにした。
出発前に、香沙音にメールを送ってみた。
(噛みつかれると感染するウィルスが広がっている。ついでに、自衛隊だか、特殊部隊だか知らないが、ここいら一帯を包囲しているようだ。下手に脱出すると撃たれる。なにか情報はないか?)
(報道規制されているみたい。現場の映像が流れていない。ネットでも、情報が錯綜し過ぎていて、何が何だかわからない。私は何が出来る?)
(情報は欲しいが、外に出るのは危険だ。戸締りをしっかりして、家で待っていてくれ)
(わかった。希由美をよろしく。お願いだから無事帰ってきて)
携帯電話の電池を温存する為、そこで通信をやめにした。
希由美に香沙音が無事であることを伝え、出発することにした。
丸の内から、JRの線路を越えて銀座まで、どの経路をどうやって進むのか。
窓から下の道路を見下ろせば、感染者の数が先程より増えている。これからもっと増えるだろう。急がねばならない。
僕は路上に止めてある自転車に目を付けた。五台以上止めてある。ビルのどこかに、ワイヤーカッターがあるはずだ。鍵の解除はどうにかなるだろう。
僕の自転車での移動案は採択され、ビルの一階にある警備室にワイヤーカッターを探しに行くことにした。警備室の前では、感染した警備員が襲ってきたが、撃退し中へ入った。
監視装置は動いていたが、見る人はいなかった。このビルの防衛機能は終わっていた。
警備室の中をひっくり返すと、食料、防寒具、燃料など、生き残るには、宝の山だった。しかし、素早い移動が求められる今は、置いていかねばならない。
他には、樫の警棒や、ステンレス製の折り畳み警棒をみつけた。モップの柄を捨てて、こちらを持っていくことにした。
リュックサックを改造して、希由美を背負った。希由美が肥満児ではなくて助かった。
僕らは治療法を探しに行く。発見出来れば、感染した人達も助かるかもしれない。だが、僕らが噛みつかれたら元も子もない。感染者には容赦しないことを全員で決めた。
警備室を飛び出した。一階エントランスにも、何名かの感染者がいたが、逃げ切れそうなので無視した。
ガラス戸を押し開け、外に出た。幸い自転車のまわりに感染者はいない。
拒口が自転車のロックを外す係、僕と勒賢はそれを守る係だ。
感染者が集まってきた。
「結構固い」
ガードレールと自転車をつないだワイヤーロックを切るのに、拒口は苦戦していた。
感染者の一人が向かってきた。
実際に使用されたことはないであろう長い樫の棒を、頭目がけて振り降ろした。感染者は、頭を変形させ倒れた。
「テレビゲームだと最弱の武器だが、実際は強力だな」
勒賢の言葉に、無言でうなずいた。
希由美を背負って動くのは、かなりきつい。重さもあるし、肩の動きが制限される。
そんなことはお構いなしに、感染者は襲ってきた。
気合を込めて、棒を振り降ろした。
「パパ頑張って」
背中の希由美が応援してくれる。さっきまで泣いていたカラスが何とやらだ。
勒賢が何人目かの感染者をなぎ倒したところで、拒口の作業が終わった。
僕が乗った自転車は、外国メーカーのクロスバイクだった。それなりにスピードが出そうだ。
勒賢が先頭で自転車を走らせ始めた。
駅の方は、乗り捨てられた車で、道路が埋まっていた。通れる部分は少ない。後ろからは、感染者が走って追ってくる音が聞こえてくる。
全力で自転車をこいだ。
歩道に感染者がいた。車道に捨てられていた車と車の間をすり抜ける。ハンドルをぶつけ、ベンツのドアミラーを壊したが、気にしている余裕はなかった。
勒賢が片手運転で棒を振るい、道を開いてくれた。有楽町のガード下に突入し、突破した。
駅前は感染者だらけだった。こちらをみつけると咆哮しながら向かってきた。妖怪じみたその姿は、迫力満点だったが、自転車の方が速かった。感染者をかわし、駅前から中央通り方面へと向かった。
華やいだ銀座の街は一変していた。ショーウィンドウは割られ、道路には血が飛び散っていた。車道には運転手のいない車が列をなし、ビルの窓からは、怯えた顔をした人々が、下を見下ろしていた。
僕らの行動が、この人達を救う。ペダルを全力でこいだ。
「そこだ。そこから入るぞ」
拒口が地下街の入り口を指差した。
地下は、感染者がはびこっているだろう。逃げ場も限られてくる。入りたくはない。しかし、入るしかない。
自転車をその場に捨てて、階段を下へ向かった。
下を見ると、地下から感染者が、こちら目がけて駆けあがってきた。
棒で胸を突いて、下に転げ落とした。
そのまま階段を駆け下り、下で転がっていた感染者を飛び越え、銀座地下街に入った。
拒口の指示のもと、地下街を進んだ。感染者が襲ってきたが、どうにか撃退した。
しばらく進むと、一枚の扉にたどり着いた。
拒口が、懐から鍵を取り出し、震える手で鍵を差し込み、解錠した。
扉を開き、中へと入る。拒口が壁をまさぐり、照明を点けた。そして、内側から施錠する。僕達は、大きく息をついた。
目の前に広がる地下空間は、かび臭く湿った空気が充満していた。店舗として使われる予定だったのだろう。間仕切りされていて、目の行き届かない影の部分がたくさんある。天井がのしかかってくるような圧迫感も相まって、感染者がいなくとも、心休まる場所とは言えなかった。
希由美を背中から降ろし、置いてあった箱に腰かけた。
「パパ強かったね。自転車もすごく速かったし」
「そうだな」
昔程ではないが、最近も時間をみつけて鍛錬はしていた。それでも、子供を背負って全力で動くのはきつかった。
とにかく、希由美には傷一つない。安堵して力が抜けた。
拒口が、地下街の中を歩き回り、各所にある照明のスイッチを点けたり消したりし始めた。点灯するかどうか確かめているようだ。
「何やっているのだ?」
「点かないスイッチの向こう側に、歌舞伎座の怪人がいる。そういう言い伝えの様なものが、教団に伝わっている。そこに何かがあるはずだ」
歌舞伎座の怪人。銀座の地下街に住む、焼け爛れた顔をマスクで隠した男。マンホールから手を伸ばし、地下に引きずり込むのだ。いわゆる都市伝説だ。昔耳にはさんだことがある。
ある一つのスイッチは、操作してもどの照明も点きも消えもしなかった。拒口は、そのスイッチを調べ始めた。顔を近付けて、念入りに眺めている。指を枠に差し込むと、枠ごと外れた。スイッチに電線などつながっておらず、中は空洞だった。拒口が中に手を入れ、ひねる動作をした。短く鈍い音がして、横のコンクリートの壁が少しだけずれた。今度は、そのすき間に指をねじ込み、手前にこじ開ける。隠し扉になっていた。コンクリートの壁が開き、暗い空洞が現れた。少し異臭がしたが、空気の流れはあるようだ。
「東京メトロ銀座線の連絡通路、ではなさそうだな」
勒賢のつぶやきが、暗闇に吸い込まれていった。
携帯電話の簡易ライトで照らしてみると、穴は崩れないように補強されていた。造りから見て、明らかに正規の工事業者が造ったものではない。歌舞伎座の怪人という言葉が、拒口から出てきたとき、何を言っているのだ、と正直げんなりしたが、この穴を見ると、本当に存在しているような気がしてくる。
拒口が携帯電話の簡易ライトを点灯し、狭い穴の中へ入って行った。
希由美が僕の足にしがみついてきた。元気になったり、怖がってみたり、忙しい子だ。
「探険してみよう」
手をつないで、希由美と中へ進んだ。勒賢も後に続いてくる。
拒口の背中はすぐに止まった。その先には、少し広めの空間が広がっていた。広さとしては、三畳程だろうか。机もベッドも備わっていて、生活を送れる環境があった。
ベッドの上には、人が横たわっていた。色褪せた服を着て、顔には包帯が巻かれている。、袖口からのぞいた手は、白骨化していた。この人は、死んでからかなりの年月が経っているのだ。この死体が、生前は歌舞伎座の怪人と呼ばれていたのだろう。ただの都市伝説ではなく、実在していたのだ。
「この人死んでいるの?」
「ああ。死んでいる。死んでいるから怖くないよ。この人が安らかに眠れるように、お祈りしよう」
「うん。わかった。勒賢さん、お坊さんでしょ。なむなむしてあげて」
「いや。俺はお坊さんじゃなくて神主さんなのだ。南無南無は出来ないよ。だから神式でこの人を送ろう。忍び手と言うのだけど、音が出ないように拍手するんだ。それで、二礼二拍手一礼だ」
勒賢が、お祓いを行った。
希由美は、それに続いて盛大な音を立てて二礼二拍手一礼し、なむなむと唱えていた。
簡素なお祓いが済んで、部屋をあらためて見回してみた。空気口らしきものもあるし、乾電池で作動する電灯もあった。
「この人が一人で造ったのか。だとしたらすごいな。銀座の地下に秘密基地。男のロマンだ」
勒賢が感心していた。僕も同感だった。理解し難い部分もあるが、造っている時は、楽しかったのではないだろうか。
拒口が、小さな机の上に乗っていたノートを手に取り、ライトを当てて目を通し始めた。瘧狼病の治療法について書かれたものだろうか。この一冊のノートが、香沙音と希由美を呪われた運命から解放する救世主となるのだろうか。
拒口は、読み飛ばすように手早くページをめくった。どうやら最後まで目を通したようだ。そして、無言でノートをこちらへ渡し、別の場所を物色し始めた。
僕は、手渡されたノートの表紙をめくってみた。整ったきれいな字が、細かく書き込まれていた。少し読んでみてわかった。これは、香沙音の曽祖父が昭和初期に書いたものだ。詳しく読むため、歌舞伎座の怪人のねぐらから、地下街部分へ出た。
僕が床に腰を下ろすと、希由美も横に来て腰を下ろした。
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