第4話 大正時代 貫井真治の手記より

 帝都東京の真ん中、皇居の堀に死体が浮かんだ。

 見回りの警官が、うつぶせに浮かんでいるのをみつけたそうだ。

 皇居の堀に死体が浮かぶのは珍しいことではないが、酔った浮浪者とかではなく、女性が殺された後遺棄されたものだということで、私も取材にやってきた。事件が起きた場所を撮影し、活動写真上映前にニュースとして流すのだ。

 皇居と言えど、夜中になれば、警備も薄くなる。その隙をついて、死体は遺棄されたのだろう。

 情のもつれか、通り魔の犯行かは知らないが、とかく民衆はこの手の話を好む。発見された場所を、さも恐ろし気に撮影した。後は弁士が囃し立てて解説してくれることだろう。

 私とて芸術性と娯楽性を兼ね備えた立派な活動写真を撮って、人々を楽しませ、生活に潤いを与えたいと思っているが、実力が認められず監督は任せてもらえない。陰で自作の活動写真を制作したりもしているが、大きな資本で撮らせてもらえる気配はない。道程はまだ長そうだ。

 今日も重いカメラを抱えてニュース映画の撮影に尽力していた。

 撮影が終わり、引き上げようとしたとき、一人の男が目に入った。黒い背広を着て、感情のこもっていない目で、事件現場を眺めていた。

 私の視線に気付いたのか、こちらに目を向けた。少し離れていたが、冷たい目をしているのはわかった。カメラを向けたら、不幸なことが起こりそうな気がした。

 男は何をするわけでもなく、ゆっくりと去っていった。

 幾分気にはなったが、撮影を終了し、去ることにした。

 一度京橋にある会社に戻ると、今度行われる千里眼実験の取材準備の為、帝国大学へ向かうように言われた。興味深い話ではあるが、疲れていて気乗りはしなかった。当然断ることも出来ずに、帝国大学へと向かうのだが。

 電車に乗ろうと日本橋へ向かった。

 川の上にかかる、日本橋に差し掛かった。数年前に新築された十九代目か二十代目の石橋だ。豪華な造りで、橋の上には電車が走り、周囲には大きくて立派な建物が並んでいる。物流の主軸が鉄道に移っても、川にはたくさんの舟が浮かんでいた。水の都は終わっていない。

 橋の中程まで来た時、一人の女性がこちらを見ているのに気付いた。別の人物を見ているのかと思い振り返ったが、それらしい人物はいない。私もその女性に目を向け、二人で見つめ合う形になった。女性は洋服を着ていて、髪は肩くらいに短くされており、帽子を被っていた。晴れているのに手には傘をぶら下げていた。「新しい女」などと言われている類の女性だ。おそらく男勝りで気が強いのだろう。正直言って、苦手な種類の女性だ。私はおしとやかで、和装の女性が好みだ。

 こちらの思いを知ってか知らずか、女性が近付いて来た。私の二歩手前くらいで止まり、手に持っていた傘を開き、上にかざした。開いた傘も洋風の雨傘だった。日傘ではない。


「これは魔法の傘。私たちの距離を近付けてくれる」


 言っている意味が理解出来ず、女性の顔をただ見つめていた。

 そのうち頭に冷たいものが当たった。最初は一粒、徐々に数を増やしてくる。雨だ。

 周囲の通行人が突然の雨を避けようと駆けだす中、私は吸い込まれるように傘の中に入った。

 雨に遮断された小さな世界で二人だけになった。

 大きな瞳も、白い肌もすぐそばにあった。激しい雨音でもかき消せない程、鼓動が高鳴った。

 好みが変わったのか。好みを超越した存在に出会ったのか。最初に抱いた負の感情などどこかへ消え、私の恋の炎が燃え上がった。

 しかし、急なことなので、何をすればよいのかわからなかった。とりあえず何かを言わねばと言葉を絞り出した。


「良い天気ですね」


 女性は笑顔で返してきた。


「雨が私達を近付けてくれた」


 女性の名は、陰織仁枝かげおりひとえといった。私は貫井真治と名乗った。

 雨の日本橋を、一本の傘で歩く。ほぼ無言なのに、何故か心地よかった。このまま雨が止まなければ、いつまでもこうしていられる。この傘一本分の世界を終わらせたくなかった。

 無情にもにわか雨は止み、傘をたたむときがきた。太陽が恨めしかった。

 また会う約束をして、小さな世界から離れた。

 仁枝の後ろ姿を見送った、一度振り向いて笑顔を送ってきた。雨の時だけ現れる妖精を見送っている気分だったが、姿が突然に消えることはなかった。

 千里眼実験を行う帝国大学講堂に着き、撮影の下見をしようとしたが、仁枝のことが頭から離れなかった。

 実験を行う御手洗みたらい教授が、実験の手順を説明し始めた。何とか頭の中から仁枝を追い出し、教授の話に集中した。

 御手洗教授が連れてくる女霊能力者に、透視と念写をさせるのだ。

 会場である帝国大学講堂には、報道陣、有識者だけでなく観客も来ることになっていた。その中には、霊能力肯定派もいれば、否定派もいるだろう。我々報道陣には、中立的な立場が要求された。

 また実験の立会人を、陸軍の春日井かすがい少将が行うことになっていた。公平な視点で実験を検証し、もし霊能力が本物ならば、軍事目的の利用を目論んでいるのだろう。

 私の主な仕事は、カメラを回して映像に残し、それをニュースとして活動写真上映前に流すことだが、実験で不正が行われない為の監視の意味もあるようだ。

 撮影位置や進行の流れを確認し、帝国大学講堂を後にした。

 仕事が終わり、仲間達が集まる安酒場に足を運んだ。

 ここには活動写真や文学、絵画など、芸術や表現に携わる者が集まってきた。安酒を飲みながら、様々なことについて語り合うのだ。

 酒が進むにつれて議論に熱がこもってきた。


「現在の活動写真は、大衆に媚びすぎていて、芸術性が損なわれている。弁士や楽団がいなかった無音の時代の方が、芸術性は高かったのだ」


 小手川こてがわ君が赤い顔で熱弁をふるった。

 現在は弁士が登場人物の台詞を言ったり、状況説明をしたりし、楽団の演奏がそれを盛り上げたりしていた。昔はそんなものなくて、映像だけで勝負していた時もあったのだ。

 それに対して大杉さんが言い返した。


「活動写真は、労働者の娯楽であるべきだ。日々資本家に搾取され、人間性の欠片もない苦役に従事している者達に活力を与える為にあるのだ。小難しい芸術性など不必要なものだ」


 酒の入った激しい口論の中、自分の意見を口に出せずにいた。私は海外からの情報をつかんでいた。弁士や楽団が活動写真の芸術性を損ねているのならば、芸術性は更に下がる方向に進むことになるだろう。だが、それで良いと私は思っていた。活動写真は娯楽であるべきだし、撮影技術が進歩し、変化を遂げていくのは当然の流れだ。昔の風情に思いを馳せていても致し方あるまい。


「文学も、活動写真も、社会だって民衆のものであって、一部の特権階級のものではないのだ。今までの娯楽は修練が必要だった。労働者が休日に楽しむ娯楽が必要なのだ。社会主義の中に芸術があり、社会主義は、芸術の中にある」


 大杉さんの話が、活動写真のあり方から脱線してきた。自分の思想について語り始めている。この人は社会主義者なのか、無政府主義者なのか、思想的なことは私にはわからないが、とにかく破天荒な男だ。毛嫌いして、袂を別つ人も多いが、不思議と魅力のある人だった。


「美はただ乱調にある。階調は偽りだ。真はただ乱調にある。わかるか貫井君」


 わかりません。

 話が脱線して、海外の情報、そして、私がその流れに乗ってみようと思っていることは言い出せないまま散会となってしまった。



 私も取材した皇居の堀からみつかった遺体は、久保城乙美くぼじょうおつみという女性のものだと断定された。久保城は、女性の地位向上の為に運動を繰り広げる活動家だった。女性の参政権や選挙権、娼婦の問題など、様々なことに言及していた。被害者が有名人だった為に、事件は世間を大いに賑わせた。色々な憶測や流言が飛び交い、根拠のない犯人像が飛び交った。やはり、女性の地位向上を望まない者の仕業だと考える者が多かった。実際、久保城が発刊に携わっていた雑誌は、非難が殺到していたし、脅迫文が届いたこともあった。その線を疑うのが当然と思えた。

 しかし、事件は呆気なく結末を迎えた。久保城乙美の交際相手の一人、実平悌吉さねひらていきちが自殺したのだ。

 久保城は、今までの押し付けられた女性像からわざとはみ出すかのように、複数の男性と自由に交際していた。その中の一人、実平悌吉が痴情のもつれから久保城乙美を殺し、自殺したのだ。遺書らしきものも残されていたらしい。

 世間は、加害者の実平よりも、被害者の久保城の方を批判した。道に反した生き方をしたからだとか、ふしだらな女に天罰が下ったとか、日頃から良くない感情を持っていた者達が、一斉に久保城を叩き始めたのだ。女性が権利を主張することまで否定するような論調だった。

 実平が自殺した現場を取材する為、カメラを持って出かけた。川にかかる橋の欄干に縄をかけ、実平は首を吊ったのだ。

 現場に着いてみると、橋は住宅街からは少し離れており、夜にはほとんど人が通らない場所だった。古びた石橋で面影橋という名だった。

 橋と川と実平がぶら下がったところが収まる場所からカメラを構えた。

 すると見知った顔が橋の上に立っているのがわかった。仁枝だ。橋の上から川を神妙な顔で見下ろしていた。

 私が声をかけても、仁枝の固い表情は去らなかった。


「実平さんが乙美さんを殺して自殺なんてあるわけない」


「死んだ二人と知り合いなのか」


 先鋭的とも言える仁枝の格好を見れば、「新しい女」久保城乙美と知り合いでもおかしくはない。


「そりゃあ二人は複雑な関係だったから喧嘩も多かったわよ。でも、二人とも愛欲に迷って殺しまで発展させてしまうような人間ではなかった。川に捨てられた遺体が久保城さんのものだと分かった時、実平さん本気で悲しんで、犯人を捜そうとしていた。あれは嘘なんかじゃない」


「真犯人の目星はついているのか」


「まだわからない。でも、女性の地位向上を望んでいない人の仕業だと思う。前時代的で自分の自尊心を守ろうとする臆病者が犯人よ」


 随分と大雑把な推測だ。だが、この事件の結末を疑問視する声は少なくなかった。

 撮影を終わらせ、仁枝とともに帰り道を歩いた。


「もう女性が男性に隷属して、その庇護のもとに暮らす時代は終わりだと思うの。これからは女も社会に出て、政治に参加して、能動的に生きていくべきなのよ」


 まだ会うのは二回目だというのに、仁枝は熱く語った。

 本来こういう女性は苦手なのだが、その人物に好意を抱いてしまうと、思想まで受け入れてしまうのだろうか、言っていることまでもっともな気がしてきた。


「社会の仕組みは男性優位の歪なものばかり。男性は妾を持って良いのに、女が浮気したら姦通罪。そんなのおかしい」


 そういうものだと思って生きていると、おかしいとも思わなくなってしまうが、言われてみればおかしな話だ。


「私達は女性の地位向上を目指して活動してきた。乙美さんはその中の一人よ。そんな戦う女性を言論ではなく、暴力で弾圧した犯人は絶対に許せない。私が捜し出してやるわ」


 強気な発言だ。仁枝の人となりが見えてくる。だが、この事件に裏側などあるのだろうか。

 仁枝の熱弁を聞きながら歩いていると、向こうから大杉さんが歩いて来るのが見えた。

 女を連れている私を見て、最初は笑顔を作ったが、すぐにそれは消え、仁枝を見て驚いた顔をした。すぐに我に返り、動揺を誤魔化すように明るく声をかけてきた。


「ここら辺で実平悌吉君が首をくくったと聞いてやってきたんだ。供養しようと思ってね」


 暗い話を明るい声で言ってしまうあたりが、動揺を隠せていなかった。しかし、大杉さんと実平が知り合いなのは本当のようだ。少し会話をしてみると、大杉さんも久保城乙美殺しは、実平の犯行ではないと考えている節が伺えた。

 橋の場所を教えると、私に礼を言い、仁枝に会釈して、大杉さんは去って行った。


「あの方は、大杉栄さん?」


「知っているのか」


「大杉さんの奥さんの伊藤野枝さんとは知らない仲でもないから。大杉さんとは直接会ったことないけど、話には良く聞いていた」


 伊藤野枝も、女性の地位向上運動の旗手の一人だ。久保城と知り合いなら、伊藤とも知り合いだろう。世界はつながっている。


「大杉さんも、私のこと知っている顔をしてたわね」


 仁枝は、大杉さんの背中を少し寂し気な目で見つめていた。

 寂しげな目の理由を尋ねたかったが、切り出すことが出来ず、撮った映像を会社に届ける為、仁枝と別れた。

 仕事を終えていつもの安居酒屋へ行くと、大杉さんがいて、私の姿を認めると、すかさず話しかけてきた。


「貫井君。時代は自由恋愛だ。だが、あの女はやめておけ。陰織仁枝だろう。呪われた血筋の女だ」


 この大正の世で呪いか。大杉さんは破天荒という枠さえ飛び越えてしまったのだろうか。


「呪いと言うと語弊があるかもしれないが、怪物の様な姿になって死んでしまう病気なのは確かだ」


 大杉さんの背を寂しげに見つめる仁枝の姿を思い出した。自分の病気を知られてしまう悲しみがにじみ出ていたのかもしれない。


「しかも、あの女の父親は、あの石走錬造だぞ。半蔵門事件の時、自由民権の志士高徳伝次郎を斬り殺し、権利と平等を求める市民を何人も虐殺した男だ。社会主義運動の芽を摘んだ極悪人だ」


 大杉さんが若い頃に高徳伝次郎と出会い、その思想と人間性に心酔していたことは知っていた。社外主義的思想も、自由恋愛も高徳の影響を受けてのものだ。半蔵門事件の時は、何かの罪で服役中だったので参戦出来ず、大杉さんは生き永らえたのだ。


「しかも、石走錬造は短命であると知って陰織家の女と結婚し、妻の死後家を乗っ取ったのだ。今でも家の金を使って贅沢三昧。鬼の様な奴だ」


 仁枝の父親が、そんなに恐ろしい悪人だとは知らなかった。下手に手を出したらえらいことになりそうだ。見たこともない石走錬造の姿を思い浮かべ、一人で肝を冷やした。


「あの女は、危険だ」


 散々自由恋愛だとか抜かし、何人もの女と同時に親密になり、挙句にその中の一人に刺されて死にかけた大杉さんが、今更何を言っているのだ。

 反論が喉まで出かかったが、曖昧な返事で誤魔化し、その場はうやむやにした。

 大杉さんの話に衝撃を受けたのは事実だが、仁枝への想いは収まるどころか、増すばかりだった。

 次の日、予感通りに仁枝が現れた。自転車に乗ってくることはさすがに予想外だったが。

 髪を短く切り、自転車を乗り回すなんて、とんだお転婆娘だ。そして、病気持ちで、父親は人殺しの極悪人だ。

 それなのに、仁枝は色褪せるどころか、より輝いて見えた。


「私のこと聞いた?」


 私はゆっくりうなずいた。


「そう私は呪われている。それがどうしたの。命短し恋せよ乙女よ」


 言っている意味は良くわからなかったが、自分の運命を受け入れ、開き直って生きていることは感じ取れた。

 この人には死んで欲しくない。救いたい。呪われた運命から解放してやりたい。


「私の命を伸ばそうと、医者とか祈祷師の力を借りようとするのはやめて。残り少ない時間を余計なことに使いたくないの」


 機先を制された形になり、鼻白んだ。

 仁枝は笑っていたが、その笑顔が一層悲しかった。

 こちらも笑顔を作ろうとしたが、表情を制御出来ず、強張った顔のまま、無言でうなずいた。


「乗って」


 自転車の後ろの荷台を指差された。自転車の二人乗り。しかも、運転は女性。それはさすがに恥ずかしい。せめて私が運転したいが、自転車を運転したことはない。

 仁枝が大きな瞳で私を見据えてきた。傘の時もそうだったが、引き寄せられるように、私は自転車の荷台にまたがり、仁枝の肩に手を乗せた。

 仁枝が力を込めて自転車をこぎ始めた。自転車は徐々に速度を上げ、東京の街を疾走した。

 道行く人々が、眉をひそめてこちらを見ていた。それでも爽快な気分だった。


「女は原始太陽だった!」


 仁枝が大声で叫んだ。

 太陽の光で、悲しみの影を消してしまおうとしているかの様だった。

 死にゆく者が覚悟を決めても、周りの者はそれを受け入れることが出来ない。

 私は仁枝との約束を破り、次の日から仁枝の病気を治そうと尽力し始めた。

 仁枝は、病気のことや家庭のことをあまり話したがらなかったので、得られる情報は限られたものになったが、自分なりに病気のことを調べた。

 仁枝の家系に伝わる病気は、ある一定の年齢になると発症し、発症すると、理性は無くなり、言葉も喋れず、食事も水も摂れず、肌は青白く血管が浮き出て、目は赤く充血し、人に噛みつこうとするようになる。本当に妖怪の様な姿になり、苦しみながら死んでいく。噛みつかれても感染することはないようだ。

 元々の言い伝えでは、天保の飢饉のときに、人を殺してその肉を食べた呪いと言われているらしいが、さすがに荒唐無稽な作り話としか思えない。呪いの可能性はないだろう。

 医学は日々進歩している。昔は原因不明の不治の病も、今なら治せるかもしれない。

 芸術系の知り合いをたどり、高名な医者と会う機会を設けてもらった。文学者であり医学者である森林太郎もりりんたろう先生だ。

 森先生の自宅で行われる、文士達の集いに参加することになった。

 見栄えの良い背広を着て、本郷にある森先生の邸宅に向かった。広大な敷地という程でもないが、それなりの敷地に、趣きのあるきれいな和風の建物が建っていた。

 気後れして、足を踏み入れることも憚られたが、仁枝を助ける為と思い、玄関をくぐった。

 広い居間に椅子とテーブルが置かれ、そのうち一つに腰掛けた。最初は緊張して、周りの会話についていけなかったが、酒が進むにつれ場の空気も和み、私も馴染めてきた。

 ここに参加していた人達は、私から見ると、高級な人々の集いだったが、同じ時を過ごすうちに、あまり違いは無いように思えてきた。

 当初は皆で同じことについて話していたが、既に個々の集団に別れ、思い思いの話を繰り広げていた。

 機を見て、森先生の近くに移動した。

 気難しいという噂もあったが、私の様な者にも丁寧に対応してくれた。

 私なりに調べた情報を森先生に伝え、助かる道はないか相談してみた。


「その女性に直接会ってみないと何とも言えないが、今まで色々な病院にかかって原因がわからないのなら、私にも治せないと思う」


 当然と言えば当然の返答だが、気持ちが落ちた。


「治すことが仕事の医者だが、長く仕事を続けていると、死は避けられないものだと良くわかるようになる。もし死が避けられないもので、本人が死を受け入れようとしているのなら、寄り添って送り出してやるのも一つの答えだと思う」


 正論だが、今一番言われたくないことだ。思わず森先生をにらんでしまった。

 森先生は私の気を害したことに気付き、すぐに詫びてきた。


「送り出すことが出来ないから、私に相談しに来たのだものな。すまない」


 森先生はそこで何かを思い出したようだ。


「そういえば、私の後輩で軍医をしている者がいるのだが、お知り合いの症状に似たような病気の研究をしていると言っていた気がする。詳しいことは覚えていないが、何かの役に立つかもしれない。良かったら紹介するよ。くせが強いが、優秀な男だ」


 望みが少しつながったようだ。森先生にお願いして、後輩の方を紹介してもらうことにした。

 森先生に紹介してもらった、石井四郎先生に会うことになり、指定された神楽坂の料亭を訪れた。

 庶民には縁遠い高級店に居心地の悪さを覚えながら、座卓をはさみ石井四郎先生と向かいあった。

 元軍医と現役の軍医の違いだろうか。穏やかで静かな森先生とは逆の印象を受けた。その目は野心と活力にあふれ、軍医というより、本物の軍人の様だった。


「話は森先生から聞いている。君の知り合いの症例は実に興味深い。私が今研究しているものの一つに、同じようなものがあるのだ。瘧狼病ぎゃくろうびょうと呼ばれている病気だ。君の知り合いの病気と違って、それは感染するのだが、症状は良く似ている。肌は青白くなり、血管は浮き出て、目は充血して赤くなり、妖怪の様な姿になる。人に噛みつこうとするところも一緒だが、こちらは感染する。まあ、感染力は弱く、噛まれてもすぐに消毒するなり、水で洗うなりすれば、ほぼ感染することはない。ただ、一度発症してしまったら、食事も水も摂れずに死んでしまう」


 そんな病気があったのか、全然知らなかった。もう治療の糸口はみつかっているのだろうか。希望が湧いて来た。


「きつね憑きと呼ばれる様な事例の中に、この病気が含まれていた可能性もあるが、日本でこの病気が大流行したという記録は残っていない」


 石井先生は熱弁をふるってくれるのだが、肝心の治療法が出てこない為、こちらが焦れてきてしまった。


「ところで、この病気の治療法はわかっているのでしょうか」


「治療法は、まだみつかっていない」


 ないのか。


「治療法をみつけ、感染力を増強し、感染から発症までの時間を制御出来るようになれば、細菌兵器として使用できる。君の知り合いの体を研究することが、それにつながるかもしれないのだ」


 この人は、仁枝を患者としてではなく、研究材料とみなしているのか。


「これから先、日本は対外戦争の道を避けて通ることは出来ないだろう。資源に乏しい日本に、細菌兵器の開発は必要不可欠なのだ。生き残る為に手段は選んでいられない」


 石井の目には、愛国心よりも限りない自己顕示欲がみなぎっていた。この男は、医学者だが、救う命より奪う命の方が多そうだ。

 私は手持ちの金を座卓に叩き付け、席を立った。

 石井は私を冷やかに見つめ、冷めた声で呟いた。


「青いな」


「あなたは救国の英雄になるかもしれないが、協力は出来ません」


 石井は不敵に笑った。


「お前の協力なしでも、自分の力で日本を救ってみせる。邪魔はしないでくれ」


 これはこの男の正義なのだ。だが、私の正義ではない。

 石井に背を向け、店を後にした。

 怒りが収まらぬまま神楽坂の街を歩いていると、暗い路地に浮かぶ顔がこちらを見ているのに気付いた。どこかで見た顔だった。怒りで熱くなった体が、急激に冷える。近付くことも、遠ざかることも出来なかった。

 動けないまま、暗がりの顔を見ていると、音も無く、顔は消えていった。

 華やいだ神楽坂の街で、一人立ち尽くしていた。しばらくすると、頭も体も動き始めた。今の暗がりに浮かんだ顔は、どこかで見た顔だった。久保城乙美の死体が浮かんだ皇居の堀を取材に行った時、見た顔な気がした。何者なのだろうか。私が見た幻覚なのだろうか。

 色々重なり、何が何だかわからぬ思いを抱え、神楽坂を後にした。



 陰の努力も実らずに、仁枝を救う計画は暗礁に乗り上げた。

 病気を治す方法を探していることすら秘密なのだから当然なのだが、仁枝の前では平静を装った。

 二人で活動写真や演劇を観に行ったり、久保城乙美殺しを調べたりした。後半部分は男女の交際の形としては特殊だが、仁枝と共にいられることは喜びだった。


「久保城さんは、娼婦の廃止についても取り組んでいたの。売春が禁止されたら利権を失う人が出てくるわ。それの絡みで殺されたのかもしれない。そちらの線も調べてみようと思うの」


 仁枝の思い付きに付き合って、久保城と交流のあった遊女に話を聞いてみようと試みた。様々なつてをたどっていくと、交流があった中の一人で、岩手の田舎から売られてきた娘から話を聞けた。


「久保城さんは、色々と話を聞いてくれて、相談にも乗ってくれました。恋人に殺されたのですよね。信じられません」


 その娘はなまりの強い口調で静かに語った。


「久保城さんは、女が自分の力で生きていける日が来るって言っていました。そんな日が、本当に来るのでしょうか」


 戦争景気に沸き、成金が出てきたりもしたが、庶民の暮らし振りが劇的に良くなることはなかった。まだまだ貧しい人々はたくさんいる。都市部はまだましだったが、地方では身売りも珍しくなかった。この花街にも、地方から売られてきた女がたくさんいた。女性の地位はまだまだ低い。女が自立して生きていく、そんな日が来るのだろうか。我々は目の前の娘に何も言えなかった。

 結局久保城殺しの新しい情報はみつけることは出来なかった。


「今日は空振りだったけど、真実を暴いてみせるわ。そして、女が自立して生きていける世の中に変えていってみせる」


 私は、久保城殺しについては、実平が殺して自殺した線が有力だと思っていた。残したと言われる遺書を直接見ることは出来そうにないが、多分本物だろう。男女の仲には外野からは計り知れないものがある。調べているうちにそのことがわかってくるだろう。仁枝は短い命の中で、何かと戦っていたいように見えた。死から目を背ける為に。

 


 千里眼実験を明日に控え、女霊能力者五代鈴子ごだいすずこと帝国大学講堂で顔を合わせた。

 和服を着た清楚な中年女性だった。美人とも言えなくもない。この女性が透視や念写をするのだ。地元の群馬では病気の治療や失せ物探しでも有名らしい。

 直接会うまでは疑わしく思っていたが、近くに立ってみると、本当に何かの力を持っているような気がしてくるから不思議だ。仁枝の病気のことを相談してみようか。

 公開実験の流れを確認した後、他の者が離れ、私と五代鈴子二人きりになった。

 気まずい沈黙はすぐに五代の声で破られた。


「あなたは私の助けを欲していますね」


 心が読まれ、息が止まった。


「別に心を読んだわけではありません。そういう顔をしていましたよ」


 五代は優しげな微笑みを浮かべながら言った。霊能力者と恐れていた分だけ、五代の笑みに警戒を解いてしまい、仁枝の病気のことを相談していた。

 五代は人を包み込むような暖かい表情で、私の話を聞いてくれた。

 あらかた説明し終わると、五代の表情がかすかにかげった。そして重くなった口をゆっくり開いた。


「あなたも受け入れるべきなのかもしれません」


 治せないということなのか。


「病は気から。心を良くすれば、体も良くなる場合は多いです。そういった方の手助けをすることは出来ます。しかし、貫井さんのお知り合いは、私の手が届く範囲を越しています。申し訳ありません」


 そこで御手洗教授達が戻ってきた。五代ともう少し話したかったが、再び公開実験の段取りの打ち合わせが始まり、五代と話すことは出来なかった。

 公開実験当日、帝国大学講堂には、多くの人が詰めかけた。

 演壇の上に一つの机と、椅子が二脚置かれ、片方に立会人の春日井少将が座り、もう片方に五代鈴子が座った。

 実験は、封筒に入った紙に書いてある文字を透視し、その文字をフィルムに念写するというものだった。

 私は演壇の端にカメラを構えた。二人の状況をしっかりと捉えている。不正を見逃すことはないだろう。

 仁枝のことは救えないと言われたが、五代鈴子に悪い印象は持たなかった。透視と念写を成功させて欲しいと思い始めていた。

 司会の御手洗教授の説明の後、実験が始まった。

 報道陣、有識者、観客、会場全体が固唾を飲んで二人の動向を見守った。

 春日井少将が封筒を差し出した。その封筒にゆっくりと手を伸ばし、五代の指が封筒に触れた。その瞬間、五代の表情が変わった。目を大きく見開き、視線が宙を漂った。そして、急激に顔が青ざめていった。

 これが五代の透視の仕方なのだろうか。私はカメラを回し続けた。

 御手洗教授の様子もおかしい。何か不都合でも起こったのだろうか。

 会場も異変に気付いたようだ。ざわめき始めた。

 春日井少将も困惑したように五代に目を向けていた。

 五代は封筒から手を離し、春日井少将を、そして会場に目を向け、席から立ち上がった。

 これは明らかに段取りとは違う。何か起こったのだ。

 顔面蒼白の五代が、覚束ない足取りでこちらへ向かってきた。

 私はどうして良いかわからず、カメラを回したまま、向かってくる五代の姿を写していた。

 五代がカメラの目前に立ち、こちらへ白い手を伸ばしてきた。それでも私は動けなかった。白い手の平がレンズをふさぐ。何も見えなくなった。手の平がレンズの前からどかされ、再び五代の顔が視界に入った。

 御手洗教授が駆けてきて、倒れそうな五代の体を支えた。

 訳のわからない展開に、会場はざわめきを通り越し、喧騒に包まれた。五代を詐欺師呼ばわりする怒声が鳴り響き、客席からは物が飛んだ。

 混乱する会場の中、御手洗教授に連れられ、五代は退場していった。

 春日井少将は冷やかな失望を浮かべた目で、退場する五代の背中を見送っていた。

 実験は大失敗に終わったようだ。

 騒乱の場内を収拾させるのは一苦労だった。警備に就いていた者達の尽力で、なんとか怪我人を出すこともなく、人々を講堂から出すことに成功した。

 外へと向かいながら、人々は五代のことを悪し様に罵っていた。

 五代の霊能力は偽りだったのか。それとも、何か別の要因で失敗したのか。

 舞台裏へと足を運んでみると、ぐったりと椅子にもたれかかる五代と、その横で悲しげに立ち尽くす御手洗教授の姿が目に入った。

 商業カメラマンなのだから、この光景をカメラに収めなければならないのだが、私には出来なかった。

 私の存在に気付いて、五代が顔を上げた。肌が真っ青になっており、髪はほつれ、急に何歳も老けたように見えた。


「貫井さん。私はあなたのお知り合いを救うことは出来ません。でも、透視と念写は本当に出来るのです」


「それならば何故…」


 私の問いには答えず、五代は力無い瞳で私を見つめるだけだった。

 次の日から、日本中が五代鈴子の霊能力は偽物だと騒ぎ立てた。悪を滅ぼす残酷な正義の牙が、五代と御手洗教授に襲い掛かっていた。

 私が撮影した映像も、ニュース映画として流すことになった。

 少し心苦しさもあったが、公開実験は失敗として、事実を放映するしかなかった。

 それから程なく、五代鈴子が自殺したという報せが届いた。群馬の家で、首を吊った姿で発見されたそうだ。その話は、嘘を見破られた末の逃避だと、死人に鞭打つ論調で日本中を駆け巡った。

 自分が撮った映像が、五代の自殺を後押ししてしまったのだろうか。実験の前日に、優しく話を聞いてくれた姿を思い出し、罪悪感の棘が私の心を苛んだ。

 


 仁枝と日本橋で待ち合わせし、そこから丸の内方面へと歩いた。今日は傘の出番はなかった。

 丸の内のあたりは大きくてきれいな西洋風の建物が並び、一丁倫敦と称されていた。一昔前は何もない野原で、所有者の名前から三菱ヶ原などと呼ばれていたなど、信じられない程の発展振りだ。


「半蔵門事件の時、私の親も巻き込まれて大変だったみたい。この建物かな」


 現在も銀行として使われている三菱一号館の前で仁枝がつぶやいた。

 赤レンガ造りの洒落た建物を見上げた。ここで仁枝の父石走錬造が、自由民権の志士高徳伝次郎を斬り殺したという話だ。

 仁枝は何の感情も見せず、三菱一号館を見上げていたが、私は内心動揺していた。触れて良いことなのかわからず、適当な相槌で誤魔化した。

 仁枝も、それ以上はその話題には触れてこなかった。


「千里眼実験、霊能力は嘘だったの?」


 仁枝に訊かれたが、実験の結果に納得出来ていない部分もあり、結論は保留にしておきたかった。


「わからない。俺達を近付けてくれた魔法の傘があるのだから、透視や念写も存在するのかもしれない」


 私が曖昧な意見を述べると、「そうかもね」と言って、仁枝が笑った。

 丸の内から、銀座方面ではなく、皇居の方へ向かった。整備された堀に沿って歩く。日差しが降り注ぎ、少し暑い程だった。

 仁枝が洋傘を開き、頭上に差し上げた。

 空を見上げても雨雲は見当たらない。


「雨降るのか」


「降らないわよ」


 どうやらただの日差し除けのようだ。晴雨兼用の傘なのだ。


「僕は入れてもらえないのか」


「晴れた日の合い傘は美しくないわ。太陽は私達を近付けてくれないのよ」


 そういうことのようだ。

 そのまま皇居の堀沿いに西へ歩いて行くと、朽ち果てた廃墟の様なあばら家の数々が目に入ってきた。鮫河橋の貧民窟だ。

 半蔵門事件の時、軍隊と共に、一般市民も蜂起し、その中には貧民窟の住人も含まれていたらしい。元々、病気や犯罪の温床と目されていたのもあり、行政は貧民窟の立ち退き対策を実施しているようだが、未だに無くなってはいない。

 レンガ造りの高層建築も、今にも崩れ落ちそうな廃材と接ぎ合わせた様な家も、同じ日本の家なのだ。貧富の差は無くならないし、民衆の力は弱い。

 政治的思想には、あまり興味が無いのだが、この光景を前にしたり、遊郭に売られた娘のことを思い出すと、平等というものを目指すことは崇高なことにも思われてくる。皆が平等に富を持ち、皆が笑える時代が来るのだろうか。


「こんなところで何をやっている」


 後ろから聞き覚えのある声がした。耳にしたくない声だった。無視したかったが、出来そうもないので、嫌々振り返った。軍人の甘粕正彦あまかすまさひこが立っていた。その後ろにもう一人軍人がいる。森慶次郎もりけいじろうとかいう名前だったはずだ。

 昔、大杉栄さんと一緒にいたところを見咎められたことがあった。私も無政府主義者の一人だと思われたようだ。

 丸い眼鏡の中の冷たい目がこちらを見つめていた。体格は小柄な方だというのに、息苦しい威圧感で圧迫してきた。仁枝も甘粕と森の存在に、不安げな視線をこちらへ送ってきた。


「何か良からぬことを考えているのではないのか」


「私は無政府主義者でも社会主義者でもありませんよ。ただの活動写真屋です」


 甘粕が口元だけで冷たい笑みを浮かべた。


「そういえばそうだった。活動写真屋だったな。どうせ下らないものを作っているのだろう。あんなもの観ていたら堕落する一方だ」


 正直言えば目の前の軍人が怖かったが、自分の好きなものを否定されて少し頭に血が上ってしまった。


「お言葉ですが、活動写真は良いものです。人々に娯楽を提供することは、生きる活力につながります。体だけでなく、心も潤わなければ、人は幸せになれません。活動写真は素晴らしいものです」


 甘粕と森の顔に、不快な感情が浮かんだ。私の様な、ひ弱な文民に口答えされたのだから当然だ。言って後悔した。


「そうよ。突然現れて人様の生き方を否定して、何様のつもりよ。力で戦うだけでは、何も解決しないわよ。時代は大正浪漫よ」


 気まずい空気の中、仁枝が割り込んできた。姿格好は、新しい女性風ではあるが、さすがに怒鳴ってくるとは思わなかっただろう。甘粕と森も一瞬唖然とした表情を浮かべた。そして、すぐに怒りで顔を紅潮させ始めた。

 事態は更に悪くなったようだ。言い返したりしなければ良かった。逃げ出したくなったが、軟弱な私でも、仁枝を守らねばならない。虚勢を張って、甘粕をにらみ返した。

 怒りの熱が上昇していた甘粕の顔に変化が見られた。何かに気付いたようだ。


「あなたは、陰織錬造さんの娘さんかな」


 仁枝が肯定の返事をすると、甘粕は呆れたように大きく息をついた。


「お父上はあんなに立派な方なのに、娘さんはこんな恰好で、こんな男と一緒にいるのですか。お父上が悲しみますぞ」


「父は父。私は私です」


 にらみ合う甘粕と仁枝の間で、どうして良いかわからなくなり、自分でもおかしい様な行動に出た。

 懐から、我が社が作った活動写真の招待券を取り出し、甘粕に渡した。


「これで一度活動写真を観て下さい。認識が変わると思います」


 意外にも甘粕は招待券を受け取り、背を見せて去って行った。

 甘粕の背中に、仁枝がしかめ面で舌を出していた。



 大杉さんや仁枝と一緒にいると、思想的なものに染まっていきそうになるが、私の本当の目的は活動写真を撮ることだ。活動写真では、芸術性や思想性より、娯楽性を前面に出していきたい。人間関係を絶つ必要もないが、自分の目的を見失ってはいけない。

 目的達成の為、かねてから興味を持っていた、新しい映像機器を個人で輸入することに決めた。かなりの金額を借り入れることになるが、米国で開発されたこの機器を、日本で初めて使いこなせるようになれば、私の活動写真家としての道も開けるというものだ。活動写真の芸術性が損なわれるという意見もあるが、こちらが主流となっていくはずだ。

 信頼できる人間を仲介し購入したのだが、手元に届くまでは不安に苛まれる日々が続きそうだ。

 不安を忘れる為でもないが、自転車の練習にも精を出した。購入する金は無いので、人に借りて、人目のつかないところで、ひっそりと練習した。元々運動は得意な方ではないので、中々上達しなかった。それでも、自転車に乗れるようになりたかった。仁枝と並んで走れたら、もしくは、仁枝を後ろに乗せて走れたら、そう想像するだけで幸せになれる。仁枝は気にしていないようだが、男としては女の後ろに乗るのは気恥ずかしい。練習して、仁枝の前に自転車で登場しよう。



 ある日、仕事の打ち合わせの為、浅草の活動写真館へ出向くと、見知った顔があった。今回は軍服ではなく背広を着ているが、甘粕正彦だった。私が渡した招待券で、本当に活動写真を観に来たのだ。意外な展開に驚いた。甘粕は、私の存在に気付いていないようだ。

 今日に限って、上映作品は、娯楽活劇ではなく、静かな芸術作品だ。頭の中まで火薬が詰まっていそうな甘粕のお気に召すとは思えなかった。

 活動写真館の人間との打ち合わせを終え、甘粕が出てくるのを待った。正直言って甘粕に良い感情は抱いていないが、観に来てくれたのだから、挨拶するのが礼儀だ。

 上映が終わり、観客達が外に出てきた。その中から、甘粕をみつけ出し、礼を述べた。

 甘粕は、眼鏡の奥の冷やかな目つきを変えぬまま、口だけ動かして言った。


「武器は体を壊し、思想家は頭を変え、表現者は心をつかむ。一番怖いのは誰だ」


 活動写真に文句をつけられるかと思ったが、良くわからないことを言われた。少し考えてから言葉を返した。


「財布を握る資本家ではないでしょうか」


 すると甘粕は口元を歪ませて言った。


「胃袋をつかんでいる女かもな」


 そのまま甘粕は去って行った。

 活動写真に対して遠回しに文句をつけたかったのか、素直に褒めることが出来なかったのか、とにかくただの武闘派ではない何かを感じた。


 

 いつもの安酒場で飲んでいると、隣に野口君が座った。

 彼は詩人で、色々な詩や歌を作っている。社会主義思想にも影響を受け、詩の中に思想が盛り込まれているものもあるそうだ。


「新しい詩を作ったんだ。みてくれないか」


 野口君に一枚の紙を渡された。そこには一遍の詩が書かれていた。早速目を通してみると、赤い靴を履いていた女の子が、異人さんに連れられて、外国に行ってしまったという詩だった。


「物悲しいけど、何か心に響くものがある」


「そう言ってくれるとありがたい。久保城さんの話を参考に作ったんだ。昔横浜に住んでいた外国人が、孤児を引き取って外国に連れて行ってくれたということがあったそうだ。その話を参考に作ったんだ。久保城さんが亡くなってしまったから、形見代わりに詩として残しておこうと思ってね」


 野口君は、久保城殺しは実平の犯行だと思っているようだ。私もそう思っている。しかし、横浜に住んでいた孤児を引き取る外国人の話を仁枝に伝えれば、きっと興味を持つだろう。そうすれば、一緒に横浜観光が出来るかもしれない。それは楽しそうだ。

 早速、久保城が横浜の孤児を引き取る外国人について調べていたことを、仁枝に告げた。


「立派な人もいるのね。素晴らしい話だわ。私も引き取ってもらって、外国に行きたかったわ」


 調べてみると、横浜に住む、英国人商人イクサック・サスーンが、件の人物らしいことがわかった。

 予想通り、仁枝と共に横浜へ向かうことになった。

 東京駅から電車に乗り、横浜へと向かった。電車は赤レンガ造りの豪壮な駅舎を出発し、東京の街並みを走り抜けていった。

 仁枝は、久保城殺しの手がかりを見つけようと意気込んでいるが、私は遠足気分だった。窓の外の景色を眺めながらの弁当がうまかった。運賃は安くはないが、悪くはない。

 大した時間もかからず、横浜の駅に着いた。東京駅と外観が似ている、洒落た造りの駅だった。

 駅を降りて、元は外国人居留地だった地域を目指した。

 外国の文化と接している場所だけあって、何か異国情緒を感じる街並みだ。

 外国人居留地だった場所の外れに、一際大きい西洋風の建物が建っていた。建物の周りは石の塀で囲まれ、全ての窓には格子が付いている。門の前には、日本人の屈強な守衛まで立っていて、通りゆく人々に目を光らせていた。気軽に声をかけられる雰囲気はなかった。住居というよりは、堅牢な砦を思わせる。中の様子はうかがい知れないが、何らかの秘密が隠されているは明白だった。孤児院から引き取られた子供達が、外国で幸せに暮らしていることはないだろう。

 怪しまれないように、屋敷の前を通り過ぎ、遠くからもう一度眺めてみた。


「ここから、女の子達が、海外に売られていったということなのね」


 仁枝が暗い声でつぶやいた。

 多分そういうことだろう。何年か前に人身売買を禁ずる法律が出来たが、現実に身売りは行われている。この館の主は貿易商という表の顔の裏で、日本の娘を海外に売り飛ばしているのか。

 海外に売られてゆく女性を、「娘子軍じょうしぐん」、「からゆきさん」などと呼んだりするが、久保城は「赤い靴をはいた女」と呼んだのではなかろうか。女性地位向上運動に携わるうちに、ここにたどり着いたのだ。


「久保城乙美は、女性の地位向上の為に動いていて、ここにたどり着き、秘密を知って殺されたのかな?」


 私の問いに、少し考えてから仁枝は答えた。


「そうかもしれない」


 直情型の仁枝でさえ答えを濁す程に証拠はない。ただ、イクサック・サスーンの館は、本当に何かを隠している。

 仁枝の視線が急に別の方を向き、驚きの表情を浮かべた。

 その視線の先にあるものを確かめるべく首を回すと、私達から少し離れた所に一人の男が立っていた。

 短く刈り込まれた頭に、目に暗い光を宿した整った顔、背は高めで一見細身に見えるが、服の下には強靭な体がひそんでいるのがわかった。

 この男をどこかで見た気がしたが、急なことに頭が混乱して、記憶を取り出すことが出来なかった。

 とにかく、味方ではない。イクサック・サスーンの手下か。我々を久保城のように殺しに来たのか。

 恐怖で体を強張らせながらも、仁枝を守ろうと、前に立ちふさがった。

 男は影のように間合いを詰め、手が届く距離まで近付いてきた。


「あの家のことには関わるな」


 低いのにはっきりと聞き取れる声で男は言った。

 やはりイクサック・サスーンの手下が、我々を牽制しに来たのだ。

 内心の動揺を押し殺し、男をにらみつけると、男の視線は私を通り越し、仁枝を見ていることに気付いた。振り返ってみると、仁枝も男に冷たい視線を送っていた。二人は顔見知りのようだ。


「帰ろう」


 仁枝に手を引かれて、その場から離れた。振り返ると、男が温度の無い目でこちらを見ていた。少し進んでからもう一度振り返ると、男の姿は消えていた。

 少し落ち着いたら、記憶を取り出すことが出来た。皇居の堀や、神楽坂の暗がりで見た男だった。


「あの人は知り合いなのか」


 私の問いには答えずに、仁枝はずっと無言で歩き続け、不機嫌な空気を発散し続けた。

 帰りの電車の中、気まずい沈黙に耐え切れなくなりかけていた頃、窓の外を眺めながら、仁枝がつぶやいた。


「あの人は、曽我崎真留そがさきまとめ…。私の父の妾の子」


 腹違いの兄弟か。全然似ていない。豪傑石走錬造のことだ、妾が何人いてもおかしくはない。仁枝と曽我崎の仲は良くなさそうだ。二人の表情から伺い知れる。それにしても、あんなところで会うなんて奇遇だ。しかも、曽我崎は何か知っているようだった。連絡を取ってみたいが、仁枝は気乗りしないようだ。制服は着ていなかったが、警察か軍人の様な鋭い雰囲気を持っていた。イクサック・サスーンについて何か調べていたのではないか。それとも、イクサック・サスーンの用心棒で、我々を追い払ったのか。とにかく、もう一度会って話してみたかった。

 久保城殺しは、実平の犯行で決まりだと思っていたが、本当に隠された真実があるような気がし始めていた。


 

 久保城事件も気にはなっていたが、私が購入した米国製の映像機器が吹き消してしまった。

 米国から船で横浜まで運ばれ、そこからは陸路で我が手元までやってきたのだ。

 偽物をつかまされていないか、運ぶ途中で壊れていないか、不安と期待で胸を高鳴らせながら、機器を始動させた。どうやら大丈夫なようだ。


「問題なさそうだな。安心したよ」


 購入を仲介してくれた貿易商の島路さんも始動に立ち会ってくれて、無事動いたことを共に喜んでくれた。


「しかし、貫井君も思い切ったな。これを個人で買うなんて、賭けみたいなものだよな。まわりの社会逸脱者に影響されちゃったんじゃないの」


 辛辣にも聞こえる言葉だが、島路さんが言うと、嫌味なく聞こえる。

 確かに、大杉さんをはじめとする無政府主義者や、経済観念が欠如した芸術家達と交流していると、感覚が麻痺してしまう。悪い影響は受けてはいけない。


「この機器が、この先活動写真の主流となっていくと思います。いや、僕が流れを作ります。これで良い作品を作れば、大きな企画を任せてもらえるようになります。そうなれば、この機器を会社に買い取ってもらうことも可能です」


 我ながら都合の良い考えだ。だが、何か行動を起こさねば、現状は打破出来ない。

 島路さんは私の青臭い願望を、笑顔で聞いてくれていた。

 ふと久保城殺しのことを思い出し、島路さんは、イクサック・サスーンについて、何か知っているか尋ねてみた。

 島路さんの笑顔が急に消えた。


「貫井君。そこには関わらない方が良い」


 険しくなった島路さんの表情が、重大な何かがあることを物語っていた。


「女性を海外に売り飛ばしているからですか」


 島路さんは辛そうな顔をしてうつむき加減で答えた。。


「そういう噂もあるな。だが、あの館に入った娘が出てきた姿を見たことがないという話もある」


 そこで島路さんはしばらく口ごもった。そして、少し逡巡してから、重たい口を開いた。


「私も詳しいことを知っているわけではないが、イクサック・サスーンには軍が絡んでいるという噂もあるのだ。軍隊は、国から割り当てられる予算だけではやっていけず、裏金作りをサスーンと共に行っているらしい。真偽の程はわからないがね」


 軍という言葉が出てきて、目の前に暗幕が垂れ下がってきたような思いにとらわれた。島路さんの話が本当なら、私や仁枝の手に負える話ではない。新しい機器を手に入れた喜びがかすんでしまう程の大きな深い闇だった。



 久保城殺しはひとまず置いておいて、新しい機器を使って、自分の作品を作るという本来の目的へ取り掛かった。一人では出来ないので、仲間を集めなければならない。自分の活動写真完成への一歩目はもう踏み出されたのだ。

 そんな矢先に、甘粕正彦が私の前に現れた。


「まだ、自由と無責任をはき違えている奴らとつるんでいるのかね」


 眼鏡の奥の鋭く冷たい目が、私の心に探りを入れているようだった。

 言葉通り、大杉さん達無政府主義者との交流を咎められているのか。そう見せかけて、イクサック・サスーンと軍の関わりについてどれだけ知っているのか調べようとしているのか。甘粕の心は、表情からは読み取れない。


「僕も責任は果たすべきだと思います。それに人に迷惑をかけるのは自由ではなく、自分勝手なだけです。しかし、あなたのように思想や主義主張を弾圧して、全員を同じ方向に向かせるやり方は、いかがなものかと思います。個人の幸せがなければ、全体の幸せもないと思います」


 甘粕の表情には、何の変化もなかった。


「青いな。全体あっての個人だ。全体の為に個人を抑えなければならない。時には個人を切り捨てねばならない場合もある」


「自分が、全体の為に切り捨てられる個人になっても、それを受け入れることが出来るのですか」


「甘んじて受けよう」


 甘粕の目には、確固たる信念の光が灯っていた。私にはそれがとても恐ろしく感じられた。

 会話そこで終わり、甘粕は背を向けて去って行った。私よりも小柄なくらいなのに、その背中がやけに大きかった。

 サスーンのことから話を逸らそうとしたのだが、社会主義者のようなことを言ってしまった。誤解を与えてしまったかもしれない。逃げられない渦に飲み込まれていっているようだった。

 作品作りの相談をしようと仲間のもとに出向こうとすると、乳母車を押した大杉さんに出くわした。


「お、貫井君。赤い靴を履いた女の子はみつかったかね」


 内臓が縮まった。この人が何故赤い靴を履いた女の子の情報をもとに、横浜に行ったことを知っているのだ。

 よく考えてみると、大杉さんは謎だらけだ。仏蘭西に行ったりしているが、その金はどこから出ているのか曖昧だ。内務大臣の後藤新平の家に行って、金をくれと言ったらくれた、という話は甚だ疑わしい。後藤新平といえば、戦争の後日本に割譲された台湾で暗躍していたという噂もある。その男から金をもらうということは、何か裏があるのではないか。半蔵門事件の時も、ちょうど獄中にいて死を免れたと言うが、少し都合が良くないだろうか。

 自由奔放でいて知的な魅力のある男だと思っていたが、急に恐ろしく思えてきた。


「高い電車賃を払ったのに、ただの横浜観光で終わってしまいました。しかし、大杉さん、僕が横浜に行ったことを良くご存じですね」


 大杉さんは、屈託なく笑った。


「野口君に聞いたよ。貫井君が、赤い靴の女の子の話に興味を示したことをね。本当に横浜まで行くとは行動力あるな。僕も久保城君の死には疑念を抱いていて、真相を調べたいと思っているのだが、いかんせん子供が生まれたばかりでね。石走錬造の娘はともかく、貫井君のことは応援しているよ」


 大杉さんの言葉に嘘は感じられなかった。だが、嘘をつくのが異常なまでに上手い、稀代の詐欺師の可能性もある。

 乳母車の中では、赤子が愛らしい笑顔を見せていた。内縁の妻、伊藤野枝との間の子供だ。この子で四人目か五人目のはずだ。子供達は、伊藤の実家に預けていると聞いていたが、大杉さん自身も子育てをしているようだ。立派な体格の大杉さんが乳母車を押す姿は、微笑ましいを通り越して、滑稽ですらある。それでも、私の心に暖かいものは沸いてこなかった。

 大杉さんが去っていく背中を眺めながら、久保城殺し事件に関わるのは、もうやめようと決めた。集まってくる情報だけでも、ただの活動写真屋である私の手に負えるものではないことがわかる。底知れぬ闇への恐怖から、疑心暗鬼にかられ、日常生活や仕事にも悪影響を与えてしまっている。心残りがない訳ではないが、ここは退かねばならない。



 短編の活動写真制作に向けて、準備が整い始めた。無名だが演技力のある役者や、腕の良い裏方を集めることが出来た。報酬はかなり譲歩してもらったが、私の借金は更に増えることになりそうだった。それでも、毎日が充実していた。

 そんな折、仁枝が現れた。


「あれから色々調べてみたの。イクサック・サスーンが孤児院から子供を引き取ったという記録が残っていたの。でも、その女の子達が、船に乗った記録も、その後の消息も無いの。やはりイクサック・サスーンが身寄りのない子供を引き取って、海外で幸せな生活をさせているなんて嘘。自社の船でこっそり海外に売り飛ばしているのよ」


 そうかもしれない。そうではないかもしれない。


「この件に関わるのはよそう。イクサック・サスーンは、人身売買をしているかもしれないが、軍部とも関わっているという話もある。僕達の手に負える話ではない。もうやめよう」


 仁枝の目が、悲しげに見開かれた。


「そうだよね。ごめん。変なことに付き合わせて。命が短いのは私だけだものね。あなたの命まで短くすることはない。私一人でやるわ」


「そんなに自暴自棄になるな。短い命を伸ばす努力をしろよ。医学は日々進歩している。助かる道はある」


 見開かれていた目の色が、悲しみから怒りに変わった。


「努力してきたわよ。ずっと、ずっとね。子供の時からお父さんに連れられて、何軒もの病院を回り、数え切れない程のお医者さんに診てもらった。助からないことは私が一番わかっているのに。嫌で嫌で仕方なかった。もう、治そうなんてしなくていいの。命が短い私を受け入れて欲しいの。私の少ない時間を削られたくない。妖怪の姿まで受け入れろとは言わない。せめて、その時が来るまでは、ただそばにいて欲しい」


「こっちだってそばにいたい。でも、女性の地位向上とか、久保城殺し事件とかで動き回っていたら、そばにいたくてもいられないじゃないか」


 仁枝のたかぶっていた感情が、少し沈静化してきたようだ。


「そうだね。言っていることも、やっていることも矛盾している。女性の地位向上。それは絶対に実現させたい。女性も平等に社会に出られる世の中になって欲しい。そういう想いの源は、お父さんを許せなかったから。お母さんが妖怪の様な姿になって死んで、お父さんは私を執拗に医者に診せるようになった。子供ながらに避けられない運命だと思っていたから、医者めぐりはただの時間の浪費で、苦痛でしかなかった。それでもお父さんは、治せる医者を探し続けた。その上、何かに憑りつかれたように体を鍛え続けた。家の隣に練習場を作ってまで、稽古を怠らなかった。私を守ろうとしていたみたいだけど、何から守ろうとしていたの。危険が及んだことなど、一度もなかった。そして、一番悲しかったのは、お父さんに妾がいて、子供まで作っていたこと。妾の子は、私と同じくらいの歳だった。だから、お母さんが生きていた頃から、既に妾がいたということ。お父さんと、お母さんと、私の三人の思い出は、私にとってはかけがえのない宝だった。その宝が壊された気持ちになった。大人の世界には色々あるのはわかる。それでも…」


「お父さんに、そのことを問いただしたのか?」


「お父さんには訊いていない。妾の子本人に言われた。お父さんが作った道場に、一人の男の子がいたの。私から見ても、その子がお父さんに接する姿には何か感ずるものがあった。そうかもしれないと、子供心に思ったけど、必死に打ち消した。ある日その男の子に言われたわ。俺は石走錬造の息子だと。それが貫井さんも横浜で会った曽我崎真留。悲しくて悲しくて陰で泣いたわ。もう少し大きくなって思った。男は妾を持っても良いのに、女が同じことしたら姦通罪。そんなのおかしい。こんな世の中変えてやるって思った。」


 仁枝の新しい女と言われる様な服装や行動は、このようなことがもとになっていたのだ。


「言葉にしてみると、他愛もない悩みね。私より若くして死んでいく人はいくらでもいる。私より過酷な運命を背負った人はいくらでもいる。それでも死は怖い。私の小さな力で、何をどう変えられるのかなんてわからない。何も変わらないかもしれない。それでも行動していたい」


 運命を受け入れてなお耐え難い死の恐怖。そして、残された時間の中で何かしたいという情熱。仁枝の話の中からそれがどういうものか伝わってきた。だが、私の力は余りに小さい。


「仁枝の悪を見過ごせないという気持ちもわかるが、現時点では証拠らしい証拠もない。噂話の域を出ていないのに、警察が動いてくれるはずもない。イクサック・サスーンの家を調べれば、何かわかるかもしれないが、あんな要塞の様な館、天と地がひっくり返りでもしない限り、僕達にはどうしようもない。下手すれば殺されてしまう」


 仁枝は悲しそうな顔を、無理矢理笑顔に作り変えた。


「私の先祖は、天保の飢饉の時に村が滅びて、一人で村から旅立った。食べる物も無く、助けてくれる人も無く、一人でひたすら歩いた。頭の上にはほうき星が瞬いていて、自分を導いてくれるみたいだったそうよ。必死に歩いて、どうにか生き延び、子供を産み、命をつなげた。でも、つながった先の私は、どこに行けば良いのかわからず、迷ってばかり」


 天保の飢饉の時、頭の上に瞬いていたほうき星。ハレー彗星のことか。子供の時に見に行った。友達と一緒だった。いや、違う。一人で丘の上に行ったら、先客がいて、一緒に見たのだ。


「ハレー彗星の尾は毒で、地球に一番近付く何分かは、息を止めていないと死ぬんだって」


 その子が話しかけてきた。


「嘘に決まっているだろ」


 私は鼻で笑って返した。


「そうだよね。嘘に決まっている」


 空で輝くハレー彗星は美しかった。しかし、見上げているうちに不安になってきた。本当に毒だったら、死んでしまうかもしれない。思わず息を止めていた。しばらく我慢していたが、限界が近付いてきた。横を向くと、ちょうど目が合った。その子も必死に息を止めていた。その顔が面白くて吹き出してしまった。目の前の子も笑った。

 しばらく笑い続けた後、ハレー彗星の下で、その子と見つめ合った。吸い込まれそうになるくらい、美しい女の子だった。

 名も聞かぬまま別れたあの子は…。


「思い出した?」


 あの子は仁枝だ。


「大好きだったお母さんが死んで、治る見込みもないのに何度も何度も病院に連れていかれ、宝物だった家族三人の思い出も壊されて、もう妖怪になるのを待たないで死んでしまおうかとも思った。そんな時、私の先祖を導いてくれたというハレー彗星が来るというので、あの丘に見に行った。そこであなたと出会った。そして久し振りに笑った。ハレー彗星が、あなたのもとに導いてくれたと思った。残りの人生を強く生き抜いてやろうという活力が沸いてきた。再びあなたに出会った時、あなたは私のことを忘れていたけど、私は一目でわかった。魔法の傘なんて嘘よ。夏の午後ににわか雨が降るなんて当たり前。私の珍しい格好で気を引いて、雲の流れから注意を逸らして傘を開く。後は雨が降り出すのを待つだけ。そうやって偶然の再会を、運命の出会いに作り変えたの。五代鈴子はともかく、私に霊能力は無いわ。出会いも再会も、ただの偶然」


 まわりにまとわりついていた霞が晴れて、仁枝を直接目の当りにした。そこにいたのは、病気や家族関係で悩む、普通の女性だった。

 ハレー彗星の思い出を何故忘れていたのだろう。仁枝は覚えてくれていたのに。申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

 昔のことは忘れていた。だが、間違いなく仁枝のことは好きだ。それでも、仁枝が望むことと、私が進みたい方向は別の方を向いている。仁枝がそばにいて欲しくても、私は自分の活動写真を作りたい。そうすると、共にいる時間は限られてくる。


「活動写真のことを熱く語るあなたのこと好きだった。自分の作品撮ったら、私にも観させてね」

 儚げな笑顔を見せながら、仁枝は去って行った。



 仁枝がいなくなり、胸に穴が開いた。その穴を埋めるべく、活動写真作りに邁進した。昼夜無く脚本を練り、仲間達と語り合い、新型機器の使い方を研究した。

 仁枝が無謀な行動に出て、久保城乙美の様に殺されるのではないかと心配になるが、時間に追われた現在の私では、そばにいることさえままならない。もどかしさを抱えたままだが、活動写真作りは充実していた。

 連日の激務を終えて家路に着くと、暗がりの中から、音も無く、影が進み出てきた。

 体を強張らせて後ずさりしたが、どうやら害意は無いようだった。


「横浜で仁枝と一緒にいた男だな」


 曽我崎真留だった。暗い光をたたえた目は、夜に見ると、一層不可解な力を放っていた。


「仁枝が色々と嗅ぎ回っている。やめさせろ」


 少し強めの口調で言われた。やはり仁枝は真相解明を諦めていないようだ。


「こっちだってやめさせたいと思っている」


 怯えを悟られないように、強気で言い返すと、曽我崎は大きなため息をついた。

 更に人気のない場所に移動して、曽我崎と話し合った。

 言うか言うまいか、少し迷ったが、口に出して質問してみた。


「イクサック・サスーンについて嗅ぎ回るなというのは、軍が絡んでいるからか?」


 曽我崎の目が少し動いたが、特に大きく表情を変えることも無く返してきた。


「一介の民間人にまで知れているのか。随分と緩いな。それだけわかっていれば充分だろう。下手に首を突っ込めば、お前らの命など簡単に飛ぶぞ」


 大袈裟に語っているようでもなかった。


「命が惜しいから、なるべく関わりたくない。ただ、仁枝は…」


「短い命だからな。言っても引き下がらないか」


「兄弟なのだろう。どうにかしてくれ」


 曽我崎が固まった。そして、また大きく溜息をついて、話し始めた。


「仁枝から聞いたのか。俺があいつに言ったからな。石走錬造の子供だと…。あれは嘘だ」


「嘘?」


「石走錬造の息子だったら良いな、と思っていた。本当は違う。赤の他人だ。実の娘の仁枝が羨ましくて、嘘を言ってしまった」


 そうだったのか。子供がついた他愛もない嘘が、いまだに引きずられている。


「俺は身寄りがなく、孤児院で育てられ、物心がついたくらいに、子供が出来ない曽我崎の家に引き取られた。そうしたら、俺を引き取った後で、夫婦の間に実の子供が出来てしまった。孤児院に送り返されることはなかったが、後は腫物に触るような扱いだった。そんな俺を、錬造さんは自分の道場に誘ってくれた。家に居場所の無い俺は、道場に足しげく通った。錬造さんも目をかけてくれて、俺の武術の腕はめきめきと上達していった。そうすると、錬造さんが更に褒めてくれた。他の人から聞いたのだが、孤児院時代も、養子に出されてからも、錬造さんは俺のことを気にかけてくれていたらしい。昔から俺のことを知っていたのだ。俺は、本当に石走錬造の隠し子なのではないかと思い始めた。勝手な思い込みは、日を増すごとに強くなり、いつしか確信へと変わっていった。しかし、少し調べてみたら、ただの妄想だったことがわかった。俺は昔起こった、もらい子殺し事件の生き残りだった。養子縁組をすると語った夫婦が、縁組などせず養育費だけを奪って、子供を殺していた事件だ。当時警察官だった錬造さんが、犯人逮捕の時に、まだ赤ん坊だった俺を助けてくれたのだ。それで昔から気にかけてくれていたんだ。子供心に衝撃を受けた。勝手な願望は砕かれ、親に捨てられたことがわかり、養子先にも居場所が無い。やり場のない怒りが、仁枝に向かってしまった。家の隣に道場を作ったのも、手練れの者をそばに置いて、仁枝を危険から守る為だ。あいつの死んだ母親が、いわれなき流言から殺されかけたことがあるらしい。それで、錬造さんは仁枝を守ろうとしていたのだ。仁枝の病気を治そうと、遠くから医者を呼び寄せたりもしていた。ただ実の娘というだけで、錬造さんの愛情を一身に受ける仁枝が憎かった」


 曽我崎の瞳の闇に、感情の火が灯っているのが見えた。


「錬造さんの胸の内も知らず、わがままに生きる仁枝は今でも好きにはなれない。だが、昔ついた嘘で傷つけたのなら、申し訳ないことをした。男らしくなかった」


 曽我崎の嘘で仁枝の人生が変えてしまっているのは確かだが、彼の話を聞く限り、仁枝はともかく私には責める資格はない。彼の生い立ちは、もっと道を踏み外しても仕方ない程だ。


「まあ、自分の過去を引きずっている時点で男らしくないのだがな。もう過去ではなく未来を見なければいけない。俺は婿にいくことが決まった。曽我崎の名を捨て、家族を、未来を作る。だからこそ過去と決別したい。自分の育ちの他にも、心に引っかかっていることがある。孤児院時代に仲の良かった女の子がいた。二人で本当の親が迎えに来てくれる空想を語り合い、孤独な生活を乗り切ろうとした。その子は、親が残してくれたという数珠を首から下げて、肌身離さず持っていた。本当に親が残した物かもわからないのにな。結局、本当の親が迎えに来る前に外国人に引き取られていった。その外国人がイクサック・サスーンだ。サスーンに引き取られた後は、どうなったか消息不明だ。日本のどこかにいるのか。外国で暮らしているのか。もう死んでいるのか。先に進む前に、そこをはっきりさせたい。イクサック・サスーンは、日本の軍部と絡んでいるし、下手につつけば国際問題にもなり兼ねない。難しい問題だ。だから、お前や仁枝には手を出して欲しくない」


 曽我崎は、過去から脱却し、未来へ進もうともがいているのだ。曽我崎の口振りからは、その子が生きているという希望は含まれていないようだった。助けたいとか、会いたいというよりは、ただ確かめて、過去と決別したいのだ。


「わかった。なるべく仁枝を説得してみる」


 手を出そうとしても、要塞の様な造りで、護衛もしっかりと立たせ、二重三重に思惑が絡んでいる。奇跡でも起きない限り、何も出来ないだろう。


「君は警察なのか」


 制服は着ていないが、鋭い雰囲気と聞いた話から、そのような職業を連想した。


「まあ、そんなところだ」


 そこの部分ははぐらかされた。こちらもそれ以上は詮索しなかった。

 別れの言葉を残し、曽我崎真留は闇にとけ込んでいった。

 仁枝の女性地位向上運動の原動力である、父親が妾との間に子供を作っていたということが、曽我崎の嘘だとわかった。このことを上手く伝えられれば、久保城殺し事件の真相解明から、手を引かすことが出来るかもしれない。



 次の日、京橋の社屋で仕事をしていた。仕事がひと段落つき次第、仁枝に会いに行こうと思っていると、急に床が突き上げられ、私は崩れ落ちた。地震だ。しばらく揺れは続き、棚は倒れ、窓ガラスは割れ、人間ははいつくばって揺れがおさまるのを待つしかなかった。

 長い揺れがおさまった時、部屋の中は散乱し、建物自体が傾いていた。

 外からは叫び声や、怒声が聞こえてきていた。

 踏み場も無い程散らかっていたが、何とか立ち上がり、倒れていた同僚達を助け起こした。幸い大怪我をした者はいないようだ。

 外に出てみると、予想以上に被害は大きかった。古い木造の建物は、倒壊したり、傾いたりしているものばかりだった。昼時で火を使っていたのだろう。遠くの空に煙が上っているのが見えた。会社の近くの倒壊した家から、火の手が上がった、消火しようとしたが、崩れ落ちた屋根や柱の奥で火が燃えている。少しの水ではどうしようもない。そうこうしているうちに、あちらこちらで火事だという叫び声が上がった。逃げるしかない。

 社長は不在だから、指示を仰ぐことは出来ない。会社に戻り、独断で大八車に積めるだけの機器やフィルムを積み、西の方へ逃げることにした。同僚達は、自分の家を見てくるそうだ。私の住む古い長屋は、もう駄目だろうし、幸い新しく購入した機器は、会社に持ってきていた。見回してみても壊れている箇所はない。とにかく安全そうな場所に逃げることにした。

 道は瓦礫と逃げまどう人々でごった返し、中々進めなかった。

 大通りに出ると、興奮した馬が逃げ出し、狂ったように駆け回り、人々の通行を邪魔していた。

 大八車を引いて、暴れる馬に蹴られないように、慎重に横を通り過ぎた。

 大通りに面した近代的建造物は、比較的被害が少なそうだが、外壁が崩れているものもあった。それだけ揺れは大きかったのだ。

 人の怒声は絶え間なく飛び交っていた。海の方へ逃げろとか、津波が来るから駄目だとか、どこそこが火事だから違うところへ逃げろとか、言葉が耳に入る度に不安は増していった。どの情報を信じれば良いのか迷ったが、まずは皇居前に広場へ行くことにした。

 皇居周辺は、避難してきた人々であふれていた。怪我をしている人、汚れた体の人も多い。着の身着のままで逃げてきたのだ。

 会社に置いてあった機材などを運び出せたのは良かったが、同僚、友人、知人の安否が気になった。仁枝は無事なのだろうか。葉羽村にいるのだろうか。それとも出先だろうか。心配が募る。

 しばらくすると、東の空が赤く染まってきた。火事だ。下町が燃えているのだ。私の住む貧乏長屋も、あの火の中に飲み込まれていくのだろう。家に財産と呼べるようなものはないが、寂しい気持ちにはなった。

 どこに移動して、何をすればよいのか。それともここに留まり、災難が去るのを待つべきなのか。

 皇居周辺に避難してきた人々の中に、知った顔もいて、無事を喜び合った。普段は格別親しい訳でもない人でも、生きている顔を見ると、喜びが込み上げてきた。

 仁枝の姿はみつけられなかった。良くない想像が頭に浮かんでくる。それを必死でかき消した。

 気がつけば、日が暮れてきていた。それでも火事がおさまることはなく、空は赤いままだった。遠くからでもわかる火の勢いの前では、人々はあまりに無力だった。

 赤い空の下で、避難してきた人達と共に眠れぬ夜を過ごした。

 日が昇ってみても、まだ火事はおさまらなかった。

 仁枝のことが気になって仕方なかった。東京の西側では、火事はそれほど燃え広がっていないという情報を信じ、葉羽村まで直接赴き、仁枝の所在を確かめることにした。

 鉄道は止まっているし、道は瓦礫が散乱している。大八車を引いて進むのは、大変な道程になりそうだ。

 進みながら、地震の被害の状況をカメラに収めたりもした。残さねばならない記録ではあるのだが、遺体や怪我人を撮るのは心が痛んだ。どうしても崩れた建物中心の撮影になってしまった。

 重い足と大八車を引きずりながら、荒れた東京の街を進んだ。太陽が高くなってきたが、出発した場所から大した距離は進んでいなかった。

 日が暮れるまでに着けるかどうか心配になってきた頃、不意に名を呼ばれた。見ると満面の笑みを浮かべた大杉さんが手を振っていた。不信感を募らせていたことなど完全に忘れ、再会出来たことを喜んだ。大杉さんの子供達も全員無事だそうだ。五人いて会ったことがあるのは一人だけだが、何故か心の底から嬉しい。

 大杉さんが仁枝のことを良く思っていないことはわかっていたが、仁枝のことが心配なので、徒歩で葉羽村まで行こうとしていることを告げると、諦めたような苦笑を浮かべ、大八車と積荷を預かってくれ、その上自転車も貸してくれることになった。

「陰織仁枝は危険な女だが、もう止めはせん。思想に自由あれ。しかし、また行為にも自由あれ。そして、さらにはまた動機にも自由あれ。君の自由を応援しよう安心して行きたまえ。この積荷を質入れしようにも、今は質屋もやっていないだろう」

 大杉さんに対する警戒心が完全に消えた訳ではないが、この事態で他に頼める人もいない。大杉さんの家まで大八車を引いていき、礼を言って借りた自転車にまたがった。


「子供達は野枝の叔母さんのところへ預けてあるんだ。ここらよりは被害がましなようなのでね。下町の方は更に大変なことになっているようだな。横浜や鎌倉は更にひどいことになっているという話もある。葉羽村の方は畑と田んぼばかりだから、大丈夫だと思うが、貫井君も気をつけろよ」


 大杉さんとの会話の中で、何か引っかかるところがあった。横浜という言葉だ。横浜でも地震の被害があったのなら、奇跡でも起きない限り突破不可能だと思われたイクサック・サスーン邸の防衛も崩れた可能性がある。仁枝が無事で、横浜に被害があったと知ったのなら、当然行動を起こすはずだ。

 仁枝が横浜へ向かったという根拠などない。だが、私の直感が行けと言っていた。葉羽村から横浜へ行先変更だ。

 自転車はこっそり練習していたが、そんなに長い距離走ったことはない。それに、この荒れた道だ。日が暮れるまでに横浜に着けるかどうか。着いてみたところで、イクサック・サスーン邸がどうなっているかもわからない。全く被害がなく、堅固な守りのままかもしれない。そうなれば、私にはどうしようもない。それでも私の頭の中には、不安の声より、進めの声が高く響いていた。

 崩壊した東京の街を自転車で走った。見慣れていた景色が一変している。目印になる建物が崩れていて、道を確認しながら進んだ。

 いまだに火がくすぶっている場所もあった。倒壊した家の下に置き去りにされている遺体も山のように存在しているだろう。人間の無力さを噛み締めながら自転車をこいだ。

 すれ違う人々の顔は様々だった。家も財産も失い、疲れ果て絶望にうちひしがれている人もいれば、この状況でも他人を助けようと活発に動いている人もいた。

 家の下敷きになった生存者を助け出す手伝いをした。仁枝のことを思うと焦る気持ちもあったが、助け出された人間が息をしているだけで、得も言われぬ幸福を感じた。

 途中親切な人達から水や食料を分けてもらった。助け合いの精神が消えていないことに感謝しつつ先を急いだ。

 暑くて障害物にあふれた旅路は、永遠に続くかとも思われたが、自転車は神奈川へ入った。先が見えてきたことにより、こぐ足にも力がこもった。

 地震は神奈川の方が大きかったのだろうか、東京よりも被害が酷いように思えた。

 横浜駅まで壊れていた。まだ新しくきれいな建物だったが、地震に耐え切れなかったのだ。

 家屋などの建物は、壊滅的な被害を受けていた。しかし、噂話のような津波の被害はなさそうだった。

 日が沈み始める頃、イクサック・サスーンの屋敷がそびえる高台の麓に着いた。下から見上げると、明らかに形が崩れていた。難攻不落と思われた鉄壁の要塞も、大地の身震いの前には、呆気なく崩れ落ちたのだ。

 屋敷へ続く坂道を、自転車を引いて上った。

 石造りの塀は軒並み倒れており、鉄製の重い門扉に守衛が下敷きになっていた。助け出そうと近付いたが、既にこと切れていた。

 崩れた塀の横に一台の自転車が置かれていた。仁枝のものだ。やはりここに来ていたのだ。置かれている状態から、地震で塀が崩れた後に置かれたのだと思われた。

 私も横に自転車を置いた。東京から自転車でここまで来て、体は既にへとへとだったが、気を抜いてはいられない。地震で形を変え、夕日を背景に異形の姿を浮かべたサスーン邸は、そう思わせる空気を発していた。

 イクサック・サスーン本人やその仲間はまだ中にいるのだろうか。まだ家の形を留めているが、風でも吹けば崩れ落ちて下敷きになってしまうのではないか。色々なことが頭に渦巻いて足を重くしていたが、歪んで開きっ放しになった扉から中へ入った。

 日は沈み切っていないが、内部は薄暗い。中から見ても家は歪んでいた。一人で薄暗い邸内に立っていると、家が歪んでいるのか、自分の視界が歪んでいるのかわからなくなってくる。

 一階の居間には、高級な家具や調度品が備え付けられていたが、地震で倒れたり壊れたりして部屋は散乱していた。天井から華美な照明が落ちてきており、その下敷きになって守衛が一人死んでいた。

 私が入ってきたのとは別の戸が突然開き、人が居間に入ってきた。こちらも驚いたが、入ってきた人間も驚いていた。仁枝だった。


「どうしてここに?」


 仁枝の問いに、私は返した。


「ハレー彗星の毒にやられて道間違えてしまった」


 汗と埃で汚れた顔の中で、目尻の涙が光るのが見えた。そして潤んだ瞳でこちらを見て笑ってくれた。それだけでも、ここまで自転車をこいだ甲斐があった。

 仁枝もついさっき着いたとのことだった。横浜にも地震の被害があったと聞いて、自転車をこいでここまで来たのだ。私の読みは正しかった。

 一階の他の部屋を探索してみた。そこまで怪しい家には思えない。ただの西洋風の豪華な邸宅に思われる。

 執務室の机の中からは英語の書類がみつかった。私にはわからないが、もしかするととても重要な証拠かもしれない。そっと引き出しを閉めた。

 簡易的な金庫が部屋の隅に置かれていた。鍵は机の引き出しに入れられていた。開けてみると、少しの現金が入っているだけだった。無防備な金庫の中など、こんなものだろう。

 更に奥に進み、頑丈な木製の扉を開けると、大きな倉庫になっていた。所せましと木箱が何箱も積み重ねられていたようだが、今は地震で崩れ、倉庫内は中身の粉が舞い散っていた。

 倉庫内を白く覆う粉を指ですくいあげてみた。


「これは阿片だ…」


 活動写真の仲間うちでも退廃的な者が使用しているのを見たことがある。この大量の阿片は、とても個人使用のものとは思えない。医療用のものでもないだろう。


「これにたどり着いて、久保城さんは殺されたのね」


 阿片の密輸に軍が絡んでいるのか。発覚したら大事件だ。

 家の探索を続けたかったが、日が沈み暗くなってきてしまった。電気は復旧していない。仕方なく、食卓の上にあった燭台の蝋燭に火をつけ、手に持った。

 いつ崩れ落ちるかわからない二階へ行くのは気が引けたが、今更尻込みもしていられない。軋む階段を上り、床がかしいだ二階へと踏み入れた。

 傾いた廊下を恐る恐る進み、最初の戸を開けると、そこは寝室だった。

 部屋の中に置かれた寝台から、一人の外国人男性が転がり落ちていた。

 仁枝が私の後ろで息を飲んだ。

 半開きの目は、ただ天井をみつめている。死んでいるようだ。この男がイクサック・サスーンだろう。痩せさらばえていて、はだけた服の下からあばらが浮いた体が見えた。寝台の横には、阿片を吸引する為の器具が置かれていた。

 サスーンの様相は、末期の阿片中毒者だと思わせた。地震による外傷はなさそうだ。阿片を流して儲けていた男は、自らも阿片に蝕まれて死んでいったのだ。

 散乱した調度品の中には、特別に怪しいものはなかった。

 暗い気持ちになりながら、階段を下りた。

 この館は、まだ何かを隠している。心許ない灯りで、もう一度屋敷内をみつめ直してみた。

 廊下の突き当りの壁に、大きな亀裂が入っていた。家の壁中亀裂だらけだったが、そこの部分だけは違和感を覚えた。亀裂の入り方が、他の壁とは違う。近付いて壁に触ってみると、感触がおかしかった。この向こうには空間が存在している。

 仁枝と目を合わせてから、亀裂に手を差し込み、壁をはがしにかかった。天井が落ちてこないか不安だったが、偽装の壁はすぐに取り除くことが出来、黒い空間が姿を現した。燭台を差し入れ、中を照らしてみると、地下へ階段が続いていた。蝋燭の灯りでは、少し先までしか照らし出せない。階段の下に何があるかなんて、まるで分らなかった。

 横目で見れば、いつもは勝気な仁枝も、明らかに恐怖の表情を浮かべている。私も正直言えば怖い。逃げ出しそうになる足を無理矢理押さえつけ、一歩ずつ階段を下った。

 まだ暑い季節だが、ひんやりした空気が下から漂ってきている気がした。地下だからか、恐怖で私の背筋が凍えているだけか。

 奈落の底まで続いているかと思えた暗闇に続く階段も、下りてみればすぐに底に着いた。

 そこには何人もの人間が存在していた。心臓が跳ね上がる程驚いたが、動く気配はまるでない。良く出来た人形だった。

 少し落ち着いて今いる場所を確認してみた。階段を下りた先は小さな部屋になっていて、等身大の女の子の人形が、何体も置かれていた。本物と見違えんばかりの精巧さだ。どれもこれも、可愛らしい洋服を着て、赤い靴を履いている。立っているものも、椅子に座っているものもあった。


「これ、人形じゃない…」


 仁枝の言葉が、狭い地下室に小さくこだました。

 もう一度人形達を良く見てみる。これは人形ではなく、人間だ。人間の剥製だ。

 もう瞬きをすることはない少女達の目が、我々をみつめていた。

 少女達の一人の首に、数珠がかけられているのに気付いた。曽我崎の孤児院時代の友達だ。彼女の時間は、永遠に止まっていた。

 目の前の光景に心を奪われていて、後ろの気配に気付くのが遅れた。振り返った時には、死霊の様な顔をしたイクサック・サスーンが、短剣を振りかざしていた。

 叫び声を上げる間もなく、短剣が振り下ろされた。短剣は防御した腕にすらかすることもなく空を切った。サスーンは体勢を崩し、前のめりに倒れた。

 何が起きたのかわからなかったが、どうやらサスーンは勝手に転んだようだ。屈んでいるサスーンは、立ち上がるどころか、息をするのがやっとのようだ。寝室で見た時は、完全に死体だと思い込んでいた。

 短剣を持った手を蹴飛ばすと、短剣は部屋の暗がりへ音を立てて消えていった。

 屈んだままサスーンは顔を上げ、何かをまくしたてた。英語で何か言っているようだったが、例え英語がわかっても聞き取れないくらい呂律が回っていなかった。ろうそくの灯りでぼんやりと照らされた姿は、正に死霊だった。

 この男が少女達を剥製にしたのだ。あまりの嫌悪感に、吐き気が込み上げてきた。顔を蹴り上げてやろうかとも思ったが、靴越しにでも触れたくなかった。


「変な臭いがする」


 仁枝の声に我に返り、鼻をきかせてみた。確かに臭う。焦げ臭い。

 階段を駆け上がると、邸内に煙が充満していた。

 地下から一層高くサスーンのわめき声が聞こえた。彼が家に火を放ったのだ。

 叫び続けるサスーンを残し、家から脱出することにした。

 煙を吸い込まないように身を低くして、邸内を進んだ。

 外に出て振り返ると、サスーン邸は、炎と煙を上げてこの世から消え去ろうとしていた。

 ここだったら延焼することもないだろうし、あらぬ疑いをかけられるのも嫌だ。自転車を引いて、サスーン邸から離れることにした。

 高台にあるサスーン邸の火事は、少し離れても確認出来た。しばらく眺めていると、焼け落ちて形は崩れ、姿を消していった。これで、赤い靴を履いた少女が外国へ旅立つことはなくなった。

 この地震で警察も機能していない。サスーン邸のことを誰に言えば良いのかわからない。とにかく一度東京に戻って、曽我崎にでも相談してみよう。彼が無事だという前提のもとだが。

 電車が復旧するのは、もう少し先になりそうだ。自転車で帰るしかないが、この暗さでは荒れた道を走るのは無理だ。下手に動かずに夜を明かすことにした。

 壊滅した街の片隅で夜空を見上げた。まだあちこちでくすぶっている煙のせいか、星はあまり見えなかった。

 天災により、多くの人が死んだ。多くの少女達が、歪んだ欲望の為に殺された姿も目の当りにした。人の命が軽々と飛んで行ってしまう。そんな中で、昔一緒にハレー彗星を見上げた少女と、再び夜空を見上げている。ただそれだけなのに、奇跡的な事のようにも思えた。


「久保城さんは、孤児院の少女達の行方を追いかけているうちに、阿片の密輸にたどり着いてしまい、殺されたのね」


「多分、そういうことなのだろうな」


 イクサック・サスーンの阿片中毒具合からすると、実行犯は別にいる。阿片密売に関わっている軍部の者だろう。どうにかしないと、我々まで殺されてしまう。

 地下の剥製を思い起こした。阿片の密輸と直接は結びつかない。イクサック・サスーンの個人的嗜好だろうか。少女達が生きていれば、どんな女性になったのだろう。とにかく少女達が不憫だった。

 しばらくの沈黙の後、私が口を開いた。


「この間、曽我崎真留と話したよ」


 仁枝は、無言で私の話に耳を傾けてきた。

 曽我崎が、石走錬造と愛人の間に生まれた子供ではなく、もらい子殺し事件の生き残りだということ。孤児院時代に思いを寄せていた女の子が、イクサック・サスーンに引き取られ、あの地下室で剥製になっていたことなどを、かいつまんで話した。

 大きく息をつきながら、仁枝は夜空を見上げた。


「私、ずっと勘違いして生きてきたのね。子供がついた他愛もない嘘を真に受けなければ。お父さんに、病院に連れて行かないで欲しい、医者を呼ばないで欲しい、体を鍛えないで良いから、そばにいて欲しい、そう上手く伝えられていたら、もっと違う人生だったかもしれない。何故、こんな簡単なことが出来なかったのだろう」


 簡単なことが出来ていても、通る道はそこまで変わらなかったのではないだろうか。しかし、気持ちが違えば、同じ道でも美しく見えたはずだ。


「後悔したって、過去は変えられないよ」


 過去は変えられない。しかし、仁枝の過去の話から、人に自分の気持ちを上手く伝えることの重要さを教えてくれる。


「仁枝は、僕達の再会を、運命とみせかけた偶然だと言っていた。偶然だって素晴らしいことだよ。偶然の偶は、偶数の偶。一足す一で二。一人と一人が出会うことだ。そして、偶然の偶は、配偶者の偶だ。未来を作ろう。僕達の子孫が、夜空に浮かぶ、ハレー彗星を眺めているよ」


 仁枝が身を寄せてきて、私は抱き寄せた。

 二人で少しの間呼吸を止め、唇を合わせた。

 未来を作ろうと言ったものの、ここで世界が終っても良い程、幸せな気持ちだった。

 唇を離し、見つめ合った。どちらともなく笑い始めた。呼吸を止めた後は、顔を見合わせて笑う、昔の通りだ。

 ずっと昔に過ぎ去ったはずのハレー彗星が、二人の頭上にだけ輝いている気がした。

 夜が明けても、あたりは一面瓦礫と焼け跡が広がっていた。地震もサスーン邸の出来事も、夢の中ではなく、現実に起きたことだと再認識させられた。

 仁枝と二人、東京へ帰るべく、自転車で出発した。


「自転車乗れたのね」


「こっそり練習していたんだ」


 二人での自転車旅行が、こんな形で実現するとは思わなかった。

 しばらく進むと、手に棒を持った集団が、道を塞いでいるのが見えた。野盗や追いはぎの類ではなさそうだ。近付いてみると、「ばびぶべぼ」と言ってみるように言われた。意味がわからず、要求の意図を訊いてみたが、殺気だった表情で言えの一点張りなので、とにかく「ばびぶべぼ」と言ってみた。続けて仁枝も同じように言った。言い終えると、ようやく殺気が緩んだ。


「この地震の混乱に乗じて、朝鮮人が日本人を殺しにくるらしい。朝鮮人は、ばびぶべぼの発音が出来ないから、言わせて確かめていたんだ」


 手に武器を持った男たちは、警察や軍人ではなく、一般人が自警団を組織したものだった。皆使命と恐怖が入り混じった、異様な表情を浮かべていた。

 朝鮮人が殺しにくるなんて、本当にあるのだろうか。地震が起きてからの、別の世界に紛れ込んだかの様な出来事を考えると、何が起きても不思議ではない気もしてくる。

 我々が日本人だとわかると、自警団は道を通してくれた。

 東京から横浜へ向かう途中は、助け合う人々の暖かさに触れたが、その暖かさは更に熱を帯び、別の方に向かって行っている。何か嫌な予感がした。

 自転車で東京に向かう中で、人々が助け合う光景も依然として見受けられたが、先程我々を足止めした自警団の様な人々も増えてきていた。

 朝鮮人が攻めてくるという噂は、自転車が進む速度より速く広まっていたし、それに加え、社会主義者、無政府主義者が、この機に乗じて日本転覆を実行に移すという話まで出てきていた。

 その話を小耳にはさんだ時、真っ先に大杉さんの顔が思い浮かんだ。最近膨らんでいた大杉さんへの疑念は、震災後に出会い、生きていることを喜び合ったことで一旦はしぼんだ。だが、再度膨らみ始めた。我々が地震を機にサスーン邸に侵入したように、大杉さんも何か行動を起こすのではないか。それが、自分の正義と照らし合わせて悪いことならば、止めなければならない。

 水と食料は摂ったが、疲労は溜まる一方だ。体は休みたいと言っていたが、不穏な空気を感じ取った心が、休むなと言っていた。

 仁枝も明らかに疲労困憊の様子だったが、のんびりしている場合ではないことは伝わっているようだ。黙々と自転車をこいでいた。

 皇居の一部を開放し、避難民を受け入れ、炊き出しを行っているという話が聞こえてきた。運命の鎖がつながってしまったかもしれない。大杉さんが心酔していた高徳伝次郎は、天皇陛下を狙って蜂起したのだ。大杉さんも同じことを考えているのなら、この機を逃すはずもない。

 大杉さんの家を目指して自転車をこいだ。火事はあらかた収まっているのに、別の熱は増してくる一方だった。

 長い道のりを乗り切り、大杉さんの家に着いた。外から呼びかけてみるが、返事はない。戸を引いてみると、鍵はかかっておらず、我々をよどんだ空気が迎えた。家の中には誰もいない。部屋の片隅に、私が預けた映像機器が置かれていた。

 鍵もかけずに大杉さんはどこへ行ったのだろう。高徳伝次郎の意思を継ぎ、国を転覆させようとしているのか。単に近所に出かけているだけなのか。

 室内に何か手がかりはないか探してみた。

 地震で倒壊はしなかったものの、この家もかなり揺れたようだ。片付けてはあるが、まだ雑然とした印象を受ける。

 一枚の紙に文字が走り書きされたものが落ちていた。


「ゴダイスズコ」


 カタカナで、気持ちの乱れが読み取れる筆跡だ。五代鈴子。自殺した霊能力者の名前。大杉さんと何か関係があるのか。

 仁枝も走り書きを不思議そうに見ていた。

 そういえば、預けた機材の中に、五代鈴子の公開実験フィルムも入っていたはずだ。大杉さんは、それを見たのだろうか。

 フィルムを映写機に入れ、部屋を暗くした。障子に向けて映写機を回すと、霊能力公開実験が映し出された。

 私が現場で見て撮影したままの光景が流れている。特に変わったところはない。実験が失敗に終わり、五代鈴子が、カメラに向かって手をかざし、手を下げると五代の顔が大写しになった。心臓を射すくめるような目をしていた。


「私はあなたの知り合いの病気を治すことは出来ません。しかし、透視と念写は本当に出来るのです」


 五代鈴子の声が甦ってきた。

 フィルムを巻き戻し、コマ送りにして、五代が手をかざしたところを確認してみた。普通に流していた時には、ただの汚れだと思っていたが、そこには文字が読み取れた。


「クボジヨウゴロシハンニンハカスガイ」


 久保城殺し犯人は春日井。


 実験に立ち会った春日井少将が、久保城殺しの犯人なのか。あの時、五代は封筒の中身ではなく、事件の真相を透視してしまい、そのことを私のカメラに念写したというのか。

 そうなると、イクサック・サスーンと手を組み、阿片の密貿易を行っていたのも、春日井少将ということになるのではないだろうか。軍の上層部であれば、阿片を乗せた船を日本に入れることも、大陸で阿片をさばくことも出来るはずだ。

 イクサック・サスーンの特殊な性癖がおおやけになれば、阿片の密輸まで手は伸びる。久保城は、子供達の失踪に気付き、それを告発しようとして殺された。実平は真相に迫ったのか、隠蔽工作の為か、久保城殺しの濡れ衣を着せられ、自殺に見せかけて殺された。五代鈴子も、事件の真相を透視したことがばれて、自殺に見せかけられ殺された。

 大杉さんも、五代鈴子のフィルムを見て、そのことに気付いたのだ。そして、書き置きを残して消えた。真相に迫って、大杉さんも殺されたのか。とにかく、国家転覆を狙って、皇居へ向かってはいないと思われた。

 何か情報を得られるかもしれないと、玄関から外へ出た。近所に住む人がいたので、大杉さんの行方を知らないかと訊いてみた。


「大杉さんなら兵隊さんに連れられて、どこかへいったよ」


 近所の人の話では、数人の軍人に囲まれ、大杉さん、妻の野枝さん、それと子供一人が、どこかへ連れていかれたそうだ。

 恐れていた事態が起こった。春日井が直々に来るとは思えないから、部下の軍人達だろう。多分甘粕達だ。

 前に甘粕に会った時、大手町にある麹町憲兵司令部に入っていった。大杉さんが連れていかれたのは、あそこではないだろうか。証拠はないが、そこしか思いつく場所もない。行ってみたところで、ただの民間人がどうこう出来るものでもない。事件の核心に迫ったことが知れれば、私も消されるだろう。だが、見過ごすのも人道に反するし、個人的にも死んで欲しくはない。最近は疑心暗鬼にかられ、大杉さんに黒い影を見ていた。正直言って思想については良くわからない。それでも大杉さん自身は好きだ。

 被害を受けた街並みを撮影しているのなら、怪しまれずに近付けるのではないかと、新しく購入した機器を自転車の荷台にくくり付けて出発した。

 仁枝には葉羽村に帰るように言ったが、一緒に行くと言ってきかなかった。

 軍人達を街のいたる所で見かけた。皆被災者支援や治安維持に誠心誠意取り組んでいた。しかし、今の私は、姿が目に入るだけで、恐怖で身がすくんだ。

 しばらく自転車をこぎ、麹町憲兵司令部の置かれている大手町が近くなってきた。皇居前広場には、多くの避難民が集まっている。皇居の門も開いている。一部開放して、被災者を受け入れているという噂は、本当だったようだ。

 この辺でも多くの軍人が人々を助ける為に、自分のことを顧みずに働いていた。そんな一生懸命に頑張っている軍人達には悪いが、この分なら麹町憲兵司令部は手薄になっているだろう。

 皇居前から大手町の方へと進んだ。憲兵司令部が見えてきた。門の前に番兵が立っているが、中の兵隊は出払っていると思われる。通常と比べれば、警備は手薄になっているはずだ。塀が壊れて隙間が出来ていた。中へ入れそうだ。仁枝に目で合図して、敷地内へ侵入した。

 木造の簡素な造りの建物からは、人の気配はしているが、その数は多くない。窓から中をのぞくと、何人かの軍人が話し込んでいた。大杉さんの姿はない。息を殺して窓から離れ、仁枝に大杉さんはいないことを身振りで伝えた。

 大杉さんはどこにいるのだろう。別の場所に連れていかれたのだろうか。

 仁枝が一方を指差した。指の先には何も見えない。不思議に思って仁枝の顔を見ると、小鼻が動いていた。臭いを嗅いでいるのだ。私も同じように鼻を利かせてみた。地震の被害で、空気の中に様々な臭いが混ざり込んでいる。だが、離れた所からではなく、近くから臭気が漂ってきている。その発生源と思われる方向へ進むと、我々は敷地の片隅にある、古井戸へと到着した。

 カメラと仁枝を井戸端に残し、もう使われていない古井戸の中へ降りることにした。井戸の壁面の凹凸に手足をかけて、暗闇へと降りていく。底へ近付くにつれ、臭いは増していった。湿気はあまり感じない。もう水は枯れているようだ。

 底に着いた。目が慣れてきて、足元にあるものがわかった。瓦礫だ。出来て間もない。震災で出たものだろう。臭いはその下から出ている。瓦礫をどかすと、予想していたものが、下から出てきた。大杉さんの死体。野枝さんの死体。そして、一人の子供の死体。

 間に合わなかった。

 三人共服を着ておらず、重なりあって打ち捨てられていた。暗くて詳しくはわからないが、体中に殴られた様な痣があった。

 何番目の子か知らないが、歳は十歳くらいだろうか。こんな幼い子まで殺すのか。怒りと悲しみで体が破裂しそうになった。

 井戸の壁面をよじ登り、太陽の下に出た。井戸に充満していた死臭から解放され、まずは大きく息をした。


「大杉さん、死んでいた」


 仁枝は私が地上に出た時、既に悲痛な顔をしていた。死を予想していたのだろう。

 私達の沈んだ空気を、一発の銃声が切り裂いた。井戸の石枠に着弾し、破片が飛び散る。

 軍服の男が離れた場所から拳銃を向けていた。

 カメラを担ぎ、仁枝と共に走った。

 後ろからもう一発銃声が響き、弾丸が頭をかすめていった。

 敷地内に建てられた傾いた小屋の中へ逃げ込んだ。ここは物置として使われていた小屋のようだ。銃に対抗出来そうな物はない。

 小屋の扉がゆっくり開き、軍服の男が姿を現した。逆光の中、こちらに向けて拳銃を構えるその男は、春日井少将だった。

 私は、新しく手に入れたカメラを起動させた。


「どうした。自分の最後を記録に残しておくのかね。活動写真屋」


 この最新カメラで、自分の作品を生み出すつもりだったが、こんな形で使うことになるとは。


「随分と余計なことを嗅ぎ回っていたようだな。そんなことでは寿命が短くなるぞ」


 春日井は不敵な笑みを浮かべた。


「春日井さん。あなたが久保城乙美を殺したのですね」


「そうだ。あの女は首を突っ込み過ぎた。女は大人しく家を守っていれば良いのだ。それなのに、女の地位を向上させるとかで、色々調べているうちに、孤児院から女の子供が消えているのに気付いてしまったのが運の尽きだったな。外国で幸せに暮らしているなんて嘘だ。変態趣味のサスーンを操る為に、孤児院から連れてきて、あてがっていたのだ。少女達の美しさを永遠に保つ為に剥製にしたとかぬかしていたぞ、あの異常者は。久保城は、消えた少女達のことを世間に告発しようとしていた。だから死んでもらった。そして、その罪は、恋人の実平悌吉に被ってもらい、自殺に見せかけて殺した」


 春日井は、悪びれもせず、薄笑いを浮かべて語った。


「五代鈴子の死にもあなたが関係しているのか」


「ああ、あの霊能力の女か。あれは本物だったかもしれないな。あの公開実験で私の心の中を透視したようだ。事件の真相は黙って、霊能力を私の為に使うなら助けてやると言ったら、拒否されたから殺したぞ。それにお前らが井戸で見つけた大杉栄もな。あいつは事件の真相に気付かなくても死んで当然の無政府主義者だ。伊藤野枝も女性解放だとかぬかしている自分の欲望に忠実なだけの女だ。世の中に悪影響しか与えていない。そんな二人に育てられているのだ、子供だってろくな大人になりはしない。悪の芽を摘んだのだ」


 事も無げに言う春日井を、カメラは無機質な音を立てて録画していた。春日井は時折、銃を持っていない方の手で、口元を隠す仕草をする。唇の動きを映さないようにしているようだ。


「あなたに罪悪感はないの?」


 仁枝が怒りにまかせて叫んだ。


「軍人は人を殺すのが仕事だからな」


 銃口は、私と仁枝から外れることはなかった。


「知略もない、武勲にも欠ける私が、軍隊で出世出来たのは、金を集めることが出来たからだ。裏金作りだよ。割り当てられた予算だけではどうにもならん。金がなければ戦えん。私は表に出ない金を作るのが得意だった。特に阿片は金になる。英国と中国の間に結ばれた、印度産の阿片を持ち込まないという条約を利用した。印度産の阿片を一度日本に持ち込み、日本産として中国で売りさばくのだ。印度産の阿片は英国の企業が独占しているが、その駐日職員のサスーンを阿片と少女で骨抜きにして操り、後はやりたい放題だ。儲けた金は、大半を軍の裏金に回している。だから、深くは追及されない。これを悪だと言う人間もいるだろう。だが、日本の軍事力が弱まればどうなる。欧州列強にとって食われてしまう。そうなれば、少ない生贄とは比べ物にならない犠牲が生まれてしまう。綺麗事だけでは生き残れないのだ。それを小さい正義心で邪魔する奴を排除するのに、罪悪感などいちいち抱いていられるか」


 春日井の顔は信念に満ちていた。自分の行為は正しいと確信しているのだ。


「小さな生贄は闇に埋もれ、私は優秀な軍人として名を残す。そのフィルムも、お前らを殺した後に、ニュース映像として流してやろう。震災の混乱の最中に、国家転覆を企む主義者と、それを退治する春日井少将としてな。弁士が、私の作った台本を名調子で語ってくれるぞ」


 記録は残る。その記録をどう解釈するかは、生き残った勝者が決めることになる。


「国の為なんて嘘だ。あなたは自分の欲望のおもむくまま行動しただけだ。民衆を蔑ろにすることは間違えている。あなたは自分の悪行に正当な理由をつけようとしているだけだ」


 明らかに春日井の表情が変わった。銃を構える手にも、力がこもったのがわかる。


「主義者が言いそうな、甘ったれた上辺だけの言葉だ。そんなことでは、国は亡びる」


「一部の人間だけが笑うような国が続いてどうする。皆が笑えて、皆が自由に意見を言える、そんな国になるべきだ」


 そう言いながら、目線は動かさず、仁枝に合図した。


「愚かな民衆が自由に喋ったら、国はおかしなことになる。一部の優れた者が、国を動かすべきなのだ」


「一人一人が、自由に自分の意見を言え、民衆の声が国を動かす時代が来る…、かどうかはわからない。ただ、活動写真の中で、役者が自分自身の声で話す日は来る。この新型カメラは、サウンド・オン・フィルム方式のカメラだ。フィルムに映像だけでなく、音声も録音出来る。調子に乗ってぺらぺらと喋ってくれたな。全部録音済みだ」


 カメラの性能はともかく、失敗したことは悟ったようだ。春日井は大きく目を見開いた。

 私は、自分の言葉を言い終えるより先に、小屋の柱を思い切り蹴飛ばしていた。地震でかしいだ小屋は、大きく揺れ、壁は歪み、天井からは物が落ちてきた。

 落下物が春日井に当たったおかげで、放った弾丸が我々から逸れた。

 仁枝の短い悲鳴を聞きながら、今度は壁を蹴った。何とか保っていた最後の一線が切れ、小屋は崩壊し始めた。細い光を差し込ませていた亀裂が広がり、人が通れるようになった。

 天井から板の切れ端が落ちてきた。仁枝とカメラを守ろうとしたら、肩にぶつかった。痛みで息が詰まったが、仁枝を小屋の外に出し、自分もカメラを抱えて外に飛び出した。

 崩れゆく小屋から銃声が聞こえ、弾丸が壁を貫き、空へ消えていった。

 カメラを抱え、仁枝と共に自転車をとめた場所へ走った。

 後ろから春日井の声が聞こえ、続けて何人かの足音がこちらへ向かってきた。

 塀の隙間から外に出て、カメラを脇に抱えたまま、片手で自転車を運転した。仁枝も素早い身のこなしでついてくる。後ろから待てと怒鳴る声が聞こえてきたが、振り返らずに進んだ。

 大手町から南に走った。どこに逃げればよいのかわからない。道行く人々が、自転車で疾走する私達に目を向けてきた。これではすぐ足跡をたどられてしまう。どこか隠れる場所を探さねばならない。

 表通りから細い道に入り、地震の被害が大きく出てしまったあたりに、ほぼ全壊したレンガ造りの建物をみつけた。いつ崩れ落ち下敷きになるかもしれぬ危険な場所だが、今は選択の余地がなかった。自転車から降り、身を屈めて建物の中へ入った。外に置いておいては中にいることを知らせることになるので、自転車も引きずり入れる。天井は身長よりも低く落ちており、呼吸が苦しくなる様な圧迫感があった。きつい体勢でどうにか奥まで進み、一息つくことにした。

 床に腰掛け、足を伸ばす。もう一度大きな揺れがきたら崩れるだろう天井が、すぐ頭上に迫っていた。まわりを見れば、天井が完全に崩れ落ちている場所もある。下敷きになり死んだ人もいるのだろう。腐敗臭が空気に混ざり、ハエがたかる音がしていた。


「これからどうするの」


 荒い息がどうにか落ち着いた頃仁枝が訊いてきた。


「さて、どうしたものか」


 実際どうしたら良いのかわからなかった。春日井の発言を録音したものの、誰に渡せば良いのだろう。間違えた選択をすれば、証拠を握り潰され、我々も消される。


「私のお父さんの人脈を使えば、どうにかなるかも。先代の天皇陛下の為に戦ったとかで、意外と顔が広いの。とにかく、春日井だけは懲らしめなければ、死んでも死にきれないわよ」


 それも一つの手だ。ただ、春日井の手をかいくぐり、葉羽村まで行くことは簡単ではなさそうだ。

 足音が近付いてくるのが聞こえ、息をひそめた。近付いてくるのは一人ではない。それなりの人数だ。春日井達だろうか。何やら話しながら近付いてくる。軍人ではなさそうだ。

 我々のひそむ場所のすぐそばまできた。


「社会主義者の仲間が、この辺にいるらしいぞ」


「男と女の二人組だ」


「男の方は、外国から仕入れた武器を持っているらしい」


「女の方に噛みつかれると、妖怪の様な姿になってしまうらしい」


「人々を守る為に退治しなければならない」


 断片的にそんな言葉が聞こえてくる。崩れかけの建物の隙間から見える足は、軍人のものではない。一般人までが、我々を狙っている。春日井が情報操作を行い。人々が我々を襲うようにけしかけたのだ。横浜からの帰りに出会った、朝鮮人をさがし出そうとする自警団を思い出した。あの正義と猜疑が混ざり、上昇した熱がこちらへ向かってくる。背筋が凍った。

 横目で仁枝を見ると、青ざめた顔をしていた。

 当然軍人達にも、我々を捕えるように伝達されていることだろう。それに加え一般人まで我々を狙っている。もう周囲は敵だらけだ。その間をぬって、葉羽村にたどり着くのは、かなり困難なことに思われる。ほぼ不可能と言って良い。

 絶望的な気分になりかけていた時、私達の隠れ場所に、黒い影が忍び込んできた。足音や気配を察する前に、影はすぐ近くにきていた。

 相変わらず感情の読めない目をした、曽我崎真留だった。

 この状況では、誰が敵か味方かわからない。仁枝を守ろうと身を強張らせた。


「首を突っ込むなと言ったのに、思い切り突っ込んだようだな。まわりは、お前ら二人をさがし出して殺そうとしているぞ。もう、引き返せないところまできてしまった」


 曽我崎は呆れ顔で言った。態度から判断すると、敵ではないようだ。


「仁枝、地震が起きてから家に帰っていないのだろう。錬造さんが心配していたぞ。今まで何をしていたのだ」


「あなたがついた嘘のおかげで、ずっとさまよっていたのよ」


 仁枝の返しに、曽我崎は言葉を詰まらせていた。

 仁枝と曽我崎は気まずい雰囲気ではあったが、地震の後に起こったことを、手短に説明することにした。

 まずは、自転車で横浜のサスーン邸へ行き、そこでの出来事を話した。

 黙って聞いていた曽我崎が、表情を変えずに尋ねてきた。


「その少女の剥製の中に、数珠をつけた子はいたか?」


 その質問に私は答えられなかった。

 曽我崎は察して、「そうか」とだけつぶやいた。

 慰めの言葉が口からこぼれそうになったが、言うべきではないと押し戻し、話を続けた。

 次は、サスーン邸が燃えた後、自転車で東京に戻り、大杉栄さんの家に行ったこと。そこで霊能力実験のフィルムに、五代鈴子の念写と思われる「クボジョウゴロシハンニンカスガイ」という言葉が映っていたことを話した。


「霊能力など、にわかには信じられん。それは、念写とするより、大杉栄が伝言を残す為、フィルムに細工したと考える方が妥当だろう」


 曽我崎は冷静な意見を返してきた。

 確かにその意見の方が妥当に聞こえるが、春日井も五代は本物の霊能力者だったかもしれないと言っていたし、活動写真は素人の大杉さんが、フィルムに細工するのは難しい。本当の念写だったのではないだろうか。とにかく、過程の解釈は違っても、行き着いた結論は同じだ。今はそこを論じている時ではない。先の説明を続けた。

 消えた大杉さんを捜しに、麹町憲兵指令室に行き、そこで井戸に捨てられた大杉栄、伊藤野枝、一人の子供の死体を発見したこと。その直後に春日井にみつかり、撃ち殺されそうになったこと。小屋に追い詰められたが、新型のカメラで春日井の発言を録音し、どうにか逃げ出し、ここにたどり着いたことを語った。


「ここに春日井の自供が入っているのなら、大きな証拠になる。奴を失脚させることが出来る」


「でも、春日井は阿片で儲けた金を軍に回しているから、お咎めなしって言ってたわよ」

「裏金作りで、軍に貢献しているのは確かだが、軍が必要としているのは、春日井ではなく、阿片が生み出す利益だ。悪事の証拠を固めれば、軍の上層部は、容赦なく春日井を切る。そして、阿片の生み出す利益は、そのまま軍のものだ」


 曽我崎の話に、深い闇を見た。武器を持って戦うのだけが、戦争ではないのだ。


「しかし、久保城さんや実平さん達みたいな罪もない人を殺し、少女を剥製にしていたことが知れたら、春日井だけの責任では済まないのでは…」


「世間に知れたら大変だ。だから、この件は内部で処理される。久保城殺しは、痴情のもつれが原因の殺人で終わりだ。他の殺人も闇に葬り去られる。当然阿片の密輸など、ありもしない話だ。非道な行いだと思うかもしれないが、この醜聞が世間に知れ渡れば、軍への批判が集まり、軍の力は弱くなる。日本の中の話だけで済めば、それでも良い。しかし、日本の外には、欧州列強が牙を剥いて待ち構えている。今軍事力が弱まれば、日本は滅びてしまう。小さな悪事には、目をつぶらねばならない」


「罪もなき人を殺し、子供を剥製にすることが、小さなことなのか」

 言って後悔したが遅かった。想いを寄せていた幼馴染を殺され、剥製にされたのだ。私より、曽我崎の方が余程辛い。それなのに日本全体のことを考え、自分を抑えているのだ。


「小さいことだ」


 そう言い切った曽我崎の瞳の奥に、押し殺した悲しみを見た。

 無力な者は、正義を語ることさえ出来ない。ただ、理不尽を飲み込むしかないのだ。


「皇居の平川門の所で、俺と同じ特務機関の者と落ち合うことになっている。その男にこの証拠を渡せば、春日井ですら力の及ばない軍の上層部へと届けられる。春日井を失脚させ、余計なことを言わずにおとなしくしていれば、生き延びることが出来る。春日井が力を持ったままなら、お前らも俺も消される。生き延びるぞ。正義ではなくとも、生きて未来を作るぞ」


 曽我崎の言葉は力強かった。正義だ道理だと御託を述べている場合ではない。今は、他人を引きずり降ろしてでも、生きねばならない。

 曽我崎が、軍人や自警団をおびき寄せている間に、私と仁枝は、自転車で平川門を目指すことになった。

 カメラを自転車の荷台にくくり付けた。

 走る経路を頭の中に浮かべてみる。大した距離はない。ただ、そこには、我々を狙っている無数の敵が跋扈している。行けるのか。

 曽我崎が隠れ場所から出ていこうとして動きを止め、ゆっくり振り向き、仁枝を見た。


「すまなかった」


 小さくつぶやかれた言葉に、仁枝は無言でうなずいた。

 顔を戻し、音も無く曽我崎は出ていき、二人の呼吸とハエの羽音だけが聞こえていた。

 遠くで人の怒鳴る声が聞こえた。近くにいた人々も、そちらへ向かっていく足音が聞こえる。曽我崎の陽動が始まったのだ。

 自転車を出口まで引きずり、出発の準備をし、飛び出す前に二人で目を合わせた。

 口を開いたのは仁枝だった。


「私達の子孫が、ハレー彗星を見ている」


 こんな状況だが、口元がほころんでしまった。

 大きく息を吸って、崩れた建物から這い出て、自転車を引きずり出した。

 仁枝も遅れずに出てきて、二人同時に自転車にまたがる。周囲には誰もいない。曽我崎の陽動が功を奏したようだ。

 体重をかけて、ペダルを踏み込む。速度が出てきたところで腰を下ろして、足の筋肉を総動員した。瓦礫や廃材が散乱し、道は細くなっているが、障害物は上手く避ける。自転車は廃墟と化した街を風のように駆けた。


「いたぞ!」


 このまま目的地までいけるのでは、と楽観的に考え始めた時、敵意のこもった声が鼓膜に突き刺さった。

 声がした方に目を向けると、こちらを指差し、仲間を呼び寄せる男の姿が目に入った。

 無視して自転車を進めたが、声を聞きつけて出てきた人間が、投石してきた。石は私達から外れ、遠くで乾いた音を立てていた。

 騒ぎを聞きつけ、次々と人々が集まってきた。走って追いかけてくる者、何か投げつけてくる者、様々な形で我々に危害を加えようとしてくる。暴走した正義が、具現化して襲いかかってきた。話し合ってわかり合えるはずもない。ただ、全力で自転車をこぎ、逃げるしかなかった。

 後から音がしたので、首だけ振り向くと、自動車が追ってきていた。軍の自動車。春日井だ。まだ、遠いが速度が違う。じきに追い付かれてしまう。

 東京駅の前まで来た。自動車に追われているのに、広い道に入るのは不利かもしれないが、迷っている余裕もなかった。行幸通りに出て、皇居に向かって走った。

 幅の広い行幸通りには、たくさんの人がいた。避難してきた人々だ。

 大声で「どけ」と叫んで、道を開けさせた。

 仁枝も甲高い声を上げつつ、速度を落とさずに、人の間を進んでいった。


「いたぞ。妖怪の女だ!」


 物を投げつけられ、固い物が肩に当たった。苦痛でうめき声が出たが、止まらずに進んだ。

 後ろから自動車が追ってくる音は続いている。人の多さに速度を上げ切れないのだ。そこまで差は縮まっていない。

 横から飛び出してきた男が、私目がけて棒を振るってきた。慌てて頭を下げてかわした。棒は髪の毛を何本か引きちぎっていった。

 追ってくる自動車の音が増えた。素早く目線を送ると、自動車の後方に、自動二輪が数台連なっていた。追手が増えたのだ。

 通りにいた人達が、道を開けてくれ、前方に皇居が見えた。皇居前広場にも、たくさんの人が避難してきている。全ての人が襲いかかってきたら、確実に終わりだ。

 息が切れて、足も張って、力が入らなくなってきていた。

 横目で仁枝を見ると、美しい顔を歪ませて、必死の形相で自転車をこいでいた。とても愛しいと思った。この人と一緒に生き抜かねばならない。心臓が破れそうだったが、自転車をこいだ。

 一台の自動二輪が、私達に追いついてきた。

 自動二輪に乗った軍服の男が、こちらに拳銃を向けてくる。もう終わりかと思ったが、さらにもう一台の自動二輪が現れ、黒い人影が、軍服の男に蹴りを放った。蹴られた男は二輪ごと倒れた。曽我崎が助けてくれたのだ。

 曽我崎は旋回すると、我々を追い立てる者達へ向かって行った。

 声に出す余裕はないが、心の中で礼を言い。自転車をこいだ。

 曽我崎が引き付けてくれて台数は減ったが、春日井の自動車と、自動二輪数台が依然追いかけてきていた。

 行幸通りを減速せずに右折し、堀に沿って進んだ。

 待ち合わせの平川門までは、もう目と鼻の先だ。しかし、春日井の車も、もうすぐ後ろまで迫ってきていた。

 前を見ると、道路に地震による地割れが出来ていた。幅の広い板が、橋代わりに架けられている。まず私が不安定な板を通り過ぎ、続いて仁枝が走り抜けた。

 春日井も自動車で板の上を通ろうとしたが、さすがに無理だった。片方の車輪が地割れにはまり、勢いで自動車は横転した。そのままもう一回転して柵を乗り越え、堀に大きな水しぶきを立てて飛び込んだ。ちょうど久保城乙美の死体が浮かんでいたあたりだった。

 追ってきた自動二輪の何台かは、春日井の救助へ向かったが、残りは追いかけてきた。

 自動二輪部隊の先頭は、甘粕正彦だ。遠く離れていてもわかる冷たい目で、こちらをにらんでいた。

 捕まって殺された方が楽だと思う程疲れていたが、足を回転させた。

 平川門前の堀にかかる平川橋が見えた。橋を渡り切ったところに二人の男が立っているのが見えた。最後の気力を振り絞って、自転車をこぐ。近付くにつれて二人の人物がはっきり見えてきた。一人は洋装の若い男。もう一人は、和服を着た初老の男だった。この二人が特務機関の人間だろうか。もし違っても、他の所へ行く体力はもう無い。

 堀沿いに走っていた自転車を無理矢理左折させ、平川橋に突入した。橋を渡り切ったところで急減速して、二人の男の前でどうにか止まった。仁枝は止まり切れずに転びそうになったが、和服の男が受け止め、地面に打ち付けられるのを防いだ。

 二人の男と話そうとするのだが、息が乱れ過ぎて、言葉を発することが出来ない。その間にも、甘粕を先頭に自動二輪部隊が迫ってきていた。


「曽我崎に教えられてきた。この中に春日井の悪事の証拠が入っている」


 背広を着た若い方の男に、カメラを指差しながら、息も絶え絶えに伝えた。


「預かろう」


 男は短く言った。

 我々から少し離れて甘粕達が停車した。その数五人。腰には軍刀を下げ、目は闘志に燃えていた。

 先頭の甘粕が降車し、背筋を伸ばして歩いてきた。その後ろには、森が続いている。


「その二人は、この地震の混乱の中で、国家転覆を企てる者達です。こちらに引き渡して下さい」


 和服を着た初老の男が、仁枝に小声で問い質した。


「そうなのか?」


 まだ収まらない乱れた呼吸で、仁枝は否定した。


「違うと言っています。正式な手続きを踏んでいないのに、その様なことは出来ません」


 甘粕が抜刀し、他の者もそれに続いた。

 もう逃げる体力も気力も無い。大杉さん達のように殺されてしまうのか。

 私が後ずさりしていると、和装の男性が、前に進み出て、足元に落ちていた棒切れを拾った。


「お父さん」


 仁枝が和装の男性をそう呼んだ。

 この初老の男性が、あの石走錬造なのか。私が思い描いていた容貌とはかけ離れている。想像では野心に燃える、筋骨隆々の偉丈夫だったが、目の前の男性は、引き締まって姿勢は良いが、温厚そうな白髪まじりの初老の男だ。

 石走錬造は、棒を片手に甘粕の前に進み出た。


「石走さん。あなたは国の為、天皇陛下の為に、命を懸けて戦ったはず。そんなあなたが、家族の情に流されて、道を踏み誤るのですか」


 刀を構え、石走をねめつけながら、甘粕は言った。


「昔も今も、私は、私の正義の為に戦う」


 戦うと言っても、真剣を構えた若い軍人五人。こちらは、人数は四人だが、私と仁枝は戦力外。棒を持った石走錬造と、武器など持っていない背広の男。勝てる訳がない。

 甘粕が、気合を込めて斬りかかってきた。

 石走錬造は、速いのか遅いのかわからない動きで体を動かし、甘粕に空を斬らせた。そして、次の瞬間には甘粕を地面にはいつくばらせていた。

 続いて森や、他の者も石走に襲いかかってきたが、刀はかすることもなく、石走の棒で打ち据えられ、その場に倒れ伏した。

 私は、唖然として、その光景を眺めていた。

 その後、軍関係者が続々と集まってきた。誰が敵で、誰が味方かわからなかった。張り詰めた空気が、その場に充満していた。私と仁枝は、蚊帳の外に置かれたかのように、軍人同士で話し合いが行われ、武力による衝突なしに、事態は収拾された。

 いつの間にか曽我崎もいた。少し離れたところからこちらを見て、何も言わずに、ただうなずいた。次に、曽我崎は視線を石走錬造に移した。石走錬造は、曽我崎真留を見て微笑んだ。それだけだったが、曽我崎の全身に喜びが広がっていくのがわかった。

 私と仁枝は、軍人の中の一人に、余計なことは言わないと約束させられ、解放された。

 春日井は、豪快に堀に落ちたが、すぐに救出され、命に別状は無かった。春日井が車で堀に落ちたことも、阿片の密輸に絡む悪事も、表に出ることはなく、春日井は謎の自殺を遂げた。私が撮った映像が、決め手になったのだろうか。返却されたカメラからは、フィルムが抜かれており、何も語ることはなかった。

 大杉栄事件も、地震のどさくさの中で闇に葬られると思ったのだが、一緒に殺された子供は、大杉と伊藤の子ではなく、伊藤の甥で、何故か米国の国籍を持っていた。その為、在留米国人の安否確認を行っていた米国大使館の知るところとなり、表に出てきてしまった。国際問題となるとうやむやにも出来ず、甘粕とその配下が、犯人として裁判にかけられることになった。

 私の推測では、甘粕は、大杉殺しにも、阿片の密輸にも関わっていない。巷でも、甘粕濡れ衣説が囁かれていた。

 前に甘粕と話していた時、「自分が、全体の為に切り捨てられる個人になっても、それを受け入れることが出来るのですか」、と尋ねたことを思い出した。甘粕は、「甘んじて受けよう」、そう答えた。どういう皮肉か、そのやり取りが、現実のものになろうとしている。甘粕のことは、元々嫌っていたし、命まで奪われそうになったのだ。天罰覿面。胸がすくような思いで、裁判の傍聴に出かけた。

 長く続いた裁判だったが、結果として、甘粕以下五人に、有罪判決が下った。甘粕は懲役十一年。

 判決文が読み上げられる時、取り乱すかと思っていたが、甘粕は動ずることなく、姿勢を正し、胸を張って、判決を聞いていた。その目は、全体の為切り捨てられる個人になる覚悟を決めた目だった。自分の運命を受け入れ、義を通す姿には、憎き敵であっても心が揺さぶられた。

 曽我崎も、カメラを渡した特務機関の男も、事件後に会うことはなかった。どこかへ消えてしまった。

 曽我崎は婿にいくと言っていた。渇望していた家族を得て、未来を作っているのだろうか。

 私と仁枝は結婚することになった。石走錬造、現在は陰織錬造を、お義父さんと呼ぶことになったのだ。

 義父は、世間で言われている人物像とは、随分と違う人間だった。野心とか欲望とかとは程遠く、陰織家を継ぐことになったのも、継ぐはずだった分家筋の者が病気で亡くなったからだった。代々の地主なので、金銭的余裕はあるが、贅沢をしている感もなく、周囲の人からも慕われていた。自分の目で見ないとわからないものだ。

 結婚が決まり、義父と二人で話し合う時間が設けられた。

 正面に座る義父は、年齢の割には若く、姿勢も良い。体を鍛えているのはわかるが、何人も斬った男とは思えなかった。


「娘の病気については、もう知っていると思う。私にはどうすることも出来なかった。治すことが出来ないとわかっていたなら、もっとそばにいてやれば良かった。だが、半蔵門事件の時に体験した、暴走した人間の恐怖から逃れられなかった。真治君も、この間体験しただろう。むき出しの人間の敵意というものを」


 確かにあれは恐ろしいものだった。私達とは別のところでも、朝鮮人や、主義者への虐殺が行われたと聞く。人が集団で熱に浮かされると、大変な事態を招くことがある。


「そして、妻の死の悲しみから、仁枝をしつこく医者に診せ続けてしまった。あの子に重荷になっていたのに。今は間違えていたと思うが、悲しみに自分を制御出来なかった」


 その悲しみは遠くない将来にやってくる。私は、それに耐えねばならない。


「今更過去を悔いても仕方ない。前を見なければならない」


 そこで義父は言葉を切った。何か思いを巡らせている。多分、仁枝が生まれてから今までの思い出をたどっているのだ。思索を終わらせ、義父は私の目をしっかりと見つめた。


「娘をよろしく頼む」


 私が制作していた活動写真は頓挫した。地震の被害が甚大だったせいだ。制作の仲間の中には死んだ者もいた。致し方なき事だ。私の情熱は、不完全燃焼のまま終わってしまった。

 新型カメラを会社に買い取ってもらうことにも失敗し、借金は陰織家に肩代わりしてもらうことになった。情けない婿生活の始まりとなってしまった。

 父親とのわだかまりも解消し、仁枝は穏やかになった。葉羽村は地震の被害も少なく、子供にも恵まれ、結婚生活は、幸せに包まれた。

 子供は予想通り女の子で、希代きよと名付けた。

 諦めとも言える。責任の放棄とも言える。しかし、仁枝がそれを望んでいる。だから、病気でも呪いでも、それを解決するという選択肢を捨てる。その代り、仁枝と希代と過ごす時間を大切にした。希代が子供時代に忘れ物をしないように、仁枝が、こちらに忘れ物をしないようにしなければならない。

 時々、呪いを解く方法を探したくて、居ても立っても居られなくなったり、医学の進歩の遅さに、怒りを覚えてみたりしたが、なんとか飲み下し、仁枝と希代との時を過ごした。

 仁枝は、他の子供が一生分受ける愛情を、短い時間の中で与えようと、とにかく希代を可愛がった。


「この子が、私の生きてきた証」


 胸の中で寝ている希代の頬を、仁枝は愛おしそうに撫でた。

 この子の未来に待ち受けるものが、どんなに残酷であろうとも、希代の存在がとにかく幸福だった。

 自分自身の活動写真を撮るつもりだった新型カメラを、仁枝と希代に向けた。

 希代は屈託なく笑い、動き回った。それを見て、仁枝が微笑んでいた。

 残酷な未来など訪れないのではないか。このまま仁枝と共に天寿を全う出来るのではないか。そんな楽観的な考えが頭に浮かび始めていた。

 しかし、楽観的な希望は、終わりを告げた。仁枝が発症した。

 皮膚は青白くなり、血管が浮き出た。目は血走り、言葉にならない叫び声、唸り声を発し、人々に噛みついた。もう私の言葉は届かなかった。

 仕方なく部屋に閉じ込め、手足を縛り拘束し、猿ぐつわを噛ませた。それでも仁枝は暴れようとした。

 義父と共に、悲しさを押し殺し、歯を食いしばって世話をした。

 希代には会わせないようにしたが、既に色々とわかる年齢になっていた。突然母に会えなくなって、精神状態が揺らいでいた。

 仕事を休み、妻の介護をし、娘にもなるべく気を配った。

 妻は私に噛みつこうとするが、水も食料も摂ることが出来ず、肉体は衰弱していくばかりだった。皮膚の色も青黒く変色し、痩せ衰え、かつての美しさは、見る影もなくなっていた。そして、無惨な姿のまま死んでいった。胸の中から喜びが抜かれ、そこに悲しみを詰め込まれた。

 その後、ふとした時に仁枝の映像を見返した。

 この中では、仁枝は永遠に美しい。

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