第2話 明治時代 石走錬造の手記より

「食人鬼事件を調べろ」

 

 警視庁の部長部屋に入り、上司の机の前に立つなりこう言われた。

 板橋の街外れで、双子の嬰児の死体が発見された事件だ。死体は噛み千切られた痕があり、二流の新聞社が、食人鬼にさらわれ食べられたのだと記事にしたのだ。部数稼ぎの荒唐無稽な記事だ。検死によって、死体の噛み痕は人間のものではなく、動物のものだと断定されている。それでも、庶民の間では、猟奇事件として世間を賑わせていた。


「下らん流言だ。文明開化の明治の時代に何が食人鬼だ。本気で食人鬼なんて思っている奴がいたら、脳みそを豆腐に取り換えたほうが良い」

 

 上司は苦々しい顔で一息ついた。


「だが、お偉いさんには見過ごせない問題のようだ。堕胎罪にひっかかるというんだ。法律が作られてから何年も経つが、影では間引きは行われている。たまたま生まれたばかりの子供の死体が世間の注目を浴びたから、これを機に世間に堕胎罪を印象付けようという意図だろう。富国強兵、産めよ増やせよとは言うものの、下々の者には自分が食うのでいっぱいいっぱいだ、お上は何もわかっちゃいない」


 要するに、双子の嬰児を遺棄した犯人を見つけろということだ。大きな事件の陰に隠れ、後回しにされていた事件が思わぬ脚光を浴びたので、私に鉢が回ってきたということだ。

 部長の部屋を出て、双子の子供遺棄事件の捜査報告書に目を通した。

 子供達は、板橋の街外れの草むらに棄てられていた。生後一月か二月くらいの赤子だった。子供は両名とも女児で、服は身に着けておらず、素性が推測されるものは近くには落ちていなかった。死因は首を絞められたことによる窒息死と推測され、体についていた噛み傷は、死後犬が噛み千切ったものだと断定されていた。

 報告書を見る限り、訳ありの双子を出産した女性が、育てられずに殺して遺棄したという線が強そうに思われた。少し前までは双子は忌まわしいものだと言われ、双子や三つ子を生んだ女性を畜生腹などと呼んで差別したという。だから、双子の片方を養子に出したり、間引きしたりする風習があったらしい。死体の状態が悪いから確かなことはわからないが、そのような古臭い風習も影響しているのだろうか。どのような事情があるにせよ、法律違反には間違いない。しかし、富国強兵の見せしめの為、弱者を検挙するというのは、気は進まなかった。

 重い足を引きずり捜査に出ようとすると、検視官が声をかけてきた。


「その報告書には書いてないのだが、遺棄された二人の子供は、双子じゃないかもしれない。生後一か月程度の双子にしては体が大きいし、双子にしては、似ていない部分がある気がする。死体の状態が悪いから確かなことは言えないが…」


 双子ではないなら、どういうことなのだろう。検視官の推測も一つの可能性として頭の片隅に置き、捜査に出かけることにした。

 警視庁の建物を出た。眼前には皇居の手前まで続く野原が広がっていた。その野原の真ん中には赤レンガの驕奢な建物が、取り残されたように建っていた。三菱の岩崎弥之助がこの土地を買い取って、あのレンガ造りの建物を建てたのだ。まだ見慣れないので、異様な光景に思える。話によれば、使い出のない土地を政府から半ば強引に買わされたとのことだ。この場所は、この先発展していくのだろうか。世間ではこの有様を三菱ヶ原などと揶揄されていた。

 板橋の街外れに赴き、第一発見者の女性に話を聞くことにした。

 東京の中心地から離れると、まだまだ文明から取り残された風景が続いている。第一発見者の女性の家も古ぼけた今にも崩れ落ちそうな家屋だった。

 何回も同じことを聞かれた、と言いつつも、中年の女性は喋り好きらしく、発見した時のことを詳しく話してくれた。

「あたしが朝亭主を送り出してから買い物に出かけようとした時ですよ。なにか変な臭いがしたんですよ。そちらに行ってみたら、野良犬が逃げていきました。怖かったんですけど、草むらをのぞいてみました。そしたら、あれですよ。子供の死体があったじゃありませんか。腰を抜かして、人を呼びに行きました。その時には、ぴんときていました。いま話題の食人鬼の仕業じゃないかって。噛みつかれた痕も見えましたしね」

 腰を抜かしたら、人を呼びに行くことも出来ないだろうし、野良犬がいたなら、噛み傷は野良犬の仕業だと考えるのが当然だろう。女性の証言には、内心首をひねりながら、続きを促した。


「ほら、昔から噂はあったじゃないですか。葉羽村の食人鬼の話」


 残念ながら私は知らなかった。


「あそこの村の長者の娘さん。食人鬼らしいじゃないですか。もう亡くなられたそうですけど、そのお母さんもそうだったんでしょう。生まれたときは普通の女の姿をしているのですけど、年頃になると、食人鬼に変わり、人をさらって食べるらしいですよ。だから、二十年くらい前にも、人がいなくなる事件がたくさん起きたらしいじゃないですか。今の娘さんも、そろそろ食人鬼に変わるお年頃らしいですよ。畜生腹から生まれた子供を、食人鬼が食べる。なんて恐ろしい」


 なんとも胡散臭く差別的な話だ。江戸時代ならいざ知らず、今は文明開化の明治の世だ。顔には出さないようにしたが、呆れてしまった。

 他の者にも話を聞いてみたが、葉羽村の食人鬼の話が少なからず出てきた。噂の広まりには新聞が大きな役割を果たしているようだ。情報の共有は良いことだと思うが、こんな噂まで広める必要はないだろう。

 他の人間にも話を聞いてみた。皆第一発見者の婦人と似たり寄ったりだった。犯人に直接結びつく証言は得られなかった。全員が被害者を双子だと信じており、別々の子供などという話は、全く出てこなかった。

 話を集めてみて感じることは、子供の死体から食人鬼の話が広まったのではなく、食人鬼の噂の中に、子供の死体が入り込んできたのだ。

 検視官の言う被害者は双子ではないということが本当ならば、事件は単純なものでは終わらない。子供は別々の親からさらわれてきた可能性もある。そこに葉羽村の長者の娘が関わっているかもしれない。

 とにかく一度、食人鬼と噂をたてられている葉羽村の長者の娘を調べてみなければならないだろう。



 翌日、葉羽村へと向かった。田んぼと畑が続く風景を超え、ようやく葉羽村へたどりついた。

 目立たぬように制服ではなく、和服を着てきたが、見知らぬ顔を見て、村人はよそよそしくこちらに目線をくれてきた。声をかけて情報を集めようかとも思ったが、長者に警戒されても困るので余計なことはしないことにした。

 噂の長者陰織家は村の奥の大きな屋敷だった。ここの娘が、人をさらって食べるらしい。そう考えると、この屋敷自体もとても陰鬱な印象をもたらしてきた。

 遠くから様子を見ていると、使用人らしき人達が、家から出たり入ったりしながら働いている。別段おかしな様子は見て取れなかった。

 娘が活動するのは夜らしい。張り込んでみることにした。隠れる場所は屋敷の裏にある林の中くらいしかなかったので、必然的にそこになった。

 息をひそめ、夜を待った。日が沈みだすと共に、蚊が活動的になってきた。肌の露出をなるべく抑えてきたが、たちまち何か所も刺された。

 そうこうしているうちに日は暮れ、村は闇に包まれていった。文明開化の明治と言えど、街から離れれば街灯などない。まだまだ闇は深い。しかし、隠れるには好都合だった。

 木々の間から丸に近い月がのぞいていた。この位の月明かりがあれば、屋敷から人が出てきたらわかる。さらに待った。

 出てくるのだろうか。本当に出てきたら、腰にぶら下げたサーベルの出番が訪れるかもしれない。

 一人で緊張していると、屋敷の裏口から人影が出てきた。この距離と明るさでは、顔まではわからない。髪は長いようだし、体の線は細い。多分女性だ。子供をさらいに行くのか。緊張がさらに高まった。

 人影は人里の方ではなく、村外れの丘の方へ向かった。

 息をひそめて後をつけていく。虫の音、草木が揺れる音。夜は光が無い分、音が際立つ。それらの音の中に、私の足音を紛れ込ませた。

 丘の頂上で人影は歩みを止めた。

 木の陰に隠れて様子を見ていると、人影がこちらに振り向いた。


「警察の方ですか。私を殺しに来たのですか」


 私はサーベルに手をかけた。そのままの格好で、しばらく様子を見た。人影は動く気配もなく、こちらに目を向けている。

 大きく息を吐き、サーベルから手を離し、茂みの中から歩み出た。

 近づくにつれ、その人の容姿がわかるようになってきた。


「私が妖怪です」


 漆黒の長い髪、透き通るような白い肌。月明かりの下で輝く目の前の女性は、妖と呼ぶのに相応しい程美しかった。


「あなたが妖怪でも人間でも、子供をさらって食べているなら、捕まえなければなりません」


 殺気は感じない。しかし、返答如何では、この女性を捕まえなければならない。


「子供をさらったりはしていません」


 静かだが、強い口調で女性は言った。


「ただ、私が妖怪の様な姿になって死ぬのは本当です。母もそうでした。その話が知れて、陰で妖怪と噂されているのも知っています。でも、本当に子供をさらって食べたりはしていません」


 女性は悲しげに目を伏せた。

 この人が犯人だという証拠はない。子供の遺体も離れた場所からみつかっている。近代法治国家で、噂だけで人を逮捕などしてはならぬことだ。


「無礼なことを言いました。申し訳ありません」


 非礼を詫びた。


「いえ。仕方ありません。それが、私の呪われた血筋ですから」


「本当に呪いだとお考えですか」


「受け継がれてしまう病気だと考えるのが妥当でしょう。しかし、お医者様にも治せません。祈祷師に祈ってもらっても母は死にました。そういう言い伝えも残っていますし、呪いという言葉が相応しいと思います」


「その言い伝えとはどの様なものなのですか」


「家族や自分の身に本当に起きるということがなければ、笑ってしまうような話なのですが、取りあえず聞いてください。私の母の先祖は、ここの村の出身ではなく、別の村の者だったそうです。その村は、外部とはほとんど交流がない村だったそうです。村の中では、怪しい呪術が行われていて、よそ者が入ると、殺されてしまうようなところだったそうです。ある時、とても酷い飢饉が起こりました。食べ物が無くなり、食べられるものは何でも口に入れたそうです。それでも、食べ物が無くなり、お互いを殺して、その肉を食べたのです。殺し合いは続き、最後に一人の女性が生き残りました。しかし、最後に殺して食べた村の呪術師に、妖怪になる呪いをかけられてしまったのです。その女性が、私の先祖です」


 そこで、女性は一呼吸おいて、私を見た。私は何も答えなかったが、女性は話を続けた。


「私の先祖は、誰もいなくなった村を捨て、他の場所を目指しました。その時の夜空にはほうき星が瞬いていたそうです。ほうき星に導かれるように、ひたすら歩きました。ろくに食べ物もない状態で、たった一人でひたすら歩きました。そして、この村にたどり着いたのです。私の先祖は、大変美しかったので、村の長者に見初められて、結婚し娘を授かりました。しかし、ある日突然、妖怪の姿になり、夫や周りの人を襲おうとしたのです。先祖は座敷牢に入れられ、その中で死にました。それから何年もの月日が流れ、娘も美しく成長し、婿をもらい、娘を授かりました。しかし、何年かすると、また妖怪の姿になり、人を食べようとしたのです。そして、娘を残して死にました。その残された娘が私の母でした。その母も、私が幼い頃妖怪の様な姿になりました。目は赤く血走り、肌は青白くなり、血管が浮き出ていました。美しかった母の面影は、まるでありませんでした。母は涎を垂らしながら人々に噛みつこうとしました。父や使用人が暴れる母を取り押さえ、家の中に閉じ込めました。母は食事も水もとらず、人間とは思えない声で叫び、苦しみながら死んでいきました。私も、もう少ししたら、妖怪の様な姿になり、苦しみながら死んでいくのでしょう」


 にわかには信じられない話だった。嘘をついているようには見えない。気が違っているのだろうか。

 女性の目を見つめた。女性も私の目を見つめ返してきた。吸い込まれてしまいそうだった。


「私の呪いを解いてくれますか」


 何も答えられなかった。


「では、真犯人を捕まえて、私の無実を証明してくれますか」


「それならまかせて下さい」


 女性が月明かりの下で、可憐に微笑んだ。

 最後に女性に名前を尋ねた。


「珠江です」

 

 珠江を家まで送り届け、私は外で夜を明かした。

 

 太陽がある程度まで昇ったところで、屋敷を訪れ、珠江の父に話を聞いた。

 珠江の父、陰織秀三郎は、温厚そうな男性だった。

 警察の身分を明かすと、悲しそうに目を伏せた。自分の娘にまつわる噂は知っているのだ。


「確かに噂の通り、珠江の母は、妖怪の様な姿になって死にました。しかし、双子の子供をさらって食べたりはしていません。病気が発症してからは、家から一歩も外に出しませんでしたから、絶対にやってはいません。珠江にも有らん疑いを向けられているようですが、うちの娘は人殺しなどやっておりません。本当です」


 気が弱そうにも見えた秀三郎だったが、妻や娘の潔白を主張する口調は力強かった。嘘を言ってかばっているようには思えなかった。

 昨夜珠江と直接会った時点で、彼女はこの事件の犯人ではないと感じていた。聞きたかったのは、珠江の病気についてだった。


「妻も娘も散々医者に見せましたが、原因はわかりません。祈祷師にもお願いしましたが駄目でした。珠江の曾祖母にあたる由紀がいた村に行けば、何かわかるかとも思ったのですが、場所すらわかっていません」


「その呪われた村の手がかりみたいなものはあるのですか」

「昔のことですし、どこまであてになるかはわかりませんが、由紀が残したというこんな言い伝えが残っております。かわんとの淵を過ぎ、てんぐの曲がり松を越え、がき塚におうせの光を当てれば、道が開かれる」


「かわんとの淵。かわんと、とは何のことでしょうか」


「多分、かわうそか河童のことだと思います。てんぐは、鼻が高いてんぐでしょう。がき塚は、餓鬼のことでしょうか。おうせ…。何のことでしょうか。わかりません」


 妖怪の名前が手がかりか、それだけでは何が何だかわからない。


「由紀は西の山の方から来た様なので、多分そちらの方に村の跡があるのだろうと、人を送ってみたのですが、その男は帰ってきませんでした。死んだのか、嫌になって逃げたのか、とにかく行方知れずです」


 呪いが存在するとも思えないが、その村を調べてみれば何かわかるかもしれない。秀三郎が語った由紀が残した言い伝えを心に留め、席を立った。どこからか見られている感はあったが、珠江は姿を見せなかった。

 葉羽村まで行ってみたが、事件解決に近付きはしなかったようだ。眠い目をこすりながら、帰路についた。



 日を改め、子供の死体が発見された板橋を再び訪れた。

 生まれて間もない子供だから、運ぶのは難しくはないが、わざわざ遠くまで捨てに行くことも考え辛い、やはり犯人は板橋近辺にいると考えるのが妥当だ。

 貧民窟と呼ばれる場所へ向かった。文明開化に取り残された底辺の者達が集まった場所だ。治安も衛生環境もかなり悪い。東京に数か所貧民窟が存在しているが、同僚の警察官でも、足を踏み入れたがらない者すらいた。

 廃材を集めたような簡素な小屋が立ち並び、異様な臭気を放っていた。

 職もなく、昼間から路地に座りこけている男性。夜鷹のさらに下の売女と呼ばれる女。栄養失調で痩せこけた子供。病人や、乞食もたくさんいる。警察官の私を見ると、皆警戒した目つきを送ってきた。

 ここでは、暑ければ死に、寒ければ死に、病気が流行れば瞬く間に広がり、殺人も珍しくない。そう離れていない場所で起こった嬰児遺棄事件に焦点が当たる方がおかしいくらい、ここでは頻繁に事件が起こっている。皆が皆貧しく、暗く落ち込んだ顔をしている者も多かったが、笑顔を忘れず、生活している者達もいた。人間は逞しい。

 嬰児遺棄事件について聞き込みをしてみたが、葉羽村の食人鬼の娘の話は出てきたが、その他の情報は得られなかった。

 ここにいる者達は、字を読み書き出来ない者も多い。それでも食人鬼の噂話を知っているのだから、伝聞の力は新聞の力にも引けを取らないということなのか。

 聞き込みをしながら歩いていると、貧民窟と呼ばれる場所から脱したようだ。境目がはっきりしているわけではないが、道幅も建っている家も、もう少しましだ。

 一軒の家が火事で焼失し、残骸が炭となって残っていた。一軒で済んでいたが、道幅も狭く、狭い長屋が密集した貧民窟に飛び火したら、大変なことになっていただろう。

 一人の物乞いが道端に腰かけ、歌っていた。病魔に侵され崩れた顔を包帯で巻いて隠している。手足も変形してしまっていた。それでも歌声だけはしっかりしていた。往来が多い場所とも思えないが、前に置かれたざるには幾らかの金が入っていた。この辺りでは珍しい光景ではない。

 火事痕の向かいには、比較的大きな家が建っていた。敷地は垣根に囲まれ、庭もあるようだ。垣根の上から柿の木が姿を見せていた。ここら辺では豪華な家と呼べるだろう。表札には外島と書かれていた。

 家を眺めていると、玄関が開き家人が姿を見せた。小ざっぱりした和服を着た中年の男性だった。私の姿を見て、少し動揺したようだ。大概警察の制服を見れば動揺するものだ。この男が、表札に書かれている外島だった。

 私は、嬰児死体遺棄事件について尋ねてみた。


「ああ、あの事件ですか。巷では食人鬼の仕業だとか言われていますが、どこかの女性が、子供を産んでみたものの育てられずに捨てただけの話でしょう。金がなかったり、事情があったり、育てられないこともあるのですよ。それでも堕胎したら捕まってしまいますからね。私も本業は別にあるのですが、養子縁組の仕事もしているのですよ。育てられない人から、子供が欲しい人へ仲介する仕事です。巡査様と同じく、世の中の役に立つお仕事ですよ」


 堕胎禁止法により、中絶することも出来ず、様々な事情により育てることも出来ないときは、幾ばくかの養育費とともに、育てることが出来る人へ子供を託すのが最近のやり方だ。この男性はその仲介をしているのだ。


「子供は日本の宝です。未来への希望なのです」


 なかなか良いことを言う。

 もういくつか質問しようとしたとき、どこからか怒鳴り声が聞こえてきた。貧民窟の方だ。何かが起こったのだ。

 手短に挨拶し、外島の家の前から離れた。

 騒ぎが聞こえる方へ走った。走っている間に、さらに騒ぎが増していくのがわかった。

 貧民窟の中に、人だかりが出来ていた。中をのぞき込むと、数人の男が喧嘩をしていた。

 一人対四人のようだ。他愛もない喧嘩かと思ったが、四人組の一人が短刀を抜いた。あわてて大声で制止すると、四人組の男は、警察官の私の姿を認め、足早に逃げ去って行った。

 大した事件でもないので、四人組の男を追うことはしなかった。

 激しい喧嘩を期待していた野次馬達は、落胆しながらはけていき、四人組と一人で喧嘩していた男が残った。


「ありがてえ。おかげで助かりやした」


 小汚い格好をした中年の男が、黄ばんだ歯を見せて笑った。


「急に被害者ぶるな。逃げて行った奴らの顔も傷ついていたぞ。お前も手を出したのだろう」


「さすが旦那。お目が高い」


 男は悪びれもせずに笑った。身なりは汚いが、しなやかな野生の動物を思わせる体をしていた。

 名前は権次ごんじということがわかったが、身元を尋ねると、あやふやな返事しか返ってこない。町民でも、街に出てきた農民でもなさそうだった。


「お前はサンカか」


「そう呼ぶ人もいやすね」


 江戸時代から士農工商に属さず、現在でも土地に定住することのない漂白の民だ。明治に入って都市部に流入し、その数を減らしているという話だが、いまだに山間部や河原などで生活している姿が報告されている。必ずしも犯罪集団というわけではないが、もめ事を起こしやすい存在ではあるのも確かだ。そのもめ事の中には、まれに凶悪なものも含まれる。


「厄介ごと起こすな。ちゃんと戸籍取って、日本国民になれ」


「勘弁して下さいよ旦那。俺は根っからの根無し草なんでね」


「なんだそれは。日本語おかしいぞ」


「そりゃそうだ。読み書きなんて教わったことねえよ」


 政府が教育に力を入れ出しているとはいえ、文字を読み書き出来ない者も依然多い。里と交わらぬ生活をしているなら、出来なくて当然といえば当然だ。

 ふと呪われた村のことを思い出した。秀三郎の話によれば、西の方の山の中にあるらしい。山の民であるこの男に聞けば、何かわかるかもしれない。


「呪われた村について何か知らないか。西の山の方にあるらしい。元々、怪しい呪術を行っていた外部とは交流のない村だったそうだ。天保の飢饉のときに一人を残して全滅したらしいが、現在捜査中の事件と関わりがあるかもしれないのだ。この間、食人鬼事件として新聞でも取り上げられただろう。あの事件だ」


「だから、俺は新聞なんて読めませんよ旦那。でも、その村の話なら聞いたことがありやすよ。仲間に聞いてみればわかるかもしれやせん」


 そう言いながら、権次は指で輪を作った。

 情報提供料だ。渋々金を払うと、


「一緒に悪を倒しましょうぜ旦那」


 そう言って歯を見せて笑った。


「金だけ持って逃げたら、牢獄に送り込むぞ」


「サンカだからって疑うのは良くありやせんよ。差別はいけねえ。福沢某も言ってたでしょう。人の上に人は作らずってね」


「お前、字読めないの嘘だろう」


 権次は笑いながら消えた。

 

 

 久々に警視庁剣術道場に赴いた。

 父の指導を受け、幼少の頃から剣術の修練を積んできたが、なかなか上達したと実感出来なかった。亡き父は、朝に三千、夕に六千剣を打ち込んでいたらしい。最近は仕事の忙しさから稽古も怠りがちで、父との差は縮まることはなかった。

 同僚達と稽古に励んでいると、入り口から一人の男性が入ってきて、道場内の空気が変わった。藤田五郎さんだ。

 藤田さんは、既に警察は退職しているが、時折道場に顔を出し、我々に稽古を付けてくれる。本人から聞いたわけではないが、悪名高き新撰組の生き残りという話だ。高齢ながら剣の腕は滅法強かった。


「久し振りだな、気違い猿の息子」


 冷たく指すような眼光を向け、藤田さんが声をかけてきた。

 今は亡き私の父は薩摩出身で、維新の時には官軍として戦った。幕軍の藤田さんとは敵同士だった。明治に入り、父は警視庁警察官になったのだが、同じく警察になった藤田さんとは依然反目していたのだ。おかげで藤田さんには集中してしごかれている。同僚の中には、藤田さんの剣の腕に心酔している者も多く、その人達には私ばかり目をかけられて羨ましいと言われたりもするが、目をかけられているというよりは、目を付けられている、もしくは、目の敵にされていたる、という方が相応しい。本当にいい迷惑だ。

 藤田さんは、私の父のことを「気違い猿」と呼ぶ。その呼び名は、戊辰戦争のとき、薩摩の剣術示現流の独特の掛け声と、父の素早い踏み込みから、幕軍の兵士が恐れを込めて付けたものだが、自分の父がそう呼ばれるのは正直言って腹が立つ。そして、父もそうだったが、私は手足の指が他の人より際立って長かった。足の指など草履の先からはみ出る程だった。そのことも「猿」と呼ばれる所以となっている。

 いつも通り、藤田さんが真っ先に私を乱取りの相手に指名した。

 今日こそは吠え面かかせてやる、と意気込んだものの、呆気なく打ちのめされ、最後は壁の羽目板に叩き付けられた。

「親猿はこんなものではなかったぞ」

 冷たく言葉を吐き出してから背を向け、他の者に稽古を付け始めた。

 猿と言うな、血に飢えた壬生の狼のくせに。心の中で悪態をついた。


 

 有楽町にある新聞社を訪ねた。新東京社。名前は新しい時代を感じさせるが、嬰児死体遺棄事件を面白おかしく書き立て、食人鬼事件に仕立て上げた新聞社だ。

 私もその記事を読んでみたが、荒唐無稽ながら真実に迫っているように書かれており、信じるか信じないかは別として、興味を持って読む人も出てくるのはわかる気がした。

 建物は木造の古びた一軒家だった。社員数も少ない小さい会社のようだ。

 警官の制服を着た私の姿を見て、従業員は驚いた顔を見せた。

 記事が書かれた経緯を社長の富永に尋ねると、巷に流れる噂をもとに、さしたる証拠もないまま書かれた記事であることがわかった。当然、珠江の事件当時の所在を確認したわけでもなく、目撃証言があったわけでもない。


「こういう記事を待ち望んでいる読者もいるんです。こちらだって部数を上げなきゃ食べていけませんから」


 さも正論とばかりに富永は言った。

 この記事で迷惑をこうむっている人間もいるし、真犯人の逮捕から遠ざかる可能性もあるのに、無責任なものだ。

 呪われた村について何か知っているか尋ねてみた。


「聞いたことはありますよ。実際に行ったことはないですがね。東京の西の山の中にあるという話ですよね。天保の飢饉のときに一人残して全滅したっていう村でしょう。名前は切頭村とか言ったかな。なんとも不気味な名前ですね。維新の混乱で紛失したみたいですが、年貢を納めていた記録も残っていたらしいから、実在はしたんでしょう。まあ、徴収する役人も、気味悪がってほとんど立ち入らなかったようですがね。お役人だって、おかしいという噂だけで罰するわけにはいかないだろうし、年貢をしっかり収めてくれるなら、それに越したことはないでしょうしね。貧乏藩なんか、隠れキリシタンだとわかっていても、しっかり年貢を納めているなら、見逃していた例はたくさんあるようですよ。巡査さんがみつけたら教えて下さいよ。面白い記事書きますよ」


 富永は、下卑た笑いを浮かべた。

 不快な気分になったが、礼を述べて新東京社を後にした。

 表に出ると、一人の男が立っていて、こちらに向かって会釈をしてきた。


「食人鬼事件をお調べですかな巡査殿」


 気取った言い方で話しかけてきたが、不思議と嫌な感じはしなかった。男は、人民社の社長、高徳伝次郎と名乗った。名前は耳にしたことがあった。発行部数一位の新聞を出版するやり手の男だ。仕立ての良さそうな背広を着て、整った顔からは、知性の空気を漂わせていた。


「立ち聞きするつもりはなかったが、戸が開け放しで聞こえてしまった」


 高徳は、照れ笑いを浮かべ、話を続けた。


「ここの会社のように、全ての出版社が俗物記事で部数を稼いでいると思われては困ってしまうな。この国の未来を憂い、人々に真実を伝えようとしている出版社の方が、本当は多いんだ。そこはわかって欲しいな。君が真面目に頑張っていても、汚いことに手を染めた警察官もいるだろう。そういうことだよ」


 私が特別優れた警察官というわけではない。優秀な人間も多数いる。しかし、質が低い者も確かに存在する。山間部の郵便配達夫が、強盗対策に拳銃を支給されているのに、我々がサーベルなのは、警察の質が悪くて拳銃を持たせると危険だからという説もある程だ。


「全ての新聞が、利益に走って低俗な部数稼ぎに走っているなど思っていませんよ」


「それなら良かった」


 私よりは年上だし、社会的地位も高そうだが、初対面にしては馴れ馴れしい気もする。しかし、大して会話していないのに、いつの間にか高徳の調子に巻き込まれてしまっていた。一緒に歩こうと促され、私は足を動かしていた。

 新東京社のすぐ近くに、高徳の会社人民社はあった。木造二階建てで、日本一の発行部数を誇る新聞を出版している割には粗末な建物だった。

 会社内に案内されるかと思いきや、前を通り過ぎ、皇居の方へ向かった。

 横に並んで歩きながら高徳は話しかけてきた。


「食人鬼事件の捜査は進んでいるかい」


「それにはお答え出来ません」


「それはそうだろうね。ただ、君もわかっているだろうが、当然食人鬼の仕業なんかではないよ。人が捨てた子供の遺体を、野良犬が噛み千切っただけだろう。三流誌が扇情的に書き立て、世間の目がこの事件に向いたのを、政府が利用しようとしているのだ。堕胎や間引きの規制を広く伝え、労働力の増加を狙っている。その為の、みせしめを仕立て上げようという魂胆が見え見えだ」


 高徳が私の目を見据えてきたが、何も答えなかった。随分と内情に通じている。警察内部にもつながっているようだ。


「富国強兵。産めよ増やせよ。それが間違えているとは言わん。しかし、育てられない場合もある。一番多いのは経済的な理由だ。それなのに実情にそぐわない堕胎罪などを作って、貧民を圧迫している。弱者救済が先ではないのか」


 皇居の南側を堀に沿って歩いた。番兵がこちらに敬礼してきた。知った顔ではなかったが、こちらも答礼し、歩みを続けた。

 将軍様の江戸城から、天皇陛下のおられる皇居へと変わって結構な年月が流れた。内部をうかがい知ることを出来ないが、大層豪華な造りなのだろう。

 歩いているうちに、風が吹けば飛ばされそうな多数の小屋が見えてきた。鮫河橋の貧民窟だ。板橋の貧民窟と同様に、底辺の者達が集まる場所だった。

 片や皇居、片や貧民窟。最も裕福な場所と最も貧しい場所が隣り合っているのだ。その対比は鮮烈だった。


「ここの住民の食事は、皇居や陸軍練兵場から出る残飯だよ。すぐ足元に貧している人々がいるのに上ばかり見て、踏み潰していることにさえ気付いていない」


 貧民窟の住人は、警察官の私を見ると警戒した顔を向けてきたが、高徳には気さくな笑顔を向けた。ここの住民と顔なじみなのだ。

 高徳と共に貧民窟の中を歩いた。板橋の貧民窟も酷かったが、ここも劣悪な環境だった。


「貧富の差は拡大し、弱者は切り捨てられるばかりだ。弱き者から搾り取った富で武器を買い、船を作り、鉄道を敷く。それが正しき道なのか」


 皆粗末な服を着て、崩れそうな家に住み、栄養不足だった。


「国民全てが、しっかりとした家に住み、きちんと食べ、高度な教育を受けられる社会にしなければならないのではないのか」


 日本は清との戦争に勝ち、戦勝気分に浮かれているが、その恩恵は、ここの人々には全く届いていない。これからも貧民などかえりみられることもなく、さらに外を目指していくことになるだろう。


「君はどう思う」


 経済的困窮は犯罪へとつながりやすい。治安的な面でもどうにかしなければいけない問題だ。だが、私には根本的な解決策などない。答えに詰まった。


「また逢う日がくるだろう」


 黙っている私を残し、高徳は去って行った。

 自分がやけに小さく感じた。


「旦那。探しましたぜ」


 後ろから呼ばれて振り向くと、サンカの権次が立っていた。


「どうしたんです浮かない顔して」


「何でもない」


「とにかく、仲間から色々情報集めて大まかな場所はわかりやした。西の山のここら辺でさ」


 地図を取り出し、一点を指し示した。


「本当に大まかだな」


「なんでも切頭村きりこうべむらとかいう名前だとか。薄気味悪い名前でさあね」


 由来など知らないが、確かに嫌なものを想像してしまう名前だ。


「詳しくはあっしが案内いたしやす。褒美はたんまりはずんでください」


 案内してくれるのは有り難いが、サンカの領域に足を踏み入れるのは危険な気もした。


「おかしなこと企んだら斬るぞ」


「安月給の、しかもやたらと鍛えこんでるサツカン襲ってもよいことないでしょう」


 それもそうか。完全に信頼したわけではないが、何かわかるかもしれない。足を運んでみることにしよう。

 


 呪われた村に向かう前に、葉羽村へ寄り、もう一度呪われた村の情報を確かめることにした。

 突然の来訪だったが、秀三郎は嫌な顔をすることなく対応してくれた。

 前に来た時と同じ部屋に通され、話を聞くことになった。

 新しい情報を得るというよりは、前にされた話を確かめる形になったが、前回は実際に訪れることになるとは思わず、聞き流し気味だったので、今回とは重みが違った。


「真犯人を捕まえてくれるのなら、何でも協力しますよ。うちの珠江は事件とは無関係です」


 秀三郎はそこで一呼吸した。そして話を続けた。


「もし、珠江が助かるなら、呪いでも妖怪でも何でも信じますよ」


 滑稽だと思いつつも、娘が助かるのなら迷信にでもすがりつくという秀三郎の気持ちが伝わってきた。

 襖が開いた。使用人がお茶のお代わりでも持ってきたのかと思ったら、珠江が入ってきた。

 月明かりの下でも、薄っすらと光を放つような可憐さを感じたが、明るさの中で、はっきりと輪郭を捉えたとき、その容姿に私の心は釘付けとなった。


「どうした珠江」


 秀三郎も突然の娘の登場に驚いていた。


「私を呪われた村へ連れて行って下さい」


 予想していなかった言葉に、私も秀三郎も絶句した。


「妖怪になって死ぬのを待つだけなのは嫌です。自分で道を切り開きたいのです」


 秀三郎と顔を見合わせた。


「珠江無理を言うな。足手まといになる。石走さんを困らせるな」


 珠江の表情が曇った。彼女の気持ちはわからないでもないが、やはり危険だ。


「私が探索してきます。場所がわかり、珠江さんが行っても大丈夫だと確認できたら、一緒に行きましょう」

 

 納得出来ないようだったが、不承不承珠江はうなずいた。

 挨拶して家を後にしようとすると、玄関の外まで珠江がついてきた。

 元気づけようと、さも自信ありげに言った。


「呪われた村をみつけてきますよ」


「みつからなくても良いですよ」


 投げやりとも思える言葉だったが、珠江は笑顔だった。


「私の無実を証明して欲しいのは本当です。でも、呪われた村に行っても直接事件とは関係がないと思います。そもそも呪いなんて存在しないでしょう。私は、呪われた村へ行って呪いを解きたいのではなく、外の世界を見たかっただけなのです」


 卑屈になっているというよりは、諦めた者の潔さを感じた。


「ずっと偏見の目で見られ、気兼ねなく外に出られるのは夜だけ、それも村の中だけです。村の外の世界は、人に聞いたり、本で読んだりしたものばかり。外の光の中に踏み出したいのです」


 珠江の瞳を正面から受け止めると、鼓動が早くなった。


「呪われた村をみつけて戻ってきます。そうしたら、どこへでも一緒に踏み出しましょう」


 珠江が笑った。ただそれだけなのに、新しい世界へ踏み出したような気がした。



 青梅電気線に乗り終点までたどり着いた。駅舎からも周囲の山々が見えた。


「鉄道ってのはすごいものですね」


 旅行気分の権次に呆れる素振りを見せつつも、内心私も高揚していた。こんなにも時間も労力も削減してくれる文明開化に感謝だ。

 この辺は、林業が盛んな地域だ。東へ向かう電車へは材木がたくさん積み込まれていた。昔は川を使って船で材木を運んでいたのに、時代の進歩はここまで来ている。街の中も河や運河が埋め立てられ、水運から陸運へと変化を遂げつつある。時代は変わっているのだ。

 これから材木を伐採しているところよりも更に奥に踏み入り、呪われた村を探す。木々の生い茂る山を実際に見上げてみると、ただの想像だった苦難の道程が現実のものと感じられ、背中に背負った荷物が重く感じられた。

 駅から離れ、山を登り始めた。

 初めの頃は、木を伐採し運ぶ人々もおり、里の臭いが残っていた。進むにつれ、人の気配は少なくなり、道は細く荒れていった。何時しか、けもの道や道なき道を進むようになり、私の体力は削られていった。木々の葉に日光が遮られ、昼間なのに薄暗く、気も滅入ってくる。

 対照的に、権次は街中よりも本領発揮といった体で、軽々と歩を進めていった。


「この方向で正しいのか」


「今のところ、仲間達から集めたネタに間違いはなさそうですぜ」


 どこが正しくて、どこが間違っているのかわからないが、彼ら独特の勘があるのだろう。

 権次という男は、おしゃべり好きな人間のようで、歩きながらも言葉はなかなか途切れなかった。


「あたしらサンカと呼ばれる者達にも、色々な奴らがおりましてね。山奥の洞窟に住んでいた奴。河原に住んでいた奴。呪術師まがいのことをして各地を転々としていた奴。まあ、世間の偏見通り泥棒して生活していた奴らもいましたがね。今じゃあ、ほとんどのサンカが街に紛れちまって、山で暮らしている奴は少なくなりやした。切頭村のことを教えてくれた奴らは、少し前までここら辺の山で暮らしていたのですが、今は里に下りて材木を運ぶ仕事をしてやす。そいつらが言うには、切頭村は、行ってはいけない場所だそうです。神隠しにあった人間が何人もいるとか、行って帰ってきた奴の気がふれていたとか、そんな話をされやした」


 かわんとの淵を越え、てんぐの曲がり松を過ぎ、がき塚におうせの光を当てて次の道を開け。残された言い伝えは、神隠しなど不思議な現象を予感させる。


「呪いは本当にあると思うか」


「あるわけないでしょう。江戸時代ならいざ知らず。文明開化の明治ですぜ」


「お前は正体不明の山の民なのだから、もっと神秘的なことを言え」


 権次の笑い声が森に響いた。

 休憩をはさみつつ我々は進んだ。


「この調子なら、日が暮れる前に切頭村に着けそうですぜ」


 今日中に着けるのは有り難かったが、そうなると切頭村で夜を明かすことになる。それは気分の良いものではなかった。

 着いてからのことは着いてから考えることにして、山を登り、谷を下り、草をかき分け、枝を払い、我々は進んだ。

 権次の無駄口はその間も途切れることがなく、私は聞き流していた。

 その無駄口が不意に止んだ。何事かと思って目を向けると、前方を指さしていた。

 指が指す方向には、山の中では異質なものがあった。近付いて確認してみると、膝の高さくらいの銅像だった。人間なのか、妖怪なのか、異形の銅像だ。腹の部分には、禁足地と彫られていた。入ってはいけないということか。銅像の先は下り坂になっており、下った先は窪地になっていた。窪地の端には大きな木が一本立っていた。


「ここが、かわんとの淵か」


 切頭村への道は正しかったようだ。昔はこの窪地に水が溜まっていたのだろう。そこが、かわうそか河童か、とにかく妖怪の住処と呼ばれていたのだ。


「旦那、村へ行くには、下に降りるのではなくて、こちらの登る道ですぜ」


 銅像の置かれた下りの道とは別に、村へと通じるだろう登りの道があった。

 めまいがしたような気がした。疲労が溜まってきたのだろうか。

 銅像を手で撫でてみると、汚れの下から赤銅色の体が出てきた。長い間野ざらしにされていたのに、きれいな色だった。


「旦那。何だか嫌な感じがしやすね。かわうそにどうこうされるとか言っている訳じゃなく、何か変な感じがしやすよ。触らぬ神に祟りなしですよ。奥に行くのは止しましょう」


 触らぬ神に祟りなし。ここには真逆のことをしに来ているようなものだが、何かがおかしいのは私も感じていた。銅像から窪地へは進まず、村への道を登ることにした。

 歩いている最中、権次の口数が減っていた。足取りを見る限り、疲労困憊という訳でもなさそうだ。かわんとの淵で感じた変な感覚が、口数を減らしているのだろう。私も先程はめまいがしたし、何か嫌な気分になった。妖怪の仕業などとするつもりはないが、自分の体に何かが起きたことは否定出来なかった。

 さらに進むと、崖沿いの細い道に差し掛かった。足を踏み外せば、死は避けられない。

 気を付けて歩いていくと、崖の縁から一本の松が生えているのに出くわした。松は根元の少し上の部分から大きく曲がっており、曲がったところからは、ほぼ真横に空中に向かって伸びていた。

 てんぐの鼻の様にも見えるし、てんぐが幹に腰かけていても似つかわしい。これがてんぐの曲がり松だ。


「この曲がり松には、てんぐが空を赤く染めて怒る、という言い伝えがあるそうですよ」


 それは私も聞いていた。


「普通に考えると、夕暮れか朝焼けで、空が赤くなった時に何かが起こるということになりそうだな」


「まあ、そうなりますね。夕方になるの待ちやすか」

 

 夕刻まで待って、伝承の内容を確かめてみたい気持ちはあったが、日が暮れてから崖に面した道を歩くのは危険と判断し、先へ進むことにした。

 崖縁の道が終わりを告げ、その先には滅びた村が待っていた。言い伝えの村は本当に存在したのだ。天保の飢饉のとき、村人同士が殺し合い、その肉を食べたと言われている場所だ。夕刻が迫ってくる中、廃屋が作り出す影には何かがひそんでいそうだった。

 まだ何も調べていないが、闇が村を包み始め、探索は明日へ持ち越しとなった。

 倒壊した家が多い中、形を保っている家を見つけ、今夜のねぐらとすることにした。

 囲炉裏に火を起こし、持ってきた食料を口にした。

 家の中には、錆びた鍋や割れた茶碗などが残されていたが、白骨化した遺体も、争った形跡も見当たらなかった。


「旦那怖いですか」


 揺れる火に照らされ、ぼんやりと闇に浮かんだ権次が訊いてきた。

 強気に「そんなことはない」と答えようかとも思ったが、素直に認めることにした。


「怖い。灯りに照らされた街中なら、幽霊も妖怪も笑い飛ばせるが、闇に包まれた山の中ではそうはいかないな」


「そうですね。かわんとの淵もてんぐの曲がり松も、何か変な気がしました。ここにいると、妖怪が本当にいるような気がしてきやすね」


 相槌を打ちながら、食人鬼の群れにこの家が囲まれているところを想像した。口に出すと恐怖が増しそうなので、黙って飲み込む。想像を巡らせていると負のぬかるみに足を取られそうなので、横になり目を閉じ、腹で呼吸することだけに集中して眠りについた。

 目が覚めると夜が明けていた。権次はまだいびきをかいている。起こさないように静かに立ち上がり、家の外に出た。太陽の光がこんなに安心をもたらすものだとは思わなかった。

 朝焼けは終わりを告げていたので、てんぐの怒りを確かめるには遅かった。まずはがき塚を探すことにしよう。

 権次が眠たそうに眼をこすりながら起きてきた。


「昨日は、旦那が寝ている間に妖怪と戦って大変でしたよ」


「嘘をつけ。俺はお前のいびきと戦っていたよ」

「おかしいな。自分のいびきなんて聞いたことないですがね」


 鬱陶しいと思うこともあった権次の無駄口すら微笑ましかった。闇夜は私に重圧をかけていたのだ。

 がき塚探索に入った。村の中を歩き回ってみる。天保の飢饉以来打ち捨てられていたのだ。家は潰れ、田畑は荒れ放題。道にも雑草が茂り歩き辛かった。鳥の鳴き声や、虫が飛び回る音は聞こえてくるが、長い間人が入った形跡はなかった。

 村の長者の家だろうか。一番大きな家の前に立った。柱がかしいでいて、屋根も傾いていた。今にも崩れ落ちそうなので、入りたくはなかったが、手がかりがあるならここだろうということで中に足を踏み入れた。他の家より幾分豪華だったが、それほど大差はなかった。残された布団や食器などが、生活が行われていたことを物語っていたが、家の主人の遺体は見当たらなかった。

 部屋の天井付近は神棚が備わっていた。小さな神殿、注連縄、御神酒を入れる徳利がそなえられていた。神殿の前に設置されている神鏡の様子に違和感を覚えた。手に取ってみると、鏡は一枚ではなく、二枚重ねて置かれていた。大きさは大きめの皿くらいだが、手に取ってみるとずしりと重かった。呪術に使う道具なのだろうか。


「旦那。それに触ったら呪われますよ」


「さっきまで、呪いなんて無いと言っていただろう」


 怒鳴りつつも、恐る恐る慎重に神鏡を神棚に戻した。

 他には何もみつけることが出来ず、歩くと家全体が揺れて怖いので、外に出ることにした。

 長者の家の近くに土蔵が形を留めていたので中に入ってみた。食料の貯蔵庫に使われていたようだ。扉は壊れていて、中には米俵の残骸と思しきものが残っていた。まずは食料を奪い合い、それが無くなるとお互いの肉を奪い合ったということか。

 他にも何かあるかと探してみたが、特に何も見つからぬまま、土蔵を後にした。

 村の中を探索したが、がき塚らしきものは発見出来ない。神棚の鏡以外には、呪術的な要素もない。村人が殺し合ったという話なのに、遺体も見つからない。ここは本当に呪われた村なのか。

 田畑はそれなりに広く一定量の収穫は見込めたはずだ。近くに川も流れていて、井戸もある、住居も結構多い。他の地域との交流ということを考えなければ、この村は良い生活をしていた村だったのかもしれない。言い伝えの方が間違えなのか。

 不安を感じつつも、さらに枠を広げて探索してみることにした。

 集落から少し離れた場所に来ると、背の高さ程の木の札がたくさん立っていた。ここは墓地だ。朽ちて倒れているものも多かったが、まだ立って書かれた文字が判読出来るものもあった。


「なんて書いてあるんですか」


「埋葬された人の名前と、死没した年月日が書いてある。天保の飢饉の時に亡くなった人が多いようだ」


「言い伝えは本当ということですか」


「そうかもしれないが、殺し合ったなら、埋葬する余裕なんてあるのだろうか」


「それもそうですね」


 とにかく、二人で墓に向かって手を合わせた。

 墓地から離れようとすると、権次が一本の道をみつけた。道は集落とは逆方向へと続いている。私たちは、この道をたどってみることにした。

 道は細く、木々の枝葉に進行を阻まれた。我々は招かれざる者なのか。

 森が開け、広い空間に出た。草木の生えていない土と岩だけの地面が広がっており、そこには大きな割れ目が口を開けていた。木々による圧迫感は去ったはずなのに、陰うつな空気はむしろ増していた。

 大地に開いた割れ目は、両手を広げたくらいの幅があり、長さは大股で十歩以上はある。のぞき込んでみると、深さは背丈の倍くらいのようだ。岩肌の凹凸を使えば、楽に降りられる深さだ。


「下に妖怪がいたら叫んで下さい。一目散に逃げますんで」


「頼りがいがある奴だ」


 岩に手足をかけて、ゆっくりと下った。特に問題なく底に下りることが出来た。上を見上げると、闇に入った明るい亀裂の中に、権次の顔が見えていた。


「妖怪がいる。助けてくれ」


「はい。今助けに行きますよ」


 身軽な動きで権次が下へ降りてきた。

 権次が降り切るのを待たずに、割れ目の奥へ進んだ。暗くてわからないが、音の反響具合から判断して、奥は浅めの洞窟になっているようだ。

 マッチを擦り火をつけた。ほのかな明かりの中に、石と土で盛られた小さな山が浮かび上がった。その小さな山には、得体の知れない形をした金属製の棒が何本か刺さっていた。根元から途中まではどの棒も真っ直ぐだが、先の方は曲がりくねったり、棘がついていたり、形がまちまちだった。

 これが、がき塚か。

 後ろから来た権次も、異形の物体に目を奪われていた。


「がき塚みつけてしまいやしたね」


「本当にあったな」


 会話を交わすごとに空気の圧力が増していくような気がした。呼吸が重い。


「この塚は呪術に使うものなのか」


 権次は気まずそうに口をつぐみ、少し逡巡してから喋り出した。


「ここに間引きされた子供が埋められているのですよ。だから、がき塚なんです。生まれたばかりの子供は、体が未熟で自分では何にも出来やせんが、精神力というか、生きたいと思う気持ちは一番強い時期なのです。だから、生まれたばかりのがきを生き埋めにして、その力を呪術に利用するのです。ここで呪いの儀式が行われていたんですよ」


 空気がさらにざらついたものになった。マッチが燃え尽きたので、もう一本擦った。


「まあ、あっしも儀式をしたこともないし、見たこともないですがね。仲間から聞いただけです」


 人が多い街の中で聞けば、ただの噂話だとか、古き時代の蛮行などと聞き流せるが、誰もいない山奥の廃村で、こんな得体の知れないものを前にして聞くと、理性で判断するより先に、恐怖という感情が湧き上がってしまう。

 後ろを振り返れば、光が差し込んでいるのが見えるが、ここには直接あたりはしない。がき塚に太陽の光が当たることは一年中ないだろう。

 おうせの光とは何のことなのだろう。がき塚までたどり着いたが、謎を解明できぬまま、呪われた村を後にすることになった。



 街に戻り、嬰児死体遺棄事件の捜査に入った。呪われた村への旅は、今のところ事件解決にはつながっていない。

 葉羽村へも赴き、秀三郎と珠江にも呪われた村を発見したことを報告した。二人とも喜んでくれたが、「おうせの光」についてはわからないとのことだった。

 帰ろうとすると、珠江が外までついてきた。


「申し訳ないが、珠江さんの無実は証明出来ていません」


「そちらではなく…」


 言いよどんだ珠江に、私は笑いかけた。


「東京の街をご案内しましょう」


 日を改めて珠江と出かけた。秀三郎には黙って出てきたらしい。

 珠江は見るもの全てに目を輝かしていた。村の外へ殆んど出たことがないのは本当のことのようだ。

 私にもいつもの街が違って見えた。景色が鮮やかに感じる。空までいつもより青かった。

 我々は凌雲閣を訪れた。通称浅草十二階と呼ばれる高層建築だ。出来た当初は賑わっていたが、エレベーターの故障以来客足が遠ざかっていた。今日も塔の中は人が少なめだった。階段で上まで上がるのは、珠江には酷かとも思ったが、軽く息を切らせつつも足を進めていった。可憐な外見と違って、中身は健康なのだ。

 最上階から景色を眺めた。天気は快晴で、遠くまで見渡すことが出来た。

 珠江が富士山を無言で指さした。

 きれいだったが、私は珠江の横顔の方に気持ちが行ってしまっていた。見とれていると、珠江がこちらを向いたので、慌てて視線を景色へと逸らした。


「本で読んだり、人に聞いたりして、頭の中で想像は出来ていましたが、実際に見てみることは良いものですね」


 凌雲閣を降り、銀座の街へ向かうことにした。これも珠江の希望だった。

 浅草から鉄道馬車に乗り、日本橋で降りて銀座まで歩くことにした。二頭の馬に引かれ、東京の街を快適に客車は進んだ。電車や汽車に取って代わられるのかもしれないが、鉄道馬車も良い乗り物だった。珠江も喜んでいた。

 日本橋の駅で下車した。

 洋風の木造橋の上を馬車や人力車、徒歩の人間が行き交い、橋の下の川には舟が様々な物を運んでいる。日本各地の人や物が、ここに集まってくるのだ。

 上を見上げれば青空が広がっている。人々の顔にも笑顔があふれ、街が活気に満ち溢れていた。ここには日本の光があった。


「文明開化とか二十世紀だとか言われても、街から外れた田舎だと実感がわきませんが、ここに来ると、本当に日本が進歩しているのがわかりますね」


 笑顔の珠江は、深刻な病気を抱えているなんて思えなかった。道を行く人々も、珠江の美しさに振り返った。

 橋の中ほどまで来たとき、前から見覚えのある人間がやってきた。高徳伝次郎だ。


「石走巡査、今日は非番ですかな」


 あまり知り合いには出会いたくなかったので、内心気まずさを覚えながら挨拶をした。珠江も誰とはわからないままに、続けて挨拶をした。

 ふと、博識な高徳なら呪われた村の謎について、何かわかるかもしれないと思った。今日はそんなことを話す時ではないので、日を改めて相談することにしよう。

 別のところへ行こうとすると、高徳は珠江に聞こえないように耳打ちしてきた。


「世の中は自由民権、自由恋愛だよ。頑張れ石走君」


 そういうのではない、と否定する私に笑顔を残し、高徳は去って行った。


「何を話されたのですか」


「何でもありません」


 その日は一日東京見物をし、珠江を村まで送り届け別れた。



 嬰児死体遺棄事件を調べるため、再び板橋を訪れた。

 聞き込みを続けてみたが、なかなか目撃証言を得ることが出来なかった。当日は同じ板橋で火事が起きており、そちらの方に注目が行ってしまっていたのだ。犯人はその隙をついて、死体を遺棄したのだろうか。ただの偶然だろうか。

 火事の現場に行ってみた。前も訪れたが、炭化した材木は残されたまま放置されていた。幸い死人は出なかったし、消防隊と町人の尽力で延焼を食い止めることが出来た。住んでいたのは、夫婦と子供の三人で、今は板橋の外れの長屋で暮らしていた。

 私は火事を起こした家族に会うべく、長屋を訪れた。

 探していた水口夫妻はすぐにみつかった。怪我人、死人は出さなかったし、燃えたのは自分の家だけだったので、特に罰を受けることはなかったようだが、水口夫妻は憔悴していた。無理もない。全財産が灰になって間もないのだから。

 火事のことではなく、死体遺棄事件について調べに来たと言うと、精気の無い目で質問に答えてくれた。


「食人鬼事件のことですよね。うちの火事と同じくらいの時なのですか。火事の原因は、私らの火の不始末ですから、事件とは関係ありません。お役に立てず、申し訳ないです」


 水口は頭を下げてきた。気落ちして卑屈になっているようだ。


「しかし、子供を捨てるなんてひどい話ですね。育てられないなら、外島さんみたいな人にお願いすればいいんだ。あ、外島さんは、前の家の向かいに住んでいた人で、育てられない子供の養子縁組を斡旋しているのです」


 私は、既に会って話をしてきたことを告げた。


「子供は未来の宝だと言っていました」


「さすが外島さん。良いことを言います。外島さんは立派ですよ。育てられない人もいれば、授からない人もいる。その間に立って橋渡しをしているのです。それに、こんなご時世でも、すぐに里親をみつけてきますから。同じ子供の泣き声が続くことは、あまりなかったですからね」


 家の外にいた水口の息子が急に割り込んできた。


「あのおっちゃん俺にはすごくきつかったぜ。ちょっと庭に入っただけで、滅茶苦茶怒られたもの」


「そりゃあお前が庭の柿を盗もうとしたからだろう」


 水口が子供を小突いた。親とは対照的に子供は元気だった。

 そういえば、私も昔、柿を盗もうとして父に怒られたことがあった。盗み自体も良くないのだが、柿の木は折れやすく、よく子供が落ちて怪我をするからという理由もあった。

 小突かれた水口の息子は、悪びれもせずに表に飛び出し、


「火事と喧嘩は江戸の華。次は喧嘩だ」


 そう叫びながら、他の子供達と共に駆けていった。


「馬鹿な子で本当にすみません」


 そう言って水口は苦笑いした。私も思わず笑ってしまった。

 苦笑いでも笑顔は笑顔。子供のおかげで笑えたのだ。

 皮肉ではなく言った。


「子供は宝ですね」


 その後も板橋で聞き込みを続けたが、成果は得られなかった。日も暮れてきた。今日も事件の進展が見られぬまま終わろうとしている。さすがに焦りを覚え始めていた。残された遺体の状況から、近隣の地域を調べていたが、推測が外れているのだろうか。

 呪われた村のがき塚のことを思い出した。間引きした子供を埋め、呪術の儀式に使っていたという塚だ。死体遺棄事件の犯人も、困窮した女性などではなく、呪術をしようとしている者なのではないだろうか。警察の同僚に言ったら笑われそうな想像が浮かんできた。

 変な想像を追い払おうとしながら歩いていたら、水口家の火事跡に立っていた。向かいには外島の家があり、垣根の上には柿の木が見えていた。

 頭の中で、点と点が結びついたような気がした。しかし、絵はまだ見えてこない。

 あたりを見渡すと、前にもいた病気の物乞いが座っていた。顔も崩れ、手足も変形していたが、声はしっかりしていて、今日も歌っていた。

 物乞いの前に置かれたざるに金を入れた。

 歌を止め、物乞いが少し笑った。


「ありがとうございます旦那様。優しいお方の為に、ここで早口言葉を披露」


 大きく息を吸い込み、まくしたてた。


「なまむぎなまごめなまたまご。あかまきがみあおまきがみきまきがみ。にわにはにわにわとりがいる。となりのかきはよくがきくうかきだ」


 物凄い早口で聞き逃しそうになったが、最後の言葉のおかしさに気づいた。となりのかきはよくがきくうかきだ。隣の柿はよくがき食う柿だ。


「お前何を知っている」


 病気の物乞いは、何も答えず、どこかで聞いたことある曲を歌い始めた。

 外島の家の柿の木を眺めた。夕闇の中で禍々しく影を作っていた。

 検視官が言った「被害者は双子ではなく、別々の子供かもしれない」。水口が言った「すぐに里親をみつけてくるのです。同じ子の泣き声が続くことはありません」。水口の息子が言った「庭に入っただけで、滅茶苦茶怒られた」。権次が言った「がき塚には、間引きされた子供が埋められているんです」。昔父が言った「柿の木には登るな」。


 柿の木の下に死体が埋まっている。


「大きな声で歌え」


 さらに物乞いに金をやり、背中に歌を受けながら外島の家に向かった。

 私が描いた絵は、ただの空想か、それとも現実か。

 寝ていた子供が起きたのか、外島の家から泣き声が聞こえてきた。後ろからは病んだ物乞いの声が聞こえてくる。私が忍び込む音を隠してくれるはずだ。火事場の廃材を踏み台にして庭へ侵入した。家の中の様子を伺いつつ柿の木の下へ向かう。家の中には灯りが点いており、子供以外にも人の動きがあった。

 柿の木の下の地面は柔らかかった。掘り返されてから時間が経過していない。貧民窟の悪臭が流れてきていて、腐敗臭がわからない。そもそも一定以上深く埋めれば、犬でもわからないのだ。手でも掘れることは掘れるが、音を立てないようにすると時間がかかる。いつ終わるかわからないし、例え死体にたどり着いても、この暗さでは、人の死体か動物の死体かさえわからない。

 立ち上がり、剣に手をかけて玄関に向かった。

 引き戸には鍵がかかっていた。

 証拠はない。しかし、証拠を積み上げている時間もない。出直している間に、子供が殺されてしまうかもしれない。今、子供が殺されそうになっているかもしれない。

 ただの思い違いなら、恥をかくだけでは済まない。懲罰ものだ。

 戸の前で体が固まってしまった。

 その時、子供の泣き声が途切れた。子育てなどしたことはない。だが、不自然に途切れたのはわかった。

 戸を蹴破った。派手な音を立てて戸は崩壊し、私は土足のまま室内に踏み込んだ。足早に短い廊下を抜け、最初の戸を開くと、外島と一人の中年女が目を丸くしてこちらを見た。二人の間には子供が横たえられており、顔には濡れた紙が被せられていた。

 外島が何か怒鳴ったが、容赦なく体当たりをして弾き飛ばした。すぐさま赤子の顔に被さっていた紙を外す。堰を切ったように赤子が泣き始めた。

「柿の木の下は調べさせてもらった。貴様らの悪事はここで終わりだ」

 外島は床の上に落ちていた包丁を握り立ち上がった。

 私は剣を抜き払い、包丁を向けて襲い掛かってきた外島に振り下ろした。剣は外島の腕を切り裂き、叫び声を上げた外島は、包丁を落とし、その場にうずくまった。

 中年女が背を向けて逃げようとしたので、後ろから蹴りつけ、壁に叩き付ける。女はうめき声を上げ動かなくなった。

 二人を捕縛してから、外島の止血をした。

 止血されながらも外島はわめき散らした。以前の上品な男とは完全に別人だった。


「正義の味方のつもりか国家の犬が。そうだよ。俺が養子縁組すると言って、子供を殺していたんだよ。養育費だけとってな。富国強兵、国力増加の為堕胎禁止、間引き禁止と言ったって、育てられねえ奴もいる。政府は弱く貧しい奴のことなんか見えてないんだよ。子供を俺に預ける親達も、本当は殺していたことを知っていたんじゃねえか。自分で殺せねえから、俺に手を汚させていただけじゃねえのか。食人鬼。そんなもんいねえよ。水口の馬鹿の家が火事になって野次馬が押し寄せてきやがった。おかげで庭に死体を埋められなくなって、あそこに捨てただけだ。みんな双子だと思ってたみてえだが、別々の子供だよ。食人鬼なんて信じている馬鹿は、間引きされるべきなんだ。子供が宝だ。笑わせるな。子供を産むのも、糞をひねり出すのも変わりゃしねえ。ただくせえもんが増えるだけだ。俺の宝は、ろくな治療も受けられず、とっくの昔に土の中だ。どうせ俺は死刑だろ。殺せよ。今すぐ殺してみろよ」


 口から泡を飛ばし、外島は叫び続けた。

 女の方は宙を見ながらつぶやいていた。


「これで終われる…」


 その後掘り起こしてみると、確認出来ただけでも十八人の子供の遺体が庭に埋められていた。嬰児死体遺棄事件は、養子縁組大量殺人事件へと変化を遂げた。 

 新聞各紙は事件を大々的かつ扇情的に報じた。外島夫妻が子供を悪魔の生贄にしていたなど、部数稼ぎの嘘記事を載せる新聞もある中、高徳伝次郎の新聞は、貧困や社会制度の問題まで掘り下げて書いていた。

 生き残った子供の産みの親を探したが、名乗り出る者はなく、みつけることは出来なかった。少しの間一緒にいただけだが情が湧き、自分の手で育てようかとも思ったが、父も母も亡くし妻もいない独り身、昼夜なく動き回る仕事に就いている現状ではどうしようもなかった。育てることは諦め、人に任せることになった。


「猿の剣が人様の子供を救ったか」


 警視庁の道場脇で藤田さんに声をかけられた。


「次は三蔵法師でも救いますよ」


 我ながら可愛げのない無愛想な口調で返した。


「初めて人を斬ったのか」


 肯定の返事をすると、見下したような薄い笑いを口元に浮かべた。

 悔しさが込み上げてきた。

 私は見下されていた。口には出されないが、腰抜けと呼ばれた男の息子だからだ。

 亡き父は、抜刀隊に召集を受けたのにも関わらず、西南戦争に従軍しなかった。表向きは別の理由をあげたようだが、本心はかつての同胞と戦いたくなかったのだと思う。それにより、父は警察として出世の道は断たれ、仲間からも軽んじられるようになった。対して藤田さんは警視庁抜刀隊として参戦。新聞に取り上げられる程の活躍を見せた。その後の二人の立場は語るまでもない。その評価は、息子の私にまで続いている。大量殺人事件を解決したのに、正当な評価を受けてはいない。私も上には行けぬまま終わりそうだ。

 それでも私は、父を軽蔑などしていない。むしろ薩摩の同胞を斬った藤田さんが憎い。

 私の敵意ある視線を半笑いで受け流し、藤田さんは去って行った。

 この男は、外島が殺した人数より多くの人間を斬っている、剣に憑りつかれた魔物だ。こうはなってはいけない。醒めた目で藤田さんの背中を見送った。



 せっかく真犯人を挙げ無実を証明したのに、珠江はうかない顔だった。子供が何人も殺されていたことに衝撃を受けてしまったのだ。


「事件の凄惨さに暗い気持ちになってしまいました。それと同時に、親と子供の関係についても思いを巡らせていました。私は小さい頃母に言われました。必ず子供を産んで育てなさいと。母も祖母に言われたそうです。多分祖母も曾祖母に言われたのでしょう。皆自分の呪われた運命も、娘の呪われた未来も知っていたはずなのに、何故そんなこと言ったのでしょう。無責任だとは思わなかったのでしょうか。この間の事件で、殺人犯だけでなく、養子に出した親も批判の対象となっていますが、その親と何が違うのでしょう」


 思いつめた顔をしていた。考え方によっては、珠江の一族は、不幸な死を迎えることを知っていて、子供を世に送り出しているとも言える。それに、子供を育て切る前に、自分は死んでしまうのだ。無責任と思えなくもない。珠江が思い悩むのも無理はない。


「真犯人を捕まえて、あなたの無実を証明しました。次は、あなたの呪いを解いてみせます」


 本当は私の心も削られていた。外島逮捕の時に受けた極度の緊張、その後の調査で出てきた子供の遺体の数々、何かに寄りかからないと倒れてしまいそうだった。それでも無理して強気な発言をした。この人を元気付けたかった。

 珠江が力ない笑顔を作って礼を述べてくれた。それだけで傷を受け重く冷たくなっていた心が少し暖かくなった。

 珠江は呪いの存在など信じていないのだろう。私も信じているとは言えない。しかし、他に可能性がないのなら、これに賭けてみるしかないのだ。「おうせの光」の正体を突き止めねばならない。

 人民社に赴き、助言を請うことにした。高徳さんなら何か知っていそうな気がした。


「石走君大活躍だな」


 心に沁みこむ笑顔で高徳さんは迎えてくれた。


「この間は美しい女性相手にも大活躍だったな」


 その言葉に耳まで熱くなった。


「実はその女性のことで相談が…」


「おお。大いにしてくれたまえ。自由民権。自由恋愛だ」


 私は珠江のことを話した。一族の病気のこと。呪いの伝承のこと。呪われた村のこと。

 予想していた相談内容とまるで違っていたようで、高徳さんの顔から微笑みが消えた。それでも最後まで真剣に聞いてくれた。


「あの女性が食人鬼と噂された人なのか。全然気付かなかった」


 そう言った後、高徳さんは気まずそうに口ごもり、一呼吸おいてから次の言葉を口にした。


「私個人の意見としては、珠江さんは呪いにかかっているのではなく、遺伝性の病気なのだと思う」


 私もそう思っている。ただ、医者に見放された珠江をどうにかして助けたいのだ。


「多分石走君も同じ考えではあるのだろう。それでも呪いの可能性を確かめてみるというなら協力するよ。おうせの光…。かわうそ、てんぐときているのだから、妖怪関連と考えにるのが妥当だろう。もう目星はついている。詳しく調べてから報告するよ」


 高徳さんが、冷静かつ優しい対応をしてくれて助かった。一笑に付されて終わりという結果も想定していたので嬉しかった。



 人民社の帰り道、権次が姿を現した。呪われた村探索以来だ。


「旦那話は聞きましたよ。お手柄でしたね。あっしもお役に立てて嬉しいですよ」


「呪われた村では世話になったが、養子縁組殺人事件では世話になっていないだろう」


「さすが旦那。鋭い洞察力ですね」


 権次の無駄話にも慣れてしまった。


「しかし、あれですね旦那。何というか、貧民窟の中に変な空気が流れていやすよ」


「悪臭が漂っているのはいつものことだろう」


「いや、そういう意味ではなくて、熱を持っているというか、何というか、一揆が起きる前の農村みたいですぜ」


「一揆が起きる前の農村に行ったことがあるのか」


「いや、ないですがね」


 上手く表現出来ないのだろうが、権次が言わんとしていることは、何となく伝わってきた。不満が高まり、破裂しそうだということだろう。貧民窟の住人までいかぬとも、民衆の暮らしは苦しい。社会全体に鬱屈したものが溜まっているのは、私にも感じられた。これが暴動などにつながったら大変なことになる。政府には弱者救済にも力を入れて欲しいものだ。


「知らせてくれてありがとう権次。不穏な動きがあれば報告してくれ」


「まかせて下さい」


 そう言いながら権次は指で輪を作った。


「また金か。たまには自分で稼げ」


「旦那からもらった金は、恵まれない子供の為に使っているのですよ」


「本当か?」


「嘘です。全部酒に消えやした」


「馬鹿野郎!」


 さすがに頭にきて怒鳴り散らすと、権次は笑ったまま逃げ去って行った。

 権次の背中を見送りながらため息をついた。私自身だって、思うところはある。警察官としても出世は望めず、暮らし向きは良くない。自分に希望あふれる未来がないとわかると、同じ底辺の者に肩入れしたくなる。高徳さんの言う、自由民権というものに惹かれ始めている自分がいた。


 珠江に会いに行った。以前は色々と理由や用事をみつけて会いに行ったが、ただ会いたくて会いに行った。

 葉羽村の人々がこちらをじろじろ見てくる。珠江に会いに来ているのがわかっているのだ。狭い世界。噂はすぐに広まる。秀三郎の耳にも届いているだろうが、特に妨害されることもない。本来なら跡取りの婿を取る大事な箱入り娘なのだろうが、病気のことが知れ渡り、婿をみつけるのも難しいだろう。もう諦めているのかもしれない。

 他人にどう思われているか全く気にならないと言えば嘘になるが、それよりも珠江に会いたかった。妖怪に魅入られたと言われても会いたかった。

 珠江が姿を見せた。着物の下にシャツという格好だった。最近女学生の間で流行している服装だ。


「これ似合いますか」


 珠江は照れ笑いを浮かべて尋ねてきた。


「着物だけの方が良いと思います」


 思ったまま正直に言ってみた。

 珠江の顔が赤くなり、


「この無骨者!」


 怒鳴られた。

 似合うかどうか聞かれたので、素直な感想を述べただけなのに、この反応は何だ。嘘をついて似合うと言って欲しかったのか。これが呪いの症状なのだろうか。女は魔物だ。

 怒って不貞腐れたかと思えば、もう笑ってどこへ行きたいかや、知っている情報などを話くる。珠江の気持ちが読めない。しかし、一緒にいると何故か幸せな気分になった。


「ずっと狭い世界だけで生きてきた。踏み出してみればこんなに近いのに、東京の街を見たのもつい最近。東京の街だけでなく、日本全国を、海の向こうを見てみたい」


 少し先の世界を見たら、さらに先を見てみたくなったのだ。さらに先を見れば、またその先を見たくなるだろう。もうその頃には制限時間が終わってしまう。


「時代は変わってきている。実際の距離は変わらなくても、移動手段が発達して、結果的にどこも近くなってきている。東京の街だけでなく、日本中を回ろう。海の向こうは…」


 海の向こうへは珠江は間に合わない、だから私と珠江の子供が、それが駄目なら孫が行く、そう言いたかったが、その言葉が出せなかった。

 珠江が私の目を見つめてくる。珠江もその言葉を待っているのではないか。だが、無責任にそんなことを言ってよいものか。珠江は病気を抱えている。支える覚悟を、そして別れる覚悟を決めなければ、口にしてはいけないのではないか。覚悟は出来ているのか。いや、ただ私の気持ちを珠江に拒否されるのが怖くて、言葉が出てこないだけなのではないのか。迷えば迷うほど、言葉を発することが出来なくなってしまった。

 沈黙に耐え兼ねたのか、珠江の方が先に口を開いた。


「私には、海の向こうより、空の向こうの方が近いかも」


 さらに何も言えなくなってしまった。



 高徳さんのもとを再び訪ねた。机の上には資料が何点も置かれていた。呪われた村の伝承について調べてくれていたのだ。


「早速本題に入ろう。生まれたばかりの嬰児や胎児を呪いの為に使うことは、珍しいことではない。もちろん時の為政者達からは、邪法として弾圧されてきたが、裏では途切れることなく引き継がれてきた。日本各地にそんな話が残っているよ。呪われた村のがき塚もその一例だろう。「おうせの光」についてだが、「かわうそ」、「てんぐ」ときているから、妖怪の線で調べてみた。元々の話は中国が発祥のようだ。妻子ある男性と報われない恋を続ける女性が嫉妬にかられ、魔物に憑りつかれてしまう。憑りつかれた女性は、幻覚、幻聴に苦しみ、訳のわからないことを叫んだりするようになる。その女性の体を傷つけずに魔物だけを倒すため、僧侶が合わせ鏡を使うのだ。等身大の合わせ鏡の間に女性を誘い込む。すると幾重にも鏡に映った顔の中で、何枚目かの一つだけ女性ではなく魔物の顔が映っていて、その鏡の中の魔物に、僧侶が念力で光を当てて倒すという話があるのだ。日本へもほぼおなじ形で伝わっている。元々は合わせ鏡で倒されたのに、その魔物は、「あわせ」と呼ばれるようになり、妻子ある男性との密会という部分が混ざったのだろう、いつしか「おうせ」と呼び名を変えていったようだ。この逸話が「逢瀬」の語源になった説もあるが、それは間違いだ。「逢瀬」という言葉は違う形で成り立ったものだ。その説明は、今日は省略しよう。とにかく、「おうせ」は女性に憑りつく魔物につけられた名前だ。そうすると、呪われた村の伝承に残る「おうせの光」は、合わせ鏡の光だと思われるのだ。合わせ鏡も呪術ではよく使われる道具だ。だから、伝承が意味することは、がき塚の魔力を合わせ鏡で何倍にもし、呪いをかける、もしくは呪いを解く、ということを指しているのではないだろうか」


 思い返してみると、呪われた村にあった神棚の神鏡は、一枚ではなく二枚だった。がき塚は、一年中太陽の光が当たらない場所にあったが、鏡で反射させれば光を届けることも可能だった気がする。そして、がき塚の後ろにもう一枚の鏡を置けば合わせ鏡が出来る。がき塚の魔力を増幅させ、珠江にかけられた呪いを解くのだ。希望が湧いてきた。

 私の昂揚感とは対照的に、高徳さんは冷静な顔をしていた。


「珠江さんの症状が呪いである可能性は低いと思う。珠江さんの症状に近い病気として、瘧狼病ぎゃくろうびょうという病気があるようだが、遺伝性ではないし、伝承の中で数例残るのみだ。本当に存在するかも不確かだ」


 高徳さんの言葉は、呪いなど存在しないから病気として治療する道を選べ、という意図を暗に匂わせていた。


「医者には散々診せたそうです」


「しかし、医学は日々進歩しているからな。仮に珠江さんが精神の病気だとして、精神疾患に呪術的治療が効果を発揮する場合があるとは聞くが…」


「何もしないで待つよりは、行動を起こした方が良いです。ありがとうございます。珠江を連れて、呪われた村に行ってみます」


 近代社会で呪いなどと滑稽なことはわかっている。それでも一縷の望みがあるなら、それに託してみたい。

 何か言いたげな高徳さんに礼を言い。足取りも軽く人民社を出た。



 珠江を連れ出し、銀座の街を歩いた。珠江はこの街が好きなようだ。綺麗な街並みを、着飾った人々が歩いていく。ここでは日本の暗部を感じることは出来なかった。

 高徳さんの考察から導き出された推論を珠江に伝えた。


「呪われた村へ行き、がき塚の前で珠江がおうせの光を浴びるのだ。新しい道が開けるはずだ」


 珠江は目を伏せ少し間をおいてから、こちらに顔を向けて微笑んだ。目が少し潤んでいた。


「ありがとう。怖いからしっかり守ってね」


 私の自己満足に付き合ってくれているだけかもしれないが、守って欲しいと言われるのは、男としては最高に嬉しかった。

 騒がしい音が聞こえてきた。一本向こうの通りからだ。そういえば、今日は天皇陛下がお通りになられるのだ。私は非番だが、同僚たちが警備に駆り出されている。女連れのところは見られたくはない。離れようとしたのだが、珠江が興味を持って近付いていった。仕方なく私も後を追う。天皇陛下のお顔を一目見ようと、大勢の人だかりが出来ていた。

 歓声が一段と大きくなり、人々が手に持った日の丸の旗を振り始めた。人垣の隙間から、馬車に乗った天皇陛下のお姿が垣間見えた。軍服に身を包み、豊かな髭をたくわえた、威風堂々たるお姿だった。

 絵や写真で見たことはあったが、直接見るのは初めてとのことで、珠江は興奮して群衆と一緒に手を振っていた。

 警備にあたっている者も、知っている顔ばかりだった。私は近付き過ぎないようにすることにした。

 遠巻きに見ていると、群衆の中から一人の男が飛び出し、天皇陛下に向かって何か投げつけた。それは馬車の近くの地面に落ち爆発した。爆裂弾だ。爆発は小さいもので、陛下に怪我はなさそうだが、馬車を曳いていた馬が暴れ、進行が出来なくなった。

 見物していた人々は、叫び、逃げまどい、あたりは騒然とした。爆裂弾を投げた男がどうなったかさえわからなかった。

 珠江に逃げるように伝えて、私は爆発が起きた方へ向かった。逃げる人々と逆行する形となって中々進めない。

 爆裂弾を投げた男の仲間だろう。別の男が短刀を持って天皇陛下へ襲い掛かろうとした。警備の者が剣で切り伏せ、男はその場に倒れた。しかし、暴漢はまだ何人かいた。手に凶器を持ち、天皇陛下の命を奪おうとしていた。

 私は人をかき分け、暴漢の一人に組み付いた。短刀を取り上げ、顔を殴りつけると、男は地面に倒れた。

 見れば、他の暴漢達も鎮圧されていた。どうやら事無きを得たようだ。

 暴漢達は、口々に「戦争反対」、「民衆に権利を」などと叫んでいた。社会主義活動家達のようだ。

 権次が言っていた不穏な空気が、現実の行為として発露してしまった。


「誰かと思えば石走か。その格好は遊びに来ていたのか。ふざけるな」


 同僚が私に気付き、本気で怒気をぶつけてきた。


「非番なのに働いたのだから怒るな」


 仕事をさぼっていたのではなく、正式な休暇なので怒られる筋合いはないのだが、同僚は大変な事態に直面し興奮しているのだ。

 ふと馬車を見上げると、天皇陛下がこちらをご覧になられていた。慌てて姿勢を正した。しかし、陛下の視線は私に向けられたものではなかった。私を通り越し、別の者をご覧になられていた。陛下の視線の先には、珠江が立っていた。



 天皇陛下襲撃事件は、世間を揺るがした。新聞もこぞって記事にし、街中もその話題で持ちきりだった。高徳さんの新聞は、反体制の立場をとっていたが、暴力に訴えた手口には批判的であった。

 次なる襲撃に備え、我々の仕事も忙しくなった。社会主義者など、反体制勢力への取り締まりはさらに厳しいものになったが、庶民の不満は高まる一方だった。日本全体にきな臭い空気が充満していた。

 仕事に忙殺される日々が続いていたが、ようやく時間が取れ、珠江に会いに行った。切頭村へ行く日取りを固めようと思っていた。

 少し会わないうちに、珠江はやつれていた。呪いの症状が出始めたのだろうか。見た瞬間に間に合わなかったのかと絶望的な気持ちになった。


「天皇陛下の女官になる話がきたの」


 全く予想していなかった言葉に、何も反応出来なかった。

 天皇陛下の女官ということは、ただの世話係ではない。珠江の家柄では側室とはなれないだろうが、それに準じた役割ということだろう。あの時、陛下は珠江を見初めていたのだ。

 行かないで欲しい。心の底から願った。だが、言葉には出せなかった。

 珠江が私を見つめている。引き留めて欲しいのだろう。連れて逃げて欲しいのだろう。目で訴えかけてくる。鈍感な無骨者である私でさえ、それがわかった。それでも、自分の気持ちにも、珠江の期待にも応えられなかった。


「良い話ではないかな。うまくいけば我が国最先端の治療が受けられるかもしれない」


 貧乏警察官のもとで、時代遅れの呪いを解く努力をするより、日本の最高権力のもとで、近代医療の加護を受ける方が良いに決まっている。

 珠江の目に明らかな失望の色が浮かんだ。


「そうですね。病気の話を知ってもお傍に置いて下さるそうです。こんな光栄な話ありません」


 縮まった距離が、大きく開いた。


「念の為に、呪われた村へ行って、おうせの光の儀式をしておこうか」


「結構です。もう運命に逆らうような真似はしません」


 今手を伸ばせば届くかもしれない。だが、私の手は固まったままだった。


「お幸せに」

 


 空虚な日々を過ごした。空は晴れているのに曇っているようだ。気持ち一つで世界はこれ程変わってしまう。

 仕事をしていて、権次が言うように、抑え切れない衝動が、社会に充満しているのがわかるが、どこか他人事の様だった。

 珠江が天皇陛下の女官となることにを決めたという噂が流れてきた。

 手が付き懐妊すれば、皇族や華族のような扱いを受けることが出来るかもしれない。病気が治らなくとも、残りの人生を豊かに暮らせるはずだ。だが、珠江が他の男に抱かれている姿を想像すると、胸が引き裂かれる思いだった。

 迷いを断ち切るべく、道場で剣術の稽古に励もうとしたが、藤田さんに散々打ち据えられて終わった。


「そんなことでは三蔵法師も桃太郎も守れんぞ。蟹の息子にやられて終わりだ」


 もう何とでも言ってくれ。

 珠江は何をしているのだろうか。何を思っているのだろうか。考えたところで、もう手の届かないところへ行ってしまった。終わったことなのだ。


 休日だったが、日がな一日ぼんやりとため息をついていた。

 夕刻が近付いてきた頃、権次が姿を見せた。いつものにやけた笑いは浮かべておらず、柄にもなく血相を変えていた。これはただ事ではない。


「どうした。本当に一揆でも起こったか」


「そのまさかです。しかも、起こしたのは農民ではなく軍人です」


 軍人が行動を起こしたら、それは最早戦争だ。


「軍人だけじゃありやせん。一般人や貧民窟の人間も軍隊に続いて暴れ出しそうです」


「それは確かなのか」


「もう反乱軍は動き始めていやすよ。皇居の近衛兵とどんぱちおっ始めていやすよ」


 一大事だ。


「軍人が反旗を翻した理由は知りやせんが、貧民窟の連中が皇居を襲おうとしているのは、天皇陛下が妖怪の女を妾にすると、国が滅びるからだっていうんですよ。その妖怪の女って…」


 珠江のことだ。

 普段着の和服のまま、剣をつかんで駆け出した。

 権次が一緒に走りながら知っている情報を伝えてくる。反乱軍は、皇居の西側から攻撃を加えているらしい。まずは皇居の東側に向かうことにした。

 走っている最中から、人々が騒ぎ、空気が総毛だっていた。大変なことが起こっている雰囲気は伝わってきた。

 警視庁に赴き、上司の指示を仰ぐか。組織の中の一人ということを考えればそれが正しき選択だ。しかし、何か胸騒ぎがする。直接皇居へ向かった。

 遠くから砲撃の音が聞こえてきた。交戦しているのだ。

 皇居付近に近付き、堀に沿って進んだ。すでに暴れている人間達がいた。堀の中には死体も浮かんでいる。皇居東側で暴れているのは、軍人ではなく一般市民や貧民のようだ。政治的思想なのか、生活の不満なのか、天皇に妖怪が憑りつこうとしているからなのか、ただ暴れたいだけなのか。とにかく大きなうねりが始まっていた。

 皇居に向かって投石している者もいるが、門が閉められ、応酬する者もいない。西側での反乱軍との戦いに人員を割かれ、こちらまで手が回らないのだ。


「旦那すまねえ。旦那を裏切るつもりもないし、天皇陛下に弓引く気もねえ。だけども貧民窟の連中と戦うのも嫌だ。このままいったら、変なふうに巻き込まれちまう。ここでおさらばさせて下せえ」


「それが良い。権次今までありがとう。達者で」


「旦那も」


 そう言い残して権次は消えていった。

 皇居の中に入って、珠江の安否を確かめたい。

 大手門の前には暴徒が押し寄せていた。口々に何か叫び、門を叩いたり、物を投げつけたりしていた。ここから中に入るのは無理そうだ。

 皇居の外壁に沿って進み、入れそうな所を探した。

 殺気だった群衆の中を進む。手には棒や刀など凶器を携えた者もいる。敵意は皇居の方へ向かっていて、私の方にくることは今のところ無かった。警官だということがばれたら、大変なことになりそうだ。


「おい。猿の息子」


 聞き覚えのある不快な声がした方を向くと、藤田さんが立っていた。腰には刀を差している。


「騒ぎに乗じて人を斬りに来たのですか?」


 この状況だというのに棘のある言葉を吐いた私に、藤田さんはまわりには聞こえないようにつぶやいた。


「陛下をお守りしにきた。俺は昔から尊王攘夷だ」


 新撰組時代の信念をいまだに捨て切れていないのか。

 内心嫌だったが、藤田さんと同じ方向に進んだ。

 馬場先門まで来た。ここも暴徒が押し寄せていた。

 ここも入れそうにないと思ったとき、門の小さな扉が開き、中から何人かの皇宮警官が飛び出してきた。警官の中の一人が、空に向けて銃弾を放った。

 銃声に驚いた暴徒達は、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。二重橋から落ちる者までいる。皇宮警察が暴徒を撃退しに来たのかと思ったが、そうではなかった。外にいた一人の男を中に入れようとしていたのだ。外にいた男は、皇室に仕えている者のようだった。

 この機に乗じて、私も門の中に入ることを試みた。皇宮警察の中の一人が、運よく顔見知りだった。宮仕えの者と一緒に門の中に滑り込み、暴徒達は外に締め出すことに成功した。

 門の中に入ると、外の喧騒に比して落ち着きがあった。目の届く範囲では被害はない。


「新しい女官はどうした」


 皇宮警察が宮仕えの者に問いかけた。


「ここに来る途中で襲われました。新しい女官は赤レンガの建物に逃げ込んでいます」


 体中に怪我を負い、息も絶え絶えに男は語った。


「その女官は、陰織珠江のことですか?」


 私の質問に、怪我をした宮仕えの者が答えた。


「そうです」


 血の気が失せた。

 更に詳しく話を訊くと、入内の為、馬車で正門に向かう途中、大砲の音が聞こえてきたそうだ。何か様子がおかしいと気付き、皇居の中へ急いだが暴徒に襲われ、馬車は壊され、他の侍従は殺され、珠江を三菱一号館に避難させたとのことだった。

 皇宮警察の者も、それを聞いて青ざめていた。


「三菱一号館は、銀行として使われている建物だ。内側から鍵をかければ、すぐに侵入されることもないだろうが、それも時間の問題だ」


 外から聞こえる音から判断すると、暴徒達は勢いを増すばかりだ。

 皇居内の御所へ移動し、兵力の一部を皇居東側の三菱一号館へ回してくれるように頼むことにした。

 昔は江戸城だっただけあって、塀の中も攻め辛い造りになっていた。道は真っ直ぐ伸びておらず、入り組んでいる。坂も多く、高低差もかなりあった。所々に、緊張した番兵が立っている。侵入出来たとしても、攻め落とすのは難しい。

 御所の前に行くと、天皇陛下が部下に囲まれ、神妙な面持ちで立たれていた。

 直接陛下にお願いしようとして、周りの部下達に止められた。


「緊急事態だ。申してみよ」


 陛下の朗々たる声で、部下達が黙った。

 珠江達が皇居に来る途中で暴徒に襲われ、三菱一号館に閉じ込められていること。兵力の一部を差し向け、珠江を救い出して欲しいことをお伝えした。


「うむ。わかった。助けに行かせよう」


 天皇陛下のお言葉を部下の者が遮った。


「陛下なりません。そこに割く兵力などございません。反乱軍を食い止めるので手一杯です。それなのに女一人を助けるために兵を差し向けるなどしたら、士気が落ちるどころの話では済みません。援軍が到着する前に総崩れとなってしまいます。元々妖怪と噂されるような病気持ちの女をお傍に置かれることも反対だったのです」


 この人が言うことももっともだが、ここで引き下がったら珠江は見殺しにされてしまう。


「陛下。何卒兵力を差し向けて下さい。か弱き女を見殺しにするのですか」


「黙れ。無礼なるぞ」


 まわりの部下達が恫喝してきたが、私は黙らなかった。


「弱者を切り捨て、その屍の上に築かれた未来など何の意味があるのですか。上や外ばかりではなく、下や内側にも目を向けてください。小さい命を見捨てないで下さい」


「貴様。反乱軍の仲間か」


 部下達が腰の軍刀に手をかけた。


「まあ待て。名はなんという」


 天皇陛下が、部下を制しながら尋ねてきた。

 自分の名を告げると、陛下は私の目をしっかりと見据えて語りかけてきた。


「石走錬造。儂も弱者を切り捨てたいなどと思ってはおらん。今の日本社会が抱える矛盾に気付いていないわけではない。しかし、今ここで反乱軍に屈すれば、日本は外国との戦争を回避し、軍事費は削減され、民衆に富が分配されるだろう。それはそれで素晴らしいことだ。だが、今軍事力を持ち戦わなければ、日本は他のアジア諸国と同じように、欧米列強の食い物にされてしまう。日本という国は無くなってしまう。自由民権。それは遥か未来でやるべきものなのだ。今戦わねば未来なんて無くなってしまう」


 そうなのだろう。天皇陛下が仰られていることは正しい。その正しさの前で、我々はあまりに小さく弱い。


「大変失礼致しました。三菱一号館へは、私一人で行かせて頂きます」


 天皇陛下に礼をし、背を向けて歩き出すと、後ろから声がした。


「俺も行こう」


 藤田さんだ。


「悪くない死に場所だ」


 嫌いな人だったが、この状況では頼るしかなかった。

 天皇陛下が、部下に命じて何かを持ってこさせた。


「これを持っていけ」


 一振りの刀を手渡された。


「儂が収集した天下の業物だ。こちらが片付いたら援軍を送る。珠江を頼む」


 部下はさらに刀を何本か持ってきて、私と藤田さんに渡してくれた。

 皇居に避難していた三菱一号館の番頭が、扉の鍵を持っていた。これがあれば内部に入れる。まだ扉が破られていないことを願うばかりだ。

 陛下に頭を下げ、三菱一号館に足を向けた。

頂いた刀の鞘を少し引いて刀身を見てみた。配給された剣とはまるで輝きが違った。

籠手切正宗こてぎりまさむね。お前が一生かけて稼ぐ金より、その刀の方が高価だ」

 横を歩く藤田さんが、刀を眺め言った。

 他の刀も名立たる名刀のようだ。兵を割くことも、銃を提供することもなかったが、陛下なりに珠江を思ってくれているのだ。

 門の外には暴徒があふれている。潜り戸を開くのも不可能だろう。塀の上から綱を伝って降りることにした。

 塀に上り外を見渡した。三菱ヶ原と呼ばれる広大な野原に、三菱一号館がぽつりと建っている。警視庁に登庁する際に見慣れた景色だったが、いつもと違うところは、野原を暴徒が埋め尽くしているところだ。警視庁の建物も遠くに見えているが、援護は望めない。暴徒は、特に三菱一号館の周りには多い。珠江を殺そうとしているのだ。何人いるのかわからない。わからない程の人数に、たった二人で挑む。


「肚を決めろ石走錬造」


「はい」


 綱を伝って塀を降りた。降りる姿を数人に見咎められた。慌てて逃げる。余計な戦いは避けたい。

 馬場先門から三菱一号館までは結構な距離がある。背中に背負った何本もの刀が重いが、いざ戦闘になったらこの刀達が生命線になるかもしれない。捨てることは出来ない。

 暴徒の群れの中を駆け抜けた。我々を敵だと認識しない者も多い。誰が味方で誰が敵か、この状況ではわからないのが当然だ。我々は走った。

 怪我人、死人がそこいらに転がっている。警察も突発的な事態に対応出来ていない。最早無法地帯と化していた。

 藤田さんは高齢なのに健脚だった。若い私よりも速く、息も切れていない。

 三菱一号館が迫ってきた頃、一人の男が、こちらを指差して怒鳴った。


「こいつは警察だ」


 私の顔を知っている者がいたのだ。その声につられ、殺気に満ちた目がいくつもにらんでくる。何人もの暴徒が、我々に襲い掛かってきた。

 藤田さんが刀を抜き、瞬時に二人斬った。私もそれにつられるように一人斬った。

 斬られて倒れる仲間を見て、暴徒達は我々から距離を置いた。

 その隙をついて三菱一号館の入り口へ走った。

 頑丈な扉も、鉄格子付の窓も、レンガ造りの壁も、まだ破られていないようだ。


「俺が蹴散らしておく、お前は扉を開けろ」


 扉を壊そうとしていた者達を、藤田さんが斬りつけ追い払った。

 私は扉の前に進み出て、焦って震える手で鍵を外し、扉を開け、建物の中に滑り込んだ。続けて藤田さんも入ってくる。我々を追って入ろうとする暴徒達を外に追い出し、中から鍵をかけた。

 内部に侵入された形跡は見受けられないが、「死ね妖怪」、「この国を滅ぼす気か」、そんな怒声が響き渡り、窓ガラスは割られ、鉄格子の隙間から殺意に満ちた手が伸びていた。

 こんな状況の中、珠江は一人で取り残されていたのか。

 珠江の名を呼んだ。何度も呼んだ。

 一階の銀行店舗部分にいる気配はない。二階に上がろうとすると、階段の上に珠江の姿があった。

 名を呼ぶと、珠江も私の名を叫びながら階段を駆け下り、私の胸に飛び込んできた。

 こんな状況でも温もりを感じた。時が止まって欲しかった。

 大きな音で現実に引き戻された。窓枠の鉄格子が外れたのだ。

 藤田さんが、中に入ってきた男を斬り倒した。後続の者が怯むと思ったが、それでも中へ入ろうとしてくる。他の窓枠や、扉を破ろうとする音は止まない。

「上へ退避しろ」

 もう一人斬り倒しながら、藤田さんが怒鳴った。

 珠江と共に階段を上がり、広い応接室に入った。天井も高く、高級な机と椅子が並んでいる。調度品、酒や茶も備えられていた。

 背中の刀を降ろし、抜き身の刀を手に下げた。


「必ず守りきる」


 珠江を部屋の奥へ行かせ、階段へ向かった。

 藤田さんと共に階段を上ってくる暴徒達を斬る。天皇陛下から頂いた刀は、凄まじい切れ味だった。刀を持って襲ってくる者もいたが、上段から振り下ろせば、受けた刀をへし折り、脳天を叩き割った。

 我々が斬った人間は、階段を転がり落ち、一階の床に積み重なった。

 流れた血と油で階段は濡れ、暴徒達は足を滑らせていた。それでも次から次に階段を這い上がってくる。本当は話が通じる人間同士のはずなのに、もう殺し合うしか道は残っていない。向かってくる者は容赦なく斬った。

 日は沈み、館内も暗い。それでも敵の姿は認識出来る。それは相手もこちらが見えるということだ。隠れる場所もない。

 さしもの名刀も何人も斬ると、斬れ味が鈍くなる。血を拭っても追い付かない。横目で見れば、藤田さんの刀が血に塗れている様子もない。

「そんな斬り方では、何本刀があっても足りんぞ」

 そんなこと気にしている余裕などあるわけもない。私の使っていた刀は、刃がこぼれ、刀身は曲がり、血と油に塗れ、曲がった鉄の棒のようになっていた。

 刀を新しいものに替える為、応接室に戻ろうとすると、銃声が鳴り響き、階段の手すりに着弾した。

 目を向けると、拳銃を構えた者が、一階からこちらを狙っていた。

 藤田さんと共に応接室に退避した。

 曲がった刀を捨て、新しい刀に持ち替えた。

 珠江が無言で不安な瞳を向けてくる。

 窓の外を見た。飛び降りられない高さではないが、三菱一号館を取り囲んだ暴徒達は、数を減らしていない。珠江を連れて逃げるのは不可能だ。

 応接室の扉がゆっくり開き、隙間から拳銃が姿を見せた。万事休すか。

 拳銃を持った男の全貌が見えた。知っている人間だった。


「高徳さん…」


「時代にそぐわないものを振り回しているな石走君」


「何故ここに」


「何故って、この騒動は私が仕組んだものだからね。これが革命だ」


 予想外の展開に頭がついてこない。それでも高徳さんが、冗談で銃を向けているのではなく、我々の敵だということはわかった。

 高徳さんの拳銃は、藤田さんの動きも牽制する。私も藤田さんも刀を届かす前に撃たれてしまう。せめて珠江と銃の間に入り、弾除けになりたいが、動けば撃たれてしまいそうだ。伝家の宝刀を持ってしても埋められない距離があった。


「軍の反乱も、この暴動も高徳さんが仕組んだものなのですか」


「そうだ。私が仕組んだ。軍部が全員対外戦争を肯定している訳ではない。国の方針に不満を抱えている者達に働きかけ、連携をとらせ、決起させた。間違えた道を歩もうとしている日本を変えるのだ」


「では、暴徒達が珠江を襲うのも、高徳さんの差し金ですか」


「そうだ。貧民窟や、一般民衆の間でも社会に対する不満は高まっていた。理由は何でも良かった。ちょうどその頃、天皇が新しい女官を傍に置くという情報を手に入れた。権力者が世継ぎをたくさん作るなんて当然のことだが、自分たちは貧困にあえぎ、子供すら残せない可能性があるのだ。裕福な暮らしをし、女をたくさん囲い、自分らを顧みず、外国との戦争に向かう男が、妖怪と言われる女を傍に置こうとしている。爆発するには充分な理由だ」


「それでは、天皇陛下が珠江を娶れば国が滅ぶと、民衆に吹き込んだのはあなたなのですね」


「発行部数一位の新聞を出版していた私だ。情報操作は得意分野だ。出していたのは表向きの新聞だけでもないしな」


 裏切られた。高徳さんに心酔し始めていた自分が愚かしく、怒りが湧いた。


「悪く思わないでくれ。珠江さんに罪はない。だが、変革に犠牲は付きものだ。この国の進み方は間違えている。弱き者から搾り取り、その富で線路を敷き、道路をつなげ、船を作る。どこへ向かうつもりなのだ。徴兵制がしかれ、戦争は侍だけの仕事ではなくなった。貧乏農家の次男や三男が軍隊に入ることも多い。彼らは何の為に戦うのだ。富める者を更に富ます為にか。欧米列強が日本を狙っているのもわかる。強くならなければいけないのもわかる。だが、田舎の親兄弟は、食べる物もなく、ひもじい思いをしているのだ。娘や姉や妹が売られていく気持ちがわかるのか。日本の未来の為などという綺麗事で誤魔化されるか。今どうにかしなければ、親兄弟が飢え死にしてしまうのだ」


 天皇陛下のお言葉も正しい。高徳さんが言っていることも正しい。善か悪かなんてわかりやすい構図にはならない。異なった正義の間で、我々の様な力なき者は、翻弄され押し潰されてしまう。


「石走君。君は見所がある。君に近付いたのも、君の力を借りたかったからだ。一緒に正義の為に戦おう」


 私は体制側の人間ではあるが、末端の人間だ。一生搾取する側にはなれないだろう。正しき道はどれなのか、心が揺らぐ。


「自分を捨て、権力者に走った女を守ってどうする。例え守り切ったところで、権力者のところへ戻るだけだ。そもそも、残りの命もわずかなものだろう。君の依頼で調べた内容に嘘はないが、呪いなんて存在しない。遺伝性の病気で死ぬ。どちらにしても、君の元を去るのだ。刀を向ける相手を変えて、共に戦おう」


 正しきこととは何なのか。正義とは何なのか。立場や時代によって、まるで違うものになるだろう。結局それを決めるのは、自分のみ。

 心の揺れが止まった。

 自分のものにならなくとも、残された命が少なくとも、この女を守る。それが私の正義だ。

 ゆっくりと刀を上段に構えた。


「高徳さん。時代は自由恋愛ですよ」


 高徳さんは呆気にとられていた。


「愚かな。情に流されるとはな。もう少し見所があると思っていた。そんな時代遅れの鉄の棒でどうしようというのだ。時代の流れに取り残され、引き離されたことにさえ気付かないのか。もう、この距離は埋められない」


 高徳さんは背広に革靴、手には拳銃。それに対し、私は着物に草鞋、手には刀。二人の間には、現実の距離以上に、大きな開きがある。古く過ぎ去った時代が負けるのは、自明の理だ。

 だが、高徳さん。あなたは剣のことは知らない。この緊迫した状況。明かりの乏しい暗闇。私は草鞋からはみ出させた長い足の指で、あなたの方へにじり寄っていた。体勢が変わらないから距離が縮んでいたことに気付かなかっただろう。私の踏み込み、そして、刀の伸びは、あなたの予想を超えている。あなたは既に、私の牙が届くところにいる。後は呼吸を読むのみ。


「君は正直で優秀だが、大局観を持たない。君は時代に逆行しよ…」


 私は踏み込み、刀を振り下ろした。高徳さんの手首が、拳銃と共に床に落ち、鈍く音を立てた。

 何が起きたのかわからず、自分の手があった場所を見ていたが、痛みが回ってきたのだろう。声にならない悲鳴を上げ、高徳さんはその場にうずくまった。

 高徳さんに近付き、刀を振り上げた。


「今手当をすれば助かります。珠江を襲うのをやめさせて下さい」


 高徳さんは、血の気の失せた顔で私を見上げ、迷わず叫んだ。


「妖怪の女はここにいる。殺せ!」


 刀を振り下ろし、高徳さんの首を斬り落とした。多弁だった高徳さんは、何も喋らなくなった。

 藤田さんが静かに近付いてきて、血溜まりを作る高徳さんの遺体を見下ろしつぶやいた。


「ここからが正念場だ」


 首魁である高徳伝次郎がいなくなっても、暴徒達の襲撃は終わらなかった。斬っても斬っても次から次へと襲いかかってくる。襲撃の手が止み、もう終わったのかと思うと、新手の敵が向かってきた。

 高徳さんの持っていた拳銃を拾い、暴徒達に弾丸を放った。何人かの敵を倒したが、すぐに弾は尽きた。

 体中傷を負い、返り血を浴び、自分の体がどうなっているのかさえわからなくなってくる。

 援軍は来るのか。見捨てられたのか。体力が削られ、精神も蝕まれてきた。

 何をあがいているのだろう。いっその事、刀から手を離し、暴徒達の攻撃を受ければ楽になれる。

 心が揺らいで来たところを敵に襲われ、危ういところを藤田さんに助けられた。


「しっかりしろ。石走錬造」


 藤田さんの声に気を取り直し、奇声を上げて襲ってきた敵に刀を振り降ろした。握力が無くなってきている上に、血油で滑り肩口を叩くだけになった。それでも敵は悲鳴を上げて倒れた。間髪入れずに胸を突いて止めを刺した。

 応接室に置いてあった酒の瓶を開け、口に酒を含んだ。その酒を手に吹きかけ、服で手に付いた血を拭う。手の状態が幾分ましになった。そして、新しい刀を抜き、次の敵に備えた。

 暴徒達は襲い掛かってきた。手には凶器を持ち、目には殺意をたぎらせ、口々に叫びながら。

 さすがの藤田さんも疲れを隠せなくなってきた。息も上がり、足元が覚束なくなりかけている。返り血で赤黒く染まった中、目だけは光っていた。

 体力も気力も限界を越えていた。刀を振っているのか、刀に振られているのか。それでも、ただただ斬る。

 敵の攻撃が止んだ。椅子に腰掛けたいが、一度座ったら立ち上がれなくなりそうだ。刀を杖代わりにして、敵を待ち受けた。

 自分の弱さが語りかけてくる。珠江を守り切ったところで、私のものになることはない。それなのに社会的弱者を手にかけてどうするのだ。目の前の敵が正しく、私が間違えているのではないのか。既に皇居は陥落していて、時代が変わってしまったことに気付かずに、意味もなく刀を振り回しているだけなのではないのか。

 横目で珠江を見つめた。珠江の潤んでいた瞳から、一滴の涙がこぼれた。拭いてやりたかったが、私の手は、あまりにも血で汚れていた。私には涙を拭うことさえ出来なかったが、珠江は私の心の揺れを止めてくれた。

 この人を守ると決めたのだ。結ばれることがなくとも。すぐに死んでしまっても。後世の歴史屋達が何と言おうとも、自分の信じる道を行く。

 暴徒達が襲ってきた。迷わず斬る。斬っても次の新手が来る。それでも斬る。もう体の感覚がなくなりかけている。それでも敵が現れれば斬る。

 何本も持ってきた刀も、最後の一本になっていた。

 藤田さんは壮絶な姿をしていた。私も同じような姿をしているのだろう。

 敵の襲撃がひと段落したと思っていると、下から煙が立ち上ってきた。火をつけられたのだ。煉瓦造りの建物だから、すぐに燃え落ちることもないだろうが、煙にまかれたら終わりだ。時間稼ぎにしかならないだろうが、屋根裏へ登り、天蓋の窓から屋根の上に出た。三菱一号館の屋根は勾配が急で、気を抜けば滑り落ちそうだった。ただでさえ血だまりの中で戦った足は、滑りやすくなっている。

 珠江も屋根の上に出して、どうにか体勢を落ち着かせることが出来た。

 東の空が白み始めていた。随分と長く戦ったものだ。

 建物の周りは、いまだに暴徒達に囲まれていて、煙も勢いを増している。いよいよ終わりの時が来たようだ。


「石走さん。藤田さん。助けに来てくれてありがとうございます。道連れにしてしまって申し訳ありません」


 珠江の言葉に、男達二人は何も答えなかった。謝りたいのはこちらの方だった。守ってやれなかった。


「あの時、珠江が海の向こうを見たいと言っていた時。本当は俺たちの子供が見に行くと言いたかった」


 珠江が汚れた顔で笑顔を見せた。


「言って欲しかった」


 不安定で滑る屋根の上で珠江を引き寄せ抱きしめた。

 藤田さんが、今までの全てを許せそうな笑顔でこちらを見ていた。


「あなたの手にかかりたい」


 耳元でささやかれた。

 暴徒達の殺されるより、私の手にかかりたいということか。残虐に殺されるより、一思いに止めを刺してやるのが、優しさなのかもしれない。それは悲しい選択ではあるが、珠江を自分のものにする唯一の方法でもある。


「すぐに後を追う」


 最後の一本になった刀を握り締めた。

 朝日が顔をのぞかせた。夜が明ける。世界が照らされて、はっきりとした輪郭を見せていった。

 東側から大勢の声が聞こえてきた。太陽の光と共にこちらへ走ってくる警察隊の仲間達だった。

 皇居の方からも声が聞こえた。こちらは軍隊のようだ。反乱軍ではなさそうだ。正規の軍が助けに来てくれたのだ。

 警察隊と軍隊は、暴徒達を蹴散らし始めた。暴徒達は、圧倒的な戦力の前に為すすべなく鎮圧されていく。

 生き延びたのだ。


「また死に損ねたな」


 藤田さんが嬉しそうにつぶやいた。

 死を回避出来たことは単純に嬉しかったが、それは珠江との別れも意味していた。死という形とはいえ、自分のものになりかけていた珠江が、再び手からすり抜けていく。

 珠江の目が訴えてくる。ここで一緒に死んでくれと。それも一つの男女の形ではある。しかし、


「俺達が一緒になれなくとも、俺達の子供が一緒になれるように願おう。それが駄目なら孫が一緒になれるように願おう。ここで終わらせてはいけない。生きよう」


 珠江の目から涙が、私の手からは珠江がこぼれ落ちた。


 軍隊と警官隊により、暴徒達は瞬く間に制圧された。夜が明けた途端に去って行く百鬼夜行のようだった。

 一階で燃えていた火も消し止められ、我々は救出された。

 所狭しと重なる屍の山を越え、建物の外へと出た。外にも戦いの痕は広がっていた。三菱ヶ原の上にもいたる所に死体が転がり、皇居方面からも煙が立ち上っていた。首都東京の中心部とは思えない姿だった。

 体中に血と油がこびりつき、切り傷、打撲がいたる所にあり、痛くないところを探す方が難しい状態だった。

 太陽を背にして皇居を見ると、馬に乗った一団がこちらへ向かってくる。天皇陛下とその臣下だ。

 平伏する我々の前で馬が止まった。


「藤田五郎。石走錬造。よくやってくれた。我が軍の勝利だ」


 頭の上から陛下の声がする。有り難き幸せのはずだが、珠江との別れの知らせを聞いているような気がしてきた。


「褒美を遣わそう」


 歯を食いしばって、未練が口から漏れぬようにした。


「褒美は、珠江か」


 思わず陛下のお顔を見上げた。厳めしい顔つきがほころんでいた。


「守ってやれ。最後はまだ来ていない」


 太陽が昇り、悪夢が良い夢に変わった。


「珠江。お前の幸せはすぐ横にある」


 珠江は何も言わずに頭を下げた。


「石走。日本を良い国にするぞ。百年後には、国民一人一人が笑える素晴らしい国になっている」


 陛下はそう言い残し、我々に背を向けた。

 珠江を傍に置くことに反対していた臣下は、安堵の表情を浮かべて陛下の後に続いた。

 珠江と目が合った。体が勝手に動き、人目もはばからず抱きしめていた。二度までもすり抜けたのをようやくつかんだのだ。もう絶対に離したくない。

 藤田さんが疲れ切った顔で笑っていた。珠江は私の胸で泣いていた。

 今回の軍事蜂起は、皇居の半蔵門あたりが主戦場となったので、半蔵門事件と呼ばれるようになった。我々が巻き込まれた皇居東側の三菱一号館での出来事は、隅に追いやられ、語られることはほぼ無かった。せいぜい軍の蜂起に伴い、一部民衆も暴動を起こした程度のものだった。

 事件がある程度落ち着き、怪我が癒えた頃、切頭村へ行くことにした。がき塚の前でおうせの光を珠江に当てる為に。

 事件後、ひょっこりと現れた権次が案内を買って出てくれた。無論有料ではあるが。

 事件の際は、情報が錯綜し、指揮系統が乱れる警官隊に、我々の救出を進言してくれたようだが、権次自身はあやふやに誤魔化した。彼なりの事情があるのだろう。

 前に権次と二人で進んだ道を、三人で進んだ。

 電車に乗り、山道を歩き、かわんとの淵とてんぐの曲がり松を越え、村にたどり着いた。

 荷物は私と権次が持ったとはいえ、珠江は自分の足で村まで歩いた。辛そうな素振りも見せず、むしろ楽し気だった。

 村に着いた頃には夕暮れが差し迫っていたが、珠江は村の中を興味深く眺めていた。


「私の起源はここなのね」


 知り得る限りの珠江の始まりはここなのだろう。


「私の先祖の由紀はここから歩いて旅立ち、ほうき星に導かれて葉羽村へたどり着いた。自分の子孫が戻ってきて、村の跡を眺めているなんて考えたかしら」


 珠江と共に村を巡り、長者の家の神棚から神鏡二枚を手にした頃、夜が彩りを消していった。

 前に泊まった廃屋で夜を明かすことにした。

 囲炉裏傍で横になっていると、珠江が起きている気配がした。三菱一号館での事件以来、眠れない夜が続いていたようだ。今夜もそうかもしれない。


「眠れないのか」


「眠れないけど、不思議と怖くない。人がいないことより、いることの方が怖い」


 あんな目に遭えば、人のうごめきに恐怖を感じるのも無理はない。情けない話だが、私もそうだった。

 権次は呑気にいびきをかいている。羨ましく思った。

 囲炉裏の炎が、天井に揺らめく影を映していた。

 横で珠江がつぶやいた。


「私はここから来た。これからどこへ行こうとしているのだろう」


 珠江は由紀のひ孫にあたる。珠江のひ孫は何をしているのだろうか。百年後、血筋は途切れず続いているのだろうか。子孫は珠江と同じ苦しみを抱えているのだろうか。それとも、苦しみを克服して穏やかな人生を歩んでいるのだろうか。


「動きたくないのに、大きな流れに飲み込まれて、留まっていられない、そんな気がしている」


 それは大概の人が思っていることの様な気がする。珠江だけが抱える思いではない。


「流れるなら、一緒に流れよう」


 先の未来に思いを馳せているうちに眠りに落ちた。

 目を覚ますと、まだ夜明け前だった。

 寝床の中に珠江の姿はない。権次のいびきだけがくぐもって響いていた。

 外に出ると、澄んだ空気が肌を刺激した。


「旦那。お目覚めですかい」


 後ろの戸口から権次に話しかけられた。私の立てた物音で起こしてしまったようだ。


「がき塚に行ってくる。権次はここで待っていてくれ」


「わかりやした」


 白んでくる空の下、がき塚へ向かった。両脇に抱えた鏡は結構な重量だ。一度通っただけの暗い道だったが、迷わずたどり着けた。

 珠江はそこに立っていた。がき塚の場所は言葉で伝えただけだったが、珠江はそこにいた。


「怖くはないのか」


「人目を避けて夜ばかり外に出ていたから、むしろ暗い方が落ち着くくらい」


 底が全く見えないがき塚の割れ目を見下ろしながら珠江はつぶやいた。


「この村で殺し合いが行われ、この下には間引きされた子供が埋められているというのに、不思議と怖くないの」


 暗く足がかりも覚束ない岩肌を降り、割れ目の底のがき塚の前に立った。ランプの灯りに揺らめくがき塚は、異形な姿で我々を迎えた。ここでも珠江は怖くなさそうだった。

 がき塚の奥の壁に鏡を一枚設置した。立てやすく窪みが作ってあった。ここに設置することに間違いないようだ。

 珠江をがき塚の前に立たせ、私は地上に戻った。

 もう一枚の鏡を構えた時、太陽が姿を現した。鏡の角度を上手く調節して、がき塚へ光を送る。割れ目の中は光に満たされ、珠江とがき塚の姿も浮かび上がった。まぶしさで目がくらむ直前、合わせ鏡の何枚目かに映った珠江の顔は、妖怪になっていたように思えた。信心深い方ではないが、珠江の中の妖怪を追い出してくれるように神へ祈った。

 充分に光を当てたと思われたところで鏡の向きを変えた。がき塚の割れ目は再び闇に包まれた。

 珠江がゆっくりと地上へ上がって来た。

 朝日が注ぐ中、珠江を抱き締めた。

 これで呪いは解けたのだろうか。珠江は助かるのだろうか。心の中のわだかまりは消えず、明るい未来を信じ切ることが出来なかった。自分の腕の中に珠江がいるという現在が幸せな分、未来が恐ろしかった。

 私が強く抱き締めると、珠江も強く抱き返してきた。


 呪われた村から帰り、私と珠江は結婚した。

 全ての人に祝福された婚姻ではなかったが、私達は幸せだった。

 義父になる秀三郎氏は本当に喜んでくれた。珠江に関しては、普通の親の何倍もの苦労を重ねたであろう。目にうっすらと涙を浮かべ、笑顔を見せてくれた。

 陰織家は、分家筋の者が継いでくれるようだ。石走の名を残そうとも思っていなかったが、ただ珠江と暮らしたいだけで、煩わしいことは避けたかったので、正直有り難かった。

 結婚して一年経った頃、子供が生まれた。女の子だった。

 自分の好きな人が、自分を好きだと言ってくれ、その間に子供を為す。ただそれだけのことに、これだけ幸福を感じるとは、以前は想像出来なかった。

 ただ、この幸せは、期限付きのものかもしれないという、不吉な予感はいつも心の隅に巣食っていた。

 娘は仁枝ひとえと名付け、愛しんで育てた。珠江に良く似た美しい子で、健やかに成長していった。

 仁枝が物心ついた頃、珠江の様子がおかしいことに気付いた。


「生まれてきて、あなたに会えて良かった」


 珠江がそっと目を閉じ、ゆっくりと瞼を持ち上げると、その眼は真っ赤に充血していた。

 呪いは解けなかった。解き方を間違えていたのか、元々呪いなんてなかったのかはわからない。ともかく今珠江は妖怪になろうとしている。今私の幸せは崩壊しようとしている。

 珠江の肌が青白くなり、血管が浮き出てきた。血走った目から理性の光が消えていく。喉の奥から、異様な唸り声を上げ始めた。

 珠江を抱き締める。耳元で大きな叫び声を上げられた。背中に爪を立てられ、肩に噛みつかれた。激痛に体がしびれる。それでも珠江を離さなかった。


「俺もお前に会えて良かった」


 珠江は食事も水も摂れず、数日間苦しんで死んでいった。美しかった面影はなく、安らかでもない。ただ悲しいだけの死だった。

 どこかで選択を誤らなければ、珠江はまだ生きていて、私と仁枝に微笑んでくれていたかもしれない。幸せの光が強かった分、悲しみの影も深かった。

 崩れ落ちそうなくらいの喪失感だった。それでも珠江に誓った。仁枝のことを守り切ると。


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