間の話③
(いない、いないな、どこにいるんだッ)
「裏側の世界」を、九十九は駆けていた。「表側の世界」だと夏が近づいてきていて全力疾走すると汗が出てくるが、「裏側の世界」の場合は季節の感覚がなく、走ってもあまり汗は出ない。
九十九は急いでいた。焦っているともいう。時間がないのだ。
(今日、所長が帰ってくるんだっけ)
ここ数日、「裏側の世界」の調査とか、全国に散らばっている【妖怪退治屋】の支部所の所長たちが集まって会議があるとかなんとかで、ここ数日「紅坂支部所」の所長である妙齢の女性は事務所に戻ってこなかった。連絡もほとんど取れず、だから九十九が好き勝手できていたのだが、それもあと数時間で終わりそうだ。
――片鱗はあった。
それは五日前。ちょうど犬神を探すために、「裏側の世界」を探索していた時。九十九は、とある妖怪と思わぬ対面をしていた――。
「この犬神は、思った以上に繋がりが濃いね……。時間はかかるけど、家族に協力してもらうしかないかな。大人の記憶は曖昧にしやすい、し……ッ!」
いったん切り上げて「表側の世界」に戻り、所長に報告しようと考えていた時のことだった。
突如として、外から地響きが聞こえてきた。
建物が揺れる。九十九は、犬神から距離をとると窓から外を見て、あ然とした。
「あれは……学校の方?」
遠くの建物が次々と倒れていた。薄闇の中に白い煙が立ち昇っている。その中に、青白く輝く炎。
九十九は考えるよりもはやく動いていた。窓を開けてそこから飛び降りると、学校に向かって走り出す。道中、下級妖怪が襲ってきたりしたが、行く手を阻むモノだけを斬り捨てて、九十九は最短で紅坂高校の校門に辿り着いた。
紅坂高校の校舎は崩れ果てていた。「裏側の世界」は「表側の世界」を模しているだけで、直接的な繋がりはない。「裏側の世界」の建物は、いくらぐちゃぐちゃに壊れようと、時間が経てば元通りになる。
だから九十九は校舎の心配はしていなかった。
そんなことよりも、視線の先にいるモノに釘付けになっていた。
予想していなかったモノが、そこにいる。妖怪だということは、たとえ視界に捉えていなかったとしても、その隠すには多すぎる並々ならぬ妖気が物語っているだろう。近くにいるだけで全身の毛が逆立って、抑えきれない鳥肌に、九十九は思わず口角を吊り上げた。
九十九が長年探し求めていた妖怪ではない。
だが、いま目の前にいる妖怪は、見た目も、並々ならぬその妖気も、そこらの妖怪とはわけが違う。浅瀬にいるはずのない、深海の大物だ。
九十九がその姿を見たのは初めてのことだが、その名前を聞いたことがあった。長く伸びる尾は蛇のようなまだら模様で、手足は爪が長くがっしりとしている虎模様。そして、こちらを向いた顔は、猿のような赤ら顔の、三種類の動物を合成したような生き物。
「鵺」
まだ若い九十九は、深海に行く許可がもらえない身分だ。それに深海は、浅瀬と違って、妖怪の数が少ないとも聞く。悪さをした妖怪でもなければ討伐対象にはなることなく、深海に行く退治屋の多くは、深海に妖怪が増えていないかどうかの調査隊だけだった。ちなみに九十九の妙齢の上司がそうだ。彼女は、九十九よりもいろいろな意味で強い。
その鵺と、九十九の視線が交錯していた。
ぎょろりとこちらを見る眼が瞬きをする。肌の泡立つ緊張感の中、九十九は持っている太刀を構えようとした。だがその前に、低くしゃがれた声がその場に響き渡った。
「臭いな……臭いぞ、小僧。ワシが嫌う、狐の匂いが漂ってくるわい」
「狐、だと。おまえは、知ってるのか?」
「ぬ? それがなんのことかはしらんが、おまえから漂う狐の匂いには心当たりがあるなァ。だが、はて? あの狐は、人間の姿をしておったか? それに、妖力が弱い……。小僧、キサマは何者だァ?」
臭い吐息が、至近距離で匂った。知らぬ間に近寄ってきていた【鵺】が、九十九に顔を近づけて、歯並びの悪い大きな口を開けている。一歩でも動けば噛み千切られてしまいそうなほどの近さの中、殺気の込められた声が響く。
九十九はギリギリ理性を保ちながら、鵺を見返す。静かに、問いかけた。
「狐はどこだ?」
【鵺】の質問には答える気はなかった。
赤ら顔が、無様に歪む。眉を潜めた鵺だったが、次の瞬間、九十九の眼前で弾けるような哄笑を上げた。
「くくっ、くははははっ! おもしろい! 狐の匂いを漂わせる人間が、狐を探しているのか! つまり、あの噂は、本当だった、というわけか!」
「噂?」
「狐が、人間に【恋】をした、という噂だァ」
「恋、だと……ッ」
眉を潜める九十九。
そんな九十九の全身をねぶるように眺めると、鵺は自ら少し距離を開け、驚いたことに背を向けた。猿の顔だけを、こちらに向ける。
「くくっ。狐の居場所を問うたな? あの薄汚い狐なら、つい先ほどまで、ワシと戦っておったぞ。いきなり離脱した腰抜けだがなァ」
「なんだとっ」
九十九は、慌てて周囲を見渡した。背を向けた鵺から警戒心を背けると、そのまま校門から外に出る。
やはり、先ほど遠くから見えた青白い炎は、九十九の探している【狐】のものだったようだ。
「あいつは、どこにいったんだ?」
「ふんっ。しらんなァ。いきなり逃げたからな」
「どこに逃げた!」
「それがわかっておれば、ワシはもうここにはおらんわ」
「……そうか」
「のう、小僧」
「なんだ?」
「狐が、憎いか?」
「あたりまえだ」
「そうか。くくっ、そうなのか。それならいい。いいぞォ。ワシと組んで、狐を殺さぬかえ?」
「組む、だと?」
到底放っておけない言葉に、九十九は再び鵺に視線を向けた。
「ああ。そうだ。ワシと組めば、憎き狐を、その手で殺せるぞ?」
「……ころ、す……?」
「どうだァ、かぐわしい話だろ? ワシと手を組まないか?」
「……断る」
答えなど、初めから決まっている。確かに九十九は、【狐】を憎んでいる。殺せるものなら、殺してやりたい。
――けれど、だからと言って、自分が忌み嫌う妖怪と、手を組むだなんて考えられなかった。
「そうかそうか」
なぜか嬉しそうに、鵺がくっくっと笑い声を上げる。
「そうだよなァ。……ま、気が変わったら、ワシのところに来るがいい。丁寧にもてなしてやるからの。人間世界のように綺麗じゃない、薄汚い住処だがなァ」
おもしろそうにそう言うと、鵺は、九十九の前から姿を消した。
それが五日前。そのあと辰郎を問いただしたところ、その日の昼間に辰郎とカンナもまた鵺と接触していたらしい。鵺は襲ってくることはなかったから、カンナは命拾いできたとか。
――九十九が長年探している【狐】が、浅瀬まで出てきている可能性がある。
鵺との対面によりそのことを知ってしまった九十九は、とにかく犬神の処理を早めに終わらせたいと考えた。本来なら妙齢の上司に知らせて今後の対策を考えるところを、上司が出張中なのをいいことに、九十九は妖怪の存在を知っていてなおかつ新田新太の幼馴染である瀬田つららを使うことにした。犬神の件は思った以上に状況は良くなったものの、それでもあれから毎日、「裏側の世界」を時間がある限り、深夜遅くまで探し回っているというのに。
あれ以来、【鵺】や【狐】、その他の大物妖怪とも、出会うことはなかった。
おそらく九十九が自由に動ける時間は、あと数時間……いや、あと数分……いや、もう終わりだ。そろそろ一度、「表側の世界」に戻って【妖怪退治屋紅坂支部所】に出向かなければならない。そこで上司からの仕事を受け取らないと、彼女から怒りの鉄槌が下ろされるのは目に見えていた。
(そろそろ潮時か……)
九十九はいつも使っている人気のない公園の近くまで戻ってくると、すぐ横に現れたがしゃどくろを一体屠ってから、公園のトイレに入った。
鏡に触れると、扉は開いたままになっているため、すぐに光を放ち始める。
そこから光が溢れてくる寸前、九十九の耳元に声が届いた気がした。
「ねえ、兄さん。【狐】の居場所、しりたくない?」
少年のような甘い声。その声の主を探す前に、九十九は夕暮れ時の茜色に包まれている公園のトイレ――「表側の世界」に帰ってきていた。
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