三、狐の章

三、狐の章①


 あの日から夢を見る。物心がつきはじめた三歳ぐらいの頃。夜に布団で寝かしつけられている時、母が口にした言葉。

『あなたのお父さんはね、とてもやさしいのよ。いい【人】なの』

 いま思い返すと、あれは自分に言い聞かせるための言葉だったのかもしれない。もう確かめる術はないが、その言葉を口にするときの母は、いつも幸せそうだった。幸せそうに、彼女はいつもいつも、いなくなった夫のことを褒め称えていた。

 九十九が目を覚ますと、まだ授業中だった。一時間目の授業は基本眠く、体育の授業でもない限り、九十九はほとんど寝て過ごしている。学校に通っているのは、それが討伐師をするための約束事だったからで、九十九自身勉強に興味はなかった。でも成績が落ちたら「裏側の世界」に行くことを禁止されてしまうので、最低限の勉強はコツコツをしている。

 うとうと、と九十九は瞬きをした。だが、先ほどの夢の影響か、もう一度眠る気が起こらない。無理やり目を開けると窓の外に視線をやった。

 五月の終わり。早いところではもう梅雨がはじまっているのだろうか。今日は、この地域でも雨が降っている。じめじめと、湿った雨の匂いが鼻につく。九十九は意識して表情を歪めないように気を付けると、そのまま手に顎をのせて、降り続いている雨を眺めることにした。

 雨は、あまり好きではない。特に夏に降ると蒸し暑くなり、じめっとして、シャツが肌にくっつくのが嫌いだった。

 「表側の世界」ではザアザアと降る雨も、「裏側の世界」ではまったく降ることはない。あちらの世界は、光も差し込まなければ、季節感もない。建物が壊れてもすぐに修正されるし、どちらかというと創られた模造品のような世界だろうか。

 そこに、九十九が探し求めている人物がいる。母を捨てて自分だけ逃げて行った、愚かな【男】が。

 片鱗はあった。けれど、あれからいくら探しても見つからない。ただでさえ九十九は学校に通わなければいけないのだから、カンナや辰郎に比べると、「裏側の世界」にいることのできる時間は限られてしまう。

(……寝るか)

 あまり好きではない雨の音を子守唄として、九十九は再び眠ることにした。深夜遅くまで探索を続けるためには、いまのうちに眠っておくしかない。



    ◇◆◇



「九十九くん。いま帰り? あのさ、今日なんだけど、このあと……」

「ごめんね、瀬田さん。今日これからすぐバイトに行かなきゃいけないから、また今度ね」

「う、うん。また、だよ!」

 教室を出ようとしたタイミングで話しかけてきたつららに、申し訳なさそうに断ると、九十九は急いでいるふりをしながら教室を出た。下駄箱で靴に履き替え、九十九は、【妖怪退治屋紅坂支部所】に向かって行く。                        

 【妖怪退治屋紅坂支部所】は、紅坂高校から徒歩で十五分ほどの距離にある。誰も使っていない、薄汚れて錆だらけの小さな公園のすぐ近くだった。

 一見するとなんの変哲もない雑居ビルの外階段を上った、二階。すぐにある扉を開くと、事務所内はやけに静かだった。

 九十九は扉を閉めてから室内を見渡す。ソファーには、蝦名カンナと狩野辰郎が向かい合って座っていた。ふたりとも口を噤み、カンナは睨みつけるように前を向き、辰郎は怯えるように身を縮こまらせている。

 そこから少し距離を開けた事務机の前には、ひとりの女性が立っていた。和装をまとっている女性は、長い黒髪を馬のしっぽのようにひとつに括り、それを前に垂らしている。二十代半ばほどの年齢を思わせる女性は、入ってきた九十九に、それはもう見事な笑みを向けてきた。にっこりというほどのかわいらしさはないが、大人の女性特有の色香を思わせる微笑ましげな眼差し。

 九十九は、表情には出さずに、げ、と思った。

 ここまで恐ろしい笑みは、久しぶりに目にする。九十九は、内心ヒヤヒヤしながらも、表情はいつも通りの笑みを張り付ける。 

「お疲れさまです、所長」

「お疲れさま、ねぇ。ところで九十九、私のいない間、なにかなかったかい?」

「なにか?」

 九十九は首を傾げる。

「特になにもありませんでしたよ? ていうか、これ前も聞かれて同じ返事をしましたよね? どうか、されたのですか?」

「ああ、確かにそう訊いて、確かにそう答えが返ってきたのは、私も覚えているよ。けれどね、九十九」

 所長は、ニヤリと口角を上げる。

「九十九が、【犬神】の対処をしたというのは、まだ教えてもらっていないよね?」

「……犬神?」

「惚けるんじゃないよ、九十九。私の情報網を甘く見るんじゃない。おまえが、裏の世界にただの人間を連れて行ったってのは、調べたらすぐにわかるんだ。そもそも、おまえにその呪文(ゲート)を与えたのは私だろ? 隠しても無駄だ」

 とうとう九十九は観念した。

 両手を上げる代わりに、頭を下げる。

「申し訳ありませんでした」

「あいっかわらず、心がこもっていない謝罪だね。しぶしぶ謝るのは、昔から変わっちゃいないんじゃないのかい? せめて、もう少し感情をこめなさい。棒読みすぎるよ」

「すみませんでした」

 九十九はなるべく観念した様子を表せるように努力したつもりだったが、そんな九十九を変わらない笑みで見下ろしながら、所長がせせら笑う。

「やり直し」

「……こ」

 んのクソババァ。

 九十九は出てきそうになった言葉をギリギリで飲み込むと、この【妖怪退治屋紅坂支部所】の所長であり、討伐師になりたいといった九十九に稽古をつけてくれた師匠であり、母の実の叔母でもある女性に、九十九は再び頭を下げた。



    ◇◆◇



「それ、避けられているんじゃないの?」

「そうなのかなー。違うと思うんだけどなぁ」

 今日はバイトがないからと、つららの家にやってきた愛海に、つららはここ数日の悩みを打ち明けていた。

「だって、約束をしたんでしょ? それなのに、なかなか取り合ってくれないって、そりゃあ避けられているようにしか思えないよ」

「ん……。約束っていうか、こっちから一方的にお願いしたんだけど……。でも、時間があったら連れて行ってくれるって言っていたし」

「よくわからないけど、デートみたいなもの? まあ、それも約束なんじゃないの?」

「そうなのかなー」

「そうだと思うよ」

 あの時、つららは【犬神】にまた遊びに行くと約束していた。そして九十九に、連れて行ってもらうようにもお願いもした。時間があったらいいよ、と彼は言ってくれた。

 それでもここ数日の彼は忙しそうだ。彼はいつも眠そうにしていて、授業中なんてほとんど寝ていて、そして帰る時間になるとすぐに帰ってしまう。「裏側の世界」で妖怪を退治するバイトをしているとは聞いていたから、つららはそれが忙しいのだと思っていた。

 けれど、最近はつららと挨拶は交わしてくれるものの、【犬神】との約束を守るべく九十九にお願いをしようとすると、高い確率で「バイトだから」と断られてしまう。

 忙しいのだろう。それはわかっている。だからしょうがないと、つららは自分に言い聞かせていたのだけれど……。それが何回も続いて、あれから二週間も経っているのになかなか取り合ってもらえずに、つららは次第に不安になっていた。

「しつこいから、九十九くんに嫌われちゃったのかな」

「あー。それもあるかもね」

「うう、やっぱり」

「ま、それがつららのキャラだってのはあたしはわかってるけどさ。人によっちゃあしつこいのはうっとうしいと思うだろうね。あたしもたまに思うし」

「愛海ちゃん!?」

「うそうそ、冗談じょーだん」

「ほんとかなー」

「ほんとほんと」

「うー。ま、でも私愛海ちゃん好きだから、信じるよ!」

「……そういうところも、ちょっとね」

「なにか言った?」

 小声で愛海がボソッと口にした言葉は、つららにはよく聞こえなかった。

「ん? つららは、あたしにとって、一番の友だちだよ、って言っただけだよ」

「私も、愛海ちゃんが一番大切な親友だよー!」

「ハイハイ、わかったから抱き着かない」

「愛海ちゃんのお腹気持ちいい~」

「だから嫌みか!」

 ソファーで隣り合って座っていたつららは、愛海の柔らかいお腹に抱き着き顔をくっつける。愛海はつららを引き剥がそうとしたものの、つららが幸せそうな顔をしていたので、ため息をついてやめた。

 脱線した話をもとに戻すべく、愛海が言う。

「ま、でもさ。化野って、容易く約束を破るような男にも思えないし、無理やりにでも聞き出してみればいいんじゃないの?」

「無理やり……? それ、嫌われたりしない?」

「大丈夫だいじょーぶ。てか第一、あんたいつも無理やり面倒ごとと関わろうとしているじゃない? それぐらいがあんたらしいよ」

「私らしい? そう、なのかなぁ」

「そうそう。無理やりにでも化野と約束を取り付ければいいんだよ」

 つららは、少し考えると、拳を握った。

「う、うんっ。そうだよね! 明日、無理にでもお願いしてみる!」

「がんば」

「ありがとう、愛海ちゃあん!」



     ◇◆◇



『その子の記憶は、消したのかい?』

 今日はやけに目が冴えている。昨日、所長にこっ酷く叱られた後、訊ねられた言葉のせいだろうか。

 昨日は、所長から頼まれた仕事をこなすだけで精いっぱいだった。量が多すぎたのだ。きっと、九十九が勝手をした罰だろう。あまりにも多すぎて、狐を探す空き時間を得られなかった。それだけ疲れているはずなのに、昨夜はほとんど眠ることができずに、朝になって学校に登校してきてもなお、目が冴えている。

 九十九は窓側の席で、ぼうっと左手で頬杖をついて外を眺めていた。

 だからか、近づいてくる生徒がいることに、声を掛けられるまで気づくことができなかった。

「おはよ~、九十九くん」

 学校で九十九の下の名前を呼ぶ人物は、ひとりぐらいしか思い浮かばない。

 九十九は顔を上げる。それを待っていたのか、いきなり女子生徒――瀬田つららに頬杖をついていないほうの手を掴まれた。

「……瀬田さん?」

 あくまでも普段通りに九十九は振る舞う。笑顔を意識して。

「あれ、九十九くん? どうしたの?」

「……いや、ちょっと眠くてね」

「バイト、忙しいの?」

「うん。だいぶね。昨日は特にあの鬼ババァ……所長がたくさん仕事を押し付けてきたからね」

「そ、それは大変だね。……で、あの。こんな時になんだけどね」

 つららが言いにくそうに頬を掻いた。

 それからしっかりとこちらの瞳を見つめてくる。

「今日の帰り、話したいことがあるから、少しでもいいから時間をちょうだい!」

「ごめんね、瀬田さん。今日もいそがッ」

 そういつものように断ろうとした九十九だったが、その前につららが顔を近づけてきて、一気に捲し立ててきた。

「忙しいのはわかってるけどッ、でも今日だけはちゃんと話を訊いて!」

 その剣幕に、九十九はあっけにとられて、反応が遅れた。

 しばらくしてから、しぶしぶ頷く。

 どうして、はっきりと断ることができなかったのだろうか。昨夜よく眠れなかったからだろうか。

 いや、違う。そうじゃない。昨日、あの妙齢の女から言われた言葉が原因なのだろう。

 再び、九十九の脳裏に、所長から言われた言葉が浮かぶ。

『いいかい、九十九。その女の子が誰なのかは知らないが、裏側の記憶を持ったまま一般人が生きていくのは危険すぎるんだ。やるべきことは、わかっているよね?』

 九十九はあの時、所長の言葉に頷くことができなかった。

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