二、犬神憑きの章⑦

 放課後。つららは、廊下で九十九を待っていた。クラスメイトが不思議そうにつららに目を向けるが、挨拶だけして通り過ぎていく。愛海はバイトがあるからと、ホームルームが終わるとさっさと帰ってしまった。

 ふと、つららは振り返って教室を覗く。中では、九十九たちの班が掃除をしていた。身長の高い九十九は、端正な顔立ちも相まってよく目立ち、授業中と違って眠たげな様子を窺わせないものだから、いつもよりもキリっとした眼差しに、同じ班の女子がうれしそうに瞳を輝かせて九十九をちらちらと盗み見ていた。

(話ってなんだろ)

 なんだか、まだモヤっとしている。

 昨日の朝からずっと、つららの心はモヤモヤしっぱなしだった。

 幼馴染の新田新太のこと。

 彼は、どうして男子生徒の胸倉を掴んで、殴ろうとしていたのだろうか。

 噂では一方的に新太がその男子生徒に暴力を浴びせたと言われているが、実際はそうじゃないことをつららは見ていた。あそこにいた生徒たちもそうだろう。新太は、男子生徒を殴ってはいない。

 それなのに噂に尾ひれがついて、新太が悪者のように扱われている。

 そのことが我慢ならない。

 何もないのに新太が人に暴力を振るわないことを、つららは知っている。彼はいつも、誰かのために暴走していた。

 中学一年生のあの時も。同じクラスにいたのにつららはクラス内の不穏な空気に気づいていなかった。けれど、給食の時間にいきなりある男子がカッターを持ち出して、新太を襲い、新太は別の男子に暴力を振るった。その光景を見て、つららの体もとっさに動いていた。あとから愛海に「自分の体はもっと大切にしなさい」と怒られてしまったけれど、後悔は残らなかった。

 でも昨日は――。つららは、新太を止めることができなかった。九十九が助けてくれた。

(あの時の、あの眼って)

 モヤモヤしているのは、新太を止められなかったことではない。

 きっと、化野九十九が、ひんやりとした瞳を新太に向けていたことだ。

 なぜ。どうして。彼は新太を、あんな眼で見ていたのだろうか。

「……瀬田さん?」

 考えごとをしていたから、呼びかけられたのに反応が遅れてしまった。

 慌てて顔を上げると、九十九にぎこちない笑みを向ける。

「あ、掃除、もう終わったの?」

「うん。早く終わらせたよ。――で、話だけど……」

 九十九がキョロキョロとあたりを見渡した。それから屈みながら小声で続ける。

「ここだと人目があるから、移動しようか」

「うん」

 放課後の廊下だ。もうほとんどの生徒はいなくなっているが、まだ掃除当番などで残っている生徒もいる。九十九の容姿はどうしても目立ってしまう。いまも、チラチラと九十九を見ては顔を赤らめる女子が通り過ぎていった。この状態だとどちらにとっても落ち着かない。

(でも、人目のないところで話したいことって、なに?)

 それは、もしかして、妖怪に関係あることなのだろうか。



    ◆



 時は遡り、昨日のこと。

 裏側の世界で、九十九はとっくに本日の目標討伐数は超えていたのにも関わらず、表側の世界に戻ることなく、まだとある存在を探していた。

 いつも探している存在とは別の、最近うっすらと感じとっていた存在を。

(オレの記憶が正しければ、こっちのほうだと思うんだけど)

 学校の敷地を出た九十九は、人気の全くない街灯のついていない暗いくらい道を、走っていた。

 走っているのは、途中でなるべく妖怪に遭遇しないためだ。「裏側の世界」に入ってきたところからあまりにも距離を開けてしまうと、いざ厄介な妖怪と出会ったときに戻れなくなってしまう。道は、一回につきひとつ、「表側の世界」からしか繋ぐことができない。運よく別の討伐師が作った道があれば幸いだが、討伐の縄張りは支部によって異なるため、そんな幸運はそうそうない。

(いまは、できれば大物と出会わないことを祈るしかないかな)

 幼いころから長年燻ぶっている本心には、いまは眠っていてもらうしかない。

 九十九の今日の目的は、過去の因縁を払拭することではないのだから。

 それよりも、目先のことが気がかりだった。

 ここ二日間のことを思い出す。

 昨日の朝からのことを。昨日の朝、学校内に、妖気のようなものを感じた。

 それははっきりとしない、ゆらゆらと揺れるろうそくみたいに掴みどころのない、厭な気配。

 何かが、この学校にいる、と思った。

 妖怪が、この学校の、どこかに。

 けれど、「裏側の世界」に巣くう妖怪が表に出てくることはほとんどない。あったとしても、人間世界に順応できるように様相を変えなければ、妖怪は「表側の世界」で暮らせない。その昔、あの妖怪が九十九の母を唆しにやってきたように。

 闇に巣くうほとんどの妖怪は、そう簡単に光を克服できないものだ。

 だからきっと学校に妖怪はいない。

(それでも、たまに繋がりが強いヒトはいるんだよね)

 九十九は、「表側の世界」の道のりを思い出しながら、暗闇の中、「裏側の世界」を走る。

「この近くだと思うんだけど」

 九十九は足を止めると、周囲の家の表札を一軒ずつ確かめていく。

 数分もしないうちに、目的の家は見つかった。

「あった」

 その一軒家の表札には、「新田」とシンプルな文字で書かれていた。

「ここだろうね」

 この周辺に、他に新田という表札の家は見当たらない。

 おそらく、ここが「新田新太」の家だろう。

 九十九は思わず目を細めた。

(たまにいるんだよね。繋がりが強すぎて、表側の世界で悪さをしようとするヤツが)

 それを処理するのもまた、妖怪退治屋の仕事だ。――まあ、今回九十九は上司に相談なくそれを実行しようとしているものだから、あとで怒られるかもしれないが。妙齢の上司の容赦ない仕打ちを思い出すと内心ヒヤヒヤものだが、わざわざここまで来たのに、そう簡単に後退するわけにはいかない。

 妖怪は狩らなければならない。表側の世界で悪さをする妖怪ならなおのこと。放置はしておけない。

 九十九は呼び鈴を鳴らすことなく、家の扉を開けると、そのまま二階の部屋に向かった。

 二階の部屋の扉は閉じていたが、九十九は躊躇うことなくその扉を開く。

 部屋の中には、目的のヤツがいた。

 目を細める。

「……やっぱり、犬神だったね」

 黒い物体がそこにいた。どす黒い淀みみたいなものが、とぐろを巻くようにグニャグニャと形を歪に変えている。丸くなったと思ったら次は横長になり、まるで人のような形をとろうとして、失敗し、ぺシャッと床に打ち付けられてはあたり一帯を黒に染める。

 そして、歪んだその黒い淀みは、最終的に耳としっぽのある形をかたどった。心地いいのか、そのまましばらく形が歪むことはなかった。

 犬のような形の黒い淀みを見て、九十九は薄く笑う。狐面の裏側で、犬神には見えない笑みで。

 ――その後、とあるアクシデントがあり、結局のところ犬神を狩ることができずに、九十九は「表側の世界」に戻ることになったのだが、それはまた別の話。



     ◇◆◇



 てっきり学校内で話をすると思っていたつららは、九十九に連れていかれたところに着いて、思わず声を漏らす。

「え?」

 下駄箱で靴を履き替えるときや、学校の敷地内から出ていくときにも驚いたが、それ以上の驚きだった。

 つららは不安そうに周囲の状況を見渡すと、そっと傍らの建物を見やる。

「ここって」

「うん。この近くで用事があってね。ごめんね、無断できみの家の敷地内に入って」

 そう。九十九に連れてこられたところは、つららの家だった。正確には、玄関の前。外から見えないように、中庭近くに隠れながらつららたちは話していた。

「ううん。九十九くんなら、だいじょうぶだよ」

 そう口にしながらも、つららはの内心はモヤモヤでいっぱいだった。

 つららの家まできて、改めて話したいこととはいったいなんなのだろうか。

 先日のこともあり、つららはますます不安になった。

 九十九は、どうやら「裏側の世界」の妖怪を狩るバイトをしているらしい。前に、その話を聞いた際に、この世界には隠れるように妖怪が巣くっていることを聞いた。つららと一緒に暮らしている従兄の正体が、妖怪なのだと。そんなことまで、九十九は教えてくれた。

 それは真実で、つららの従兄――トウジは座敷童という妖怪で、つららを騙していた。

 けれどつららは、そんなトウジもちゃんと自分の家族だと思っている。だから、妖怪でもいいからこれからも一緒に暮らそうと、そうトウジと打ち解けたというのに。

 つららの不安は、いま自分の前で目を細めている九十九に対するものだ。

(九十九くんは、もしかして、妖怪が……)

 薄々とは感じていることではあった。九十九はなにも口にしないが、彼はつららの前でとてもひんやりとする眼差しをしたことがある。しかもその一回は、トウジの正体を話した時。

 それから昨日。昨日も、九十九はまたひんやりとした眼をしていた。

 思えば、昨日その眼を見た時から、つららの心はずっとモヤモヤとしている。

 どうして。どうして。という声にならない問いが、ずっと喉を圧迫してきている。

 窒息しそうに思えるほどの、短い間。

 つららの声にならない疑問を秘めた目を見つめ返しながら、九十九が言った。

「瀬田さんに助けて欲しいことがあるんだ。オレと一緒に、いまから裏側の世界に行ってくれないかな?」

「え?」



    ◇◆◇



「つららをどこに連れて行くの?」

 玄関の扉を開けると、つららたちが家に入るのを待ち構えていた存在に声をかけられた。

 まだ小学生ほどの少年だ。おかっぱ風に髪を切りそろえた男の子。

 彼は、ジッと九十九に真剣な眼差しを向けてくる。

「トウジ兄ちゃん」

 つららの呟きに、トウジがこちらに顔を向けて、「おかえり」とほほ笑む。

「ただいま」

 つららもにへらとと笑い返した。

「で、化野九十九。つららを、これからどこに連れて行くきだい?」

「裏側の世界だよ」

「どうして」

「瀬田さんの力を借りたいんだ」

「つららの?」

「そう。……繋がりが強すぎる犬神がいてね。それを鎮静するために、どうしても近しいヒトの力が必要なんだ」

「……それは、もしかして、新太くんのことかな」

 困ったように眉根を寄せるトウジに、九十九は頷く。

 しばらく迷った様子を見せたトウジだが、逡巡の末に、「うん」と首を縦に振ってくれた。

「それなら仕方ないね。新太くんは、昔からつららと仲良くしてくれているから。助けられるなら、いくらでも力になってあげたい。ボクはこんな体で、裏側の世界の妖気は濃すぎて適応できないから一緒に行ってあげられないけれど……。九十九くん。つららを、必ず連れて帰ってきてね。傷ひとつつけずに、必ず」

 ひたむきな眼差しを見返して、九十九はしっかりと頷いた。

「もちろん。瀬田さんを危険な目には合わせないって、約束するよ」



    ◆



「九十九くん。それって、何?」

 九十九が鞄の中から取り出したものを見て、つららは思わず問いかけた。

 掌より一回りほど大きいそれは、白い布に包まれていた。

「ああ、これ?」

 九十九は布を縛っている紐をするりと解く。

 布をめくり、その下から現れたものを見て、つららは目を見開いた。

「刀?」

「うん。妖怪を狩る短刀。いつもはもう少し長い太刀を使っているのだけど、学校終わりに取りに帰るのには時間がかかるからね。裏側の世界も夜遅くになるにつれて物騒になるから、きみを連れて行くのなら早いほうがいいと思って。短刀なら、学校のカバンに入れて持ち歩けて便利だし」

 言いながら、九十九はベルトを通す輪っかのところに短刀の鞘を通す。

 それから九十九は鞄の中から、お祭りの屋台とかで売っていそうな狐面を取り出すと、それで顔を覆ってしまった。

「じゃあ、行こうか」

「う、うん」

 不安に思いながらも、つららは力強く頭を振った。

 リビングの扉を出ると、ふたりは洗面所に向かう。電気を点け、ふたりはそのまま鏡の前に立った。

 ふと、顔を後ろに向けると、洗面所の入り口から心配そうな面持ちのトウジが覗いていた。

 つららが笑顔を返すと、トウジも微笑んでくれた。けれどすぐにトウジは真剣な面持ちになり、九十九の背中をじっと見つめた。

「瀬田さん?」

 九十九に呼びかけられて上に顔を向ける。

「早く片づけたいのだけど、大丈夫?」

「あ、へ、平気だよー」

 気長にふるまい返すと、九十九は頷いた。

「じゃあ、扉を開けるから、オレの手を握って」

 差し出された左手を、つららは両手で握りしめる。

 ふと、つららはまた上を見た。正確には、九十九の顔を覆っている狐面を。

 赤色に彩られた細い眼と、常に微笑んでいる口元。

 その狐面の笑顔に、つららは既視感を覚えた。

 その既視感の正体に辿り着く前に、突如発生したまばゆい光がつららたちの体を包み込む。

 あまりの眩しさに目をつむったつららが目を開けると、そこは、なんの変節もない我が家の洗面所だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る