二、犬神憑きの章⑥
扉を開けると、うるさい悲鳴が轟いた。
「待ってッ。ほんと、ちょっと待ってくださいよぉ、カンナさん! マジでやめて! 腕っ、腕痛いッ。折れるから、ほんと、変な方向に曲がってるってぇ。ほんと、やめてくださいよぉおおおッ」
「うるさいわね、このグズ! 臆病者! 意気地なし! アンタのせいで、アタシ危うく死ぬところだったんだからねっ! 最近、深海にいるはずの大物とかが浅瀬まで出てきているのはアンタも知ってるでしょ! ただでさえエンカウント率上がってるってのに、アタシ置いてひとり逃げ出すとか、あんたそれでも討伐師の端くれか! 恥を知れ!」
「うわあああッ! ギブ、ギブギブギブギブッ」
「……お仕置きは、そこまでにしてあげないと、
見ていられなくなった九十九は、うるさい悲鳴から逃れるように耳を塞ぎながら、金髪の少年を十字固めをしている少女を見る。
悲鳴が響く中、九十九の声はちゃんと届いたらしく、黒髪をアップにツインテールに結っている少女がこちらに顔を向けた。九十九の顔を見ると、「げぇ」と嫌悪の情を露わにする。
固めていた少年の腕を放り投げると、少女は立ち上がり、服の埃を払う。それから九十九と目を合わせないように、そっぽを向きながらソファーに腰を下ろした。
関節技を決められていた少年が、痛む腕をさすりながら起き上がる。目に涙がたまっており、頬は平手打ちされたのか赤く腫れあがっている。九十九はそんな彼――辰郎にやさしく微笑みかけた。
「お疲れ」
「九十九、ありがとぉおおッ」
辰郎が九十九に飛び掛かってくる。それをすんでのところで避けると、九十九は何事もなかったかのように応接室となっている空間から、この広くない室内に唯一ある事務机の所に向かった。後ろから、「九十九も冷たいよな」という辰郎の嘆きが聞こえてきたが、九十九は無視を決めこむ。
事務机に向かいながら、九十九はちらりと、ツインテールの少女、
九十九は目を細めながら、事務机に向かい合う。
事務机には誰も座っていなかった。たいていは、九十九たちの雇い主でもある妙齢の女性が椅子に腰を掛けているのだが、いまは出かけているようだ。「裏側の世界」の調査にでも行っているのかもしれない。彼女は前触れもなく姿を消すことがある。
九十九は事務机の上に視線を這わせた。
(今日も特別な依頼はない、ね)
少し残念に思いながらも、九十九は事務机の上にある資料を改めて順繰りに眺めたあと、壁際にあるホワイトボードのところに向かう。そこには、ここ――【妖怪退治屋紅坂支部所】に所属するメンバーの予定が書きこまれていた。
「今日も、容赦ないね」
九十九は自分の予定を眺めたあと、堪えきれずに愚痴を吐く。自分が倒すのは浅瀬にいる大量に増幅する下っ端妖怪だとはいえ、毎日毎日変わらない量を屠っていたら、さすがに疲れは溜まる。
九十九はため息を吐いた。
ついでに、先ほどカンナの言葉を思い出す。
最近「裏側の世界」は、数年前に比べてなにかと物騒になっている。深海と呼ばれる、「裏側の世界」の深いところにいるはずの妖怪が、浅瀬と呼ばれる、主に弱い妖怪しかいないところまで出てきているのだ。いままでも、半年に二、三回はあったことだが、ここ一年、これまでの非じゃないほど多く、一週間に一回以上、深海にいる大物と対峙してしまう事件が起きている。実際この支部所以外の退治屋の縄張りに、その大物妖怪が現れて、若い討伐師が重症を負って入院しているらしい。死人は出ていないが、見過ごせる問題ではない。
討伐の際は気をつけるようにと、九十九たちは妙齢の上司から言い渡されているけれど、気をつけていても、大物妖怪と出会うときは出会ってしまう。出会ったら逃げるようにと言われていたからきっと辰郎は逃げたのだろう。責められることではないが、臆病ものの辰郎の場合ザコレベルの妖怪と対峙しても腰を抜かして逃げ出そうとすることが多いので、相棒として組んでいるカンナとしてはいつまでも放っておける問題でもないのだろう。
(今日のオレの討伐場所は、学校周辺か……)
そこで、九十九はなんとなくカンナたちの討伐場所を確認して、「あれ」と声を出した。
「カンナさんたちも、昼間学校の周辺を討伐していたの?」
問いかけるが、カンナは聞こえないふりをしているのか、答える気配がない。
変わりに腕に湿布を貼りながら辰郎が答えてくれた。
「そうなんだよー。所長に、朝の九時前? に、紅坂学園の周辺で高い妖力を感知したから、確認がてら妖怪を狩ってこいって言われて、それで。僕ら、九十九と違って学校行ってねぇだろ? だから、あのババァにいいように扱われて……くっそー、どうして僕が妖怪なんて討伐しなくちゃいけねぇんだよ……。もともとこんなところ入るつもりなんてなかったのに、親父には逆らえないし。……もう、家出してぇ」
愚痴を吐くと、めそめそと顔を覆ってしまった。
辰郎――
「嫌ならさっさと家出して、退治屋なんてやめればいいじゃない」
めそめそする辰郎に、カンナが冷ややかな眼差しを向ける。九十九も内心同意した。
しかし。
「簡単に家出できたらこんな苦労はしねぇよっすよー。僕が家を出て、ひとりでまともに暮らしていけると思います?」
「思わない」
「思わないわね」
偶然にも、カンナと九十九の声が重なった。
「ですよねー。きっとスラム街でチンピラになって、内臓を売り渡してそこで終わりっすよ。僕の人生なんて所詮、不運の連続なんですぅ―」
被害妄想も甚だしいが、その部分にツッコミをいれても意味がないので九十九は静かに聞き流す。
めそめそする辰郎と、ますます機嫌が悪くなるカンナたちとの会話を打ち切ると、九十九は夜の討伐タイムに入るべく、事務所の外に出ることにした。
背後からしびれをきらしたカンナの声が聞こえてくる。
「辰郎うっさい!」
小さな物音の後、うわああんという、女々しい鳴き声が事務所内に響き渡った。
◆
空に赤らみはじめた夕方。まだ、部活動に勤しむ生徒が残っている時間帯。
九十九は再び紅坂高校の敷地内にいた。
人気のない下駄箱で外履きからシューズに履き替えると、九十九は周囲に人がいないことを確認しながら階段を上っていく。肩には大きめのボストンバックを持っていた。
一年生の教室が並ぶ四階までやってくると、九十九は念のために、もう一度周囲を確認する。
それから、近くにある男子トイレの中に入っていった。
個室に入ると、ボストンバックの中から仕事着にしている白装束を取り出して着替える。
白装束姿になった九十九は、バックの中から、腕ほどの長さもない太刀を取り出すと刀身を確認する。九十九が愛用している妖怪を狩る得物だ。
太刀を佩くと、九十九はボストンバックを個室に残したまま外に出て、安全ピンで外から再び施錠した。この時間にこの階のトイレを使う人間がいるのかはわからないが、念には念を入れるに越したことはない。
九十九は、洗面のところまでやってくると、手を洗うわけではなく鏡をじっと見つめた。
鏡には、目を細めることなく、普段浮かべている愛想笑いを消した自分が映っている。毎日のように合わせる顔だが、笑顔の時よりも自分の顔だと認識できる当たり、やはり自分はそこまでやさしい人間ではないのだろう。そもそも人間かどうかも怪しいところだけれど。
自嘲気味に、九十九は笑った。
ポケットに入っている安物の時計を確認すると、もう夕方の六時を回っていた。
九十九は急ぐべく、鏡に掌を置く。タイミングを逃してしまうと、うまく「裏側」との道が繋げなくなってしまう。
まじないを、囁くような声で紡いでいく。
すると、それまでひんやりとした冷たさを持っていた鏡がほのかな光を放ちだした。
九十九の体を満たすように光が包んでいく。
九十九は、ゆっくりと目を閉じた。
――そして、再び目を開けると、そこは現実とは微かに違う、ヒトではない妖怪たちの巣くう「裏側の世界」だった。
◇◆◇
「なあ、新田新太って、知っているのか?」「ああ、中学の時に暴力事件起こしたやつだろ? 同じ中学だぜ」「そいつがさ、昨日また暴力事件起こしたんだって」「マジで? やばいじゃん」「サッカー部の一年を一方的にボコボコにしたんだってさ」「うわーえげつねぇ」「さすがにもう退学じゃねって話してたんだけど」「やばいやつは早く学校からいなくなってほしいなぁ」
「違う!」
廊下で楽しそうに談笑していた男子生徒は、突如横からかけられた叫び声に、びっくりした顔になった。
叫び声をあげた張本人は、咎めるように男子生徒をにらみつける。
「なんだよ」
「あんた誰?」
「違うんだから! あっちゃんは、何もないのに人を殴ったりなんかしないんだからッ!」
唾を浴びせるような、至近距離からの金切り声。
「あっちゃんって、誰だよ」
男子生徒たちは顔を合わせて同時に首をかしげる。
「勝手に悪者扱いしないでよ!」
なおも言い返すつららに、周りの視線に居心地の悪さを感じた片方の男子が、もうひとりの腕を引っ張る。
「……もう行こうぜ」
ふたりは顔を赤くしてにらみつけるつららを訝しみながらも、そそくさと離れて行った。
(まだ言い足りないのに!)
女子生徒――瀬田つららは叫びたい気持ちを押し込めると、去っていく背中を追いうちでもかけるかのようににらみつける。
根も葉もない噂を広めるのは許せない。幼馴染の新太を悪者にする人間は、ひとりひとり正していかなければ。――そんな気持ちが、湧き上がってくる。一方では、そんなの無意味だと。言わせたいやつには言わせておけばいいと。自分は彼を信じているのだから、それでもいいのだと。良心のようなものが宥めてくるが、一度頭に昇った血は、そう簡単におさまりはしない。
自分のクラスに向かうつららに、落ち着いた声音がかけられたのは、その時だった。
「瀬田さん。大事な話があるのだけど、今日の放課後、空いている?」
化野九十九が、やわらかな笑顔を浮かべてそこにいた。
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