二、犬神憑きの章⑤
足が、いつもよりも重く感じる。階段をのぼるたびに、重りでもつけられているかのようにもう片方の足がうまく上に持ち上がらない。
昨夜は、夜遅くまで考えごとをして、けっきょく寝たのは深夜三時だった。三時間ほどしか眠れず、足だけではなく頭まで重く、全身がだるい。
新太は、一年生の教室の並ぶ本校舎四階までやってくると、階段を上ってすぐにある自分のクラスには向かわず、その隣、一年二組に向かった。
通りすがりの女子が、新太と目が合うと、怯えた顔をして遠ざかっていく。そんなことが気にならないぐらい、新太の頭の中には昨夜から渦巻いている疑問が拭いきれずに残っていた。
昨日、部長から訊いた時からずっと考えていること。煮えたぎるように熱くなる脳を抑えて、冷静に、ずっと考えていた。
けれど、考えているだけでは埒が明かない。
訊かないと、何もわからない。
二組の教室までやってくると、新太は躊躇うことなく教室の中に入った。入り口付近の生徒が新太の顔を見た瞬間、ぽっかりと口を開けた。そんな彼から視線を逸らし、新太は教室の中に首を巡らせる。
いた。
目的の人物は新太の来訪に気づくことなく、窓側の席で多くの友人と談笑している。その男子の集団の中には幾人か見知った顔ぶれもあった。中学の同級生だ。
新太は重い足を速めて、その集団に向かっていく。
その中心で、愛嬌を振りまきながら笑顔で会話をコントロールしている男子に、新太は声をかけた。
「静人」
「んあ? ……あ、新太」
バツの悪そうな顔で、困ったように佐貝静人は指で頬を掻いた。
(それは、どういう感情の顔だ? 自分のやったことがばれたことに対するものか? それともただ単に、俺を犯人だと思っての行動か?)
どちらにしても、静人から向けられるその視線は、たやすく心に刺さってくる。
「どうしたんだ?」
躊躇いの表情を一瞬で消して、笑顔で静人が訊いてくる。
新太は、重い口を開いた。
「話がある」
「ん? 話? 何?」
新太は集まっている男子の好奇心のこもった眼差しを見返しながら、再び静人に言う。
「廊下で話す。ついてこい」
「は? 廊下って、ここじゃダメなのかよ」
「ああ」
新太はわざとらしく顎をくいっとあげると、振り返り廊下に向かった。
後ろから、「すまん、ちょっと新太と話してくる」という静人の言葉が聞こえてきた。
廊下に出ると、新太は教室に背を向けて静人を待つ。
十秒も経たずに教室から出てきた静人は、新太の前に立つと笑顔を向けてきた。
「で、なんのようだよー」
どこかお調子者のように、砕けた言動。
新太はそんな静人に対して、厳しい眼差しを向けた。はたから見るともしかしたら獣のように見えるかもしれない瞳を。
「訊きたいことがある」
「だからなんだよー」
一度深呼吸してから、口にする。
「サッカー部の部室を荒らしたのはおまえか? 静人」
すると、静人はあっけにとられるように、口を大きく開けた。
「へ? 部室を荒らしたのは新太だろ? どうして俺がやったことになんだよ」
「……部長から聞いたんだよ。インターハイの予選が終わった後、俺がスタメンだったら負けなかったって、そう俺が言っていたと部長に伝えたのはおまえだろ」
「え」
「その上、一昨日も一緒に帰っている途中に俺が忘れ物をして学校に戻ったって」
「そ、そんなこと、言ってないけど」
それまでの余裕の表情を消して、焦った様子で目を泳がせる静人。
新太は声を荒げないように気を付けながら、低い声で続ける。
「おかしなことを言うよな。帰る途中に忘れ物をしたといって学校に戻っていったのはおまえだろ。そうだよなぁ、静人!」
一昨日。部活終わりに帰宅している途中、静人は忘れ物をしたといって学校に戻っていった。それを思い出したのは昨日の夜で、部長の言葉を聞いたのがきっかけだった。
自分はなんて愚かだったのだろうと、新太は思った。
日常の中で、特に変わったことのない、なんということのない出来事。だから記憶からポロリ抜け落ちていたのだろう。部室が荒らされて、新太が疑われて、静人に厳しい言葉をかけられたのにも関わらず、新太は簡単に静人が真犯人だと考えてはいなかった。
けれど、昨日部長から訊いた言葉と、それからいままでの出来事を思い返すと、静人に対して不信感が現れた。信じたくはない。親友だと思っていた相手が、簡単に人を貶めるような人間だったなんて。信じたくはないけれど、そう思わずにはいられない。
佐貝静人は、簡単に新太を裏切っていた。簡単に、嘘をついていた。そして、中学時代もそうだ。一年生の頃、あの男子生徒の存在を無視しはじめたのも、静人たちのグループだった。新太はそのグループのみんなと仲が良かったというわけではなく、クラスで仲がいいのが静人しかいなかったため、彼と行動すると必然的にそのグループと一緒にいることが多かった。だからきっとあの男子生徒は、新太たちに刃を向けたのだろう。
静人は、新太の言葉に目を剥いている。
それから新太をにらみつけてきた。
「そうだよ」
吐き捨てるように言う。
「俺が部室を荒らした」
ニヤリと口角を上げる。静人は、いままで友人たちには見せたことのない
「なんで、部室を荒らしたんだよ」
「おまえに罪を擦り付けるために決まってんだろ?」
「どうしてッ」
「おまえが目障りだったからだよ!」
食いかかるような静人の言葉。
新太は思わず絶句した。一瞬で頭が真っ白になり、何も言えなくなる。
どうして、どうして、だ。
「ずっと、おまえのことが嫌いだったんだよ! 俺より運動ができて、サッカーもうまくてっ。才能のない俺より才能があって、俺なんて努力してももうこれ以上うまくなれないのに、おまえは努力なんてしないで才能だけでのし上がっていけるだろッ!?」
才能? 努力?
「小学生のころからおまえはそうだった。やったことのない競技も、少し練習したらうまくなって、俺なんて最初っからつっかえてうまくできないのに、おまえは吸収力も高くって、そのくせ、自分の才能を自覚してないから、いつもいつものんきに俺に話しかけてきて……ッ。どんなに惨めだったと思ってんだよ。どうせおまえなんて暴力的で、人間として最低なんだから、これ以上俺の前に立つなよ……! サッカーなんか、やめちまえ!」
サッカーをやめる? 俺が? サッカーしか、できることなんてないというのに?
身勝手な静人の言葉に、いったん収まったように思えた怒りが、脳を焦がすように急激に頭を駆け昇っていく。
煮えたぎるように、熱く、熱く、脳を焦がす。
次の瞬間には、新太の体は何かに乗っ取られたかのように、脳を焦がす怒りのなされるがまま、目の前にいる静人の胸倉を掴んでいた。
◇
廊下は騒然としていた。男子生徒を壁に押し付けている新太から距離をとり、生徒たちが固唾をのんで成り行きを見守っている。
新太は拳を固めた腕を振り上げて、いま殴り掛かりそうなほど、荒い呼吸をしている。
胸倉を掴まれて壁に押し付けられている男子が、うめくように何事かつぶやいたように見えた。声は聞こえなかったが、口が早口に動いていたのを、斜め後ろにいたつららは見た。
拳はまだプルプル震えている。
新太の表情はわからない。彼がどうして拳を振り上げているのか。男子生徒を壁に押し付けているのか。
わからないけれど、ひとつだけわかったことがある。
いまの新太は正気じゃない。あのころのように、いつものやさしさの欠片もなく、ただ衝動からくる暴力になされるがままになっている。
「あっちゃん!」
呼びかけるが、新太は振り向こうとしなかった。
聞こえていないのかもしれない。ならば近くまで行って、彼を止めるまでだ。
そう思い駆け寄ろうとしたつららだったが、後ろにいた人物に右肩を掴まれて、行くのを阻まれてしまう。
「瀬田さん」
「九十九くん? ごめん、あっちゃんを止めないといけないから!」
九十九の手を、空いている左手で払おうとすると、今度はその手を掴まれた。
「瀬田さん、ちょっと待って」
「待てないよ! 早くあっちゃんを止めないと!」
「それならなおのこと。瀬田さんは出ていかないほうがいい」
「なんで!」
そう見上げると、九十九は薄い笑みを浮かべながらも、目を細めることなく、じっと新太に視線を向けていた。
その瞳に、つららはぞっとなる。
(また、この眼……)
前に、つららの従兄と偽っていたトウジの正体を口にした時も、九十九は同じような眼差しをしていた。身も凍るほど冷徹な、冷ややかな眼差し。
どうして、そんな瞳を新太に向けるのだろうか。
怖れて勢いを失ったつららに対して、九十九はいつも浮かべている笑みを向ける。細く、細められた眼差しを。
ヒヤリとする、冷たい声とともに。
「オレが、どうにかするから、ね?」
「……でも」
「それに、女の子の力より、男の力のほうが、彼の暴走は止められるだろうし」
「……じゃ、じゃあ、あっちゃんを傷つけないでね」
怖れながらも、声を絞り出す。
そんなつららに対して、九十九は「うん」と頷くと、ゆっくりとつららの手を離した。
「善処するよ」
九十九はそういって、新太に向かって歩みを進める。
朝の廊下を満たす騒動の中心では、また男子生徒が新太に対して、新太にだけ聞こえる声で何かを言っていた。その目は怖れながらも、どこか嘲笑うかのように笑みが吊り上がっている。
そして、新太の腕が勢いよく振り下ろされようとした寸前。
九十九がその手を取り、ひねるように下におろした。
「ぐっ」
新太がうめく。
「瀬田さんから頼まれているんだ。これ以上きみを傷つけたくはない。まだ理性がある内に、戻ってくるんだ」
九十九の言葉は、新太の耳元で囁かれていた。
その言葉に、新太が身じろぎをするように、自分の腕をひねっている人物に目を向ける。
その瞳を見て、九十九は確信した。
(これは、想像以上に強い繋がりがあるね)
獣のような唸り声を上げる新太に対して、九十九はさらに言葉を続ける。
「早く戻ってこないと、きみは瀬田さんを……つららさんと、いったほうが伝わりやすいかな。幼馴染の彼女を、傷つけてしまうことになるよ」
すると、歯をむき出しにしていまにも喰いかかりそうな表情が、すとんっ、と何かつきものが落ちたかのように落ち着きを取り戻し始める。瞳に宿っていた獣の光も、少しずつ弱まっていく。
だらり、と男子生徒の胸倉を掴んでいた腕から、力が抜けた。
「つ、つらら、ちゃん」
はっと、新太が顔を上げると、自分の呟いた言葉に恥じるように目を逸らした。
「化野、すまない。もう、おさまった。腕を離してくれ」
「了解」
ひねられた腕をさすり新太は、解放されて壁にもたれて激しく呼吸をしている男子に、目を向ける。
「静人」
「……新太ぁ。おまえなんて退学になっちまえばいいんだ。くそっ」
悪態をつく男子生徒。
新太はまだ何か言いたげだったが、同じタイミングでほかの生徒が呼んできた教員が駆けつけてきたため、それ以上なにも口にすることはなかった。
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