二、犬神憑きの章⑧結


 キョロキョロと周囲を見渡す。

 つららは違和感を覚えて、おそるおそる顔を上げた。

「九十九くん。ここって」

「裏側の世界だよ」

 さらりと九十九は答えた。その顔は狐面で覆われており、表情は窺えない。

「裏側の世界……?」

 口の中で言葉を転がす。いまいち飲み込めずに、つららはうんうん唸りながら再び辺りを観察した。

 すると、「あ」と違和感の正体に気づいた。

 一見すると、そこはなんの変哲もない、見慣れた瀬田家の洗面所に見える。けれど明確な違いがあった。

 暗いのだ。光に包まれる前までは、電気がついて明るかったはずの室内。そのはずなのに、いつの間にか洗面所の電気が消えていて、薄暗い闇に包まれている。

 試しに、電気のスイッチを付けたり消したりしてみるが、明りは点らなかった。

 そんなつららを見て、九十九が平坦な声を上げる。

「行こうか」

 九十九に連れられるがまま、つららは廊下を通って玄関に向かう。慣れ親しんでいるはずの家の中。それなのに、薄暗い闇に包まれている室内は、いやに広く、虚しく感じる。

 まるでトウジが消えたあの夜みたいに。ポツンと取り残されたような孤独が渦巻いているように感じる。

 つららは、思わず前にいる九十九の服を摘まんだ。

「なに?」

 首だけで振り返る九十九の狐面を見返して、つららは眉を歪めてぎこちなく笑うと、首を横に振った。

「なんでもないよー。躓きそうになって、それで」

「そう。……ごめんね、瀬田さん。ただの人間の君を、長い間ここに留まらせておくわけにはいかないから、早く行こう」

「う、うんっ」

 ピリピリとした空気を醸し出している九十九に急かされるように、つららは彼に続いて家を出た。



 外に出ると、やはりそこは明らかに違う世界なのだと、つららは思った。

 まだ夕方の四時だというのに、空には光と呼べるほどの赤みがなく、薄暗い闇が、一軒家が立ち並ぶ住宅街を覆っていた。等間隔で並んでいる街灯も点いておらず、ひんやりと、背中を寒気が駆け抜けていく。

 震えそうになる体を抱えながら、つららはさっさと歩く九十九の背中を追いかけた。

 つららたちがやってきたのは、新田の表札のかかっている家――新太の家の前だった。

 迷うことなく玄関の扉を開いて入っていく九十九の背中に、つららは思わず声を上げる。

「本当、だよね……。本当に」」

「ああ。――さっきも言った通りだよ。君には、犬神を躾け……宥めるのを手伝ってほしいんだ。本当は、本人にもっと繋がりのある家族だとよかったのだけど、妖怪の存在を知らない大人を説得するのは苦労するからね。手っ取り早く済ませるには、妖怪の存在を知っていて、なおかつ本人とも繋がりのある、君が適任だと判断したんだ」

 淡々と、九十九が答える。普段の笑顔を狐面に塗り替えた九十九の声は、いままで以上に冷ややかで、冷淡という言葉が相応しいほどに、感情がこもっていない。

 二階にある新太の部屋の前にやってくると、やっと九十九が足を止めた。

「瀬田さん」

 身長の低いつららを見下ろしながら、九十九が言う。

「準備は良い?」

「う、うんっ」

 両手を握りしめ、つららは精いっぱい答えた。

「じゃあ、開けるね」

 そう言って、九十九が部屋の扉を開ける。

 あ。――と、そこでつららはやっと気づいた。

 九十九の顔を隠している狐面。お祭りの屋台とかで売っていそうなその仮面の、妖しげに細められている赤色の瞳。

 初めてその仮面を見た時に感じた既視感の正体に、つららはようやく辿り着いた。

(普段の九十九くんの笑顔に、似ているんだ)



    ◆



 黒くよどんだ塊を見た瞬間、隣にいるつららが緊張したのが伝わってきた。息を飲むように、声を押し殺して、じっとそのぱっちりとした瞳を【犬神】に向けている。

 その瞳に映っている感情は、恐怖、だろうか。

 いままで彼女が一緒にいた妖怪は、ヒトに似たモノだった。だから、彼女がヒトと違う妖怪を見るのは今回が初めてになる。しかも犬神は、妖怪を見慣れた九十九からしても、歪な部類だった。

 犬神のような低レベルの妖怪は、繋がりのあるヒトの数ほどいるものの、その数は特別多いわけではない。凶暴性も低く、「表側の世界」の繋がりのある人間に乗り移って、悪さをするぐらいしか取り柄のない妖怪である。だから、討伐対象にはなることは少なく、あったとしても、一撃を加えればすぐに終わる。

 現に、いま向かい合っている【犬神】もそうだった。部屋に入ってきた存在に気が付くことなく、グニャグニャと自身の黒い淀みのような体でいろんな姿を模って遊んでいるだけ。そこに意思はないのか、はたまた自分が討伐されることなんてないと侮っているのか、犬神が襲ってくることはなかった。隙だらけで、いつでも消すことができる。

 だが、討伐したくてもできないのが現状だ。繋がりが薄ければ、容赦なく狩ることができるものの、繋がりが強すぎる犬神を狩ってしまうと、繋がりを持っているヒトにも影響を及ぼしてしまうことがある。上手くいけば問題はないのだが、もし上手くいかなければ、繋がっているヒトの感情までも削ってしまうことになる。

 今回で言えば、繋がっている新田新太の感情のひとつ、「怒」の感情。この犬神を討伐した際、もしかしたら新田新太は「怒」の感情の大半を失ってしまうかもしれない。

 怒らない人間になる、というのであれば、それならと容赦なく切れるのだが、そうはならないのが現状だ。人間の感情を構築している、「喜怒哀楽」の内のひとつでも失ってしまうと、感情の均衡が崩れて、うまく機能しなくなってしまう。

 喜んだり、怒ったり、哀しんだり、楽しんだりすることの中で、いちばん嫌われ易いのが、怒ることだろう。怒りをまき散らす人間は、一見すると恐ろしく感じてしまう。怒ってはだめだと、そういう人間もいる。

 けれど、「怒」もまた感情の一部だ。

 それを失ってしまうと、人間の感情の均衡は、上手く機能しなくなり、崩れてしまう。

 下手すると、すべての感情を失ってしまうかもしれない。

 九十九は、ふぅ、とため息をついた。

(それに、怒りの感情は、人を強くしたりもするからね)

 例えば、あの日、自分を焦がした怒りもそうだった。

 昔の記憶を思い出そうとすると、いつもそれはやってくる。

 思考の波に沈みそうになった九十九は、ハッと現実に戻ると、目先のことに集中するために、現状の把握をつとめることにした。

「瀬田さん」

 呼びかけると、思ったよりも前から声が返ってきた。

「どうしたの、九十九くん」

 驚いたことに、つららがおそるおそるといった足取りで、犬神に近づいていた。

「なんというか、瀬田さんって、もしかしなくても結構度胸あったりする?」

 素直に思ったことを口にすると、「え」とつららが振り返った。

 その顔を見て、九十九は早とちりしすぎた自分を恥じる。

 つららの表情は強張っていた。いつもの天真爛漫な笑顔はそこにはなく、困ったような、怖いのに無理やり笑っているような、微妙な顔になっている。

 慣れない「裏側の世界」だ。しかも暗闇の中にいる、得体の知れない淀みを前に、一歩踏み出せただけでも上々だろう。

 九十九はそっと近づくと、つららの背中に掌で触れた。

 びくっと、驚いたようにつららが、至近距離で見上げてくる。

「九十九くん……?」

「オレがいるから、安心して。君は前もって言った通りに、【犬神】を宥めてくれればいいから」

「う、うんっ」

 【犬神】は基本人を襲うことはない。ほかの妖怪にも見向きすらされない、妖怪というよりもただの黒い淀みのようなもの。意思疎通できる言語もなく、ほぼ無害といっても過言ではない妖怪。

 九十九が近くにいることで緊張が和らいだのか、つららの顔に笑顔が戻る。緊張感が緩和されたため、その笑顔はいつものように無邪気だった。九十九に触れられることを拒むことなく、その表情はどこかうれしそうにも見える。

 歩き出したつららを支えるように、九十九も一緒に歩く。

 十歩もしない内に、ふたりは【犬神】の前に辿り着いた。

 黒い淀みは、いまも姿かたちをグニャグニャとさせて、こちらに無関心だ。

 つららが、そっと腕を伸ばす。

 躊躇いながらも、つららの掌が【犬神】に触れた。

 同時に、黒い淀みがグニッとなり、横に大きく膨らんだ。

「っ!?」

 つららの肩が上がる。

 【犬神】の行動に注意をしながらも、九十九はそっとつららの腕に触れた。【犬神】に触れている腕に。

「大丈夫。【犬神】が襲ってきたらオレがとどめを刺すから」

 いざとなれば、【犬神】討伐も容赦なく行うつもりだ。新太には悪いが、命に代えられるものはないのだから。

「それじゃあ、あっちゃんが、大変ことになっちゃうんでしょ」

 ぎこちない笑みを浮かべるつらら。

「あっちゃんを助けるために来たんだから、私、頑張るよ」

 その笑みを見返して、九十九は力強く頷いた。

 触られてもなお、いつまでも自身の体をグニャグニャしている【犬神】。

 その【犬神】を、つららは胸に押し当てるようにして、包み込んだ。

 すると、抱き上げられた【犬神】の躰にも変化が起きた。

 それまで意味もなくグニャグニャしていた躰が、ピタ、と動きを止めたのだ。

 そして次の瞬間、大きく膨張した。

 つららが小さな悲鳴を上げる。

 膨張した黒い淀みが、影のように覆い被さってこようとしたのを見て、九十九は空いている方の手で鞘から短刀を抜いた。

 だが、その前に――

「待って」

 つららの声が、静かに響いた。

 膨張した黒い淀みを必死に抱きかかえようとしながら、つららが叫ぶことなく、静かな、温かみのある声で、【犬神】に語り掛ける。

「あなたも、もっと遊びたいんだね。もっと外で遊びたいと思っていたのに、それなのにあっちゃんが我慢していたから、あなたも我慢しなければいけなくなったんだね。こんな暗闇にひとりは寂しいよね。私も、もしこんなところにひとりで取り残されたら、寂しいと思う。人のいっぱいいるところに、行きたいと思う。だけどね」

 目と口を尖らせるというとても器用な真似をしながら、つららが咎めるように【犬神】に言った。

「人を傷つけるのはダメなんだよ。痛い思いをするのは、あなたも嫌でしょ? だからそんなことよりも、もっと楽しいことをして遊ぼうよ。たまには私も遊びに来るから、だから、あまりあっちゃんに迷惑をかけないであげて」

「瀬田さん? 遊びにって」

「九十九くんはちょっと黙ってて! 私はいま、この子と話をしているんだから」

「……ごめん」

 九十九は咄嗟に謝った。

 目の前では、予想だにしていなかったことが起こっていた。

 繋がりの強すぎる【犬神】を鎮静するのには、近しいものの、その人を思う気持ちが必要だ。

 それは、触れて抱きかかえるだけで事足りる。

 それなのに、つららは【犬神】が暴れそうになっているのにも関わらず、その【犬神】を必死に抱きしめて、叱りながらもやさしく語り掛けている。

 もう、彼女を「裏側の世界」に連れてくることなんてないというのに、彼女はできもしない約束をしている。

 それに、九十九は少し、ほんの少し、驚いた。

 疼いた感情に、嫉妬に似たその得体の知れない感情に、九十九は狐面の下で表情を曇らせた。

(瀬田さん……君は……また、裏側の世界に来るつもりなの?)

 九十九の感情なんて露知らず、つららは淀みに向かって笑いかける。

「約束だよ。また遊びにくるくるから、それまで大人しくしていてね」

 膨張していた黒い淀みが、急激に萎んでいく。

 黒い淀みは元の小型犬ほどの大きさに戻ると、グニャグニャすることなく、たったひとつの躰を模った。

 犬の躰だ。

 黒い淀みは、それ以上形を変えることはなかった。懐いたのか、しっぽを振ってつららの胸に体を寄せている。

 その異様な光景に、九十九はしばらく言葉を失っていた。



     ◆



「お疲れ」

 労い言葉をかけると、つららはいつものようににへらとほほ笑んだ。

 すでに狐面をとっている九十九は、笑顔の仮面で彼女を見つめる。

 ふたりは、もうすでに「表側の世界」に戻ってきている。薄暗い闇だった世界は、光のある明るい世界に戻っている。洗面所の電気もついており、入り口からはおかっぱ頭の座敷童が心配そうに中を覗きこんでいた。いますぐつららに抱き着きたくて仕方ないのだろうけれど、九十九がいるから我慢しているといった顔で。

 九十九は鞄の中に短刀と仮面をしまうと、それを肩にかけた。

「じゃあ、オレは帰るね。瀬田さん、今日はありがとう。助かったよ」

「九十九くんは、これから、バイト?」

「うん。まだ、夜まで時間があるからね」

「頑張ってね。あと……また今度、時間があるときでいいんだけど、また裏側の世界に連れてって」

「それは……犬神との約束を守るため?」

「うんっ。もちろんだよ~」

「……そう。時間があったら、ね」

 ここでバッサリと断るのは簡単だったが、九十九はそうしなかった。そうしたくてもできなかったというほうが正しい。

 瀬田つららの性格は、一カ月ほどの付き合いだが、ある程度把握できている。

 きっと彼女は九十九がきつい言葉を浴びせたところで、簡単に諦めたりなんかしない。それでもしつこく九十九を説得しようとするだろう。

 それならば、受け入れたフリをして、のらりくらりと忙しいフリで躱していけばいいだろう。しばらく時間は稼げるはずだ。対策はこれからじっくり考えよう。

 なんにしても、もう彼女を「裏側の世界」に連れて行くことはできない。もともとあの世界は、ただのヒトである彼女には相応しくない場所なのだから。

「また、学校でね」

「ばいばいっ」

 改めて玄関で別れを告げると、九十九は外に出た。そのままの足取りで、【妖怪退治屋紅坂支部】に向かって行く。

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