二、犬神憑きの章③


 帰りのホームルームが終わればクラスはすぐにざわつきはじめる。掃除当番が早く掃除をしたいからと机を後ろに下げるように声を張り上げ、みんなそれぞれ荷物を持ちながら机を下げていく。掃除当番は、五、六人で、六つの班に別けられていて交代制だ。今日はどうやら九十九たち五班の番のようで、授業中とはうって変わって眠たげな様子を窺わせない九十九は、早く帰りたいのかさっさと箒で床を掃いている。

「九十九くん、バイバーイ」

「ああ。またね、瀬田さん」

「つらら」

 掃除姿も様になっている九十九と挨拶を交わすと、後ろから愛海に背中を押された。教室の入り口でのことだった。

 愛海は何か言いたげな顔をしていたものの、ため息を吐くとなんでもないといった様子で、「途中まで一緒に帰ろ」と笑顔を向けてきた。

 いいよー、と返しそうになり、つららは「あっ」と思い出す。

 出てきたばかりの教室に首だけ突っ込み、教室内の顔ぶれを見渡して、慌てて今度は廊下を前後左右見やり、目的の人物を探した。

「いた!」

 身長が高いのと、幼馴染の感で、その人物はすぐに見つかった。

 もうすでに人混みに紛れ込もうとしている男子生徒――新田新太の背中を必死に目で追いながら、つららは愛海に謝罪する。

「ごめんね、愛海ちゃん。私用事があるから、また今度ね」

「そう。それなら仕方ないね。バイトの面接?」

「違うけど……ごめんね、急ぐから。また明日ね!」

「うん、また明日……って、あんたいきなり走り出すと危な……ほら、言わんこっちゃない」

 愛海の制止は虚しく、いきなり走り出したつららは、そのままの勢いで地面に顔面からダイブをしそうになった。寸前でなんとか押し止まり、床に掌をつくだけにとどまったものの、ほんの少し反応が遅れていたら顔面をしたたかに打ちつけてしまっていただろう。

 つららは立ち上がると、今度こそ、新太の背中を見失わないように、彼の跡を追いかける。

「今度は何に首を突っ込んでんだか」

 背後から響いた愛海のため息交じりの呟きは、つららの耳には届かなかった。



    ◆



 新太は部室に向かっていた。目撃者に話を訊きに行く前に、部活に顔を出した方がいいだろうと思ったからだ。

 どこまで話が広がっているのかも気になるし、何よりどこまで部室が荒らされていたのかもわかっていない。

(無事だといいけど)

 ユニホームとスパイクは持ち帰っているため、新太には実害はほとんどないはずだ。だけど、あの部長の憤りは半端なものじゃなかった。なにかしら、度し難いことでもあったのかもしれない。

 新太の不安は、的中していた。部室の扉を開くと、突き刺さるような視線が自分に集中する。

「……新太」

 黙々と片付けの作業をしていたのだろう。新太がくるまで静かだった部室内に、部長の声はよく響いた。部室は、バットかなにかで殴られたのかロッカーには窪みが無数にあり、壁には赤色のスプレーで落書きもされていた。

 予想よりもひどい有様に、新太は驚愕する。

「何しにきた」

 瞬時に怒りで顔を真っ赤にすることはなかったものの、部長の相崎が厳しい眼差しになる。

 新太は出てきそうになった言葉をぐっと飲みこんだ。

 すでに部長には、自分は無関係だと訴えかけているはずなのに、明らかに疑いかかってくる眼差しに耐えられそうにない。けれど、事態をきちんと把握しなければ、どうして自分が疑われているのかもわからずじまいだ。

 部室にいたのは、相崎の他には、二年生や三年生が数人と、一年生がふたりだった。一年生の内、ひとりは新太のよく知る人物――中学時代からの付き合いとなる親友だった。佐貝静人さかいしずとは、新太を見つけると、「あっ」と声を上げて近づいてくる。

 腕を引っ張られ、新太は部室の外に連れ出された。

 部室の扉から離れると、静人はコソコソと声を潜めて、怯えたように内緒話をはじめる。

「ヤバいって、新太。いま部長、そうとう機嫌わりぃんだから」

「……知ってるけど、俺はやってない」

 念のために、新太は口にする。部員の誰が、どこまで知っているのかはわからないけれど、こうして新太に話しかけてきたということは、ほとんどの部員が知っている可能性が高い。

「いや、俺もそう思いたいけど……」

 静人は頬を掻きながら、視線を逸らした。

「もう部員のみんな、おまえが犯人だと思ってんだよ。特に部長は、お気に入りのスパイクをやられたから、絶対に新太を許さないって言ってきかないし。落ち着くまで、部活には顔を出さないほうがいい」

「落ちついてからじゃ遅いだろ。俺はやっていない。犯人でもないのに、疑われたままでいるのは嫌なんだよ!」

 声を張り上げると、ビクッと静人が肩を震わせた。

「そう大きな声を出すなよ。中に聞えるだろ」

「でも、俺はやっていない」

「それはわかったけど。でも……」

 静人の目が泳ぐ。

 そして、新太にとって致命的なことを、口にした。

「でもおまえ、昔から暴れる癖があっただろ? むしゃくしゃしたら、ところかまわず物に当たり散らして大暴れ。中一の時だって、おまえ、暴れてひとり病院送りにしたじゃん。だから、さ」

 新太は呆気にとられて、そんな静人の顔を見つめた。

「俺も、新太ならありえるんじゃないかなって思ってんだよ」

 たじろいた。

 新太は、一歩後ろに下がる。

 親友だと思っていた佐貝静人の口から、そんな言葉が飛び出すなんて、考えてもいなかった。

 ――ああ、でも。

 他の同級生よりも親しくしていたというだけで、それだけで親友だと思っていたけれど、そう思っていたのは新太の方だけだったのかもしれない。静人はその愛嬌のある姿勢から、先輩からも、中学の時は後輩からも慕われていて、交友関係は新太よりも広い。新太はその数多くいる友人のひとりに過ぎなかったのだ。

 新太は口を引き締めると、何も言うことなく部室の前を後にした。



「あっちゃん」

 校門に向かおうと、部室棟から離れて体育館の横を横切ろうとしたとき、部室棟に向かって歩いてくる人影がいた。

 いつのまにか地面に向いていた視線を上げると、つららの真っ直ぐな瞳と目が合う。

 新太はそのまま視線を逸らした。

「どうしたの?」

「おまえこそ、どうしたんだ?」

「なにって、真犯人探しをするんでしょ? そのお手伝いをするって、約束したじゃん」

 そういえばそうだった。押されるようにつららの言葉に頷いたのを、すっかり忘れていた。

 新太は、心配そうに見上げてくるつららを、いまいちど見据える。

「おまえは……」

 躊躇いながらも、言葉にする。

「どうして、俺を信じられるんだ?」

「どういう意味?」

 首を傾げるつららに、新太は畳みかけるように、口から言葉を絞り出した。

「本当は、真犯人なんてどこにもいなくって、俺が犯人かもしれない。俺が部室を荒らした可能性もあるのに、どうしておまえはそんなに、俺が犯人じゃないって信じられるんだよ」

 瀬田つららは、正直不気味だ。どうして、幼馴染というだけで自分のことを信じてくれるのか。新太が嘘をついているなんて微塵も考えることなく、つららは簡単に新太の主張を信じてくれた。

 あの、中学一年生の事件の時、新太は彼女を傷つけてしまったというのに。

 瀬田つららは、あれから変わることなく、新太に声を掛けてくる。こちらが露骨に避けても、めげずに話しかけてくる。

 それは、些か新太には信じがたい行為だった。

 考え事をしていたつららが顔を上げる。

 息をするのも忘れて、新太は彼女の言葉を待った。

「どういう意味?」

 彼女は質問の意図を一切把握することなく、再び首を傾げた。

 露骨に顔を顰める新太。

 つららは頭の周りにお花畑のようなはてなマークを浮かべているように見えた。

「だって、あっちゃんは犯人じゃないんでしょ? そう言ってたじゃん。それなのに、どうして自分が犯人かもしれないとか、よくわからなくなること言うの? 意味がわからないよ」

「だから、それはもしかしたらの話で」

「それに」

 新太の言葉を遮って、つららは大きな声を上げた。

「あっちゃんがそんなことするはずないって、私は知ってるんだから。だって、あっちゃんは、人を傷つけることなんてしないでしょ?」

「中一の時、おまえは」

「あの時は、私が自分から間に入ったんだもん。自業自得だって、私は思っているし。それにッ……それにね、あっちゃん」

 そこで、新太は改めてつららの顔を見た。

 彼女は目を三角にして、唇を尖らせるという、非常に珍しい顔をしていた。

「そんなこと言うと、怒るよ? あっちゃんはあっちゃんだし、部室を荒らしてないって自分で言っていたくせに、なんでいきなり自分が犯人かもしれないとか意味不明なこと言うの?」

「……なんでっ」

「私、幼馴染だし、あっちゃんがそんなことしないって、あっちゃんより知ってるんだから!」

 むぅっと、もう高校生だというのに、つららは幼い子供のようなふくれっ面になっている。

 その言動に、新太はしばらく呆然とした。

 数秒後、くっ、と新太は声に出す。

 はは、と、珍しく、笑い声を上げた。

(……なんなんだよ、こいつは)

 付き合いが長いのはお互い様だ。

 新太だってつららのことを他の誰より知っているつもりだから、つららが言い出したら聞かないことぐらい嫌というほど身に沁みてわかっているつもりだった。誰が何を言っても、つららはきっと新太を疑うことはない。逆に新太が嘘をついても、つららはそれを信じてしまうだろう。

 だからこそ、新太はつららの前では、少し素直になれていた。つららに嘘を吐くことなんてできなかった。

「すまん」

 それなのに、親友だと思っていた奴からも疑われて疑心暗鬼になっていた新太は、つららに酷いことを訊ねてしまった。

「すまなかった」

「すまないって思ってるなら、今度から変なこと訊かないでよね」

「……ああ、そうだな」

 新太はつららとの距離を詰める。

「これから目撃者に話を聞きに行こうと思うんだけど、ついてきてくれるか?」

「もっちろん!」

 明るく笑うつららとともに、新太は体育館に向かった。体育館からは笛のピッピッという音が断続的に聞こえてきている。この時間は、たしかバレー部が練習しているはずだ。

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