二、犬神憑きの章

二、犬神憑きの章①


 新田新太は幼いころから、頭の中が煮え滾るように熱くなると、まるで何かに乗っ取られたかのように、我を忘れて暴れ回ってしまうことがあった。

 別にそれまでになにか鬱憤が溜まっていたわけではない。幼少期や小学時代は割かし明るく、外で遊ぶのが好きで、特にボールを蹴るのが好きになり、次第にサッカーにのめり込むようになっていった。

 けれど、それでも何かがあると、頭の中が熱くなって周囲をはばかることなく暴れ回ってしまう。

 それが、他の子供よりも多いのだと、真夜中に目が覚めてトイレに行く途中に母が父に対して嘆いているのを耳にしたことがある。当時はまだ自分の体質をよくわかっていなかったけれど、それでも小学に上がり、頭が熱くなるたびに暴れ回っていたら、いやでもわかってしまう。

 まず周りの目が変わった。担任はクラスでもめ事がある度に第一に新太を責めてくるようになったし、クラスメイトは新太を恐れて関わろうとしてこなくなった。友人だったクラスメイトと口を利かなくなり、女子なんて新太と目を合わせると悲鳴を上げて逃げていく。

 そんな新太が、唯一なにも考えずに、打ち込み続けていられたのがサッカーだった。ボールを追いかけているときだけ、自分を取り戻したように仲間と一丸になることができた。チームの先輩や後輩も、新太を仲間と認めてくれたし、サッカーに関連することでは、新太は頭が熱く煮え滾る思いもしなければ、我を忘れて暴れ回ることもなかった。

 ――そうだったというのに。

 全国大会の予選を一回戦敗退で終えて、ジメジメとした気温と共に早くも夏の訪れを感じ始めている六月中旬。七月上旬にある他校との練習試合を前に、新田新太は窮地に陥っていた。

 まだ頭の中が煮え滾るような思いはしていないが、それでも徐々に怒りが溜まり始めているのが自分でも感じとることができる。それはいまにでも決壊して暴れだしそうなほど、心は穏やかではなかった。むしろ荒れ狂い、怒りに任せて物に八つ当たりをしたくなる。

 それらを、ぐっと新太は堪える。

 駄目だ。暴れては。またあの時みたいに、人を傷つけてしまう。

 傷つけるつもりなんてなくても、頭が熱くなれば、何をするかわかったもんじゃない。

 怒りは我慢しなければ。中一の頃から癇癪は起こすことはなくなり、母ももとの明るさを取り戻している。だからいまの状態を続けていくのは平気なはずだった。

 ――それでも唯一、自分が自分でいられるサッカー部に、自分の居場所がなくなってしまうのかもしれないだなんて、そんなのは我慢ならなかった。



    ◇◆◇



 朝。チャイムが鳴ってすぐ教室に入ってきた担任が、新田新太の名前を呼んだ。呼ばれた本人は普段と変わらずぶすっとした不機嫌そうな顔で立ち上がると、先生にいわれるがまま教室を出てどこかに行ってしまった。

 そのあと特に何事もなくホームルームは終わったのだけれど、その最中に新太が帰ってくることはなかった。

 新太が教室に戻ってきたのは、一時間目を終えた、休み時間。

 音をたてて扉を開いた新太は何事もなく自分の席に腰をおろしていたのだが、瀬田つららはそんな彼の横顔に不穏なものを感じとっていた。

 いつも不愛想でなにを考えているのかわからない新太は、いまのクラスメイトからは「よくわからないやつ」と思われていて、中学の同級生からは「危ないやつ」というレッテルを貼られている。それでも幼馴染であるつららからすると、新太は自分の悩みを打ち明けられるほど気心の知れた相手だった。といってもそれは中学一年生の頃までだったのだけれど、あの夏の事件以降、新太から距離を置かれてしまったため、あまり関わることができず、言葉を交わすことも少なくなっていた。それでもつららが彼を頼ると、新太はめんどくさそうな顔になりながらも、真摯に対応してくれる。

 そんな幼馴染であるつららの観察力を持ってすれば、現在新太がとても戸惑った顔をしていることぐらい、気がつくことができた。

(あっちゃん、どうしたんだろ)

 立ち上がって話しかけるべきか。そう迷ったつららだったが、その前に休み時間終了のチャイムが鳴ってしまった。

 二時間目の授業中、つららは勉強そっちのけで真ん中の一番後ろの席に座っている新太を観察していた。つららの席は廊下側の真ん中辺りなのに普通に後ろを見ていたため先生に何度も当てられてしまったが、それでもつららは飽きることなく新太を観察し続けていた。

(あっちゃん。いつもより怖い顔しているよ)



    ◆



 ホームルーム開始して間もなく新太は職員室の隣にある進路相談室に行くように言われたので、誰もいない廊下を極力足音たてずに歩きながら、どうして自分が進路相談室に呼ばれたのか考えていた。

 進路相談室というと、どうしても進路の話がいちばん最初に思い浮かぶ。だが、新太はまだ一年生だ。そんな時期でもないのに、朝から早々呼ばれるようなこともないだろう。

 新太は目当ての扉の前に立つと、深呼吸をしてから扉をノックする。「失礼します」と声を出して顔を上げると、そこに揃っているメンツを見て、新太はさらに戸惑った。

 進路相談室の中には、三人の人物がいた。先生がふたりと、生徒がひとりだ。その内のふたりはよく知っている。まだ若い男のサッカー部顧問の国語教師と、サッカー部部長の相崎俊馬あいざきしゅんま

 サッカー部顧問は困ったような顔で新太を見ているが、部長の視線は違った。視線を合わせるのをためらうほど、険悪な眼差しをしている。

 生活指導の先生に誘導されて、机を挟んだ相崎の前の椅子に腰をおろす。

 席に座って顔を上げると、やはり部長の視線は鋭く新太に向けられたままで、心の中がざわついた。

 こういう視線を新太はよく知っている。

 小学校の担任から、よく向けられていた。

 新太が何もしていないのにも関わらず、疑うように向けられる疑念に満ちた厳しい視線。

 その視線を受け止めるのを、新太はいつも躊躇ってしまう。

 自分が何もしていないことは自分が一番知っているはずなのに、新太は疑念を晴らすよりも先に、そう言った視線から逃げ出したくなってしまう。

 ピリッとする視線に、新太は長身をほんのすこし縮こまらせた。

(なんで、俺は呼ばれたんだ?)

 心当たりはないが、おそらく自分は何かを疑われている。

「どうして呼ばれたのかわかるか?」

 生活指導の先生に言われて、新太は首を振る。

「わかりません」

 生活指導の先生は、五十代ほどの男性で、その眼差しからも表情からもなんの感情も窺うことはできなかった。若者からすると感情の窺えない眼差しからは空恐ろしいものを感じ取ってしまうのだが、それでも感情を爆発させて怒鳴ったりすることのない静かな先生なので、その分生徒から疎まれたりはしていなかった。

 そうかと頷くと、生活指導の先生は部長を一瞥してから、新太を真っ直ぐに見た。

「今朝のことだ。相崎が部室を訪れると、部室が何者かに荒らされていた」

「部室が?」

 今朝は朝練がなかったため、新太は知らなかった。

 どうやら相崎は、昨日の練習のあと授業に大切なものを忘れて、今朝になって取りに向かったそうだ。部室の鍵は職員室に保管されている。鍵は職員室の入り口付近に掛けられており、通常なら教師に一言断りをいれて鍵を借りるのだが、教師の目を盗んで鍵をとるのは意外なほど簡単にできるだろう。

 きっと昨日部活が終わったあと、何者かが鍵を盗んで部室を荒らして、そのまま何食わぬ顔で部室の鍵を戻したのだろう。

 そのことに対して新太が言えるのは、自分ではない、ということだけだ。

 新太はそんなことをした覚えはない。昨日は、部活が終わってから真っ直ぐ家に帰った。校門を出るまではサッカー仲間で中学からの親友の佐貝静人さかいしずとと一緒だったし、そのあとに学校に戻った覚えもない。

 自分には関係ないことだが、それでも昔から疑われてばかりいる新太は、今回呼ばれた理由をいやでも悟ってしまう。

 それは生活指導の次の言葉により確信に変わる。

「目撃者がいる。職員と女子バレー部の部員だ。部室を荒らした犯人と思われる人物は、学校指定のジャージを制服の上から着ていて、黒いキャップを深く被っていたそうだ。身長は高く、髪も短かったから男子だと思われる。顔はきちんと確認されていないから、誰かはわからないそうだが」

 少なくとも俺ではないと反論したい思いを、ぐっと新太は堪える。反論をするのは、きちんと相手の言葉を聞いてからの方がいい。

「どうやら新田、おまえが犯人じゃないかと、そう言っていたサッカー部の部員がいたそうだ」

 そこで、いきなり部長が割り込んできた。

「一年から聞いたんだが、おまえはスタメンになれなかったことに不満を感じていたらしいじゃないか。しかも、全国大会の予選を敗退したあと、自分が出ていれば負けなかったとか。確かにお前の実力は俺も知るところだが……まだまだ未熟みたいだな。サッカー部の部員は多い。その中で、一年生がスタメンになれるわけがないだろ」

 スタメン。確かに新太はスタメンになりたいと思っているけれど、大事な試合で一年生がスタメンになれるとそんな浅はかなことを考えてはいない。それに新太は、いま部長が語ったようなことは一言も口にしていない。

「正直おまえにはがっかりだ。新太の実力なら、来年あたりからスタメンを任せられるかもしれないと二年生とも話していたんだが、それはもうだめだろうな。サッカーという団体競技に協調性のない人間は必要ない。個々の実力が卓越していても、他者と合わせられない人間はサッカー部には不要だッ」

 次第に荒くなっていく部長の言葉。

 ずっしりと、心が重くなっていくのに新太は自分で気づいた。

 頭に、何か熱いものが昇っていく感覚がする。

 それを、ぐっと堪えると、新太は低い声で吐き捨てた。

「俺はやっていないし、そんなことも言ってもいません」

「口ではなんとでも言えるだろ」

 部長は明らかに自分を疑っている。いままで厳しくも仲間として接されていた分、新太はかなりショックだった。

「俺はぜったいにやっていない。なんなら、俺が犯人を捜してやりますよ」

 だから新太は勢いで、そう口にしていた。

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