一、座敷童の章⑥

    ◆



 昔の話だ。

 瀬田つららがまだ乳飲み子だった頃。彼女が憶えているはずのない記憶。

 赤ちゃんのつららは、毎晩のように自分の存在を主張するかのような大声を上げて泣いていた。それを宥めるために、つららの母は毎晩彼女のために子守唄を唄っていた。

 落ち着いた声色に、ゆっくりとしたテンポ。やさしく赤子を包み込むように紡がれる歌は、母の愛情が滲んでいるようで、隠れて聴いていたトウジの心にも響いた。トウジにはもう戻ることのできない大昔。トウジの母親の歌声にも似ているように感じた。

 毎晩聞くうちに、知らずの内にトウジはその歌を覚えた。彼の発音ではつたなく響くその歌を、トウジは誰もいない室内で静かに紡いでいく。

 つららの泣き顔を見るのは、中一の夏以来だろうか。確か、つららの幼馴染の新田新太がとある事件を起こしたあと、「あっちゃんは悪くないのに」と自分は関係ないのにもかかわらず、幼馴染の彼のためにつららは泣いていた。

 その前は、忘れもしない、つららの両親が亡くなった日。葬儀のあと、隠れるように壁にもたれかかりながら体育座りをした足に顔を埋めて、静かに泣いていた。

 つららが泣くといつもそうだ。トウジは、心がキュッと摘ままれるように、自分のなかの何かが足りなくなるような悲しみに支配される。

 ――そしていまも。トウジは、彼女の泣きはらした顔を見てしまい、どうしようもなく心が痛むのを感じていた。心の中を静かにひたしていくそれを、トウジはじっと我慢する。

 我慢するのはいまだけでいい。つららがトウジのことを忘れるその時まで。

 我慢し続ければいい。



    ◇



 四人がまとまって動いていては埒が明かないと、ふた手に分かれて探すことになった。

 グーとパーをした結果、グーを出した愛海と新太、パーを出したつららと九十九のふたりに分かれて動くことになった。紅坂町の東側を担当することになったつららたちは、現在紅坂学園のすぐ傍にいる。

 運動場では、土曜日休みにも関わらず部活動の生徒が声を上げて練習している。

「あれ?」

 つららはその練習風景をなんとなしに見て、疑問の声を上げる。

「どうしたの?」

「サッカー部が練習しているね」

「うん、そうだね」

「でも……昨日、あっちゃん部活の練習はないって」

「ああ。休んだんだね」

「なんで」

 つららは運動場に面した学校を覆うフェンスに掌を当てながら口にして、すぐに気づいた。

 幼少期から中学一年生の夏まで一緒に遊んでいた幼馴染のことを、つららはただの同級生よりもよく知っているつもりだ。

 きっと新太は、トウジがいなくなったつららを不憫に思って、探すのを手伝ってくれているのだと。そういえば昨日、土曜日の予定を話す時に少し口ごもっていた気がする。

「もう、あっちゃんたら」

 目に見えないものにやさしさがあるのだとすれば、新太のちょっとした「嘘」もやさしさと呼べるのだろう。

 うへへ、とつららが笑っていると、傍にいる九十九が不思議なものを見たような顔で細い瞳を軽く見開いた。



    ◆



 昨日の昼過ぎのことだ。

 トウジは自室で、布団に寝転がって体力を温存していた。

 その時に、突如としてインターホンが家の中に響いた。

 トウジは布団を蹴飛ばすようにして跳ね起きて、足音を潜めながら、そっとモニターを確認した。

 そこにいたのは、制服姿の背の高い少年だった。つららの言っていた彼だろうか。彼女の言う通り、整った端正な顔立ちに人当たりのいい柔和な笑みを浮かべた彼は、イケメンと口にしても相違ない外見をしている。

 けれど、その細い目をさらに細めた、感情を窺わせない瞳から、同時に恐ろしいものをトウジは感じとっていた。

 それはもしかしたら恐怖と呼ばれるものなのかもしれない。ホラー等の怪異と遭遇したときとは別の、自分の存在を否定するために訪れた奴から感じる、受け入れがたい別種の恐怖。

 化野九十九といっていたか。彼は、応答しないこちらに対して、扉越しに話しかけてくる。

「ねぇ、ここを開けてくれないかな。話をしたいんだ」

 話せるわけがない。いまのトウジは、人前に見せることのできない姿をしている。

「わかった。なら、このままでもいいから、オレの話を聞いてくれないかい?」

 ――迷いつつも、トウジはその場から離れることはなかった。



    ◇



 もう、この町の東側はほとんど探し尽くしたといっても過言ではないだろう。道行く人に声を掛けて、トウジの姿を見たものがいないか声をかけまくったが、おかっぱ頭の少年を見た者はひとりもいなかった。目立つ頭なので、見掛けたら少しは心に残っているはずだ。

 それでも見掛けた人はいない。

『ごめん、つらら。こっちも目撃者いないみたい』

「そう。愛海ちゃん、ありがと。あっちゃんにも伝えといて」

 愛海に連絡をするが、結果はやはり振るわなかった。

 逸る気持ちが、つららの歩行を早くする。

 足早に歩き、たまたま通りかかった中年女性に声を掛けようとしたタイミングで、

「瀬田さん」

 背後から、九十九に呼び止められた。

 振り返ると、九十九との距離はだいぶ開いていた。

「九十九くん?」

 間を詰めるべくつららが彼の許へ歩きだすと、その前に九十九が口を開いた。

「瀬田さん、訊きたいことがあるんだけど」

 改まったように問いかけてくるその声は、やけに平坦だった。

 つららは足を止めて、九十九の顔を窺う。

 そして、ぞっ、とした。

 彼の瞳を見て。

 九十九は細い目を細めることなく、いつもの柔らかな笑みを消した表情かおで、つららを見ていた。

「瀬田さんは、トウジさんのこと、どう思っているの?」

「……トウジ兄ちゃんは、両親のいない私を育ててくれた、大切な人だよ」

 冷たく見える九十九の瞳を見返しながら、つららは緊張して乾いた唇を湿らせてから応える。

 そう。トウジは大切な従兄だ。三年間一緒に暮らしてきて、彼がとてもやさしい人だということをつららは知っている。

 だからこそ今回のことは許せない。理由も述べずにいなくなったことは、ある意味裏切り行為に等しかった。いや、裏切り行為というと、おおげさに聞こえるかもしれない。でも、そう思ってしまうほど、突然起こったトウジの失踪は、あまりにもつららの心に伸しかかってきた。

「そうか。きっとトウジさんも君のことを、大切に思っているよ」

 九十九はそう言って、薄く笑った。いつもの柔らかさはなく、その笑みですら不気味に思えた。

 細い目を逸らし、九十九が歩きだす。

「ついてきて。トウジさんの居場所に、心当たりがあるんだ」

「――え?」

 突然のことで、歩きだした九十九の背を追うだけになってしまうつらら。

 目の前の背中から、やはり平坦な声がつららに届く。

「……ねえ君は、この世界に、人間以外のモノがいるって、信じられる?」



    ◆



「お前の正体を当ててあげるよ」

 化野九十九は、玄関の扉越しにそう口にした。

 トウジは息を呑んで、その続きを待った。

 ――昨日の夜、彼の存在をまたトウジも感じとっていた。きっと妖怪の間には、互いの存在を知覚できる、何かしらの感覚があるのだろう。だからトウジも気づくことができた。微量だが、昨日この家に訪れた彼から感じた、ヒトならざるものの気配を。

 彼に気づかれているだろうことは分かっていた。

「――座敷童」

 この世には、ヒトならざるもの――所謂、妖怪が住んでいる。主に妖怪が住んでいるのは、人間の住む「表側の世界」ではなく、「裏側の世界」。光と闇のように、相容れることなく、この二つの世界はギリギリの範囲で隣接していた。

 「裏側の世界」に巣くっていると云われている妖怪。けれど、大昔に人間と妖怪が共存していたように、そのころからこの「表側の世界」で、人間と関わることにより生きている妖怪もいた。

 そのひとつが、座敷童。

 トウジと名乗って、人間の少女の従兄と偽っていた、この自分のことだった。

 座敷童の住む家には幸福が訪れると云われはじめたのはいつのころだろうか。現在つららの住んでいるこの家、彼女の両親が建て替えたこの家は、建て替えられる前はたいそう古い民家だった。トウジは随分と長い間、この土地に住み着いている。

 前の家の人間――老夫婦が幸せに過ごしていたことも知っている。その老夫婦が両方とも他界してから、誰も住むことなくなったこの家を守るように守護していたのもトウジだった。その家を、改築して住むようになった、つららの両親のことを許したのもトウジで、トウジの妖力が弱まった影響により、つららの両親に不幸が訪れたのも、もしかしたらトウジのせいなのかもしれない。

 あの日。つららの両親が亡くなった日。

 周りの自分勝手な大人たちの話し合いから逃れるかのように泣いているつららを不憫に思い、トウジは突発的に妖力を使ってしまった。子供なら、座敷童の妖力を使わなくても、その姿を見せることはできるのだけれど、成人してしまった、現実を知る大人たちにまでには効力を及ぼさない。だから必然的に、ただでさえ少ない妖力を使うことになった。

 つららの父方の遠い親戚だと名乗り、つららを自分が引き取って育てると言った。もちろん猛反対されたものの、最終的につららの意見を聞くことになり、つららが「パパとママのいたこの家で暮らしたい!」と泣きじゃくりながら言ったものだから、周りの大人たちが折れて、つららはまだこの家で暮らしている。

 いままでつららの両親の貯蓄とか、つららを不憫に思った近所の人たちのちょっとした差し入れでなんとか生活をしてこられたものの、そろそろ限界がきていることにトウジは気づいていた。

 なによりも自分の体に限界がきていることを、トウジは知ってしまった。

 妖力が足りなくなっている。

 この家を建て替える前に住んでいた老夫婦は、この家に座敷童が住んでいることを知っていた。毎日のようにお供え物をしてくれたため、トウジは座敷童の本分を全うできていた。

 ――けれど、そろそろ限界だ。

 三年間、従兄だと偽りつららと一緒に暮らしていた影響で、トウジの妖力は少しずつ弱まりつつあった。あと三年持てばいい方だ。

 扉越しに、化野九十九が息を吐くように言う。

「座敷童。子供を騙すのはそろそろ終わりにするんだ。妖怪とヒトが、この世で相容れることはない。馬鹿なわがままで、家族ごっこをしていたところで、瀬田さんは幸せになれない」

 平坦な物言いからは、確かな圧力を感じる。

 トウジは口を開いて、悲鳴を押し殺すように言葉を飲み込んだ。

「……ッ」

 そんなこと、わかっている。いつかはつららの前から姿を消さなければいけないことなんて。言われなくても、わかっているつもりだった。

 人に幸福を分け与えると云われている座敷童だって、妖怪だ。

 妖怪たちは大昔に犯した罪により、「裏側の世界」に追いやられてしまった。座敷童は特別な妖怪で、人間のいない「裏側の世界」で暮らすことはできないから、この「表側の世界」で暮らしているけれど、それにも限界がある。

 ほとんどの人間は、妖怪の存在を忘れてしまっている。知っているのは、きっとごく僅かだろう。いつかは座敷童の存在も徐々に忘れられて、きっと伝えたところでつららも妖怪の存在など信じはしない。

 消えるなら、つららが高校を卒業して無事に仕事に就いてからだと思っていた。トウジは叔父と同じ海外の会社で働くことになったといい、そのまま雲隠れしてしまうつもりだった。

 でも計画は思い描くようにうまくはいかないらしい。

 トウジは、震える口をまた開いた。

 つたなく、言葉を紡いでいく。

「わかったよ。ボクは、もう消えるよ」



    ◇



(だからといって、彼がああも突然に姿をくらますとは思っていなかった)

 九十九は、内心ため息を吐いていた。

 家族ごっこをやめろといったのは自分だ。あの不自然な彼らの生活は、見ていて不愉快だった。

 人間と妖怪が一緒に暮らしているなんて、しかも妖怪の方は自分の本当の姿を偽っている。

 まるで、自分の両親を見ているようで、どうしようもなく不愉快だった。

 九十九の母は人間だ。けれど、父は妖怪。

 妖怪である父は、母とまじわって子をなしたあと、自らの正体を暴かれて、「裏側の世界」の奥深くに逃げかえってしまった。毎日のように、九十九は任務を受けながら、その妖怪を探している。

 一度深呼吸をして気持ちを落ち着けると、九十九は傍らに視線をやる。

 瀬田つららは、俯いて少し先の地面を見つめながらも歩いていた。なにを考えているのか、その表情からは読みとることができない。

 彼の正体を知った彼女は、戸惑いつつも特になにも返答することなく、こうして九十九の導くまま、自らが探している人物に逢おうとしている。

 どちらに転ぶかはわからないが、九十九自身としては、このまま妖怪との関係は断ち切るべきだと考えている。

(妖怪は、簡単にヒトを裏切るんだ)

 たとえば、今回彼が勝手に消えようとしたように。

(ま、唆したのは、オレなんだけどね)

 ああ、と彼は思い出す。

 そういえば、愛海に、自分はもうひとつ嘘をついてしまっていた。

(ごめんね、美浜さん。オレは、瀬田さんを傷つけている)


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