長い長い、遠回り。


「一番合戦さん……」


 言葉をかけるにも、何と言ったらいいか分からなくて、お互い気まずさを感じ黙ってしまう。


 怪我は無いみたいだ。自分で捩じり切った右手も、気付けば何事も無かったように元に戻っている。


 赤嶺さんも髪が白くなったり、黒目も灰色になって色が薄まっていたけれど、どこが不調がある様子は見えない。左肩辺りのブラウスが血塗れになっているけれど、多分一番合戦さんの血を貰ったんだと思う。問題無く動かせているし。


「えっと、あの……」

「白ぉ……」


 遠くから声がして、そちらを見た。


 銀がぐったりと、鯖虎さばとらの猫に――。本来の姿に戻って伏している。起き上がれないのか、顎をぺたりと地面に乗せて、一番合戦さんを見ていた。


「また俺を……。置いて行くのか……?」


 やっぱり、追い込まれていたらしい。血塗れになって伏すその姿はぼろ雑巾のようで、血を吐く口元から発せられる声は、ぼそぼそと小さく切ない。


「お前はいつもそうだ……。何にも言わねえで、一人で決める……。何で黙って行っちまうんだ……? 俺が、嫌いになったのか……? 俺ぁただ、お前の仇を討ちたかっただけなんだよ……。また昔みてえに、一緒にいたかっただけなんだぁ……」


 一番合戦さんは、じっと銀から目を離さない。


 離せないのだろう。顔は今にも泣き出してしまいそうで、銀の胸を抉ってくる一言一言の痛みに、今にも潰れそうになっている。


「……行ってあげなよ」


 思わず銀から顔を背けた一番合戦さんに、僕は言った。


 はっとして一番合戦さんがこちらを向いた時、涙が散ったのは見なかった事にする。涙を見せるべきは、まだここじゃない。


「……いや、でも……」

「怒らないよ。それぐらい。もうあんまり動けそうにないし、仮に暴れられても止めるから。こっちの用はやり切ったし、一番合戦さんも咎められる事なんて何も無いよ。それに」


 銀を見てから、言葉を継ぐ。


「――一番合戦さんだって、言いたい事いっぱいあるんでしょ? 黙って行かなきゃ、駄目だったんだとしても」


 一番合戦さんの隣に立つ赤嶺さんも促すように、顎で銀の方を示しながら、一番合戦さんを見た。


 一番合戦さんは、戸惑うような表情を僕らに見せると――。何かを払うように頭を振って、真っ直ぐ銀へ走り出す。あっと言う間に距離を詰めると銀の顔の前で、崩れるように両膝を着いた。


「嫌いになんかなってないよ」


 両手も着いて、前のめりになるように一番合戦さんは言う。


「そんな事、思って事なんて無い。――私ずっと、謝りたかったんだ……! 今更何を言ったって、許されるなんて思ってないけれど――。あの時、嘘をついてしまった事……」


 銀は怪訝そうに、小さく声を上げた。


「謝る……? 何をだ……?」

「火事の時だよ……! あの時私、後で行くって言って、お前を騙したじゃないか……!」

「あれは、俺がお前は赤猫だって、伝えるような事を言っちまったからだろう……? 俺の方こそ、あの飯屋の前で言った事を、謝りたかったんだ……。お前はあのまま、自分を人間だと思って暮らしてても、幸せだっただろ……? ――それを、俺は……! お前を苦しめるような事を、言っちまったじゃねえか……! 明暦の大火を起こしたのも、自分を赤猫にした人間共への、復讐だったんだろう……?」


 一番合戦さんは一瞬、言葉に詰まるような沈黙をする。


「……確かに知らない間は幸せだったよでも、でもそんなの、本当の幸せだとは、私は思わない。自分が赤猫と知ったからって、いい事なんて無かったさ。辛い思いばっかりしたよ。でも知らない方が幸せだったなんて、やっぱり思えないよ……! ――どう生きればよかったかなんて、今でも分からないけどさ。赤猫だって知らないまま鬼討にならなずに生きてたら、助けられなかったものが沢山あると思うと、お前とあの時会えた事も、赤猫になってしまった事も、やっぱり人間が好きだって鬼討になった事だって、どれも私の人生に、無いといけないものになってたんだ……!」


 僕らに背を向けている一番合戦さんの声が、堪え続けていた涙に震えた。垂らしていた両手で、溢れ出した涙を拭う。


「……ごめんなあ銀……! ずっと会いに行けなくて……! 私を思ってくれてたのに、嘘をついて……置いて行ってしまった事が、怖かったんだ……!」

「怒ってねえ……。怒ってねえよ俺は……!」


 銀は、胸を潰されそうな声を絞り出した。


「何で泣いてるんだ……? 怒っちゃいねえよ俺は……!」


 戸惑いを浮かべる銀に一番合戦さんは、泣き笑いを浮かべる。


「私も怒ってないよ……! ――きっと、れ違ってただけなんだろうな……。三六〇年……。……気が触れそうなぐらい、長かった……!」


 去年と同じように、ぼたぼたと涙を零しているんだろう。一番合戦さんはそのまま笑うと、両手で銀を抱え上げて抱き締めた。


 そのままわんわんと、いつまでも泣く一番合戦さんに、僕と赤嶺さんは顔を見合わせると、肩を竦めて苦笑する。


「どう生きればよかったのか……。ねえ」


 赤嶺さんは、白くなってしまった髪をいじりながら、困ったように笑うと月を仰いだ。


「あたしもぜんぜんっかんないわ」

「天才なのに?」


 僕は少し、からかうように尋ねる。


「んー。月みたいなものなのかも。人生って」


 赤嶺さんは髪をいじっていない方の手で、下弦の月を指した。


「何かを失っては欠けて、努力や覚悟や、才能で補おうとまだ何かが届かなくて、やっと満ち足りた気分になれば、今度はあれが欲しいと気付いて自ら欠けていく……。満月の間って、全体で見れば短いじゃない。半月とか三日月とか、欠けている時間の方がずっと長くて。多分人生って、そうなんだと思う。どこから見るかで、全然見え方が変わっちゃう所とかも」

「成る程」


 感心しながら、僕も月を仰ぐ。


 この、幾ら手を伸ばしても届かない所も、幾ら逃げようと追い回して来る所も、確かに生きる事、そのもののようだと思った。


 なら今日は一番合戦さんにとって、始まりになるようにと僕は祈る。この先も満ちては欠けてを、何度繰り返す事になろうとも、せめて満月の時が、一秒でも長く続くように。



「月が綺麗だ」



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