36
歪んだ獣
一番合戦は黙っていた。
それは苦しそうな顔で押し黙って、じっとあたしを見ている。
……言葉が出ないって言う方が、適切でしょうね。
いないわよ。こんなにザクザク胸を刺されて、平然とぺらぺら言い返せるような奴。そんな図太い神経してる奴が、そんな目になんて遭いっこ無いわ。
いつだって損をするのは正しい奴と、優しい人だもの。
「…………」
そして一言も喋らず、剣を収める。
戦意すらも潰えてしまったようなその仕草と表情に、まさか逃げる気だろうかと口を開いた時だった。
「……あん――」
「いつの世も変わらないんだな。お前達鬼討とは」
情の枯れ切った声で、一番合戦は言う。
その目に怒りは無く、悲しみも無く、ただ
これが、一番合戦なのかと思った。
これがあの大人びて、毅然とし、決して驕らず控え目な、一番合戦篝かと。
何の力も無い。あの射るような目が。
いつも全身から滲んでいた、覇気のような威圧感も消えて、一回り小さく見えてしまう程。
……いや、きっとこれこそが、こいつの本来なのだろう。
理不尽と迷いと後悔に、
ああもしゃんと出来る筈が無いのだ。誰にも言えず、たった一人で生きて来て。生い立ちを知れば知る程、どれ程今のこいつが危ういか思い知る。
……よくやるわよ。本当に。
「いや、人間はと言うべきか? 好き勝手な事を……。それで、何だ。今度は私に、何をして欲しいんだ。お前らは」
腕を組んで、あたしを見る。
その眼光にあたしの
寒気にも似た重苦しい気味の悪さに、思わず吐き気を催した。
その目も、仕草も、怒りなんて感情何も出てはいないくせに、その投げやりのような態度が感情的だった先よりも、それは凄まじい圧となって
空気そのものすら、見えない重さを纏ったように。
それは、取り付く島も無い断崖絶壁に囲まれた、大きな大陸の前にでも立たされているような気分だった。
一人小舟に乗り込んで、その前に佇むあたしの後ろには、果ての無い海だけが広がっているようで。
帰りたくても、帰れない。
陸に上がって安心したいけれど、でも入れそうな隙は無くて。
どこにも行けず、留まっているのも恐ろしい。
そんな、恐怖のような何かに駆られていきそうな心に、不安になりながらもあたしは言う。
「……何って、だから」
また同じ事を言うのか。そう呆れたように、一番合戦は片眉を曲げた。
たったそれだけで、嘘みたいに言葉が続かなくなる。
喉に石でも詰まったみたいに、声が急に出て来ない。
お前の言いたい事は終わった。もう議論の余地は無い。私の返事は済んでいるし、そもそも最初から曲げるつもりも無ければ、分かって貰いたいとも思っていない。邪魔される事も分かっていた。だから九鬼にも何も言わず適当な事を言って、一人で銀に向かおうとしたんだ。
この議論は最初から、破綻している。
そう言葉にせずとも、こいつの目を見れば分かってしまって。
ただそこにいるだけで有無を言わせない、絶対的な力のようなものをじっと纏い、分かり切った話を繰り返そうとするあたしを、それは退屈そうに眺めている。
同じ事ばかりやるのだなと。三六〇年前と変わらず。枝野
「……お前らの言葉など、
飽きが回ってどうしようもないという顔で、一番合戦は言った。
何百回と同じ映画を観させられ、その度に感想を求められているように。
物分かりの悪い子供に、言い聞かせているように。
物覚えの悪い老人に、再三再四言うように。
何も許さない頑なさが、そこにはあった。
「分かり合えないんだよ。私達は」
……ああ。
あたしはやっと、事の重大さを思い知る。
人を狂わせるとは、こういう事なのか。
どれ程迷惑をかけ、苦痛を与えた? そんな事じゃないんだこの話は。人を振り回すっていう本当の罪は、そこにあるんじゃない。
価値観を変えてしまう事だ。
人生を捻じ曲げ、その人を変えてしまう事だ。
かつてその人が本来持ち合わせていたものを、不自然に曲げてしまう事だ。それはある種、正しく物事を認識する力を、奪う事にもなる。その凝り固まらせた物差しで、歪んだように捉えさせてしまうように。今こいつが、あたしの言い分が正しいと分かっていながら、それでも拒絶しているように。
分かってるからさっきは、あんなに辛そうな顔をしたんでしょう?
分かってるけれど、でも認めたくないんだ。だってあたしはあんたを追い込んだ鬼討で、人間なんだもの。信じたくないんだ。信じられる訳が無いんだあたしの言葉が。正しいってちゃんと、頭では分かってるのに。
憎悪と怒りと、悲しみが、分かっているのに邪魔をする。
それを、現実を直視出来ない腰抜けだとか弱者とか、誰が言えよう。こいつは何も、悪くなかったのに。
そう捩じ曲げたのはあたし達なのに、それを罪だと、誰が言える? 本当だったらこいつ、すんなり信じてるんだ。それは人間が好きな、猫だったんだもの。
それを人間が嫌いな怪物に変えたのは、人間だ。
「…………」
もう立ち尽くしてしまって、声も出ない。
「……でも」
でも、どうしてかしらね。
「……でも、それでも」
なのに全く、戦意が消えないの。
「分かり合おうとしないといけないのよ。あたし達とは」
ゆっくりと、柄に手をかける。
「でないと何度でも、あの大火を繰り返す」
一番合戦の表情は変わらない。
相変わらず、飽きた映画でも観させられているようだ。
クライマックスまでの展開も、次のシーンはどんな台詞が来るかも覚えてる。それはもう、全てを分かり切ったような顔で。主人公は最後、どうなるかまで詳細に。
……これが物語なら、あたしの行く末は死でしょうね?
挑発的に、笑う。笑う。
海水とも、涙とも違うものが、顎を滴り落ちて行く感覚を誤魔化すように。
「分かってるから、あんたも――」
「お前の刀は、抜刀してから熱を持つな」
そう一番合戦は、脈絡も無く切り出した。
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