明暦の大火 4
……嫌だ。
声を出すのもやっとだった。
嫌だ。嫌だ嫌だ。嫌だ。忘れたくない。これを失くしてしまったら、私は……。
とうとう己が何者か分からなくなる、か。それが耐えられぬのなら退け。儂は命を取らずとも、お主を殺してしまうような事が出来る。
つい先程の事を、忘れてしまいそうになる。
記憶を寸断するとはよく言ったもので、確かに途切れ途切れになっていて、奴と顔を合わせた際の遣り取りを、もう上手く思い出せなくなっていた。
でもずたずたに傷付けられるだけで、完全に失いはしない。破れたなら繋ぎ合わせられる。確かに穴となってしまった部分は全く思い出せないが、何をしていたかは推し量る事が出来る。
こいつは鬼討で、私は赤猫。
そうだ。私は人間共に化け物にされ、それだけの存在とされてしまった哀れな猫だ。それ以前の事は思い出せない。もう死に際の出来事ぐらいしか、私の中には残されていない。
また奪われると言うのか? 今度は私は、何にされる?
嫌だ……。あってなるものか。これ以上、奪われてなるものか。だから殺すんだ。報い、恐れを与え、二度とそんな事はさせまいと。だってもう、取り戻せないんだ。
だったらもう、私がやれる償いは一つだろう!?
――私は……私はもう……お前達のいいようにはされないんだ!!
そう思う程重い血の塊を零しながら、血を吐いては撒き散らして立ち上がる。
心臓が、耳の横で鳴っているのではと思う程脈を打つ。
もうやめろと、痛みが全身で暴れ回る。
知るか。今更何を守る。もう何も無いだろう。化け物になってこの程度で、くたばる訳が無いだろう!
炎上する。怒りと悲しみと憎しみが。掻き消そうとした恐怖すら飲み込んで、痛みも食らって燃え上がる。とめどなくこの身から流れ落ちるのは、血か、汗か、はたまた涙か。
まあ少なくとも、雨に打たれたようさ。
血より濃い、憎悪のような赤色に。
私は、獣のように吠えながら飛び出していた。
胴をバッサリやられていたからな。幾ら百鬼とは言え血を流し切れば、放っていても死んでしまうよ。化け物とは言え、生き物なんだから。
痛みや色んな感情に頭をやられて、気が触れていただけかもしれない。男は戸惑っていたよ。余りの気迫に、気圧されていた。
飛び出して、また
刀としての性能は並みの刀と同じと聞いていたからな。呪いを与えは出来ても、火を掻き消すまでの力は無い。だったら躱すしか無いだろう。
目論見通り男は跳んだ。地に足が着く瞬間を狙い、火を放つ。
足を焼いてしまおうと? まさか。ここまで来て、そんな細かい知恵など浮かばないさ。
跳んで躱されてしまうなら、下りる場所を潰してしまえばいい。何とも単純と言うか浅はかなその策を、叶える力なら持っている。
打ち水をやるように、辺り一面に火を撒いた。辺りの空気は熱を帯び、昼間のように明るくなる。火の海と化したその中に、足を入れる形となった男は呻いた。
――ぐうっ!?
走って距離を詰め続けていた私は、頭を吹き飛ばしてやると、男へ右の拳を放つ。
男は私の左手に回るように、咄嗟に身を屈めて往なした。
腕を抜けていった火は細い筒状になって空を直進し、向こうの民家の残骸にぶつかると四散する。耳を
それでもその音や、じりじりと炙られていく足の痛みにも気を取られず、私の動きを警戒したまま跳び退ったのは、本当に見事だったな。
男はまず火の海を脱し、体勢を立て直そうとした。足が使えなくなったらどうしようもなくなる。
私が纏った火は、必ずしも肢体の動きに連動しないと即座に見極め、拳と同じ縦方向ではなく、横に避けたのも大したものだ。極めて冷静かつ、合理的な判断力。でももう、関係無い。所詮は人間の動きなのだから。
火の海の先、砕かれた残骸の方へ逃げるのは読めていた。仕掛けた側なんだ。流石にそれぐらいは分かる。まあ左右へ逃げようと同じだが――。全部、燃やせばいいんだから。
男が退がろうと地を蹴った時を狙い、私は再び炎上した両腕を、前へ薙ぎ払う。ごおっと唸りを上げた火が、塊となって男へ飛んだ。
広い幕状に飛ばしたんだ。あの人達や、おじいさんが住む屋敷を包めるぐらい。最早壁か。その光に一瞬、目の前が真っ白になったよ。
白く弾けた視界はすぐに景色を捉え直し、真っ赤に映った火の塊は熱風を巻き込んで、大口を開けた怪物のように、男へ
――失せろ!!!
男は無事に、地に足を着けたのだろうか。それさえも分からない内に、火は広げた風呂敷のように奴を包んで、膨れ上がって砕け散る。
目の前で雷が落ちたような、大きな音が天を突いた。瓦礫と火を纏った爆風が、嵐のように吹き荒れる。
腕を翳したい所だったが怒りに我を忘れて、そんな事に頭は回らなかったな。
血がどばどば流れ落ちてるのに動き回るもんだから、ぼーっとしてたし息は上がり切ってくたくただった。熱風に晒されて、どこか凍り付いたのかもしれない。死に際のあの苦しみを思い出して。まあ、あの時の方が全然熱かったけどな。それに、目を逸らすような事はしたくなかった。
奴の死に際は、きちんとこの両目で見ておきたかった。何と不快な……。戯れ言ばかりを吐く、あの男の死体を。
見せしめにしてやる。奴を殺したら今度こそ、この町を灰にするんだ。お役人共に見せてやろう。真っ黒になったお前の首をぶら下げて、ざまあみろと殺してやるんだ。
喉に纏わり付く白煙の先――ぱちぱちと音を立てながら、顔を庇うように両腕を
いや……違う……。
その違和感の正体に気付いたのは、まず違和感を覚えたのと、同時だったのかその後だったのか。
燃えていない。
ぱちぱちと弾けるようなあの音は、焚き火の中で見るようなものじゃない。
弾かれているのだ。文字通り。
あの白い
そんな馬鹿な――。
真っ白になった頭がそう浮かべるより早く、
……手拭いでも巻いておけばよかったかの。
そして素早く後ろに手を回すと、燃えないよう背中で庇っていた剣を、地面から引き抜いた。
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