明暦の大火 5


 地を焼いていた火の海は、爆発で消し飛んでいる。もうまばらにぽつぽつと、未練がましくくすぶっているだけだ。

 男はその中をあっと言う間に駆け抜けて、両手で構えた剣を放つ。


 切っ先が、腹にめり込む感触で我に返った。


 躱すのは無理だと覚っていた。だったらもうやけくそではないが、咄嗟に男の右腕を掴む。触れた部分が、溶けるように焼け爛れていくのを見ながら、力任せに引き抜いた。


 腹を貫かれると同時に、男の右肘辺りから先が宙を舞う。




 ――ぐあああああああああ!!?




 男は、断末魔のような声を上げた。


 私は貫かれた腹から血が逆流して、ごぼ、と鈍い音を立てて吐き出す。


 せるような血の塩気にいがいがと喉を刺激されながら、そのまま何とか、男の腹を蹴ると引き剥がした。

 吹き飛ばされた男はばたばたともがき、私は胴からずるりと剣が抜けた途端、糸が切れた人形のようにくずおれる。


 血が、息を吸うだけで溢れ、喋る度に全身から零れていく。私は両手で胴と腹の傷を押さえながら、何とか膝立ちで堪えると男をめ付けた。




 ……ぎっ……! ひ、火取魔ひとりまか、その着物おっ……!




 生まれは石川県だが、どこにでもいる百鬼だ。かなりマニアックと言うか、それは知名度の低い。

 下半身は人のような形で、白い着物に下駄を履いているが、腰から上は煙のように細くなっていき、腕も無ければ頭も無い。胴の辺りから頭に向かって、めらめらと纏った火を燃やしている。歩く蝋燭ろうそく……みたいなものかな。

 別に危ない奴じゃない。夜になるとふらふらと町を歩いて、側を通った提灯の火を、自分が通る間だけ弱めていく。過ぎ去れば元通り。風みたいな奴でもあるのかな。めらめらと燃えているその身体は、歩き回ってはそれらから少しずつ、頂戴した火なんだとか。

 悪さもしないし、塗壁ぬりかべみたいな大人しい奴だよ。海月くらげみたいにふわふわと、ただ歩き回っているだけで。人間からすればな。

 百鬼……。特に、私のような火に関わる百鬼からすれば、奴らは途端天敵となる。


 あいつらは火を食らう。餌にしているぐらいだから、火では殺せない。ふらふらしているだけの無害な奴だが、もしその力を、意図して誰かに用いられたら。


 まあ、どこ生まれとかまでは当時知らなかったよ。そういう奴がいるという事は、この町は火事が多いらしいが、それは火取魔ひとりまも逃げ出してしまうぐらい、お上が百鬼を殺し回っている所為もあるだろうなと、縁側でだらだらしていたあの人が、女の人へ得意そうに話していたのを思い出したからで。

 男の白いあわせと、火を無効化されたというその事実に、ぱーんと閃くように思い出した。そう言えばあの人は、そんな話もしていたなと。


 いや、走馬灯だったのかも、しれないな。


 それに気付いた時、まだ私の怒りは燃え盛る。この思いに、際限など無いように。もうろくに、話せるような状態でもないだろうに。




 がふっ……。わざわざこ、の為にっ、こしらえたのか……。殺して……! お、お前達は一体、どれ程私達を愚弄ぐろうすればぁ……!!




 言葉は続かなかった。後ろから押さえ付けられたようにぐらりとして、視界は足下に向かうと地面がやってくる。


 ごつっと額をぶつけて、身体はぐにゃりと崩れた。


 声が出なくなって、ひゅーひゅーと喉が鳴る。ただ血を垂れ流す肉塊のようになる。心はこんなにも逆巻いているのに。



 ……死ぬのか。

 ぼんやりと思う。



 男は地面に剣を突き立て、杖代わりにすると何とか膝で立ち上がった。

 高が腕の一本程度で何を……。ぴいぴいと情け無い。丸焼きにされた私の方が、絶対に辛かったぞ。死ぬまで焼かれたんだ……。気が触れる程。


 こんな脆弱ぜいじゃくな者に、私はまた殺されるのか。


 何と、滑稽こっけいな。




 猫よ……。後生じゃ。あだ討ちなど、もうやめい……!




 戯れ言を吐くのが仕事なのか。この男は。




 くっ……。でなければその思い……。無残に斬り捨ててしまうのみ……!




 男は立ち上がると、ふらふらと歩き出した。


 ふざけるな……。


 私は動けない。声を発する事さえも。

 ただ喉を唸らせ、首を捻ると、殺すように男を睨む。動けないのなら呪ってやると。


 あの程度でへたばるという事は、人間にとっては満身創痍まんしんそういと言うのだろうか。剣を杖のように突き立て、痛みに顔を歪めた男は、汗まみれになってよろよろと寄って来る。




 ……お主も本当は、分かっておるのだろう……。そんな事をしてもあの二人がされた事も、お主がされてしまった事も……何も覆す事は出来ぬのだ……!




 知っている。そんな事は。


 全部私が悪いんだから。


 分かっているさ最初から。


 あの二人は死んでしまった。私は化け物になってしまった。


 気持ちだけが置いてけぼりにされたみたいで、ぶつけた所で足りなくて、ぽっかりと欠けてしまった心は満ち足りない。全ては、私達が死んだ時から始まっていて、終わっている。

 だからって、じっとなんてしてられないじゃないか。まあ仕方無いよななんて、開き直れる訳が無いじゃないか。


 だって私の所為なんだ。あの時、変に気を利かせようとさえしなければ、あの人達は死ななくたって済んだんだよ。私が余計な事さえしなければ、こんな事にはならなかったんだ。

 これはただの我が儘で、駄々をこねては子供のように、泣き叫んでは暴れているだけ。こうすればり場の無いこの気持ちも、少しは静かになってくれるんじゃないかって。

 こうすれば罪滅ぼしになるなんて、許されるなんて思ってないさ。こうすればただの猫に戻れるとか、きっと二人は生き返るとか、そんな事だって思っちゃいない。


 ただ、分からないんだよ。もう何も、分からないんだ。辛くて苦しくて、悲しくて寂しくて、もう自分の心に、殺されてしまいそうなんだよ。


 何で、こんな事になったんだろう。




 うう、うう……。




 多分、泣いてたんだろうな。塩っ辛いのが流れてきたから。血なのかもう、判別はつかなったけれど。鼻の奥がつんとして。

 喉を上ってくる血で不明瞭な濁音になりながら、誰に言うでもなくめそめそと続けた。




 ごめんなさい。ごめんなさい……。そんなつもりじゃなかったんだ。私はただ、いつもみたいに過ごしたかっただけなんだぁ……!




 残りの命を削るように、全てを腕に込めて起き上がる。


 でももう駄目だ。身体が冷たくなってきている。心臓の音が弱っていく。あの男の足音だって、少しずつだけれど大きくなって……。煩い。煩い、煩い! 弱気な自分を追い出すように、砕ける程に奥歯を噛んだ。

 もう駄目だ。立ち上がれない。起き上がる事も出来ない。持ち上がりかけていた腕はがくんと折れて、また額を地面にぶつけた。もうその痛みで、終わってしまいそうになる。

 無理か……。無理なのか……。ならば……。


 負け惜しみに、にやりと笑う。


 ひゅっと空を切る音がして、頭を左に傾けた。

 ガツッと剣の切っ先が、右耳のすぐ脇の地面に突き刺さる。


 顔は見えないが、男が息を飲むのを察した。




 お主……!?


 それに斬られると死ぬより辛いんだろう……? 何でなのかは忘れたけどなあ……!




 男が剣を振り下ろすのと同時に、私は右手の指を左胸に突き立てていた。


 心臓へ。




 正気か……!? いや、やめろ。そんな事をしては、お主の苦しみは半ば永遠に――




 ずぶっと肉を抉って、骨を砕く。



 奴が何を言おうとしていたのか、分からないままになった。



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