境界
立ち尽くしていた一番合戦さんは、ゆっくり頭を動かして僕を見た。
いつも凛々しい切れ長の目には、何の力も宿っていない。混乱と、悲しみみたいなものに、塗り潰されていた。
別人になってしまったようで、僕は失いそうになる言葉を何とか繋ぐ。
「あの人は……何? 百鬼だよね? 危険だから、早く対策を考えないと」
一番合戦さんは顔を背けると、目元を覆うように額へ手を当てた。僕に半分背中を向けて、肺が萎んでいくような、深い息を吐く。
「あぁそうだ百鬼……。百鬼だったな、あいつは……。驚いたよ。お前の言う通り、私はあいつを知っている……。まさか会うなんて思ってなかった。とっくに忘れられてると思ってた……」
一番合戦さんは大きな独り言みたいな返事をすると、ぼそぼそと声は小さくなっていき、とうとう黙ってしまった。
声にまるで生気が無い。目もどこを向いているか分からないし、芯から呆然としてしまっている。
当たり前だ。あんなに親しげな再会をした人が、百鬼だったんだ。そうなって当然で、それ所か一番合戦さんの場合、斬らなければならない相手にもなる。
話は出来るようだから、戦わずに済むよう説得させる道も無い事は無いが……。でもどうなんだろう。外から見ていた様子だと二人の会話は、全く噛み合っていなかった。
それにあいつ、一番合戦さんが常時帯刀者だと知った上で、反抗的な態度を取っていた。衝突を恐れているとは、とても言い難い。あと気になるのは、どうして僕を襲ったのか。
「――あぁ、悪いぼーっとして……。送るよ」
戸惑いを払うように頭を振ると、一番合戦さんは言った。表情には明らかに疲れを感じるが、目には力が戻っている。
「いや、今は黒犬もいるし、そこまでして貰わなくても……。それに、赤嶺さんだけに任せて大丈夫なの?」
「あいつも伊達に赤嶺の名を背負ってないよ。それにあいつ……あの男は、私に嘘はつかないから、今日は大丈夫だ」
信頼だろうか。
何か、強い根拠に基づいた言葉だと分かった。
然しその相手が百鬼と知った今、その言葉は、信じていいのか。現に君は今、裏切られたばかりなのに。
そう確かめようとした時、一番合戦さんは躊躇いがちに口を開く。
「……なあ九鬼」
僕は少しでも一番合戦さんを落ち着かせようと、穏やかに応じた。
「何?」
「何であいつは私じゃなくて……お前の元に現れたんだ?」
でも一番合戦さんはもう、頼り無い様子に戻ってしまう。
「あいつはお前に、何か用があったのか? いや……全く無いとは言えないと察しは付くが、それでもだ。本当に用があったのは、お前じゃなくて私の筈なんだよ。どうせあいつは、私の話しかしてないんだろ? お前が邪魔だとか、何で私と一緒にいるんだとか、きっとその程度の事しか、頭に無いんだ。なのに何で……あいつが相手を間違えたんだ? あいつが私を、間違える筈が無いのに」
僕はつい、言葉に困ってしまう。
「間違える筈が無いのに」。それは、あの男の行動を疑っているのか。それとも、その結果を生み出すような原因を持っていたからではと、僕を疑っているのか。
少なくとも一番合戦さんは、きっとあの男の事をよく知っていて、それと比べれば僕の事なんて、他人に毛が生えた程度しか知らない。
追放された元鬼討。現在は半百鬼。この二つを一番合戦さんの認識から消してしまうと、途端に彼女にとって僕とは、得体の知れない存在になってしまう。
元鬼討とは言っても、当時の許可証は返還しているし、神刀も持っていない。具体的に鬼討だったと示す事が出来るものは、冷静に考えれば非常に少ないんだ。
妖怪を百鬼と呼んでしまうのは仕事柄。確かに一般的ではない表現をするからと言って、それだけでその人を鬼討だと断定するのは、 余りに根拠として
僕が追放に至る事情の
だからやっぱり、当時何も尋ねなかった一番合戦さんは本当に人がよすぎて、取るべき態度は、人狐の方だったんだ。
――どうして九鬼くんはそれを一目見ただけで、ブラックドッグと分かったの?
――話してくれるよね? あなたがどうして、鬼討でなくなったのか。
確かめるべきだった事を、今漸く尋ねられたというのに、どうして僕は、答えられないんだろう。
一番合戦さんはあの男を知っていて、僕の事なんて殆ど知らない。
事実と言い切れない話を、追及しないで信じてくれていた。
もしかしたら人狐戦以降からはその負い目も、問い質さない理由になっていたのかもしれない。いや、無い筈が無い。出会ったばかりの馬鹿相手に大泣きして、一緒にその罪を背負うと言ったような人なんだから。
なのに話すのを躊躇ってしまうのは、そういう家に生まれた故の性質か、単に僕が、意気地無しなのか。
「明日話そう。もう遅い」
じっと言葉を待っていた一番合戦さんは、何も無かったようにさっぱり笑う。
「お前を送ったら、ここで赤嶺を待つよ。ぼーっとしてて、つい徒労をさせてしまった」
「いや、いいよ。一人で帰る」
答えられなかったくせに、妙に早口な返事になった。
「そうか。じゃあ、気を付けて帰るんだぞ」
一番合戦さんもそんな図々しい僕の態度に、何でもないような顔で応じる。
「一番合戦さんも」
「ああ。じゃあな」
歩き出した僕は部屋に戻るまで、 一度も振り返らなかった。
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