らしく生きて、何が悪い?
「……あなたが私の言った通りには、とても出来ないだろうとは分かってたよ」
僕を見て、豊住さんは言った。
緊張の所為か、暑さの所為なのか。曖昧な汗が、彼女の顎から滴る。
それを見て、今は七月なのだと思い出した。
でも蝉の声はまだ意識の外で、そんな事に気を向ける余裕は無い。
本当は辺りから聞こえているだろうその声は、透明になって空気を震わせている。
「だから、あなたがヘマをするのを待ってた。どうせ出来ないだろうと分かってたからね。失敗する時を狙って、赤嶺さんを脅そうと思って。この町には今、私の家族が散らばっていて、私の合図一つでこの地の人間共を殺せると。この武器が既にあるからあなたに頼まなくとも、確かに自力であなた達を意のままに支配する事は出来た。でも赤嶺だからね。極力避けたい。贅沢を言うのなら、赤嶺さんとは顔も合わせずに事を済ませたい。――だったけれど、確かにこの取り引きはおいしいな」
言うと微笑んで、赤嶺さんからドックタグを取った。
「あっ」
「この町にアクセサリーショップなんてあったか……あぁあったか。革紐。マチネー」
まちねー?
豊住さんは足元の影に話しかけると、何かが影から飛び出す。
綴り紐……? みたいな濃い茶色い紐が一本入った袋が、ぽーんと豊住さんの目の高さまで。
「早っ。流石は人狐」
赤嶺さんは驚いた声を上げた。
早速キャッチして袋の封を切っていた豊住さんは、ドッグタグにその紐を通しつつ、僕の前を歩き出す。
「まあ本来はこういうのが得意だし。余所からお金や物を盗んで、主にあげるっていうのが」
豊住さんは涼しい顔でそう言うと、紐を潜らせたドッグタグを首に通し、紐の両端を金属具らしきもので固定する。袋は、僕が座っていた方の脇に置かれていたゴミ箱に捨てた。
……どうやら町に撒いている手下達に、店から盗んで来させたらしい。まちねーって何だろう。
「長さだよ。大体五〇センチから五五センチのって意味」
読まれた。
ネックレスがかからないよう下から持ち上げるように、両手で髪をどけながら豊住さんは言う。
すっかりあの、余裕たっぷりな調子に戻っていた。
……ていうか盗んだって。
まあこんな時に窃盗の一つや二つを咎めている暇は無いし、それがきっかけで協力を反故にされても堪らない。確かに人狐らしいと言えば、本来の姿はそうであるから、今が尤もらしい行為をしているけれど。
にしても一番合戦さんが知ったら何と言うか。
「へえー超便利じゃない。ドラえもんみたい」
感心している赤嶺さん。緩い。
この辺は一番合戦さんと違うらしい。
あとドラえもんのあれは、予め買うなりしてひみつ道具を揃えられた四次元ポケットで、決して自由に盗みを働ける窃盗ポケットではない。
確かに小豆洗いに小豆を洗うなと言った所で、仕方の無いのと同じではあるが。
「そんな事より、それ戻して?」
豊住さんは不機嫌になったと思うと、顎で黒犬を示した。
黒犬は暑いのか、舌を出してひいひい言いながらこちらを見ている。
僕はそれを見て、つい笑ってしまった。
まだ笑えるような余裕がある状況じゃ全く無いんだけれど、でもそれをきっかけに意識が弾いていた、蝉の声が聞こえてくる。夏の湿気もむしむしと、僕らから水分を奪いに戻って来た。
黒犬は途端拗ねたような顔をして、勝手に影に潜って見えなくなる。
屋根の下にいるとは言え、昼に差し掛かろうという中出て来てやったというのにと、不機嫌になってしまったのだろう。後で謝らなければ。一番合戦さんの正体に気付いていながら、今日まで黙ってくれていてありがとうという感謝も。
別に僕の為なんかじゃないと言われるとは分かるけれど、予期せぬ所で誰かを救っていたり傷付けていて、それに返ってくる言葉を受け取る義務ぐらい、その相手にはあると思う。
この遣り取りを見れば、僕と黒犬も友達だって言われるのかな。僕から見た一番合戦さんと豊住さんが、違うと分かっていても友達だと言えるみたいに。
そもそも友達とは何だと訊かれて、迷わず答えられる人なんていないと思うけれど。
じゃあそういう事で、いいと思う。
例えその関係に、どんな名を付けられようと。
その人達の思いさえ、確かに本物であるならば。
「ひゃあ。なーんか暑くなって来たわねえ」
赤嶺さんはドックタグをしまいながら、影の縁まで出て、空を見上げた。
あと半歩でも出せば、太陽で真っ白に照らされているアスファルトに踏み込んで、あの眩しさを全身で受けるだろう。
「まあ作戦ならここで練るべきなんじゃない? 私は関係無いけれど、下手に店に入ると補導されるし」
豊住さんは、済し崩し的に戦闘態勢を解いていた妹さんの頭をくしゃりと撫でると、ゴミ箱の隣にある、自販機の前に立った。
五〇〇ミリ入りのカルピスを買うと、妹さんに渡してみせる。
ずっと難しい顔をしていた妹さんは、それを受け取ると息を吐いた。
「……何か策はあるのでしょうね。九鬼様」
妹さんにじっと睨まれ、僕は笑みを返すと立ち上がる。
「全然。これから考える所だし」
「無計画さに
「厳しいなあ」
僕も自販機で何か買おうと、財布を取り出そうとした時だった。
僕そう言えば、どこに鞄を置いたんだろう。
全く意識していなかったが、多分自転車の前カゴに突っ込んだと思う。赤嶺さんに一秒でも早く会いに行って、このやけっぱちみたいな案で豊住さんに出て来て貰おうとしか考えていなかったから、殆ど無意識の内に。
流石に自転車に乗る前の走っている間に、投げ捨ててはいないとは覚えているし。
なのだが。
「あれ」
あのぼろぼろの自転車には、何も残っていなかった。
「まあその散漫な注意力じゃねえ」
豊住さんの笑う声がして、そちらを見る。
いつの間にか彼女の足元に、僕の鞄が置かれてあった。
「あの小汚い自転車で暴走してる間に落としてたよ? ――もう駄目だよ九鬼くん? 一番合戦さんに知られたら大目玉だからね? 信号無視に、歩道のど真ん中を爆走し、そこを歩いていた人達は、もう少しで
委員長時代の口調で言われ、嫌な予感がしつつも、返してくれた鞄を受け取る。
「あ……あはは……。ありが」
「まあうちの妹にやらかしてくれた嘗めた真似は、てめえの持ち物で既に埋め合わせさせて貰ったが。茶と弁当は下のきょうだいにやって、教科書だの文房具もチビ共にやったからな。丁度らくがき帳切らしてたんだよ。ほっといたらどこにでも書いちまうし、読み物与えねえとじっとしねえからなぁ……」
そして涼しい顔でやたら自販機の飲料を買い込んでいると思えば、その財布は僕のもので、つまりそのお金も僕のだった。
異様に軽くなった鞄を受け取りつつ財布を取り返そうと腕を伸ばすが、即座に妹さんにパスされる。
流れるような動きで、駄菓子屋に入って行く妹さん。
「すみませんおばあさん。……あれ、レジに着いたまま寝ている? 仕方ありませんね。では、お代は前払いでここに置いて行くので、その分のお菓子は頂いておき」
「やめて!!」
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