24
二つの炎
またあの
背後から迫っていた、あの巨体から放たれる威圧感が消えている。
何でまた急に現れたと思ったら消えたんだと考えたり、後ろに目を向けて確かめる余裕は無かった。目の前にいるあのお兄さんが、一番合戦さんの刀を見た時と、全く同じ目をしていたから。今度は隠す気が一切無い、強い憎悪と
僕や、特に一番合戦さんに向けていた、あの人懐っこい笑顔はどこにも無い。
正門の前で会った時と、格好が変わっていない。あの後も、ずっとあの猫を探していたのだろうか? お兄さんはズボンのポケットから煙草の箱を取り出すと、いちいち手で取らず、箱から直に一本銜える。
「昼間には訊き損ねちまったが……。てめえ、何であいつと一緒にいたんだ?」
同じポケットから出していたライターで、すぐに火を点けると煙を吐いた。片付けを終えた両手は、不機嫌そうにズボンのポケットに押し込まれている。
あいつとは花だろうか。一番合戦さんの事だろうか。
「……何の……話ですか?」
「
お兄さんは吐き捨てた。
「てめえ『
百鬼か。こいつ。
「……元だよ。今はもうやってない。刀も提げてないし、
「ハッ。出来損ないで追い出されたか。じゃあその犬の臭いはどうなってんだ?」
鼻が利くらしい。黒犬の存在に気付かれている。
「取り憑かれたみたいなものだよ。兎に角僕は、もう鬼討じゃない。許可証も持ってないしね」
常時帯刀許可証とは別に、そもそも鬼討とは許可証を持っている。属する組の長が配る身分証のようなもので、どこの地域の何組所属で、家の名前は某と記されており、長の場合はどこの地域で、何組を率いているかなどのやや簡単なものだ。常に持ち歩く事を義務付けられ、当然常時帯刀許可証も、肌身離さず携帯せよと定められている。
引っ越す際に枝野組から貰っていたものは返しているし、お供であるが鬼討ではないので、一番合戦さんからも貰っていない。今僕にある身分を示すものと言えば、学生証と保険証だけだ。
「ああそうかい。俺ぁんな事より、何であいつが、てめえの側で鬼討なんかやってんだって訊いてんだよ」
お兄さんはポケットに手を入れたまま、こちらに向かって大股で歩き出す。
「常時帯刀者だ? ふざけんじゃねえ。あいつが進んで、あんな嘗めた真似をする筈が無え。てめえみてえな出来損ないの鬼討野郎に匂いが移る程、一緒に行動する筈も無えんだよ」
一番合戦さんの方か。
足元で、闇が蠢くのが分かった。
僕は肩幅ぐらいまで足を広げると、黒犬に連動するように迎撃態勢を取る。
人狐戦以来まともに使ってないが、上手く立ち回れるか。
「そんな筈こそ無いと思うけれど。でなかったら出会ったばかりの僕を、助けようとなんてしてない」
「何言ってんだてめえ」
「君こそ何なの?」
何の百鬼だ? こいつ。
「何でもいいけれど、一番合戦さんを困らせるなら帰って貰うよ」
顔に出やすい性格なんだな。
ぷつんと、奴が沸点を迎えたのが容易に分かった。
「言うじゃねえか……色男ォ!!」
男がポケットから抜いた右手を振り上げると、大木のような火柱が現れ突進して来る。
火ってまた。数ある百鬼の中で、最も種類が多い奴らじゃないか。
判別し辛い。
面倒な奴だと舌打ちしながら、僕はアスファルトを蹴ると跳ぶ。
ごおっと背中が空気を裂き、ワイヤーで吊り上げられたアクション俳優のように、空中へぶっ飛んだ。
「たっ、高っ!?」
「あっはっは! 軽く貸してみた程度だが、案外いけるもんだなあ!」
電柱の天辺に届くぐらいに空を舞うと、突然黒犬の楽しげな声が、姿は見えないが側から聞こえてくる。
陽が当たらない夜だからだ。今は大気すら闇の中だから、行動範囲が格段に広がっている。
闇から闇へ、好きに消えては現れる、ブラックドッグの真骨頂だ。
「ちょっと跳び過ぎだけれど……!」
黒犬の行動範囲が広がったのも、同調率が上がっているのも、信頼関係が構築され始めた証だろうか。頭の隅で呑気にそんな事を思いながら――男の脳天へ、黒犬の力で、肘辺りまで一回り大きくなり、黒い毛と鋭い爪を纏った、右の拳を振り落とす。
それを眺めていた男は左手をポケットに入れたまま、後ろに跳ぶと難無く躱した。
男がいなくなった辺りのアスファルトは蜘蛛の巣状の亀裂が入り、大きく盛り上がって弾け飛ぶ。その被害はかなりの範囲に渡ったが、見越していたように一切壊れていない域にまで退避された。
場数を踏んでいるのか。百鬼から見ても異質な存在である僕らを目にしても、全く動揺していないように。
「あぁー全く不愉快だ。鬼討で犬野郎なんてよお……。居たたまれねえ、居たたまれねえ……」
男は右手を
「変わっちまったのかなあ流石に……。もう何年……。何年だ? とんと会わなくなっちまって……。はあ……」
堂々と余所見をして、一体何を嘆いているのか。
当然教える気なんて無い男は、大きな独り言を終えると顎を下ろす。
「……だからてめえは、ぶっ殺そう」
妙に冷めたその声と目に、腰から首の付け根辺りまで、ぞあっと悪寒が駆け上がった。調子はあくまで軽いが、本物の殺意を感じ取る。
何でつい数時間前に出会ったばかりの相手に、ここまでの怒りを燃やされるんだ。
現役時代に、何か因縁でもあった百鬼か? 幾ら顔を見ても、思い当たるような件は浮かばない。
「……何だこいつ……」
「おい。あいつのあの火、浴びるんじゃねえ。何か妙――」
奴の殺気を感じ取ったのか、足元から緊迫した黒犬の声がする。
すると目の前が、突然真っ赤に燃え上がった。
その勢いと熱に、思わず腕を翳して顔を庇う。
「しまった……!?」
こちらの視界を遮るように湧き出した火は飛び散ると、その先の景色を晒した。
あの、今日引っ越して来た彼女がいる。制服のままで、燃える刀を両手で振り下ろし。男の脇から飛び出して来た格好で、剣は辛うじて
炎刀型の名門、赤嶺。
これはあの男じゃなくて、彼女の炎だったのか。
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