non-linearity in me

森音藍斗

non-linearity in me

 雨だった。

 天気予報によれば今日はずっと雨で、天気予報の非線形性が立証された現代において、例えば私が蝶で、今ここで羽ばたけば、一年後に地球の裏側で虹を架ける一助になるのかもしれないけれど、今日の恐らく日が暮れるまではこの大粒の雨が上がらないことは殆ど確かで、だから私の頭痛が止まないことも確かで、吐き気がするのも確かで、学校に行きたくないことも同じくらい確かで、それなのに学校に行かなければいけないことは、天気予報よりもずっと確かな、人工的な、規律。

 食べ物は無駄にしてはいけないから、どんなに吐きそうになっても、朝食を残してはいけない。母はとてもきっちりと朝食を作る人だ。朝食だけではない。家にスナック菓子など置いていない、ジャンクフードなど高校の帰り道、友達とファストフード店に入るまで食べたことがなく、朝は六時に起きて、夜は十一時に寝る生活、シャンプーも台所用洗剤も自然由来、食卓を囲む時間には消されるテレビ。家の時計と会計と栄養管理は全て母が回していて、外に働きに出て家族に広々とした生活を提供してくれる父と同じぐらい、母は専業主婦として完璧な仕事を果たした。朝食のメニューはだいたい白ごはん、味噌汁、温野菜、卵焼き。それから最後に、果物だったり、ヨーグルトだったり。美味しい。美味しいんだ。母の味というのは美味しくあるべきものだから美味しい、というのを度外視しても、美味しい。量が多すぎるという問題は、美味しいが覆い隠してくれる筈で、一旦胃液に浸された、半時間前まで美味しかったものは、最早美味しいものではないから、だからそれは仕方がないんだ、登校途中の公園のトイレで毎朝不味い思いをして吐き出すことになろうと、残してはいけないものは、残してはいけないから。

 いってきます。




 雨の廊下とは、陰鬱なものだ。学校という人工的な規律を具現化したような冷たいコンクリートの床と壁、そこに結露した水滴は、学生の足を滑らせる、縁起が悪い。これでも春には受験生なんだ。勉強なんてしていないけれど。

 折角私の周りには人が近寄らないことだし、勉強ぐらいしてやればいい。好都合だ。神からのプレゼントだ。と考えられるほど私は大人じゃなくて、だから担任に呼び出されたときも、今の状況がちょっとは解決するといいな、なんて楽観的なことを考えたのだけれど。

「最近、クラスで悩んでること無い?」

 教室でも職員室でもなくて、相談室にわざわざふたりきりで入れられたというのは、つまり、先生、把握してるんでしょう、どうして回りくどい聞き方をするのですか。

「特にありません」

「隠さなくてもいいのよ。困ってることとか、ちょっとしたことでもいいから。先生、誰にも言わないから」

「勉強がしやすくなりました」

 先生は眉を八の字にして、それでも口端にピンで刺したような微笑みは崩さぬまま、首を傾げた。

「先生、あなたが最近誰ともお話してないなって、ちょっと気になってたのだけど」

 ちょっと気になるぐらいで、相談室を占領しないでください。先生のそれは、じゃあ、気のせいです。

「最近、友達と喋ってる?」

 友達だった人たちは、もう、今は友達ではない。よって、喋っているか喋っていないかというより、友達がいないという方が正しい。

 とはいえ、結果的に友達と喋っていないという事実には、変わりがないので。

 私が首を横に振ると、どうしてかしら、と先生が言った。

「なにか、きっかけがあったか覚えている? もちろん、虐めは悪いことで、どんな理由も理由にならないけれど、きっかけというものが存在したら、解決への足掛かりになるかもしれないから」

「私が悪いんです」

 私は、先生の膝丈スカートから覗く膝頭を見ながらそう言った。それはとても滑らかで、赤みもなくて、瑞々しくて、きっと先生は、幸せなのだろうと思った。若しくは、幸せの皮を被っているか、どちらかだ。上手に皮を被れているのならつまり先生は大人であり、与えられた幸せを適切に享受できているにしても、自分で幸せを捏造できるにしても、やはりそれは、大人。

「原因は分かるので。私が悪いので」

「さっきも言ったけどね、どんな理由も、理由にならないのよ。虐めというのは、どんな正しそうな理由があっても、それでも駄目なの」

 その理論は知っていた。そして、正しいと信じている。正しいと信じて、過去、客観的に虐められていると思われたクラスメイトに話し掛けに行ったこともある。虐められているクラスメイトには、話し掛けに行くのが正しい。そして、私には誰も話し掛けに来ない。だから、これはきっと虐めではない。

「自分が壊れる前に、自分を守ってね。そのときには私も頼って。先生はいつでもあなたの味方だから」

「吐いてたの、知られたんです」

「吐いてたの?」

「毎朝」

「毎朝?」

「朝ごはん吐いてから学校来るんです。それを知られて、みんな知ってて、だから私には近付きません。汚いし、臭いし。だからみんなは、自分が壊れる前に、自分を守ってるんです。味方してあげてください」

 立ち上がって教室を出ようとする私の背中に、先生は声を掛けた。

「辛かったら学校を休んでもいいのよ」

 何を今更。

 学校は休んではいけないと教えたのは、誰だったでしょうか、先生。




「お前さ」

 半年前からの恋人のことを、私はきっと、好きではなかった。

 私の淡い空色の傘と、彼の大きい夜色の傘は、ふたりの距離を遠ざける。塾からの帰り道。彼は私が学校で、独りでいることを知らない。

 早く教えてあげないと、教えた上で、私と付き合い続けるかどうかの判断を乞わないと、アンフェアだとは思うのだけれど。

「言いたいことあったら、言えよ」

 思わず耳を疑う。

「何それ」

 訊き返す。

「いや、そのままだよ。文句があったら言ってくれないと分かんないし、そういう不満がちょっとずつ積もったら、お互い嫌だろ」

 私は足を止めた。それに気付いて彼も、数歩進んで足を止めた。私を振り返る彼は、かなしそうな目をしていた。何それ。知らない。

「じゃあ言うけど」

 彼が口元をきゅっと結ぶ。

 付き合いたくないって言ったよね。貴方が好きって言ってくれたとき、私ちゃんと断ったよね。それでも強引に距離を詰めたのは誰。私を抱き寄せたのは誰。私のはじめてのデートも、キスも、手を繋いで歩くことさえも、奪っていったのは、誰。知ってたんでしょう。私が貴方のこと好きだから、断れないの知っててやったんでしょう。二度頼まれたら、貴方の幸せを阻害することなんて私にはできなくて、自分が幸せになりたくないなんて勝手な動機は私が死んでしまえばどうでもよくて、だから貴方のしたいようにされるしかないって、知っててやったんでしょう。

 なんて言葉は、やっぱり声にはならなかった。

 貴方を傷付けることが私にはできないってこと知ってて、言いたいことあったら言えなんて意地悪を、また。

 でも本当は、貴方が傷付いたって私の知ったことではなくて、だから貴方を傷付けたくないなんてのは私の勝手でしかなくて、さっさと嫌われてしまえばいいのに、さっさと振られてしまえばいいのに、貴方を傷付ける言葉を回避して、私が誰にも近付いてすらもらえないような、汚くて臭い女だってこともいつまで経っても言わないで。

 口から声は出ないのに、頬を大粒の涙が伝い、それは、きっと、雨だから。私は傘を放り出して、貴方に背を向けて走った。

 笑顔が好きと言ったのは誰。

 毎日鏡に向かって笑顔の練習をしている私は、何。

 恋人とは、愛し合うべきものだった。

 だから私は、彼のことが好きだった筈だ。




 ああ、先生は、話を母に回すことに関して私に許可を取ったりはしないのだと、知った。

 ずぶ濡れで帰った私を、母は玄関先で抱き締めて泣いた。

 自分が濡れるのも構わず、涙が、制服に染みた雨に溶けていくのも構わず、朝食なんて残してもいいのにと、食べたくなかったら食べなくていいのにと、縋るように泣く母に、私はもう泣けなくて、先に泣かれてしまったら、私にもう泣く権利は残されていなくて、頬が濡れているのは、だから涙ではなくて、誰がどう見ても雨だった。ねえ、かなしいのは私じゃないの。何でお母さんが先に泣くの。私のかなしみは何処へいくの。食べ物は残しちゃいけませんって、私に教えたのは、誰。地球の裏側で羽ばたいて私に雨を降らせた蝶の隣で餓死する子供の存在を私に教えたのは、だから食べ物は残しちゃいけませんなんて、私が食べ物を残さなかったことによって地球の裏側の命が救われる訳でもないのに、さも当たり前であるかのように、反論をしたら私が悪役であるかのように、にっこりと笑ったのは、誰。

 母を振り切って、鞄も捨てて、玄関を飛び出す。




 携帯電話も財布も持っていなかったのだけれど、幸いにして定期券は持っていて、それに付随してICカードを身に付けていた。数千円は入っていた筈だ。友達と学校帰りに遊ぶでしょうと、つい先日母が追加してくれたばかりだ。

 だから、心が痛む。このお金は、友達と遊ぶために使うお金だった筈だ。決して雨の日に家を飛び出して、独りでジャンクフードを買い漁るためではない。

 いや、今更だ。

 学校を休んでいいことも、恋人に不満を言ってもいいことも、朝食を残していいことも知らなかった私はきっと、このお金を、全世界チェーンのファストフード店に入って、体に悪そうなものばかり買うために使ってはいけないことを知らなかったに違いない。そうだ、きっとそう。

 市内でいちばん大きな駅、私の勇気の許す限りで異世界といちばん近づける場所、御伽話と教科書の中でしか知らない、地球の裏側、どころか街を一歩外れた亜空間、それは私にとって蝶の背に乗り山火事に堕ちるファンタジーの世界と同列で、新幹線、空港行きの特急電車、スーツケースを引きながら歩くあの死んだような目のサラリーマンは、昨日の今頃、地球の裏側にいたかもしれない、はたまた水煙草をふかす人を食ったような芋虫と対話していたかもしれないなんて、無意味な妄想を掻き立てる場所。ここにならきっと何でもあるだろうと、無い感覚をあてにして、飛び乗った最終電車を降りた。家出娘が一夜を明かせる場所だって、きっとある。いつもは独りでこの駅に降り立つことなど滅多に無い、あったとして、大型書店で参考書を探すぐらいだ。あとは、今はもう友達でないかつての友達が、遊びに誘ってくれたときに後ろをついて歩いただけ。だから、見たことのある景色は多けれど、自分で歩くには足の進めるべき方角が分からなくて、取り敢えず改札を出てすぐに発見した世界規模のハンバーガーチェーン店で食糧を調達する。自分規模ですら満たせない小さな私には目を瞑って。

 駅は終電が過ぎてから、徐々に消灯を始めていた。思っていたよりも薄情だ。駅でも電気を消すんだな、なんて、当たり前のようで知らなかったこと、例えば、地球が丸いとか、そんな感じ、地球が丸いことを私はこの目で確かめたことはないけれど、でも終電が過ぎたら駅の照明が消されることはこの目で今確かめたから、きっと私は昨日の私より、賢い。

 仕方が無いので外に出る。空気中の水蒸気が全部水滴になったような、纏わりつくような陰鬱な風、タクシーのターミナル、ここはまだ人と車が行き交っていて、街灯りが差していた。雨はまだ止まない、だからきっといつもより人が多くて、いつもよりビルの灯りが荒んでいるんだろうと、いつもの景色なんて知らないのに、推測をする。それは、幸せになりたくない私の勝手。暗がりに目立たないベンチを見つけ、こんなところじゃタクシーの運転手に見つけてもらえないんじゃないだろうかと要らない心配をしてしまうようなベンチを見つけ、それは結果的に今の私には好都合で、座って食べたハンバーガーは、あたたかくて無機質で美味しかった。母の美味しさとは全くベクトルの違った、全てを諦めたどん底に佇む安心感の味がした。それを美味しいと呼んだって、悪いことはないだろう、私の心の中だけでなら。

 そのまま眠りに就いてしまったらしい。




 全身が痛くて目を覚ますと、洗い立ての洗濯物のような、陰鬱さのない済んだ湿り気、私の傘色をした空と、飛ぶことの難解さを知らない鳥の鳴き声、それを模倣しきれなかった信号機の囀り、街の活動の始まりを告げる車の音。ベンチには、濡れたまま皺の寄った制服と、癖のついた黒髪、外観からは分からないまでも確実に中身の減ったICカード、昨日の夕飯が包まれていた紙袋、お風呂に入らなくても、歯を磨かなくても、ベッドに入らなくても、割と死なないんだと知った。

 屋根の下から抜け出して、ビルの外壁に据え付けられた時計を見ると、午前五時、立ち上がってみて分かる、体の重さ、心の重さ、案外とまあ世界は雑に出来ていて、だけど、許してやってもいいかな、なんて不遜なことを考えた。

 帰ろう。

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