第21話 この景色を共有したい相手
「ただいま」
玄関の鍵を自分で開けて入ると、どことなくよそよそしい。父親のゴルフバッグ、自分の靴…… かつてそこにあったものがないだけで、玄関先は他人の家のような白々しさで一縷を迎えた。
「あら? どうしたの、突然?」
リビングでパソコンを開いていた母親が不思議なものでも見るような顔で一縷を見た。
「夏休みだから」
「そうなの? もう夏休み? 早くない?」
ノートパソコンの上蓋を閉じながら母親が訊いた。
「大学はそうなんだよ」
「いつまで?」
ソファーに座ったまま母親が訊く。
「すぐ帰るよ」
「えっ? 夏休みは?」
「邪魔するつもりはないからご安心を」
「我が子ながらイヤらしい言い方…… ホント嫌になる」
一旦立ち上がろうとした母親は、また元のソファーに腰を下ろした。
「
「…… 突然帰ってきて、すぐ帰る? 随分だこと」
母親が漏らした言葉には応えず、一縷は二階の自室に上がると、すべての窓をやや乱暴に開け放った。
ベッドに横たわり、
『飲みに行こう』
『マジか? 明日からキャンプだろ。さすがに出にくい』
未来から否定的なメッセージが戻る。それからしばらくして、伊咲から返信。
『いいよ。どこ?』
何処と言われても、高校生までの記憶をいくら辿ってみても焼肉屋とファミレスの名前しか思い浮かばない。
『伊咲どこか知らない?』
『知るわけないじゃん! でもいいよ、誰かに聞いてみるよ』
『悪いな』
『ホントだよ。おぼっちゃまくんの相手はホント疲れるよ』
伊咲を都合のいい女にしていることに、さすがの一縷も良心が咎めた。
『感謝してる』
素直にそう返信していた。
『まあいいよ、一縷はなんやかや言いながら紳士だから。危険はないしね』
『それは安心してくれ』
それっきり返信が途切れる。
『バカ
20分経ってそう返信があった。伊咲が怒ったと勘違いしていた一縷はホッと胸を撫で下ろし、出かける準備をした。
「出かける。晩飯はいい」
「そう」
母親はパソコンから目を上げることもなく短いひと言を発しただけだった。
◇ ◇ ◇
真夏の太陽はまだ天空高いところにあり、自転車に跨って出かけたものの、店に向かう時間でもない。一縷は、高校生の頃よく通った海岸線を目指した。
海岸線は内海に沈む夕陽が美しい人気スポットだが、日中は人影もまばらだ。一縷は海岸線に設けられたモニュメントが作る僅かな日影に身を隠し、スマホを取り出した。
『お疲れさまです。今度の土曜日と日曜日、塾が終わったらテーマの事で相談に乗って下さい。よろしくお願いします』
(わざとらしいな…… )
送信を躊躇った。もっと自然に「会いたい」でいいような気もしたのだ。
合宿を終えて、一縷は以前にも増して涼音を強く意識し始めた。特に、酒盛りの席で彼女と視線が絡みあってからは、彼女も自分を意識していると確信するようになった。合宿からの帰路、彼女とひと言も交わす機会がなかったことでさえ、それは彼女が自分を意識するがためだと思えたし、事実、視線を彼女に送ると、彼女は常に横顔を向けるものの、その瞳の端が僅かに自分を追うことを彼は見落としていなかった。
だから、今日、涼音にはメッセージしておきたかった。
が……
『いっちゃん、もう着いた?』
『うん。着いた。これからみんなで飲みに行く』
伊咲と、とは書けない。
『ふ〜ん』
『久しぶりだから』
『そうだね』
そこでしばらくメッセージが途切れる。
再び涼音が現れる。
(土日に会えますね、だけでいいか…… )
だがそれもまた我が物顔でいやらしい。却下。
『お疲れさまです。今度の塾のあと、時間下さい』
じっと文字を眺める。
(「いいよ」 そう返信が来たら、ちゃんと告白しよう…… )
だが、そう考えただけで送信できなくなる。気づくと日陰の位置がズレて半身が夏の強烈な陽射しに晒されている。
(…… 暑っ )
汗だくのTシャツの裾をパタパタさせながら立ち上がると、一縷は涼を求めて遊歩道沿いの東屋に逃げ込んだ。涼音に送るはずのメッセージのことはそのまま忘れてしまった。
夏の陽ざしがやや傾いて、水面に光の道が輝き始める。アパート近くの海沿いも風情はあるが海水の汚れがやや目立つ。美しさと長閑さはこの海岸の方がはるかに上だ。
一縷は何気なく一枚の写真を撮ると、無意識のうちにそれを舞に送った。
『うちの近くだよ』
そうコメントを付した。
『うわぁ〜、ステキな場所ね!』
舞なら肯定的な返信が必ずあると思っていたが、その通りの返信に思わず頬が緩む。
『だろ! ここからの眺めが好きなんだ』
『いいなぁ〜、そこでキャンプ?』
『キャンプはもっとキレイな場所だよ。橋で繋がった島に行くんだ』
『え〜〜〜〜、なんか取り残され感ハンパない……』
『だって日焼け厳禁だろ?』
『黒鳥役だから平気! な~ンてね』
『へぇ、そんな役あるんだ』
『そっか、いっちゃんはバレエ知らないんだよね。白鳥と黒鳥は同じプリマが踊るんだけどね』
『白く塗ったり黒くしたり大変だね』
『アハハハ、黒鳥は全身真っ黒のイメージなの?』
『普通そうでしょ? 嘴が真っ赤だから、ゴテゴテに口紅塗るとか?』
『キャハハハハハ、それウケる!』
『今度、ボクが演出しようか?』
『お願いします! 私が主演?』
『そうだな、考えとく』
『演出家センセ! なんでもしますだ、主役にしてくだせえ!』
『なんでもするんだな、イヒヒヒヒ』
『するよ、いっちゃん好きだし』
『…… 素に戻るなバカ』
『アハハハ、照れてやがんの』
『最近さぁ、舞は言葉遣い悪いよ』
『そう? これが普通』
『最初会ったとき、翻訳して下さる? とか お家にいらっしゃる? とか言ってたぞ!』
『あ〜、あれね、あれはお嬢様ぶりっ子』
『ガクッ……』
『そういうのが好き? 嫌いかと思ってた』
どうなんだろ…… ふと考え込んでしまった。
毎日やり取りする舞とのメッセージは、それがないと何か物足りなさを残すほど一縷の日常に入り込んでいる。それは彼女との自然なやり取りが好きなのであって、取り立ててお嬢様だからとか、そんなつもりはない。さらに言えば、なくてはならないものだけど、これは恋なのか? と問われると躊躇してしまうのも事実だ。
『あれ? 返信がないぞ? 浮気か?』
『浮気だ。水着の美女だ!』
『いっちゃんはエッチだからな、もともと……』
『そう?』
『女の人の後ろ姿をイヤらしい目で見てる』
図星を言い当てられて、ちょっとドキッとした。
『なんでわかるんだよ!』
『いっちゃん見てるから』
返信に迷った。
海はキラキラ輝いている。この景色を一緒に見たいのは舞…… そう思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます