第17話 未来と伊咲

 6月中旬、海辺の街は鬱陶しい雨の日が続いた。


 そんなある日、一縷いちる伊咲いさきに誘われて濠端の美術館に出かけた。展示に興味のない彼は、併設されたカフェの、濠に向かって大きく視界を広げるガラス窓から、雨に煙る公園の様子を眺めていた。晴れた日とは違い、静かで人の気配のないの景色は、濃淡だけの水墨画を眺めているような落ち着きがあった。


 展示を見終えた伊咲が視界を妨げて一縷の真正面に座った。彼はちょっと顔をしかめたが伊咲はそれに気づく気配がない。遅れて合流するはずの未来の姿を探して中腰になるから余計に邪魔になって仕方ないが、わざわざ指摘することもできず、一縷は諦めてコーヒーに口をつけた。


「スーパーのバイト辞めたんだって? 毎日何してんの?」


「いろいろ」


 詰問されているわけではないが、伊咲の問いはいつもちょっと面倒くさい。


「いろいろね。なんだかなぁ。まさか、囲われの身?」


「囲われ?…… イヤな言葉だな」


 瞬間的に母親の姿が頭を過る。きっとかなり不愉快な顔をしているはずだが、伊咲はそれにも知らん顔をする。


「深い意味はないから」


 それはそうだろう。含意があったらたまらない。


 しばらく会話が途切れる。軒から落ちる雨の雫が数えられそうなスピードでポツリ…… ポツリと落ちる。


「しかしさぁ、学習塾の講師に誘うなんて、なんか手が込んでる感じがしてちょっとアレだね」


 結局、伊咲と話していると、いつの間にか涼音すずねまいのことに話が及ぶ。


「そういう穿った見方ができるのもなかなか伊咲らしいな」


「だって安い時給でこき使われてる一縷は飛びついたわけでしょ?」


 そこはちょっと一縷自身引っかかっていた。塾長にこの先続けるか? と尋ねられた時、一縷は舞のことを思い浮かべながらも、その報酬の高さに、思わず「よろしくお願いします」と頭を下げてしまい、やや後ろめたいものを感じていたのだ。


「だけど、それを彼女と結びつけるのはどうかと思うよ。欠員ができて、誰かに声をかけるしかなかったんじゃないの? 別に普通でしょ?」


「でもさぁ、それでわざわざ一縷を選ぶってのがさ…… どうなってんの? 彼女とは」


「どうもなってないよ。お前がそう言うから逆にどんどん気になるんだよ」


「連絡があって舞い上がったくせに」


 それは図星。あの日の事を思い出すと、我ながら宙に浮いた気分だったのは否めない。そして今では、塾までの行き帰りにバスが同じというだけでなく、週末は遅い時間の食事もふたりでするようになっていた。さらに、来月の合宿に向け、プレゼンの準備を口実に時々会っている、なんて、さすがに言い出しにくい。舞い上がっているというより…… 親しい関係になった? ような気もする。


「今の一縷は、蜘蛛の糸に絡み取られたセミみたいだよ」


「なんだそれ?」


 そう言いつつ、アブラゼミが蜘蛛の巣に引っかかった映像が遅れて目に浮かんだ。一縷がムッとすると、ようやく意味が伝わったと思ったのか、伊咲が急に笑い出した。


「アハハハ、わかった?! ブンブン羽を震わせてるんだけど、もうどうにもできない感じ! 一縷、それだよそれ! まさにそれ!」


 そりゃいくら何でも失礼だろ、絡み取られたアブラゼミはいいとして、涼音はセミの絶命を遠巻きに眺めている女郎蜘蛛? そりゃあんまりだ、などと思っていると、それを無視するように伊咲がまた言葉を継いだ。


「舞ちゃんはよく平気だよね。私だったらそのバイトすぐやめて! って言うけどな」


 女郎蜘蛛に食いつくされるのを見てられない、とでもいう気か?


「舞は彼女の存在は知らないんじゃないのかな? 話したことないし」


 唖然、という感じで伊咲は口元に運んでいたカップの動きを止めた。


「ズルいなぁ。一縷はそういうズルいとこ、ある…… イヤらしい」


「なんで同じことを何度も言わせるかなぁ。そういうつもりはないから」


「そう?…… 誰に?」


 まるで詰将棋で追いつめられる感じだ。


「どっちにも! っていうか、なんかいつも煩いんだけど」


「…… やましいからだ」


 再び少し会話が途切れ、間が空く。ちょうどそこへ遅れて未来みらいが合流した。


「お前、講義来ないけど大丈夫か?」


「さあ、わかんない」


「他人事だなぁ。そうやって落ち着いていられる神経が俺にはわかんないんだよな」


「この人はさ、とにかく切羽詰まらないと何もしない人だから」


 伊咲が横から口を挟む。


「そうなんだけどさ。舞ちゃんが、『いっちゃん大丈夫かなぁ』って心配するからさぁ」


 未来が舞の口真似で冷やかす。そうなのだ。一縷は最近、「いっちゃん」に昇格したらしく、舞は周囲にもその呼称を使うようだ。


「アハハハハ、『いっちゃん、ダメよ、授業に来なきゃ!』」


 今度は伊咲が未来の口真似を口真似する。


「似てねーし」


「悪かったね。私はね、あんなお嬢様な声出ませんから」


 確かに、ちょっと舞の声は口先から出てる感じがしなくもない。


「『いっちゃん、お家に遊びに来てよね! ママが待ってるんだから!』」


 完全に調子に乗った未来がさらにからかう。


「『もぉ~、いっちゃんの意地悪! キライ!』」


 伊咲もさらに調子に乗る。毎度毎度のことなので、イチイチ反論する気にもならない。こうなったらふたりが飽きるのを待つしかなかった。


「『いっちゃん、合宿には付いていくからね!』」


「『いっちゃん、夏のキャンプも一緒に行くからね!』」


 なかなか口真似は終わりそうにない。


「お前たちそれどこで聞いてたの?」


「アハハハハ、やっぱりそういう会話してんだ? なっ、伊咲、俺のカンが当たってるだろ? 舞ちゃんが言いそうなことだよ、ホント。かわいいちゃかわいいんだけどな」


 一縷がキャンパスに行かない時間、舞と未来は一緒の授業が多いから、必然的に話をする機会も多いのだろう。舞のことだから、未来には包み隠さず何でも喋っているに違いない。おそらくあの夜のこともふたりには筒抜けなんだろう。


「『いっちゃん、いつお家に来てくれるのかなぁ、約束したのに……』」


 さすがに冗談もここまで来ると笑えない。一縷は残りのコーヒーを飲み干すと席を立った。


「なんだよ、帰るのかよ?」


「あぁ。なんでお前らの餌食にならなきゃならないのか、アホ臭くなった」


「幸せの代償だよね」


「そうだよ。俺なんか、舞ちゃんがそうやって浮かれるたびに、あの先輩のこと告げ口したくなるのをグッと我慢してるんだからな!」


「別に言えばいいじゃんか。全然かまわないけど。何でもないし」


「へぇ。バスの中で仲良く並んで座ってるところ、何人も目撃してるんですけどね」


「…… 暇人ばっか」


「というより、一縷が目立ち過ぎなんだよ。ひっつめ髪の舞ちゃんといるかと思えば、あんな綺麗な肌の女性といたら、誰だって気にするよ。こんなちっぽけな街なんだからさぁ」


「…… 」


「まあ、さっきのは冗談。俺たちが告げ口することなんかないから。舞ちゃんの耳にも入ってないみたいだし。ただ、彼女はクラスのマドンナ的存在だから、お前、変なことすると、多分、あのクラスで浮くよ」


「そうですか。ご忠告どうも」


「ダメダメ、この人はそういうのは全く関係ないから。浮いたら浮いたでいいと思ってるような人間だから」


 伊咲はよくわかっていた。高校時代から、一縷はこのふたりがいないと、誰とも関係性が成り立たないような人間だったのだ。


「あっ、そうそう、夏休み入ったら今年もキャンプするからな」


「一応了解。っていうか、用件は最初に言えや」


「アハハハ、悪ぃ悪ぃ、危うく忘れるところだった。

 ちゃんと来いよな。誰とも連絡取らないと、そのうち存在忘れられるぞ」


 忘れられても構わないが、やっぱり未来と伊咲に誘われれば断る理由もなかった。




 そして、あっという間に7月になり、現代史ジャーナルの合宿の日がやってきた。

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