第16話 枷
バスを降りた
『おはよう』
彼女から送られたメッセージを幾度となく思い起こす。このたった4文字が、液晶の上で躊躇う彼女のか細く寂しげな指先を思わせ、一縷をこの方角へ向かわせる。
時計は既に23時を回っている。彼女は待ちくたびれて眠ってしまっただろうか? それとも、自分を呪って決別の意志を固めてしまっただろうか? そんな弱気が頭を擡げる。そう思うと足取りは重くなり、急げば5分もかからない植物園下のバス停まで、今夜は10分かけてようやく辿り着く。ベンチに座りメッセージをあれこれ考える。が、なかなか思うような文章も出来上がらない。
(何やってんだろ?……)
昨日と同じ場所に今日もまた座っている。バスを待つわけでもないのに、二晩続けてバス停のベンチで待つ自分…… あっ、昨日、ベンチで横になってた変な奴だ! 行き交う車の中で、そう噂されているかもしれないと思うと、立ち上がって道路を背にしてしまっていた。
『塾が終わって歓迎会があって、今、植物園下のバス停まで来たところ。舞の声が聞きたいよ』
結局、何の工夫もない、思いついたままをメッセージしてしまう。
(トホホだな…… しかも唐突な…… )
送信した後でそんなことも思ったが、このメッセージに折り返しの電話があれば1番、ただの返信なら2番、何もなきゃ…… もういいや。ようやくそんなふうに割り切って、バスだとここからどう帰るのか、
と、その時、後方の足音に気がつく。誰かが走ってこちらに近づいてくるようだ。振り返るとそこにジーンズ姿の舞がいて、坂道を全速力で駆け下りると、そのままの勢いで一縷に飛びついた。
「わぁ〜、こ、ころぶから!」
「一縷のバカぁ〜〜〜」
いい匂いがした。細い首筋が一縷の唇のすぐそばにあって、自然にそこに口づける形になった。本当は身体を離してちゃんとキスしたい気持ちも沸き起こったが、彼女は腕を強く巻きつけて離そうとしない。
一縷はそのまま彼女を抱き止めた。これで気が済むのなら、ずっとこうしていようと思った。この子に必要なのは、自分の百の言葉ではなく、目の前に黙って存在してやることだと思ったのだ。
学習塾方面行きの最終バスがやってきて、乗客と間違えた運転手が最終だと告げている。一縷はかろうじて自由になる首を横に振って乗らない意志を伝えた。その後も何台かのタクシーが速度を緩めては行き過ぎる。そしてようやく舞は巻きつけた腕を緩め、互いに正面から向き合った。
「舞の
一縷が苦笑いすると舞は恥ずかしそうに笑った。
「だって…… 逃げるから」
「逃げてないだろ! 昨日もここで待ってたんだぞ!」
「…… うん」
「寒かったぁ〜」
「ホント?」
「ホントだよ! ったく…… タクシーは何回も止まるしさ。その都度、乗りまっしぇ〜んて断ったんだからな!」
「へぇ〜、今日もいっぱい来る?」
「ああ、多分、何台も止まるよ」
「…… じゃあ…… 止まったらそれに乗って帰る? 一緒に……」
まじまじと彼女を見てしまった。綺麗な目をしてるなぁ…… と見惚れる。
「明日は1限目から講義だろ?」
「一縷もだよ」
「準備もなしで泊まりに来るの?」
「…… 」
「お肌のお手入れとかしないのかな? なんもないよ、アパートには」
「…… 」
「寝かせないだろうしさ……」
「…… うん」
どうすればいいかわからなかった。一縷が誘えば舞に迷いがあるようには思えなかった。だが、本当にそれでいいんだろうか?
自分はこの子を抱けるだろうか…… ふとそんなことを思ってしまう。一縷は冷静で残酷だ。
「あっ! スマホ…… 忘れてきた!」
突然、舞があちこちポケットを探し始める。
一縷はホッとした。ついさっきまでの緊張が、ふっ、と緩んだ。
「あ〜ぁ、残念…… スマホ忘れたら家族の人は心配で夜も寝られないと思うな」
「…… そうかなぁ」
「当たり前だろ!」
「だけど、一縷に会ってくる、ってママには言って出てきたよ」
「ま…… マジか」
「うん、気をつけて、って言われた。ママがパパにも言ってると思う」
「随分…… 理解のある……」
「そのかわり、何でもちゃんと言いなさい、って言われてるから。昨日のこともママには話したよ」
「…… 」
「いけなかった?」
「いや……」
「どうかした?」
「送って行こう」
「お家へ?」
「うん……」
「ホント?! ホントは連れておいでってママに言われたの!」
「…… 」
「…… 嫌がってる」
「そんなことはない。だけど遅いから、舞が玄関に入るのを確認したら今日は帰る。次は必ず挨拶するから。明るいうちに」
「ホント?! 良かったぁ〜。 ママがね、一縷くんならきっと来てくれるよって言ってた! その通りになった!」
彼女はいい家庭に育てられたいい子だ。疑いもなく……
◇ ◇ ◇
坂道を5分も歩くと、低い生け垣と、何かしらツルが巻き付いたウェルカムゲートの先に、灯りの付いた玄関が見えてきた。街路灯は薄暗かったが、リビングの灯りが手入れのいい庭を浮かび上がらせている。
「ここ?」
「うん。生まれた時からこのお家だから古いんだけど」
暗くて家の外壁はよく見えなかったが、古い洋風の建物は、新しい住宅街に並ぶ、どこにでもあるような造りのものではなく、誰かがしっかり手を入れて造り上げた建造物、という印象を与えた。
「じゃあもう遅いから」
「泊まって行っても絶対にパパも叱らないと思うけどな」
「お前はアホか……」
「あ〜〜〜、またお前! って言った!」
「怒ってるの? それともひょっとして喜んでる?」
「フフフ、喜んでるかも」
可愛らしかった。いつもはひっつめ髪で大人の気配を醸し出しているが、洗い髪を靡かせた彼女はいつもよりずっと柔らかく幼い感じがした。
「じゃあまたキャンパスで」
「アパートに帰ったらメッセージくれる?」
「1時過ぎると思うよ」
「いいの。浮気しないかチェックしたいの」
「浮気しながらでもメッセージできるけどな、アハハ」
「…… ついていく」
「冗談に決まってるだろ!」
「ねえ…… 私おかしい? 重荷?」
「それくらいでいいよ」
「信じるよ?……」
「うん」
舞は今度は静かに抱きついてきた。家の傍でもあるし、一縷はすぐに身体を離した。
「ずっと見守るから、無理はするな。夢が叶う姿より夢を追いかける姿の方が数段美しい。ボクはそう思ってる、昔から」
彼女は安心したようにコクリと頷いた。
また40分も歩くと思うとさすがにうんざりして、今日はタクシーを拾った。車窓に流れる街並みを眺めながら、一縷は朝方の重苦しさからようやく解き放たれた気がした。だが同時に、別の重い足枷がしっかり括り付けられる感触も確かに感じていた。
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