第15話 見過ごした笑顔

「寝てないの? 顔が青白いよ」


 今日もきちんと襟のあるシャツを着た涼音すずねは、一縷いちるの顔を心配そうに覗き込んだ。


「中学生相手だから緊張する必要はないよ。変に畏まると、子供はかえって戸惑うよ」


 初出勤を前に一縷が緊張しているようにでも見えたのだろう。


「わかりました。できるだけ努力します…… って無理かな。何かあると顔に出ちゃうらしいから……」


「うん、出るね。あなたの考えてることは大体わかるもの」


「本当ですか?」


 舞のことを気にかけている一縷は、そのことまで涼音にバレていると不都合な感じがした。急に問い詰められると、今日は言い逃れできない気がする。


「お見通しだから。覚悟しなさい、アハハハハ」


 涼音は楽しそうに笑った。それは、昨夜の無防備な笑い方そのもので、一縷には、何も変わってないよ、と語りかけているように思えた。


「でも顔色が悪いのはホントだよ。何かあった?」


「…… 寝る前にちょっと牛丼食べて、それでしてるだけです」


「あのあと牛丼? アハハハ、キミ若いねぇ!」


「…… ひとつしか違わない、っつーの」


 下を向いてボソッと言っただけだが、涼音は聞き逃さない。


「そうだよ、あなたは永遠にひとつ年下! アハハハハ」


「…… 」


「ほら、またつまんないところでムキになる」


 言葉はどうであれ、涼音はずっと穏やかで優しい笑顔のままだ。その笑顔に、一縷は受け入れられているという温かみを感じる。つい、気持ちを許してしまい、涼音にすべきではない問いまでしてしまった。


「先輩…… 夜中にメッセージを受け取って返事しない時ってどんな時です?」


「嫌いな相手」


 間髪入れず即答だった。


「いや、そこそこ気になる相手で」


「気になる相手で?…… だったら返信するよ。当たり前でしょ? なに? 私にメッセージでもするつもり? アハハハハ」


 一縷はずっと舞のことを気にしていた。伊咲には泣いて電話をしたのに、肝心の自分には昼前になっても返事しないのは、どう考えても普通じゃないことのように思えたのだ。


 そんなことを考えているから、どうしても眉間にしわが寄る。なんとなく様子の違う一縷を涼音が気にして訊ねた。


「どうかした?」


「いえ…… 」


 問いかけにまともに応えず、ポケットからスマホを取り出した一縷を見て、涼音の顔からサッと表情が消えた。


「塾の中ではサイレントモードだからね」


 業務連絡でもするような声色だったが、一縷はその変化に気づく様子がない。


「さっきの質問って……あなたの心配ごと?」


 涼音は重ねて問いかけるが、一縷はそれを聴き逃し、舞のことに気を取られた。


(なぜ何も言ってこないのだろう? おはよう、そのひと言でなにもかもこれまで通りにできるのに…… )


 

 涼音はしばらく黙って一縷の様子をうかがっていたが、急に音を立てて席を立った。


「時間だ! 行くよ!」


 そのままふたりとも無言で15分バスに揺られ、バス停から3分歩き、「塾」と呼ばれる民家に辿り着いた。




◇ ◇ ◇


 塾長と呼ばれる人物は想像とはまるで違い、肌が浅黒く小太りな初老の男だった。脂ぎった顔がテカテカしており、よく通る大声で笑うため、初めて会う一縷もその強い生命力に圧倒された。


「やあ、初めまして。君が三上先生の彼氏?」


「後輩です」


「わかってます」


 そう言って塾長は笑った。意外に話しやすい気さくなところもあったから、ちょっとだけ緊張していた一縷も不安の大半はすぐになくなった。


 塾に通ってくる子供たちも、想像よりずっと素朴で素直な子が多く、ニコニコ楽しそうに授業を聞いてくれる。人懐っこい彼らの相手をしていると、ひとコマ45分の授業3コマはあっという間に終わった。これなら務まるかも、一縷はなんの根拠もないが、とりあえずホッとした。


 夜のひとコマを何事もなく終えると、歓迎会だと言って居合わせた講師たちが揃って食事に誘ってくれ、バス停近くのスナックのような場所に連れていかれた。その時になって一縷はハッとスマホのこと、舞のことを思い出した。



 14:02 受信1件。差出人 佐々原 舞



 開くと『おはよう』の寂しく孤独な4文字だけが目に入った。



 わざわざ一縷の見ることのできない時間帯を選んで送信してきた舞の横顔を思い浮かべる。彼女が何かのサインを出していることは強く伝わった。


 しかし、夢を追いきれず、諦めきれず、その狭間にある彼女に、自分はどのように手を差し伸べるべきなのか、手を引くべきなのか、咄嗟には返事の言葉を思いつかない。しばらくスマホを眺めたあと、彼の視線は宙に浮いた。


 そんな一縷を気にかけて、塾長が話しかけた。


「どうかしました!? 霧島先生! 今日は飲み明かしますよ! って訳にもいかないね、明日は朝からだから、アハハハハ」


 そういうと食事会を切り上げる前に塾長は一縷に確認した。


「どうです? 来週以降も来てくれますか?」


 再び一縷は舞の顔を思い浮かべた。土日を空けて欲しいと願った彼女の言葉が蘇る。この先、毎週土日が埋まったと知れば、彼女はどんなふうに泣きつくのだろうか?


「やっぱり無理ですかね。土日全てが潰れる予定なんてね」


 躊躇う一縷の顔を見て、塾長は残念そうな声になった。


「いえ、やります。やらせて下さい。よろしくお願いします」


 一縷は反射的に深々と頭を下げていた。舞のことも思ったが、スーパーの品出しとは比較にならない好条件をみすみす誰かに譲る気がしなかったのだ。


「良かった。キミは大丈夫。生徒から好かれます。ねっ、三上先生!」


「そうですね。そこはあまり心配ないと思います」


「優しい彼氏だしね? おっといかんいかん、優しい後輩だった、アハハハ」


 塾長の冗談に、涼音が動じる素振りはなかったが、一縷には彼女が良い判断だと納得してほほ笑んでいるように思えた。



◇ ◇ ◇


 他に乗客のいないバスに乗り、狭いふたりがけの座席に一縷と涼音は並んで座った。


「大丈夫なの? 土日全部埋めて」


 穏やかな、そのまま相手を包み込むような笑顔で涼音は一縷の顔を覗き込んだ。塾に来る前の一縷はやはり不安だったのだろう、そう解釈したようだった。


「涼音さんもそうでしょ?」


「まあそうだけど」


「子供相手の方がボクには合ってるかもしれない」


 ずっと舞のことを気にするより、中1の子供たちを相手にする方がよほど楽に思えたのは事実だ。


「おや? 意味深な発言!?」


 涼音は悪意なく一縷をからかった。


「大変です、大人は……」


「あらあら意味深な。ボクちゃん、いつの間にか大人になっちゃって」


「…… バカにしてますよね?」


「ううん、してないよ。カワイイ後輩をバカになんかしないわよ」


 第三者から見れば、涼音は普通ににこやかなままだ。むしろ、温かく見守っているようにすら見える。


「後輩…… ですか」


 しかし、一縷は舞のことに気を取られ、涼音のことをまとも見ていない。


「先輩じゃないよね、アハハハ」


「もういいです」


「またすぐ怒る…… ホント、なんとかしなさい! その性格」


「わかりました。今日中になんとかしますよ」


「バカみたい」


 それっきり彼女は急速に表情を失くすと、黙って外の暗闇を眺めた。


 そしてその日はそのまま会話もなく、キャンパス下のバス停で別れた。

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