第12話 あるきっかけ
ゴールデンウィーク明け、
それでも朝、2時限目が始まる頃には起き上がり、キャンパスに向かって歩き出す。だが、途中、大きな濠のある公園まで行くと、そのまま濠端の美術館に入ったり、そこから城址公園を巡って繁華街の書店まで歩き、棚に並んだ背表紙を眺めたりしている。時には古城のある隣町まで足を伸ばし、一日中ぼ~っと過ごすこともあった。
そんな一縷を気にして、
『今度の土日空いてる?』
5月下旬のある日、一縷は
『何でしょう?』
彼女からメッセージが届くのは初めてのこと。一縷はベッドからそそくさと起き上がった。
『うん、もし空いてるなら、手伝って欲しいことがあるんだ』
『はい。土日は大体暇です』
実際は「毎日ずっと」暇なのだが、こういうところで一縷は見栄を張る。
『助かる! 学習塾で急に講師が辞めることになって、土日のクラスがどうしても埋まらなくなったんだ。やってくれない?』
『えっ! 塾の講師ですか? 無理です!』
思わず即答していた。確かにガラじゃない。
『大丈夫。中1の生徒にプリントやらせるだけだから』
『ボクに出来るかなぁ……』
などといいつつ、涼音と一緒にバイトに向かう姿を想像したりしている。
『とにかく今度の土日だけでも頼むよ。やってみてダメならその次からはいいからさ』
躊躇った一縷の指先が、スマホの上でしばらく止まった。が、やがて迷いを振り払ってしっかりとフリック入力を始めた。
『涼音さんのためなら』
『そう! 私を助けると思って! お願いね!』
思わず頬が緩む。
『わかりました。むしろ、いいバイト、ありがとうございます』
冷静に考えると、お礼を言うのは一縷の方だ。
『そう言ってくれると嬉しいよ。じゃあ金曜日、塾帰りにキャンパスの近くを通るから、何処かで会おうか。簡単に説明するよ』
『何時くらいですか?』
『21時くらいかな』
『その時間にキャンパス彷徨くと不審者ですね』
『あはは、それもそうだ! じゃあキャンパス下にカフェがあるよね、あそこは確か遅くまでやってたからそこでどう?』
『わかりました』
『近くでしょ? あの辺りだよねアパートは』
客観的にみて近くではない。だが、わざわざ違う、と書くまでもない。
『ええまあ。大丈夫です、そこで』
『じゃあ金曜日、21時。ありがとう、一縷。恩に着る!』
『はい』
「よしゃ!」
誰もいない部屋でガッツポーズしていた。浮かれた顔で塾のある
(なんだ、ただの民家?… まっ、いいや!)
キャンパスに通う目的を見失い、精彩のなかった一縷の顔に、久しぶりに生気が戻った。緩みっぱなしで、ちょっとどうかと思う顔だったが……
◇ ◇ ◇
金曜日の夜、涼音との待ち合わせ場所に向かう途中で舞から電話が入った。
「明日、何か予定ある?」
「あ~、今から明日のバイトの打ち合わせに行くところなんだ」
「え〜っ、そうなの? 明日は少し体休めた方がいいと先生に言われたの。お昼からでも一緒にどこか行けないかなぁ〜、なんて思ってたのに…… 」
「ごめんね」
「ずっと練習で疲れてて、足も上がらないし背中も痛いし、ボロボロ……」
「そうだったんだ……」
舞は明らかに弱音を吐いているが、一縷はそれに気が付かない。
「そのバイトは外せないよね? 誰かに代わってもらえるとかない?」
「実は辞めた人の穴埋めで、ボクが代わった立場なんだ」
「え~っ、まさかこれから土曜日はずっとダメなの?」
「それはまだわかんないんだけどね。とりあえず明日行ってみないことには」
「そう…… 土日は空けてて欲しいな…… 特に昼間は」
「夜じゃないんだ、アハハ」
「夜? 夜がいいの?」
一縷の何気ない冗談に、舞は真正面から反応した。涼音から塾講師の誘いがあってからずっと浮かれたままの一縷と、心身ともに疲れのピークにあった舞。あくまで冗談のつもりの一縷と恋人からの求愛と受け取った舞とは、微妙にズレていた。
「とにかくスケジュールがどんな感じなのか聞いてみるよ。まだ、詳しいことは何も決まってないから」
「よかった…… じゃあ、なるべく土日はやめてね。
ところで、何のバイト?」
「学習塾の講師」
「へぇ~、良さそうだね。学習塾の方が家庭教師よりもずっといいって聞いたことがあるよ」
「そうだよね。第一楽そうだし」
「アハハ、楽じゃないでしょ! 受験生だと親も真剣だろうし」
「中1なんだって。とりあえず今度の土日は」
「わ~、いいなぁ。私もやりたい! 中1の女子だけのクラスない?」
「出たよ、わがままなリクエスト!」
「アハハ…… 誰の紹介?」
「現代史ジャーナルの先輩だよ」
「へぇ、そういう個人的なつながりで探すバイトが本当は一番だよね」
「そう。スーパーの品出しはもううんざり!」
「やめちゃうの?」
「塾がちゃんとできるならね」
「そっか…… 会えなくなるってことはないよね?」
「専攻課程が同じだから、いつもそこで一緒じゃん」
「私が言ってるのはそれ以外の時間なの!」
いきなり大声を出されて、一縷は思わずイヤホンを外してしまった。そうとは知らない舞は、何かをごちゃごちゃ言い続けているようだ。ふうっ、と息をついて片方だけイヤホンを装着すると話は何処かに移っている。
「…… ねえ! 聞いてるの?!」
「うん。聞いてる。でも歩いてるから。車来てて危ないから」
「…… ごめんね…… 迷惑だった?」
「そんなことはないよ。舞と話すのは楽しいよ」
それは嘘ではない。
「ホント……?」
「ホントだよ。夢を追いかけてる舞って凄いと思う。その話を聞くのも好きだよ」
それも嘘ではない。
「…… 本当は辛いんだよ。もう止めたいかも」
定期的に弱音を吐く舞をきちんと受け止めてやりたい、それは自分の役割なんだからと、その頃の一縷は思っていた。愛情には様々な形があって、舞に対する愛情は、彼女を励まし、夢に向かわせることだと信じて疑わなかった。
「明日は、時間を作って必ず会いに行くから、そんな気持ちは追い払っちゃいな!」
「一縷…… どうしていつもそんなに優しいの? 私が好き?」
「他に何かあるか?」
「友情?」
「そうかもね。でもいいじゃないか、そんな言葉はどっちでも」
一縷は快活だった。
「…… うん。でも、明日は短い時間でもいいから会おうね……」
舞の声はいつもより掠れがちだった。
「了解。塾のスケジュール、あとで送るから」
通話が途切れた瞬間、一縷は舞のことは忘れた。目の前のカフェの窓からは、涼音の姿が見えていた。
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