第13話 ふたりの距離

「キミも何か食べる? 遠慮しなくていいよ、私のオゴリ」


 待ち合わせのカフェに入ると、涼音すずねは既に到着していて、ピザとパスタを交互に口に運んでいるところだった。


「ゴメン、夕飯がまだだったんだ。これ食べる?」


 姉が弟に差し出すように、彼女は今まさに口に運ぼうとしたピザのワンピースを一縷いちるに向けた。


「えっ……?」


 ところが、一縷は涼音を姉とは思っていないから、そのピザは恋人同士がシェアしたものにしか見えず、手が出せないでいる。


「ん? 嫌い? 他のにする?」


 彼女はそう言うと、結局、そのピザは自分の口に運び、今度は目でメニューを見るように促した。


「…… じゃあ同じものを」


「同じものでいいならこれ食べな。せっかくだからキミは違うの注文してよ。分けて食べよ?」


 そう言うと、彼女は何のためらいもなく、半分残ったパスタを一縷の前に差し出した。


「えっ……?」


「イチイチなに? なに驚いてんの?」


「いや…… 」


 一縷は耳を赤くして俯いた。これは恋人同士のすることだろ?


「ほら、早く食べて! 注文もして! なんなら食べさせてあげよっか? あ〜ん」


 つられて、あ〜ん、なんてできるわけもなく、一縷は呆然と涼音の顔を見つめた。そこには明らかに戸惑う彼をからかう顔がある。


「一縷ってオモシロイ!」


「何がですか?」


「妙にシャイだから。そういう子は、きっと頭の中は全〜く別のこと想像してたりして。アハハハハハ」


 図星過ぎて声が出せない。


「アハハ、当たったな」


「…… 当たりませんよ」


 涼音はますます意地悪な顔になる。弟を虐めて喜ぶ悪魔のような姉、そんな顔だ。


「一縷ってエッチ?」


 質問がストレート過ぎて、咄嗟に返す言葉がない。知らず知らず視線が宙を泳ぐ。


「うふふ、困ってる、カワイっ」


 あまりの展開に、一縷が表情を失って涼音を見つめると、彼女はさらに楽しそうな顔になった。


「私ね、母方の曾祖父ひいおじいちゃまがロシア人だよ」


「そうですか」


「驚かないの?」


「ええ。特に」


「あっ、そう。私、ムチムチで肌白いよ」


 もう、どう反応していいかわからず、一縷は耳を赤くして俯くしかなかった。


「アハハハ、私の勝ちね!」


「何の勝負ですか!?」


「照れた方の負け! アハハハ」


 無防備に笑う涼音は、何ひとつ隠すことなんかないよ、とでも言うような顔だった。彼女は自分の知っている女性たちとは明らかに違う、その明け透けな奔放さに、一縷は知らぬ間に魅了された。


 ふと、歓迎会で彼女が『自分自身に関心がある』と話していたことを思い浮かべる。あれはどういう意味なのだろう? 彼女に対する憧れは、徐々に具体的な好奇心に変わっていった。


「あの…… 」


「なに?」


「歓迎会のときに話してたことって、どういう意味なんですか?」


「ん? 何の話?」


 涼音は全く心当たりがない、とでもいうようにキョトンとして、パスタを食べ続けている。


「自分自身のことに関心があるとか……」


「あぁ、あれは適当、アハハ」


 悪びれることなく彼女は明るく笑った。


「でも…… 全然考えてない、ってこともないな。


 いや…… やっぱりいつも自分自身のことは考えてるかも。そういう意味で関心がある、ってことかな」


 彼女は急に思案顔になった。その表情は理知的な色気があって、一縷はむしろそんな彼女が好きだった。


「時間ある?」


「ええ」


「飲もうか?」


「いいですけど」


 返事を待つまでもなく、彼女はドリンクリストから赤ワインを選び注文した。その横顔は十分に大人の雰囲気で、一縷は言葉もなく彼女に見惚れた。彼女はそれっきり彼の問いに答えることはなかったが、しばらく何かを考え込み、黙ってワインを飲み続けた。


 一縷にとっての涼音は、手の届かない場所にいる華麗な存在だった。誰が相手でも理路整然と自説を主張できる強さ、喜怒哀楽のはっきりした気性、臆することなくどんどん近づいてくる積極性、そして魅惑的な白い肌と理知的な顔…… それらをすべて備えた、理想の具現者だったのだ。


 その彼女が目の前にいて、ふたりきりで食事しているこの時間と空間は、特別なものに思われた。


「そう言えば、例の彼女はどうした?」


「どうもしませんけど? ただのクラスメイトだし……」


 一縷にとって、まいは、あのときも今も、仲のいいクラスメイトでしかない。


「先輩こそ彼氏とはどうなんですか?」


「ん?」


 涼音は、誰のこと? っていう顔でワインを飲んでいる。彼女が赤ワインを飲むたびに白い首筋が上下する。


「年の離れた彼氏がいるんでしょ? その人とはお手手繋いで仲良しこよし、ってことだけじゃないですよね?」


「う〜ん、傍にいたらそうかもね。でも、彼は京都だし、滅多に会わないから、そういうシーンは経験ないな」


 その言葉に一縷は思わずホッとした顔になる。


「そんなことより本題」


「本題?…… あぁ」


 そもそも会っている目的を忘れた一縷を、涼音は急に現実に引き戻した。


「まさかもう酔った? カワイイだこと」


 顔は涼音の方が明らかに赤く火照っている。だが、意識が浮遊しているのは一縷の方だった。


「すいません、バイトの話…… お願いします」


「大丈夫?」


 涼音がとろんとした目で語りかける。


「たぶん」


「アハハハハハ、坊やに飲ませちゃマズかったかな」


「涼音さんこそ酔ってますよね!」


「顔? あぁ、顔は赤くなるけど酔ってはいないからね。ご心配なく」


 そう言うと、涼音はワインをぐっと飲み干した。


「えっとね、明日は14時から3コマ、夜1コマ。日曜日は午前2コマと午後から3コマ、夜1コマ。

 どう? できる?」


「えっ…… いきなりそんなに……」


 それから涼音は塾のことを冷静に説明を始めたが、一縷の視線は彼女の口元にとどまり、その何とも言えない艶かしさに目が離せなかった。



「…… わかった!?」


「えっ…… あっ… はい、大体は」


「だから明日は12時半に来て欲しいんだって! ここに11時集合!


 いいんだね!?」


 そうか、明日も一緒か…… そんなことを考えている。


「…… わかりました。よろしくお願いします」


「大丈夫かなぁ。細川に頼んだ方が良かった?」


「えっ、そんな……」


「連絡先にキミの名前が上にあったから何となくメッセージしちゃったけど、失敗?」


 また意地悪な顔に戻った。


「マジか……」


「アハハハ、冗談! キミがいいと思ったからだよ」


 明らかに意気消沈する一縷を見かねたのか、涼音は優しい言葉でフォローした。


「ほら、用件も済んだし、飲もっ!」


 あっという間に一本目のボトルが空き、涼音は躊躇なく二本目を追加した。飲むほどに彼女は陽気で無防備になる感じだった。一縷も徐々に遠慮をなくす。


「涼音さんは酔っ払うとなんとなく色っぽいですよね」


「あん? そりゃさ、一縷が議論する相手として物足りないからだよ。 気が緩むの! もっとさぁ、こっちがハッとするような議論してくんないかなぁ」


「そういうのがタイプですか?」


「ううん」


「じゃあどういうの?」


「そうだな…… フランス語でオペラ歌うようなヤツ、アハハハハハ」


 涼音はいたずらっぽく笑った。一縷は一瞬照れて顔を背けたが、彼女の無防備な笑顔は自分がなぜ選ばれたか、そんなことはいつしか忘れさせてくれた。

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