4.『白い牙』攻略
風が痛い。
レーンによると、『白い牙』の標高はニ千ルーテ、ということは、約三千六百メートルだ。富士山とほぼ同じ高さの空気がこんなに薄く、鋭いとは。私は自然の厳しさを改めて痛感していた。
「ねえ、もっと高度を上げたほうがよくない?」
出発直後、なかなか高度を上げないので尋ねると、バイロンは鼻を鳴らして、不機嫌そうに答えた。
「ふん。飛行計画はワタシに任せて、景色でも眺めていろ」
しばらくすると、バイロンが焦る私を無視して徐々に高度を上げたことを納得した。頑丈なウロコに覆われた彼単体でならもっと早くに上昇して、速度を上げられただろう。でも、生身の人間は急激な温度と気圧の変化に耐えられないんだ。
弓手の宿命で重装備ができないから、私は毛皮のベスト以外にたいした防寒具は着けられなかった。バイロン自身の放つ熱気のおかげで寒さはなんとかしのげている。大型竜の強力な生命力のおかげだ。
日の出とともに護衛のワイバーンのノアとレア、そして私を乗せたバイロンが城を出てからほぼ二時間が経過した。景色が丘陵地帯から雪に覆われた険しい山々に変わり始めたころ、三頭は徐々に高度を上げ始めた。途中の山頂で休憩をとり、そこからさらに一時間後、ようやくそれを目視できるところまで近づいた。
北の山脈の最高峰、青空に白く突き出た山頂『白い牙』。その先端にぼんやりと、檻のような人工物が見て取れる。周囲に動くものは見当たらない。
「ええと……護衛はいないみたいね」
「ふん。気に入らん」
バイロンは鼻を鳴らすと、ゆっくりと『白い牙』の周囲を旋回し始めた。二頭のワイバーンは上昇して、私たちの頭上十数メートルにぴったりとつけている。
少しずつ山頂への距離が縮まっていき、檻の中の魔力結晶も肉眼で捉えることができた。角度によって、日光を受けてきらきらと輝いている。その距離およそ百メートル。そこで突然、私たちは見えない空気の壁のようなものにぶち当たり、それ以上山頂に近づけなくなった。
「対生物用の『壁』だ」
バイロンが頭をうしろに回して私を見る。
「情報どおりね。ここからならなんとか……」
背中の弓をはずそうするのをバイロンが制した。
「待て。内側にもまだ何かあるぞ」
ドラゴンの眼が細くなり、金色に発光し始める。
「今度は対物理攻撃用の『膜』か……全部で……四層あるな」
「四層!」
普通の矢では破れない。でも、今の私にはペルルコンによって最高位の魔法補正がかけられた矢がある。必ず届くはず。いや、なんとしてでも届かせなければ。私は自分にプレッシャーをかけた。
「どうする」
「もちろん――」
射つ、といいかけたそのときだった。私の頭上でバシン、という音がしたのとほぼ同時に、目の前をレアが落下していく。翼を射抜かれている。
バイロンは高速でその場から離脱。第二波を警戒しつつ周囲を見渡すと、ノアが私たちと逆方向に反転しながら急上昇していく。その行く手に眼をこらす。視界には敵らしきものは見当たらない。
「どこから?」
「太陽の中だ」
バイロンにいわれて、いつのまにかほぼ真上にきている太陽を見上げる。まぶしくて何も見えない。ノアは太陽に向って複雑な回避行動を取りつつ上昇を続けている。敵はいったいどれほどの高高度を飛んでいるんだ。
「エレ、今のうちに……」
バイロンの言葉を聞くまでもなく、私は弓手専用の右手袋をはめた。
「わかってる」
グリフォンの骨から削られた弓を最大限に伸ばし、長弓にする。右手で背中の矢筒から矢を引き抜いて、弦につがえた。
「射的体制に入る」
両手で弓を掲げ、息を大きく吐きながら一段階目の引きに入ろうとした瞬間、バイロンが大きく動いた。
「うわ、ちょっと」
その直後、ヒュン、という音を残して私の左側数十センチを矢がかすめる。
思わず上空を見上げると――いた。
ワイバーンが一騎。ノアと激しい空中戦を展開している。その間隙を縫ってこちらにけん制の矢を放つとは。
と、思うまもなく、ノアの動きが止まり、私の目の前をさらに三本の矢がかすめていく。バイロンは大きな回避行動を余儀なくされ、私たちは『壁』からさらに引き離されてしまった。
落ちていくノアを視界の隅にとらえ、ごめんね、あなたたちあとで回収しに行くから、それまで生きていて、と念じた。上空から急角度で降下してくる敵の竜とそれに乗る騎士の姿を、私はっきりと視認した。
やっぱり出てきたか。
彼女だ。
パメルは魔力結晶を背に、私たちの射線軸上に静止した。
――パメル、お願い。もう一度話をきいて。
私の呼びかけに答えることなく、パメルは弓を引き絞った。私の弓と同様、グリフォンの骨でできた弓だ。あちらも長く引き伸ばされている。私はまだ矢をつがえない。
――『闇からのこだま』を防ぐことができるかもしれないの。あなたを助けられるかもしれない。
――そんなことできるはずがない。
パメルが矢を放った。
反射攻撃が発動して回避したにもかかわらず、矢は私の顔の数センチ脇を恐ろしい速度でかすめていった。
――お前たちに魔力結晶は破壊させない。
――聞いて。あなたはこの世界に意味はないっていった。でも、この世界にもちゃんと意味はある。私とあなたがこうやって話してる、それが証拠よ。私は二〇一七年の日本、ジャパンから来た。あなたはたぶん一八九五年頃のユナイテッド・キングダムから来た。国も時代も全然違う、本当は会えるはずのない私たちがこうやって会って話してる。それがこの世界の意味なの。
パメルの動きがとまった。
――よく考えて。私たちはもとの世界では決して会うはずがなかったのよ。それがこうして話してるじゃない。今まであなたは独りきりだった。でも、今は違う。二人ならなんとかなるかもしれない。もとの世界に戻れるかもしれないの。
――もとの世界……。
そうつぶやくと、パメルは構えをゆっくりと降ろした。
「バイロン、もっと近くに――」
私の言葉をバイロンが遮った。
「待て。様子が変だ」
パメルの体の周りに黒い靄のようなものがにじみ出てきた。やがてそれは黒い触手に形を変えて、パメルの手足にまとわりついた。
突如、私の耳の奥に、パメルの悲鳴が響き渡った。
私はこれまでこんなにも苦痛に満ちた叫び声を聞いたことがなかった。思わず耳をふさいだ。それでも、パメルの叫びは錐のように頭の中に突き刺さってくる。
「魔力結晶の後方、一八〇ルーテ」
バイロンの言葉に顔を上げると、魔力結晶の向こう側に三頭のワイバーンがいるのが見えた。二頭は騎士が、一頭にはウルマスともう一人。ウルマスのうしろにいるのはたぶん『冠』の魔術師。
くっ。私は歯をくいしばった。やつらはパメルに『闇からのこだま』を使ったんだ。
黒い触手にがんじがらめにされ、パメルは断末魔の叫びを上げている。パメルを乗せたワイバーンがおびえて、徐々に高度を下げていった。
「『闇』に蝕まれている」
バイロンがつぶやく。
体がカッと熱くなる。
許せない。
私は再び矢をつがえ、呼吸を整えながらゆっくりと弓を引き絞っていく。最初は低くぎりぎりと鳴っていた弓は、徐々に、キキキキキ、と高く鋭い音に変わっていく。
目を凝らし、ヴン、と魔力結晶の向こうにいる敵を視界いっぱいに拡大させる。こちらからは護衛とウルマスの影に隠れて魔術師の姿はほとんど見えない。しかもやつらの手前には魔力結晶を覆っている四層の『膜』がある。ということは、八層の『膜』を突破しなければならないということだ。
「おい、ここから射つ気か」
バイロンの問いには答えず、更に弓にパワーを注ぎ込む。私は集中力を高めた。射ってやる。ペルの魔法補正が入った矢だ。絶対に届かせてみせる。
翼をゆっくりと動かしてホバリングするバイロンの動きのリズムに合わせ、私は矢を放った。
ヒュン、と何かが矢の射線を遮った。
次の瞬間、大きな衝撃音とともに私の矢は弾き返されていた。
ゆっくりと、まるで羽根が生えているように、パメルが空中から彼女のワイバーンの上に降り立った。体中を黒いツタのようなもので絡めとられている。抜き身の短剣を持っている右手は、完全に黒い闇に覆いつくされていた。
もう悲鳴は上げていない。顔を覆っていたフードがいつの間にかなくなっている。パメルの右頬は、今や完全に黒く塗りつぶされていた。その顔はまるで、人形のように無表情だった。
パメルはワイバーンから跳躍して、私の矢を短剣で跳ね返したのだ。人間技とは思えない。
「あれが『開く者』の真の力だ」
呆然としたまま、私はバイロンの言葉を聞いていた。
そんな……。
――パメル! 戻ってきて!
私の叫びは届かず、パメルは短剣を腰の鞘に収めると矢を弓につがえた。パメルの黒い右手は異常な長さに伸び、大きく引き絞られた矢がしなっている。
「ちっ」
舌打ちをしたバイロンが回避行動に入った直後、全く予想外の方向から矢が飛んできた。私たちの左側面から襲い掛かってきた高速の矢が、バイロンの翼を貫通した。
「バイロン!」
あまりにも強力な負荷を溜め込んでたわんだ矢が一気に開放されたから、射線が曲がってこちらに届いたんだ。私のこめかみに汗がつたう。
「大丈夫だ」
第二射を警戒して、バイロンは上昇した。パメルも魔力結晶と私たちの軸線上を維持して上昇する。
「エレ、時間がない。やつを射て。近距離から狙えば、お前なら落とせる」
「だめよ! そんなことできない」
「やつが完全に『闇』に飲まれたら、こちらに勝ち目はないんだぞ!」
それは私にもわかっていた。パメルが軸線上にいる限り、矢は決して魔力結晶には届かない。
私は唇を噛んで、矢をつがえた。
弓を絞る。
もうだめなの? 彼女はもう戻ってこないの?
レーンはいった。実世界とのつながりを強めれば、完全に『闇』に飲み込まれるのを防ぐことはできるって。パメルに向こうの世界とのつながりを呼び起こさせることができれば……。
でも、私は彼女のことを何も知らない。どんな生活をしていたのか。どんな思い出があるのか。どんな人を好きだったのか。幸せだったのか。それとも……。
私にわかっているのは、彼女がイギリス人で、十九世紀末の人間だということだけ。
やっぱりだめか。
……シャロン、お願い。力を貸して……。
私の脳裏に、焚き火の明りに照らされたシャロンの顔が浮かんだ。
あの夜。五カ国連絡会議の前夜、『ウルの額』のテントで、私たちは――。
そうか。
もしかしたら――。
いちかばちかだ。
私は、パメルに放った。
矢ではなく、歌を。
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