2.迷い人

 私とバイロンは野営地から数キロ離れた森の中の空き地に降り立った。

 そこだけ円形に森の木が生えていない。月がその空間を青白く照らしている。

 なんとなくそんな気はしていた。青服のあの人間離れした身のこなし。反射攻撃のスピードについてこれる素早い動き。

 あいつが『開く者』ならそれも当然だ。

 やがて、木立の影の中から、青服が姿を現した。

 私がここへ来るのを待っていたかのようだった。月の光を浴びて空き地の手前、木のそばで立ち止まり、こちらを見ている。腰に下げた短剣以外は武装していない。青服が立っているのは、私の剣の間合いのぎりぎり半歩外だった。相変わらず顔を青い布で覆っていて、表情はわからない。

「あなたも『開く者』なの?」

 私は声を張り上げた。

 すると、青服は片手を上げて私を制した。

 ――大声を出さなくてもいい。

 ぎくっとして、私は飛び上がった。すぐ耳の近くで声がする。女性の声だった。

「今の声は、あなた?」

 ――『開く者』同士は離れていても会話できる。特に、近くに竜がいる場合は。

 知らなかった。私は試しに小声でいってみた。

 ――あなたのほかにも『開く者』がいるの?

 青服はうなずいた。ちゃんと声は届いているみたいだ。

 ――どこにいるの?

 ――それはいえない。

 ――やっぱり向こうの世界には簡単には戻れないの?

 青服は冷たく答えた。

 ――向こうの世界には決して戻れない。

 ――だって……『理の扉』が開けば向こうの世界との道がつながるんでしょ。それなら……。

 ――確かにそれで道は通じる。しかし、そのためには最上級の魔術師と、何より『楔の竜』の協力が必要だ。お前はどちらも手に入れたようだが、多くの『開く者』にはそんなことはできなかった。見知らぬ世界に突然放り込まれるのだからそれも当然だが。少なくとも私には帰還の手助けをしてくれるような人はいなかった。

 そのとき、私は理解した。彼女は私とは全く別の道を歩んできた。こちらの世界に召喚されてから、彼女の身に何があったんだ。

 ――あなたのことを教えて。あなたの向こうの世界でのこと。

 ――私のこと?

 ――例えば、どこに住んでいたかとか……。

 そこでふと気付いた。もしかして、『開く者』は日本だけじゃなく、世界中から召喚されているんじゃないのか。私たちは今、互いに『言替えの魔法』を介して話しているはずだ。ということは、彼女の言葉は日本語じゃない可能性もあるんだ。

 ――私は日本から来た。あなたは?

 ――ニホン?

 青服は首を振った。

 ――知らない。

 知らない? 待てよ。確か、『言替えの魔法』では、固有名詞は自国語で一番近い発音として聞こえるんだった。ということは……。試しに私はいってみた。

 ――ジャパン。ジャポーネ。ヤーパン。イルボン。ええと、それから……。

 ――ジャパン……。そういえば、おじいちゃんがいってた。領主様から聞いたって。チン王朝と戦争をしているジャパンという島国がある……。おじいちゃん……。おじいちゃんって、誰だっけ……。

 青服は額に手を添えた。何かを思い出そうとしているみたいだった。

 どうしたんだろう。私は目を細めた。それに、チン王朝って何だろう。日本は今、戦争なんてしていないのに。

 ――私は……。私がいたのは……ファイフ。

 ファイフ? 今度は私が首をかしげる番だった。

 ――それは……国の名前?

 ――国……連合王国。

 連合王国? 連合王国って、どこだっけ。私はあわてて記憶を探った。

 ――グレートブリテンとアイルランドの……。

 ああ。そうか、イギリス人だったのか。私は問いかけた。

 ――じゃあ、向こうの世界の名前は? 私は――。

 それまで黙って私たちのやりとりを聞いていたバイロンが「よせ!」というのと、青服が動いたのは同時だった。額に手を当ててうつむいていた青服は一瞬で間合いを詰め、私の目の前に現れた。腰を落とし、短刀の柄に手を添えている。

 ――どういうつもりだ。

 するどい視線が私に向けられた。あまりの速さにこちらの反射攻撃は発動すらしなかった。

 ――待って。私は別に……。

 青服は身を起こすと、顔を覆っていた布を押し下げた。

 私はぎくりとした。青服の右頬が欠けていると思ったからだ。まるで右頬を齧り取られたみたいに。

 でも、そうじゃなかった。

 よく見ると、青服の右頬には黒い大きな痣があった。まるで闇のような色だ。夜に溶け込んで、そこだけ欠けているように見えたのだった。

 ――『闇からのこだま』がつけた傷だ。お前にはないのか。

 ――『闇からのこだま』?

 私の表情を見て、青服は数歩うしろに下がった。

 ――そうか。いや、知らないのならいい。その『楔の竜』はドラゴルノフに眠っていたやつだな。

 ――ええ。バイロンよ。

 ――では、お前は真の『開く者』だ。

 ――真の『開く者』……。

 ――ああ。『楔の竜』の封印を解き、『理の扉』を開くことができる者のことだ。私ではだめだった。私では……。

 青服は再びフードを深くかぶった。そのまま振り向いて立ち去ろうとする気配を感じて、私はあわてていった。

 ――あなたはどうしてここへ来たの? 私に会いにきたんでしょ?

 もしかしたら、青服は私に何かをしてほしかったんじゃないのか。何かを頼みに来たんじゃないのか。

 ――お前がどんな人間かを見にきただけだ。このことは忘れてくれ。

 ――『冠』に協力するのはやめて。彼らのやり方は間違ってる。

 ちらりとこちらを振り返ると、青服はゆっくりと首を振った。

 ――私がこの世界でどうしようと、お前には関係のないことだ。それに、私にはこの世界がどうなろうと、そんなことには興味がない。こんな世界に何の意味がある。こんな幻のような世界、私たちにとっては何の意味もない。

 吐き捨てるようにそういって、青服は背を向けた。

 ――待って! ひとつだけ教えて。私のこの世界での名前は、エレ。あなたは?

 ――パメル。

 ひとことそう告げると、パメルは私の前から姿を消した。

 野営地へ戻るあいだ、バイロンの背の上で、私はパメルとのやりとりを何度も思い返していた。

 わからないことばかりだったけれど、どうせいくら考えたってわからないものはわからないんだ。ただ、ひとつ気になることがあった。

 パメルは日本のことをこういっていた。

『チン王朝と戦争をしている』って。

 いったい何のことだろう。チン王朝……。どういう綴りだ? Chin? いや、待てよ。チンって確か……。

「バイロン、もしかして『開く者』は向こうの世界のいろんな場所やいろんな時代から召喚されているの?」

「そうだ」

 平然とした口調でバイロンはいった。そういうことか。私はもう、たいがいのことには驚かなくなっていた。

 チンは、清の英語読み、Qingだ。つまり、青服は日清戦争のことをいってたんだ。日清戦争は確か一八九四年から九五年。ということは……。

 パメルは十九世紀末のイギリスから来たんだ。

「それと、『闇からのこだま』ってなんのことなの」

「それは人間同士の問題だから、人間に聞け」

 バイロンの答えはそっけない。

「ふうん。わかったわよ」

 不満そうな私の言葉に、バイロンは付け足してくれた。

「もしそれでもわからなかったら、教えてやる」

 相変わらず、偉そうなやつだ。

 ふん、と私はバイロンの真似をして鼻を鳴らした。

 とりあえず、明日は会議に出よう。そして、レーンかペルに聞いてみよう。このままあれこれと悩んでいてもしょうがない。エレとシャロンに申し訳ないもんね。

 私は小屋に帰って、質素なベッドに横たわった。

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