2.世界と歌と

 馬車の旅。

 昔の私なら、そこにいくばくかのロマンチックなものを感じていたかもしれないけれど、実はそれは大きな間違いであることを身をもって知らされた。

「ううう。体が痛い」

 若くて強靭なはずのエレの肉体でもこの体たらく。いや、もしかしたらエレも馬車が苦手だったのかもしれない。

 延べまる一日乗っていた馬車を降りて体を伸ばす無様な私の姿を見て、馬上のアクセルが笑いながら話しかけてきた。

「こんなの旅のうちに入りませんよ。エレさんも馬にすればよかったのに」

「だって、私は移動中に色々と打ち合わせやらなんやらがあるから馬車に乗れっていわれたんだもん」

 こちらの世界に来てほぼ一ヶ月が経っていた。

 私はそのあいだ、近衛隊の見習い騎士として訓練に励み、馬にも乗れるようになった。召喚前のエレはよっぽど厳しい鍛え方をしたのだろう、剣も弓も近衛隊のなかでは抜きん出ていた。最近では、正騎士団まで出稽古に出かけ、ブルーノやアクセルに相手をしてもらっている。でも、私は剣よりも弓のほうが好きだった。近衛隊で使っている短い弓も使いこなせるようになった。そして、例のあの大きな弓は私をとりこにした。

「この弓はある人が置いていったものです。いつかこれを使いこなす人が現れるから、その人に託せと」

 ヴァンペルトにいわれて、その長い弓は私が譲り受けることになった。

 会議の場所は、城から百キロほど離れた『風が生まれる国』の領地内で、丘に囲まれた『ウルの額』と名づけられた平野部だった。

 近隣の五つの小国から次々に馬車が到着し、それぞれが野営のための幕舎を設営し始めている。会議は明日の朝から開始予定だ。

「大丈夫ですか? 荷物を持ちましょう」

 アクセルがなにやらかいがいしくシャロンの世話を焼いている。私はエレの技能を発揮して彼の背後にそっと近づき、耳もとでぼそっとささやいた。

「シャロンに手ぇ出したらただじゃおかないからね」

 アクセルはびくっとしてふり返った。

「なんだ、エレさんか。びっくりさせないでくださいよ」

「なんだじゃないわよ。あんたね――」

「ああ、エレさん。僕は嘆かわしい。なぜあなたは美しい花を愛でるという当然の行為をそうやっ――痛ててて」

 私はアクセルの頬っぺたをつまんで思い切り引っ張っていた。

「あの、私、みなさんを手伝ってきます」

 そういってシャロンはそそくさと立ち去ってしまった。

 アクセルは私を横目でちらりと見て微笑んだ。

「ときどき僕は、エレさんってやっぱり年上のひとなんだなって、実感することがあるんです」

「そう?」

「ええ。昔よく姉に頬っぺたをつねられて叱られました。さっきみたいに」

 成長しとらんな、こいつは。

「だから、ときどきエレさんが姉のように感じることがあるんです。変ですよね、外見は僕よりずっと年下なのに」

「お姉さんは、今は?」

「死にました。五年前の戦乱のときに」

 思わず私はアクセルの横顔を見た。彼はいつもどおりの柔和な笑顔で、忙しそうに働いている人たちを眺めている。

 と、突然こちらのほうをふり向き、ずいっ、と真剣な顔を近づけてきた。

「エレさん」

「な、なによ」

「姉さん、って呼んでもいいで――」

「嫌」

 アクセルは溜息をついて、がくっと肩を落とし、でもすぐに笑顔でふり返った。

「さてと、僕たちも手伝いましょう。団長にどやされます」

 私も溜息をつく。まったく。

「そうね。行こう」


 夜。宰相たち首脳陣は立派な幕舎に設置された簡易ベッドで就寝する。私たち騎士や城の者は二人一組のテントだ。そこら中のテントの前で焚き火が焚かれている。私とシャロンも焚き火の前に座って火を見つめていた。

「あーなんかこうやってると、高校のときのキャンプを思い出すなぁ」

「コウコウ? キャンプ?」

 シャロンが不思議そうな顔をした。

「うん。向こうの世界には学校っていうのがあってね、子どもたちはみんなそこに通っていろんなことを学ぶんだ」

「子どもたちみんなが行くんですか?」

「そうだよ」

「すごい。楽しそう。いいなぁ」

「まあ、勉強はそんなに楽しかったわけじゃないけどね。でもこんなふうにみんなで山に登ってキャンプしたり、運動をしたり、今から思うと確かに充実してたわね」

「私も学びたいことがたくさんあります。魔法のことだけじゃなくて。あ、別に魔術師になるのが嫌というわけではないんですよ」

「うん」

 シャロンは私の従者をしながら、またペルルコンのもとで魔術師の修業を再開していた。

「それに、近くに同じような年頃の子がいないから、すごくうらやましい。ねえ、エレはどんな子どもだったの?」

「私? 私は……まあ、普通かな」

「普通って?」

「ええと、どこにでもいる、とりたてて特徴のない普通の子」

「私にはそうは思えないな」

「ふふふ。ありがとう」

 近くのテントで火を囲んでいる若い女性騎士の一人が、ギターのような楽器を爪弾き始めた。ヨーロッパの古い民謡といった感じの旋律だった。

「こっちの世界にも音楽があるんだ。そりゃそうよね」

 そうつぶやいた私に、シャロンが笑った。そして、シャロンはその旋律に乗せて歌を歌い始めた。きれいな声だ。不思議なことに、彼女の歌の言葉は私には理解できなかった。魔法で翻訳されることなく、この世界の言葉がそのまま私に伝わっているらしい。彼女の歌はさざ波のように静かに野営地に広がっていた。みんなじっと彼女の声に聴き入っている。

 やがて彼女が歌い終わると、まわりから拍手が起こった。私も盛大な拍手を送った。シャロンははにかむように笑って私を見た。

「エレも何か歌って」

「え。私?」

 困ったことになった。

 まわりのみんなが期待を込めた目で私を見ている。どうしよう。いざ歌うとなると、ちゃんと歌詞を覚えている歌がほとんどないことに気付く。よし。私は覚悟を決めた。深呼吸をして、『グリーンスリーブス』という古い歌を歌いはじめた。別れた夫が好きでよく歌っていたから歌詞を覚えてしまったのだ。武司がまだ小さかったときに、よく子守唄代わりに歌った歌でもあった。

 器用にも、私の歌の旋律に合わせて女性騎士が楽器を弾きはじめた。

 やがて私が歌い終わると、まわりからまた盛大な拍手が起こった。

 私はちょっと照れながら、おじぎをした。

「エレ、すごい。すごくいい歌。私、気に入っちゃった」

 シャロンが感激した顔を近づけてきた。

「ありがとう。うん。そうだね、私も好き」

「私、エレの世界のこと、もっと知りたい」

 そういえば、私の世界のことを知りたがった人はこれまでいなかった。

「わかった。私も聞いてほしい」

 私は自分がいた世界のことをシャロンに話して聞かせた。たくさんの国があり、色んな人種がいること、自分が住んでいる国のこと。平和な島国。世界の歴史。そして、自分の生い立ち。

「エレの世界には、魔法はないの?」

「ない……と思う。魔法という概念はあるのよ。ただ、なんていうか、想像上の産物なの。空想の物語の中には登場するわ」

 何かを納得したようにシャロンはうなずいた。

「そうか、エレにとってこの世界はそういう架空の物語の中にいる感じなのね」

「うん。もしかしたら向こうの世界にも大昔には本当に魔法があったのかもしれないけどね」

「あのね、私、ときどき思うの。魔法なんて本当はないほうがいいんじゃないかって。魔力をめぐってずっと戦争が続いているし、その戦争に魔法が使われている」

 少し笑って、シャロンは首を振った。

「こんなこと考えるなんて魔術師失格よね。私の心のどこかにそんな考えがあるから、いつまでたっても一人前の魔術師になれないのかも」

「魔法のことは私にはよくわからない。でも、そう思うことはとても大事なことなんじゃないかな」 

「そうね、そうかもしれない。魔法を使うとき、自分がものすごく強くなって、なんでもできちゃう気がするの。それが私には少し怖い」

 開いた手のひらをじっと見つめていたシャロンは、ふと私のほうを向いた。

「向こうの世界では本当に七十年以上も戦争がないの?」

「私の国ではね。よその国では今でも戦争をしているところはあるよ。戦争をしていない国のほうが今は圧倒的に多いけどね」

 溜息をついて、シャロンは空を見上げた。頭上にはたくさんの星が輝いている。

「この世界もいつかそんなふうになれるのかな」

 私は心の中で語りかけた。本当はね、シャロン、私たちの世界だってずっと戦争をくりかえしてきたのよ。資源をめぐって、土地をめぐって、ずっと争いをくりかえしてきたの。今でも、そしてたぶんこれからも。

 でも、それを口に出すことが私にはできなかった。本当のことをいうのが、なんだかとても恥ずかしいことのような気がした。だから私はこういった。

「なれる。私たちの世界より、もっといい世界になることだってできると思う」

 その言葉にシャロンは安心したように微笑んだ。そして、ふと周りを見渡した。

「ねえ、そろそろ寝なきゃ。明日早いんでしょ?」

 いつのまにか周りの焚き火は消えていて、起きているのは私たちだけになっていた。

「うわ、そうだった。ごめん、起こしてくれる?」

「はいはい」

 私たちはくすくすと笑いながら、テントの中の寝袋にもぐりこんだ。

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