4.『開く者』

 マスター・ペルルコンは、城の北東の角に設けられた小さな別棟に住んでいた。

 私はシャロンに連れられて、城の中を歩いた。城の中といっても、小さな町くらいの大きさがありそうだ。人が住んでいる館のような建物が点在していて、川や池まである。貯水池のような場所を通りかかったとき、池のほとりに白いマントを羽織った中年の女性がたたずんでいるのが目に入った。

 その女性は池のほとりに膝をついて、手のひらを池の表面にかざしていた。その姿はどこか静謐で神聖な感じがした。

「どうかしました?」

 少し先まで歩いていたシャロンが振り返る。

「ううん、何でもない」

 私は小走りにシャロンを追いかけた。

 やがて私たちはペルルコンの館に着いた。その建物は、少し大きめの二階建て日本家屋といった大きさだった。シャロンはノックもせずに扉を開けて中に入っていった。

 すぐに小さなホールがあり、いくつかの部屋に通じている。

「マスター、いませんかぁ」

 シャロンが呼びかけた。答えはない。やがて左側の部屋からばたばたと足音が聞えてきて、勢いよくドアが開くと、二人の少年が飛び出してきた。

 最初に出てきた少年は、私を見るなり驚きの表情のまま固まった。数秒後、シャロンの顔を見上げて何かを悟ったように、さっと表情を変えてにこりと笑った。

「エリック、エレさんよ。『開く者』の」

 エリックが進み出た。

「こんにちは。僕はエリック・ヴェリン、マスターの助手をやっています」

 この子は何かを知っている。私はそう直感した。

「こんにちは、エリック。私はエレです」

 見たところ、エリックは十五歳くらい、エリックのうしろでもじもじしているもう一人の少年は十二歳くらい。兄弟にしてはあまり似ていない。

 エリックに背中を押されて、もう一人の少年が前に出てきた。

「あの、僕、エドガー・フォン・グランデールと申します」

 その名前には聞き覚えがあった。グランデールって、確か……。

「王子殿下ですよ」

 シャロンが耳元で告げる。なんと、王子様でしたか。

「初めまして、『開く者』のエレです。よろしくお願いしますね」

「はい……」

 王子はまたエリックのうしろに隠れてしまった。

「マスターを知りませんか?」

 シャロンが尋ねると、エリックが答えた。

「もうすぐ戻ってきますよ。食料の調達に行ってます。あ、お姉さんに伝言があったんだ。いい水煙草が手に入ったから、あとで精製を手伝ってほしいって。では、僕たちはこれで」

 二人は何かささやき合って、小突きあいながら、勢いよく外に出ていった。

「ねえ、王子様ってこんなふうに、うろちょろしてていいの?」

「さあ。城の中ですから、いいと思いますよ」

 そういうものか。それにしても、恥ずかしがり屋の王子様だったな。

「あと、水煙草って何?」

「ああ。魔法に使う薬草です。とりあえず、お茶でも飲んで待っていましょう」

 シャロンは私を作業場のような部屋に通すと、お茶を入れに炊事場にいってしまった。その部屋は古い木造小学校の理科室といった雰囲気で、よくわからない物が入った容器や枯れた草花、器具、そして本であふれ返っていた。勝手に触ると、とんでもないことになりそうな気がした。

 カップを持って戻ってきたシャロンは、テーブルの上にごちゃごちゃと置かれた得体の知れない物を、がさっと無造作に脇にどけると、椅子を二つ持ってきた。意外と大胆な子だ。私はますます彼女を憎めなくなってきた。

 シャロンのいれたお茶は甘いフルーツの香りがして、とてもやさしい味だった。

「おいしい! 王妃のところで飲んだのもおいしかったけど、こっちのほうが私は好き」

「ありがとう。これ、私の自家製なの」

「すごい」

 そういえば。この子の手のひらから、このお茶のような甘い果物の香りがしてたっけ。

「ここにはよく来ているの?」

「実は、私、魔術師見習いだったんです。ここには毎日通ってました」

「え? そうなの? でも、だった、ってことは……」

「魔力を集める能力は高いんですけど、魔法をなかなか使いこなすことができなくて」

 シャロンは肩を落としてうつむいてしまった。そんなふうには見えないけれど、どうやらシャロンもいろいろと悩みがあるみたいだ。

「そうだ、魔法で思い出した」

 私はシャロンが脇にどけた雑多なものの中から一冊の本を手に取った。表紙にはこれまで見たことのない文字が書かれている。この世界の文字だ。ページをめくってみた。

 変わった手触りの紙だ。いや、よく見ると紙の本じゃない。薄い皮のようなものに文字が書かれている。これってもしかして羊皮紙というものかしら。確か、中世のヨーロッパで使われていたはず。

 そして、肝心の本の中身は表紙と同様、私の知らない文字で埋め尽くされていた。

 やっぱり。

 私はシャロンに尋ねた。

「私は日本語を――向こうの世界の言葉を喋ってる。あなたたちにはこちらの世界の独自の言語があるはずよね。どうして言葉が通じてるの? これも魔法のおかげ?」

 シャロンはうなずいた。

「エレがあの部屋で目を覚ましたとき、私が飲み物を持ってきたの、憶えてますか」

 私は記憶をたぐり寄せた。そうだ、確か紅茶を一口飲んだっけ。

「うん、そうだった。あれ? そういえば、あれを飲む前はシャロンが何を喋っているのかわからなかったような気がする」

「あの飲み物には『言替えの魔法』がかかっています。あれを飲むことで他の国の言葉を理解することができるようになるんです。話す言葉も相手に理解されるようになります。『言替えの薬』という特別な薬草を使う場合もありますけど、とても貴重なものなので普通は魔法を使いますね」

 なんて便利なんだ。

「私たちの言葉はたぶんエレには正確に発音できないはずです。この魔法は、エレの記憶の中からこちらの言葉の意味に最も近い言葉を選び出しているんです。固有名詞は向こうの世界の発音に一番近い言葉として聴こえていると思います」

「ふうん。でも、文字は読めないのね」

 シャロンは、テーブルの上の本にそっと手をかざすと、目を閉じて小声で何かを唱え始めた。

 気のせいだろうか。部屋が少し暗くなって、温度が低くなったみたいだ。ぱちぱちと何かがはじけるような音が足元から聞こえてくる。私はテーブルの下を覗き込んだ。シャロンの足元で線香花火のような小さな火花が明滅している。

 ふたたびシャロンに視線を戻すと、彼女は目を開けて本を私に手渡した。部屋は元の状態に戻り、ぱちぱちという音もいつの間にか消えている。

 本を開いみて、驚いた。書かれていることが、頭の中に入ってくる。この世界の文字が読めるようになったわけではないのに、内容が理解できる。不思議な感覚だった。

「『常読とこよみの魔法』をかけました。これでこの本の内容はエレにも理解できるはずです。今のエレには、こうやって『常読の魔法』がかかったものでなければ、こちらの世界の文章を読むことはできません。文字の読み書きを習得する魔法はありませんから、普通に学習する必要が……どうしました?」

 よほど間抜けな顔をしていたんだろう。シャロンがこちらを見て首をかしげている。

「いや。見たの初めてだったから。本当にあるんだね、魔法」

「当たり前じゃないですか」

「すごいじゃない、シャロン!」

 この日以降、シャロンは気を利かせて、ペルルコンの館にあるほとんどの本に『常読の魔法』をかけてくれた。なかにはちんぷんかんぷんの魔法書もあったけれど、私はひまさえあればペルルコンの本を読みふけった。

「こんなの、いちばん初歩的な魔法ですよ。あ、戻ってきたみたいです」

 外の扉が開く音がして、マスター・ペルルコンが部屋に入ってきた。

「いらっしゃると思っていました」

 今日の彼はマントではなく、麻のような素材の丈の長い生成りのショップコートのようなものを着ていた。たぶんもとは白かったんだろう、なかなか年季が入っているようだ。手には野菜の入った袋を抱えている。相変わらず猫背で、いかにも研究者といった感じだ。シャロンが袋を受け取って別の部屋に持っていった。私はさっそく質問を始めた。

「色々とお聞きしたいことがあります」

「ええ、はい。知る限りのことはお話します」

「『開く者』の本当の役割が果たされれば元の世界に戻れるというのは本当ですか」

「本当です。それが『開く者』の存在理由だといっても過言ではありません。それが果たされれば自動的に道は開き、あなたは元の世界に戻ります」

「宰相は、そうなるまでに三年かかるといっていました」

「この先どうなるのか、はっきりしたことは誰にもわかりません。『開く者』の目的については、我々『風が生まれる国』の人間だけではどうしようもないことが多いのです。ただ、できるだけ早く、とは思っています」

「『開く者』の真の目的は、この世界から争いをなくすことだと王妃がいっていました」

 ペルルコンは少し意外そうな顔をした。

「王妃はそこまであなたに話されたのですか」

「本当はもう少しあとで話そうと思われていたみたいですけど」

「そうですか……。王妃はあなたを信頼されたみたいですね」

「そうなのでしょうか」

 ペルルコンはうなずいた。

「それで、さきほどの質問への答えですが、正確にいうと『開く者』の真の目的が争いをなくすということではありません。確かに、『開く者』にはそういう能力があります。そして、王妃をはじめ私たちは、『開く者』の能力をそういう形で使ってほしいと望んでいるのです」

「私は、具体的に何をすればいいんですか」

「この世界に『ことわりの扉』というものがあります。その扉を開くことで、この世界の法則を変えることができるといわれています。『理の扉』を開くことができるのは『開く者』だけなのです。『理の扉』を開き、世界の法則を変えることで、この世界から争いをなくせると私たちは考えています。それ以上のことはまだお話しできませんが。『理の扉』を開くこと、それがあなたの目的だと思っていただいて間違いはありません」

「その……『理の扉』というのははどこに?」

「今は、『冠を戴く国』の王都――ケミに」

『冠を戴く国』って確か――。

「敵国じゃないですか」

「そうです。真の目的の達成まで時間がかかるというのは、そういう理由からです」

「おいそれとは近づけない?」

「『冠』に入り込むこと自体は難しくはありません、ただ、『理の扉』は王城ヴィーレキッサの最深部にあります。今の情勢下で、そこまでたどり着くのは至難の業でしょう」

「だから、『冠』と戦おうとしているの?」

「いいえ。私たちのほうから『冠』に戦いを挑んだことはありませんし、これからも戦いを挑むつもりはありません。おそらく何らかの方法でケミに潜入することになると思います。今その方策を立てているところです。ただ、その前に『冠』に攻め込まれてしまっては元も子もありません。ですから、『開く者』が戦いに必要とされているというのもまた事実なのです」

 私は必死で頭の中を整理していた。

「『開く者』の真の目的を達成すれば、元の世界に戻ることができる。そのためには敵国である『冠』に潜入しなければならない。しかし、今はまだその段階ではない……ということは、当面私は王妃のいう通り、ここでいろんなことを見たり、聞いたりしていればいいということ?」

 ペルルコンはうなずいた。

「ところで、過去に召喚された人はいるんですよね」

「おります」

「記録は残っていないんですか?」

「召喚に関わる一切の記録は口伝でしか残してはならないことになっています」

 申し訳なさそうにこちらをちらりと見てから、ペルルコンが続けた。

「この地ではほぼ千年の間、『開く者』は現れておりません。。十年ほど前、『南の地』で召喚に成功したと聞き及んでおりますが、そのときの『開く者』は現在行方不明となっています」

 その人はいったいどうなったんだろう。どんな人だったんだろう。いや、そもそも――。

「なぜ、私なんですか?」

「召喚される人間がどのようにして選ばれているのか、実ははっきりとしたことはわかっておりませんのです。召喚魔法との相性としか説明できません」

 私は溜息をついた。

 シャロンが戻ってきて、ペルルコンにカップを手渡した。

「あ、ありがとう、シャロン。

 エレさん、あなたには憎まれても当然のことをしたと思っております。私には、あなたの力を必要とした人たちがどのような人たちなのか、それを知って、これからのことを判断してほしいとしか申せませんです」

 私たちはしばらく黙り込んだ。この人を恨んでもどうしようもないことはわかっている。それどころか、自分が味方につけなければならないのは、この人だ。でもまだ今は……。

「たぶん、今はまだ気持ちが落ち着かれていないと思います。もし何かお聞きになりたいことがあれば、いつでも来てください。私はたいていはここにおりますから」

 ペルルコンは頭を下げた。私はうなずいた。

「お邪魔しました。また来ます」

 立ち上がろうとして、ふとテーブルの上に載っている額に入った小さな絵に気づいた。そこには美しい女性と五歳くらいの女の子が描かれている。

「マスターの奥さんとお子さんです」

 シャロンがそっと告げた。少し意外だったけれど、それはまあ奥さんと子どもがいてもおかしくはない。

「もし、私がこの世界で死んだら、向こうの世界の私も死ぬんですか」

 去りぎわに、ふと思いついて私は尋ねた。

「はい。こちらの世界であなたが死ねば、向こうの世界のあなたも死ぬことになります」

 ペルルコンはうつむいたまま答えた。

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