2.長弓

 城はやはり大きかった。

 たとえ道順を教えられても一人では迷子になっていただろう。迷路のような通路をすたすたと歩くヴァンペルのうしろを、私はキョロキョロしながらついていく。

 昨日初めてヴァンペルトと会ったときにも感じていたのだけれど、彼女からかすかに香水のような匂いが漂ってくる。ジャスミンに似た、オーガニックないい感じの匂いだ。ジャスミンは生花に近い香りを抽出するのが難しいはずなんだけど……とそんなことを考えながら歩いていると、曲がり角で歩調を緩めたヴァンペルトの背中にぶつかりそうになってしまった。

「どうしました?」

「あー。いや、あの、この世界にも香水ってあるの?」

 ヴァンペルトはちょっと首をかしげて、答えた。

「ええ、あります。私たち騎士はそんな高価なものは使えませんけど」

「でもあなたはとてもいい匂いがする」

「ああ。それはたぶん、これでしょう」

 うなずきながらヴァンペルトは胸元に手を入れると、小さな袋を取り出した。袋には首から下げるための紐が付いている。彼女は首から紐をはずして袋を私に手渡した。

「ミエリッキという花を乾燥させて粉末にして入れているんです」

「すごくいい匂い」

「気に入りましたか?」

「ええ」

「近衛隊の騎士たちはみんなこれを身に付けています。みんなそれぞれお気に入りの匂いがあるんですよ。今度作り方をお教えします」

「ありがとう」

「そうだ。ちょっとだけ寄り道しましょう」

 ヴァンペルトはそういうと、再び建物の中に入り、小さな裏口から外に出た。

 そこは弓の練習場らしく、標的が立てられ、屋根のある建物の中から狙えるようになっていた。距離は百メートルくらい。もとの世界のアーチェリーの練習場ってたぶんこんな感じなんだろう。ただし、こちらの標的は、わらでできた人型の的だったけれど。

 練習している人はいないようで、ひっそりとしている。木製の器具にたくさんの弓が立てかけられていた。弓も当然木でできていて、よく見るとそれぞれ微妙に異なった細工が施されている。どの弓も握り手の皮は擦り切れて白くなっていた。

 突然背後で声がした。

「もしかして、あなたがエレさんですか?」

 びっくりしてふり返ると、目の前に小柄な女性騎士がいた。近づいてくる気配が全くなかった。

「は、はい、そうですけど……」

 たじろぎながら答える。

「やっぱり! ずるいじゃないですか、隊長。エレさんを案内するときは教えてくださいっていってたのに。あ、聞きましたよ。エレさん、昨日いきなりワイバーンを乗りこなしたんですよね。しかもレンに乗ったんでしょ? すごいなぁ」

 突然現れた騎士は一気にまくし立てた。

「……クララ」

 ヴァンペルトの呼びかけにも気付かず、小柄な女性騎士は目を輝かせながらこちらににじり寄ってくる。

「あ、レンに咆哮をあげさせたって、ホントですか? 私まだ一回もできたことがないんです。コツとかあるんですか? 隊長は、もっと竜とひとつになれっていうんですけど、そんな簡単に……」

「クララ・エク班長!」

「はい!」

 小柄な女騎士の勢いがようやく止まった。

「すいません、つい……」

「がさつな部下で申し訳ない……」

「い、いえいえ。そういえば、昨日のあの子、大丈夫でした?」

 私はヴァンペルトに尋ねた。

「ええ、元気ですよ」

「レンという名前なんですね。ワイバーンって竜の種類ですか?」

「竜には幾つか種類があって、ワイバーンはその中でも比較的小柄で扱いやすい種です。ただし、レンはまだ子どもで、訓練が終わっていませんから、私たちでも乗りこなせるかどうか」

「咆哮って、昨日レンがあげた雄叫びみたいなやつですね」

「竜が咆えると衝撃波が発生します。もしレンが大人の竜だったら、私は失神していたでしょう。竜が咆哮をあげるためには、乗り手の心が竜と通じ合わなければなりません。よほど優れた乗り手でないと難しいんです」

 ヴァンペルトの説明を聞いていると、また背後で声がした。

「エレさん、エレさん」

 ふり返るとクララが弓をこちらに差し出している。さっきまで私の隣にいたのに。いつの間に。

「ちょっと引いてみませんか?」

 私はヴァンペルトを見た。彼女は何か考え込むような顔をしている。試しに弓を手に取ってみた。こんなの初めてで引けるんだろうか。それに、あの人型の標的に向って射つのはちょっと抵抗がある。迷っていると、ふと部屋の隅に立て掛けてある一本の弓に視線が引きつけられた。その弓だけ、ほかの弓よりも長く、形もちょっと違って、繊細な感じがした。それに、どこかで見たような……。

 そうだ、この世界に来る前、あの白昼夢で持っていた弓だ。

「あの弓は? ほかのとは形が違うみたい」

 クララが感心して腕組みをした。

「へえぇ、さすがですねぇ、あれに気づくなんて。あの弓は『東の地』ではなく、異国で作られたものだそうですよ。使い方も全然違うみたいだし、すごく重いので誰も使ってませんけど」

 部屋の隅に行って、その弓を間近で見てみた。弓に詳しいわけじゃないけれど、ほかの短い弓が西洋で使われていた洋弓に、この長い弓は日本の弓道で使う和弓に似ているような気がする。ほかの弓が一メートルちょっとなのに、これはその2倍くらい、優に二メートル以上ある。でも、そんなに重量があるようには見えない。

「あんまり重そうには見えないけど」

 疑問を口にすると、クララが答えた。

「弓自体の重さじゃなくて、弓を引くときに必要な力のことです。強力な弓ほど弓を引く力が必要で、そういうのを弓が重いとか軽いっていうんですよ。そいつはいわゆる強弓ってやつですね」

 なるほど。重い弓ほど力が要るが、強力というわけか。私はその大きな弓を握ってみた。そして確信した。

 やっぱり、あの弓だ。あのとき持っていた弓。かつて自分はこの弓を引いたことがある。私の、いや、エレという少女の手のひらがそれを憶えている。

「これ、引いてみてもいいですか?」

 ヴァンペルトが無言でうなずく。

 弓には手袋のようなものがくくり付けてあった。右手の親指、人差し指、中指だけをカバーするような特殊な形の革の手袋だ。私はそれをはめ、弓の横に立ててあった筒の中から矢を一本抜いて、標的の前に進み出た。そこからの動きは、ほとんど無意識だった。

 的を左手に見るように立ち、両足を肩幅よりやや広めに開く。お尻をぐっと引き締めて下半身を安定させる。矢を弦につがえ、弦を右手袋の親指の付け根に引っ掛けると、顔を左に向けて目標を見据えた。

 どんどん集中力が高まっていくのがわかる。

「あの弓、確かイリス・レーンの……」

 クララがヴァンペルトにささやいている。

「しっ。静かに」

 そんなやりとりをしている二人をちらっと横目で見たあと、私は弓を両手で掲げるように持ち上げた。

 左肘の回転で少しだけ弦を引いたあと、弓を左右に押し広げていく。確かに弓の抵抗力がものすごい。重い、というよりも、硬い。これをただ力任せに引くことは、どんな筋肉馬鹿でも無理だろう。でも、私の体は弓を筋肉の動きではなく、骨格だけの動きですんなりと引いていく。

 弓が最大に引ききられ、矢が右頬の唇の横にピタリと止まる。標的に向かって真っ直ぐに伸びた右手の親指三センチ上に、人型の中心が見える。私にはわかった。今射てば当たる。

 けれど、私の体はまだ矢を放たない。ここから更に左右に体を伸ばそうとしている。弓がぐっ、ぐっとしなっていき、そのたびに右頬の矢が少しずつうしろに引っ張られていく。

 これ以上伸ばすと両肩の関節がはずれる。そう思った直後、右手がうしろに持っていかれ、親指の付け根から自然に弦が離れた。これまでためにためていた張力が一気に解放される。矢が、ブオンッという唸りをあげて飛ぶ。

 体が硬直して動けない。

 バシィィィンという大きな音を立てて人型の中心に当たった矢は、地面に立てていた木の棒をへし折り、標的を数メートル後方に吹き飛ばしてしまった。

「……あの弓矢、魔法補正はかかってませんよね」

 クララがヴァンペルトに尋ねた。

「ああ。そのはずだ」

「すごい……」

 確かにすごい。でも、私は複雑な思いで、矢が刺さったまま転がっている人の形をした標的を見つめていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る