第二章 城
1.会議のあと
なぜ逃げ出さなかったのだろう。
厳しい監視がついていたわけでも――正確にいうと監視はあったのだけれど――、どこかに閉じ込められていたわけでもない。特に、エレの身体能力の高さに気づいてからは、逃げようと思えばいくらでも逃げられたはずだった。
でも、そうしなかった。
城の外は未知の世界だ。誰も私のことを知らない。どんな人たちがいて、どんな生活を送っているのかすらわからない。そんな世界で、たった一人で、いったいどうやって生きていけばいいのか。
城の中には、少なくとも私のことを知っている人たちがいる。ちゃんと扱ってくれる人たちがいる。ここにいれば――将来のことはわからないにしても――当面は生きていける。その事実は私にとって何にも増して重要なことだった。
恫喝や暴力によって強制的に従わされるよりも、もしかしたらそれは、もっと残酷な縛られ方なのかもしれない。自分がもっと若くて、十代や二十代だったら、先のことを考えず、さっさと城を後にしていたのかもしれない。
分別や経験のある大人であればあるほど、一歩を踏み出すことが難しくなっていくらしい。そして、なにか大きなものに、いとも簡単に組み込まれてしまうものらしい。
御前会議終了後、宰相がおもだった人々に引き合わせてくれた。灰色の服を着た人たちは、やはり文官だった。
「我々は行政、事務を担当しております。私は文官長のハンス・ラドウェル、以後お見知りおきください」
「よろしくお願いします」
一体何をお願いするのかわからないけれど。
「不足なものがありましたら、なんなりとお申し付けください。普段は東の居館の執務室におりますので」
彼らが出て行くと、さっき剣を抜こうとした大柄な騎士が大きな声で話しかけてきた。
「いやあ、さっきは肝を冷やしましたぞ」
どうやら、豪放磊落を絵に描いたような人みたいだ。
「宰相もお人が悪い。あれほどの腕前がおありなら、教えておいてくれればいいものを。おかげで大恥をかいてしまったではないですか」
そういいながらも、愉快そうに笑っている。
「いや、私も驚いているのですよ」
それはこちらのセリフですよ、宰相。
「申し遅れました。騎士団団長、ブルーノ・ラーソンです」
「エレです。私のほうこそ失礼いたしました」
「それにしても、俺が一本取られるのは何年ぶりだろうな、アクセル」
ブルーノは、いつのまにか彼の隣にきていた若い騎士に尋ねた。さっきも団長の隣に立っていた。剣を借りた青年だ。
「ここ数年ありませんね。僕を除いては」
「ふん、ぬかせ」
「副団長の、アクセル・ソランデルと申します」
その若い騎士にさっと手を取られて、気が付くと手の甲に口づけを受けていた。その動作のあまりの自然さに思わず感心してしまう。好みのタイプじゃないけれど、まあ悪い気はしないな。でもアクセル君、私、この外見より二十歳以上も年上なんだよ。
「すいません、つい、いつもの癖で」
そういってアクセルは微笑んだ。
「まったくお前というやつは。ところでエレ殿、先ほどの技は、やはり向こうの世界で学ばれたのですか?」
「いえ、学んだというわけではなく、体が勝手にというか……」
と、ごにょごにょいっていると、アクセルが助けてくれた。
「団長、エレさんが困っていますよ。それに、僕たちもそろそろ行かないと。来年の予算のことで会計長が話があるっていってたじゃないですか」
「そうだった。では、我々はひとまずこれにて。今度また是非お手合わせ願いますぞ。ああ、そうだ、ヴァンペルト、例の護衛の編成の件で相談があるのだが」
赤毛の女性騎士ヴァンペルトは少し離れたところに佇んで、私たちのやり取りを見守っていた。
「わかった。夕刻、出向こう」
「すまんな。一杯おごるよ」
騎士たちが出ていき、私と宰相、ヴァンペルトが残った。ヴァンペルトが私に向きなおった。
「改めまして。王妃近衛隊隊長のアリス・ヴァンペルトです」
私たちはどちらからともなく握手を交わした。
「昨日はご迷惑を……」
「いえ。エレ殿は向こうにお子さんを残してこられているんですから、私は当然のことだと思います。あまり大きな声ではいえませんが」
ヴァンペルトは宰相をちらりと見た。宰相は、ごほん、と咳払いをしてから話し始めた。
「まあ、それについては、マスター・ペルルコンの話だと、問題はないということらしい。私にはよくわからなかったが、エレ殿は理解されていたようだ」
「完全に信じたわけではありません。でも今は慌てても仕方がないみたいですから」
「そうですな。先ほど、あの場ではそれぞれ言質を取られることを避けて、ああいう形になりましたが、私は今後どうされるかをゆっくりと判断されればいいと思っていますよ」
「え。王の命ではないんですか」
「実をいうと、エレ殿は騎士の誓いをしているわけではありませんし、この国の民でもありませんから、なんら効力はありませんよ」
思わず膝の力が抜けそうになった。
「あの、もし仮に、私があなた方に協力したとして、本当にもとの世界に帰してもらえるんでしょうか」
「『開く者』がその役割を達したら、おのずともとの世界に戻ることになります」
「それは……具体的にどれくらい先のことなんですか」
「我々の見積もりでは、遅くても三年後までには」
「三年!」
今度こそ本当に膝の力が抜けた。
いや、待てよ。
「この世界の一年は?」
「三百六十五日です。時間や月日はそちらの世界と同じはずです。それに、実際にはもっと早まる可能性が高いとみています」
「以前にも、『開く者』はいたんですか」
「ええ。しかし、『開く者』がこの東の地に現れたのは千年ぶりです」
これが例えば友人の身に起こったことなら、私はこの人たちに対してひどく腹を立てただろう。でも私は怒る代わりに、なぜかとてもみじめな気持ちになってしまった。ヴァンペルトが心配そうにこちらを見ている。
いかん、いかん。
「宰相。私、マスター・ペルルコンにもう少し話を聞きたいのですが」
「わかりました。その前に、少しお時間をいただきたい。王妃が会議のあと、あなたをお連れするようにとの仰せでした」
ペルルコンのところへ行くのはそのあとだな。
宰相とヴァンペルトの話し合いの結果、その日はヴァンペルトが私に付き添ってくれることになった。
「当面のあいだ、エレ殿に誰か付けて差し上げたほうがよろしいのでは、宰相」
「そうですな。では、シャロンに付いてもらいましょう。どうですか、エレ殿」
「はい。私からもお願いします」
「では早速手配しましょう」
宰相が出ていくと、私はヴァンペルトと王妃の居館に向った。
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