3.逃亡失敗

「な、な、なにこれ!」

 私は鏡に向かって叫んでいた。

「これが今のあなたなの」

 鏡の中の金髪の少女の肩に、シャロンがそっと手を乗せた。

 いや、あなたなの、って。

「言われても……。え? なんで……」

 よろよろと鏡の前から離れると、顔にぺたぺたと手を当ててみる。いや、こんなことをしても意味はない。

 恐る恐る、もう一度鏡の中を覗いてみる。

 そこにはやっぱり金髪の少女がいた。

 今度は鏡の前で手を振ってみる。鏡の中の少女も同じ動作する。

 うん、やっぱり鏡だ。

「ええええええー」

 慌てふためく少女を、鏡の中のシャロンはじっと見つめている。

「違う……これ、私じゃない……」

「落ち着いて」

 シャロンにぎゅっと腕をつかまれた。

「だって……」

「わかってる。大丈夫なの。これが今のあなたの姿」

 とりあえず深呼吸して、鏡に向き直った。そして、あらためて鏡の中の少女の顔をしげしげと眺めてみた。

 うーん、これは……。

 シャロンも可愛い子だと思ったけれど、鏡の中の少女は不思議な魅力を持った顔をしていた。私は思わずその相貌に惹きつけられてしまった。たぶん目のせいだ。大きくて深い藍色の瞳。じっと見ていると吸い込まれてしまいそうな深い色。芯の強そうな子だ。この子は信用できる――これまで数多くの若い女性の面接を行ってきた経験がそう告げている。

 たぶんまだ十七歳か十八歳といったところだろう。目の下にうっすらとソバカスがある。誰にもいったことはないけれど、私は昔からソバカスというものに憧れていたのだ。

 うわぁ、肌が白いなぁ――。

 いや、待て待て。

 何を見とれているんだ、私は。

 それまでかぶりつくようにしていた鏡から慌てて顔を離して、首を振った。 

 不思議だった。こんな異常な状況でよく正気が保てているものだと、他人事のように感心していた。なぜだろう。シャロンがそばにいると、これが夢でも幻でもなく、そして自分の頭がおかしくなったわけでもない、現実の出来事なのだと感じることができた。だから、このときのことを思い出すたびに、シャロンに感謝せずにはいられなくなるのだ。

「私は私だけど、外見は私じゃない。私の外見は私とは違う人間になってる。ええと……つまりこれはどういうことなの?」

 どこまで話すべきなのか、シャロンは迷っているようだった。そんな彼女の様子を見ていると、唐突にある可能性に思い至った。

 もしかして……、

「もしかして、私は死んでしまったの?」

 あわてて、シャロンは首を振った。

「違う。あなたは死んでない」

 シャロンは言葉を探しながら説明を始めた。

「あなたの精神だけが、この子の――別の人間の中に移ったの」

 自分の精神だけが、別の人間――この金髪の女の子の体の中に移った。言葉の意味は理解できるのに、まったく現実感が伴ってこない。

「あの……この子の名前がエレだったの?」

 シャロンがうなずいた。

 なるほど……。いやいや、なるほどじゃないよ。

 私は痛くなってきたこめかみを押さえた。

 ん? でも、待てよ。私の精神がこの子の体の中にいるってことは……。

「この子はどうなったの? 私の精神がこの子の中にあるっていうことは、ええと、つまり、この子の意識っていうか、もともとのエレはどうなっちゃったの?」

「エレは死んでしまいました。彼女が死んだあとにあなたが来たんです」

「この子が死んだあとに私が来た……。じゃあ、私は……」

 死んだ人間の体の中にいるというの?

 その質問を口にすることに抵抗を感じて、唇を噛んだ。それは死んだ人間に対してとても不遜なことであり、自分がひどい罪を犯してるような気持にさせた。だから、別のことをシャロンに尋ねた。

「あなた……友達だったの? その……エレと」

「いいえ、違います。私はよく知りませんでした」

 シャロンはうつむいた。

 困った。これ以上何をどう切り出せばいいのか、わからなくなってしまった。思考がフリーズしかかっている。どうしよう。そのとき頭に浮かんだことはただひとつ。とにかく家に帰らなきゃ、ということだけだった。

 窓の外ではどんどん陽が傾きかけていく。ええい、ダメモトだ。

「あの、何か飲み物をもらってもいいかしら? 喉がまだ変な感じなの」

「わかりました。何かもらってきます」

 こちらが拍子抜けしてしまうくらいあっさりと、シャロンはカップとトレイを持って出ていった。ドアが閉まる。鍵のかかる音はしない。一分くらい経ったころ、そっとドアを開けて、恐る恐る外を覗いた。

 誰もいない。

 廊下は一方が行き止まりで、反対側には階段があるようだ。部屋を出て階段のほうに向かった。裸足だけど仕方ない。おかげで足音が立たなかった。

 自分が逃げ出したことで、あのシャロンという子に迷惑がかからないだろうか。ふと、いつの間にか彼女に好意のようなものを感じていることに気づいた。もしかしたら、もう少しシャロンと一緒にいるべきだったかもしれない。でも、じっとしていられなかった。山で遭難したら必ず死ぬタイプだな――昔よくそんなことをいわれたっけ。

 階段を降りて外に出ると、そこは中庭のような場所だった。どうやら本当に城にいるらしい。しかもかなり大きい。さっきの部屋は尖塔のような建物の中にあった。

 どう考えても日本じゃないよね、ここ。

 考えるのは後回しだ。とにかく動こう。幸いあたりに人のいる気配はない。なるべく敷地の裏手を目指そうと歩き始めた。

 広い。

 いくつかの建物を通り過ぎ、ようやく敷地の端にたどりついたと思ったら、そこには高い石の壁がそびえ立っていた。よく考えたらそれは当たり前だった。

 城なんだから。

 そう簡単に出入りはできないか。

 とりあえず壁に沿ってまた歩き始める。

 小屋のような建物の前を通り過ぎたとき、ギョッとして足をとめた。それは一見馬小屋のようだった。手前の壁がなくて、自由に出入りできるようになっている。ただし、中にいたのは馬ではなかった。馬どころか、自分が知っているどんな生き物でもなかった。

 これは……何?

 ウロコに覆われた爬虫類のような体、ワニみたいな頭に角のような突起、長い尻尾。体には大きな翼が生えている。体長は馬よりも少し大きいくらいだ。

 これって……竜……だよね。

 一瞬、竜が本当に架空の生き物だったかどうか自信がなくなってしまう。

 いやいや、架空の生き物だよ。どうやら人間というものは、既成概念よりも目に映るもののほうを信用してしまうらしい。

 こちらに気づいた竜が、首をもたげた。

 うわ、目が合った。

 でも不思議だ。ぜんぜん怖くない。

 竜の前で固まっていると、人の足音と話し声が聞こえてきた。

 どうしよう。

 足音がこちらに近づいてくる。

 逃げなきゃ。

 私は竜のいる小屋の中に飛び込んだ。足音が小屋の近くで止まる。どうやら立ち話をしているようだ。

 そばに来ても竜はじっとしている。そっと背中に触ってみた。こいつに噛みつかれたらただじゃ済まないだろうな。でも、なぜか大丈夫だという確信があった。意外にも、竜の体は暖かかった。変温動物じゃないのか。苦手な鳥の体のような柔らかさはなく、硬いうろこに覆われたその感触は手のひらに心地よかった。竜の皮膚は不思議な匂いがした。ドライクリーニングに出したときの服の匂いに似ている。

 竜は首をひねってこちらを見た。

「私を助けてくれる?」

 なぜか私は竜にささやいていた。すると、竜はまるで私の言葉を理解したかのように、ひょいと体を低くして首を下げた。

「もしかして、乗れっていってるの?」

 そうだ。この子は乗れといってる。私は恐る恐る竜の首の根もとあたりにまたがった。首には革のベルトがはめられて、ベルトについているロープが壁に固定されている。首のベルトを外すと竜は立ち上がり、ぴょんぴょんと飛び跳ねるようにして小屋を出た。

 小屋のすぐそばに二人いる。まだこちらに気づいていない。さっきの話し声の主たちだろう。つなぎの作業着のような服を着た小柄な女性と、赤い髪の長身の女性だった。赤い髪のほうは腰に剣を差している。やっぱり彼女も中世の騎士みたいだ。と思ったとたん、二人がこちらに気づいた。

「おい、何をしている」

 赤毛の女性が叫んだ。

 しまった。

「衛士を呼んできます」

 小柄なほうが駆け出そうとするのを赤毛が止めて、こちらをじっと見つめた。

「いや、待て。彼女は……」

 赤毛が小柄な女性に告げる。

「エマ、私のワンの準備を!」

 なんだかよくわからないけど、やばそう。

「逃げて!」

 思わず私がいった直後、竜は翼を広げはばたくと、地面から浮き上がった。

「待て、そいつはまだ……」

 赤毛が叫んだときには、竜はもう空に向かって飛び立っていた。

 城がどんどん小さくなっていく。竜は上空をゆっくり旋回しはじめた。城の前に小さな町があって、その周りに集落が幾つか散らばっている。城の背後は森と険しい山だ。車どころかアスファルトの道路さえ見えない。城を中心とした町以外に、見える範囲で人が住んでいるような場所はない。畑と、森と、山ばかりだ。

 太陽が山の上に落ちかかろうとしている。武司はもう学校から帰ってきてるだろう。日曜日におかずを多めに作り置きしておいてよかった。

 お母さん、とんでもないところに来ちゃったよ。

 旋回を続けていると、城から一頭の竜がこちらに向かって上昇してきた。乗っているのはさっきの赤毛の女性だ。彼女の竜は鞍を載せ、手綱の付いたくつわのようなものをはめている。こちらの横を同じように旋回しながら彼女が何か叫んでいる。風の音でよく聞き取れない。

 やがて向こうの竜が行く手を遮り、二頭は触れ合うくらい間近で滞空した。

「私は、王妃近衛隊のヴァンペルトです。『開く者』よ、城にお戻りください」

 開く者? 彼女はいったい何をいっているのだろう。

「嫌だといったらどうなるの」

「不本意ながら、力づくでお連れしなければなりません」

「私は家に帰りたいだけなのよ」

「従ってください」

「嫌です。私をもとに戻して、私を帰しなさい!」

 直後、こちらの竜が雄叫びをあげた。周囲の空気が震え、その振動がビリビリと体に伝わってくる。向こうの竜は動揺したみたいだ。体をぐらつかせながら私たちから離れていく。でも、驚いたのはこちらも同じだった。私は思わず竜の首にしがみついていた。

 赤毛の女性が懐からハーモニカのようなものを取り出し、口に当てるのが見えた。ピィーッという鋭い笛のような音がしたと思ったとたん、私の竜がバランスを崩して、落下していく。

 景色がグルグルと回る。

 きりもみ状態で落ちていきながらも、地面スレスレでなんとか態勢を立て直し、竜は着地した。どうやらすぐ上にピッタリとついていたらしい赤毛の女性の竜もすぐそばに降り立った。

 急激な落下によるダメージで体に力が入らない。気分が悪い。体がズルズルと竜から滑り落ちていく。

 地面に落ちる寸前、ヴァンペルトと名乗った女性騎士が抱きかかえるようにして私を受け止めた。

「まったく、なんて人だ」

 朦朧とする頭にヴァンペルトのつぶやく声がかすかに響き、やがて私の意識は薄れていった。

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