2.少女

 翌日、代休をとった。

 なつみにいわれるまでもなく、最近は少し無理していたので、もともとこの日は休むつもりでいた。

 朝、学校に行く武司を見送ってひと息ついてから、掃除と洗濯を始めた。

 家事を午前中にやってしまうと、ビールを飲みながら、ダイニングキッチンのテーブルから窓の外をぼーっと眺めた。五月のよく晴れた朝で、日差しが気持ちいい。庭を二匹の黄色い蝶が飛んでいる。

 昨日のなつみの言葉が不意によみがえった。どう返事をしよう。いや、迷うことなどない。なつみの気持ちは嬉しいけれど、それに応えることなんてできない。

 でも……。本当にそうなんだろうか。

 もう男はまっぴらだと思っていたし、これからもそれは変わらないだろう。

 男なしでも十分やっていける自信はあった。

 では、男じゃなかったら。

 これまでは、何かあれば近所に住んでいる母親に助けてもらっていたけれど、いつまでも彼女を当てにできないことはよくわかっていた。いつかは母親もいなくなってしまうのだ。すでにもう母親自身が誰かの助けを必要とし始める年齢になっている。

 この先、場合によっては子供と母親と両方の面倒を見なくてはならない時期が訪れるかもしれない。そんなとき、誰かがそばにいてくれたら……。

 いやいや。

 そんな考え方は、なつみに対して失礼だ。

 やっぱり、はっきりと断ろう。

 でも、なつみもそういうことも込みで、申し出てくれていたではないか。

 いかん。これじゃ堂々巡りだ。

 しかも、なんだか眠くなってきた。

 だめだ、本当に寝てしまいそう。

 ベッドに移動しようと思ったとき、耳の奥に、何かが聞こえてきた。

 耳鳴り?

 違うな。音楽?

 いや、誰かの声だ。

 外国の言葉で、詩の朗読をしているような、不思議なリズムだ。窓の外ではダンスを踊る二匹の蝶。

 もしかして、もう夢を見ているのかな。

 蝶の向こうにぼんやりと人影が浮かぶ。

 若い女性みたい。

 誰?

 眼を凝らそうとしたそのとき、突然外が輝きだして目の前が真っ白になり、意識が遠のいていく。

 そして目覚めると、私はその肌寒い洞窟にいた。


 頭がひどく重い。さっきまでの暖かな朝とは正反対の冷やりとした空気に、これまでに嗅いだことのない不思議な匂いが充満していた。どうやら寝台のようなものの上に寝ているらしい。毛布の下は白い質素な麻のワンピース一枚だ。

 またあの白昼夢か。

 でも今回は意識が朦朧としている。

 隣にも同じような寝台があり、女の子が横たわっている。外国人? どこの国かはわからないけれど、ともかくアジア人には見えない、可愛い顔をした十代後半と思しき女の子だった。

 毛布を体に巻きつけて寝台を降り、彼女の顔を覗き込む。まるで死んでいるみたいにぐっすり眠っている。まさか、死んでいるんじゃないよね。と思ってよく見ると、ちゃんと胸が上下している。よかった。呼吸してる。

 そこはむき出しの岩に囲まれた小部屋のような場所だった。いくつかの松明が灯されているほかに明かりはない。

 一番大きな松明の前に男が倒れていた。男はフード付きのマントのようなものを身にまとい、片手に杖を握りしめている。まるでおとぎ話に出てくる魔法使いのような格好だ。

 これは……何かのコスプレ? どう考えてもまともな格好じゃないな。とにかくここから離れよう。

 かたわらに寝ている女の子を起こそうと体をゆさぶってみた。でも、彼女は一向に目を覚まそうとしない。困ったな、早くしないと。もう一度男のほうに目を向けた。

 あれ? 男の姿がない。

 その直後、背中にそっと何かが押し当てられ、再び意識が遠のいていった。


 次に目が覚めたのは、天蓋付きのベッドの上だった。意識ははっきりしている。リアルな感覚だ。あの白昼夢とも違う感じがする。

 起き上がろうとして、自分の着ている服に目が止まった。

 なんだこれ?

 見たことのない服を着ている。時代がかったフリルの付いた寝巻きだ。素材は麻で、かなり使い込まれている。鼻を近づけると古着独特の黴臭い匂いがした。相当な年代物に見える。それに、この違和感。自分の体じゃないみたいだ。

 かすかに、何かの音が聞こえる。音の方に振り向くと、ベッドサイドの椅子に少女が座って居眠りをしていた。音の正体は彼女が立てる寝息だった。さっきの洞窟で横に寝ていた子だ。

 じゃあ、あれも夢じゃなかったのか。

 少女は椅子に座ったまますやすやと寝息を立てている。声をかけるべきだろうか。迷っていると、少女が突然、はっ、と目を覚ました。

「――――?」

 少女が何かいった。あの白昼夢に出てきたような、聞いたことのない言葉だった。慌てて立ち上がった少女は、そのままじっとしていろというジェスチャーをすると、部屋を出て行った。

 実際に見たことはないけれど、ヨーロッパの古城の部屋ってこんな感じじゃないんだろうか。中央に置かれた大きなベッド以外には、鏡の載ったチェストと、少女が座っていた椅子以外に家具はない。いずれも古めかしい調度品だった。

 これはいったいどういう状況なんだろう。 

 最初に頭に浮かんだのは、誘拐、拉致、監禁といった言葉だ。でも、なぜか犯罪の匂いがしない。

 数分後、少女が陶器のコップを載せたトレイを持って戻ってきた。中味は紅茶みたいだ。どうやら飲めといっているらしい。飲めといわれてもなぁ、とためらっていると、少女はコップを取り上げて自分でひと口飲んだ。飲んでも大丈夫だといいたいみたいだ。どうぞ、といった感じでコップを差し出してくる。ダージリンに似た匂いがした。

 思い切ってひと口飲んでみた。

 頭の中の左側の部分を突然ばちばちと火花が散るような感覚が襲った。次いで、耳の奥と喉が焼け付くように熱くなる。

「だい……ぶ?」

 少女が何か尋ねている。その声がまるで遠くで喋っているみたいにぼんやりとしか聞こえない。やがて耳の奥と喉の熱がおさまるにつれて、少女の言葉がはっきりと聞こえるようになってきた。

「大丈夫?」

 こちらを心配そうにうかがっている。

「私のいうことが解る?」

 うなずいた。

「よかった」

「ここは? 私はいったい……」

 喉がかすれて、うまく喋れない。

「ごめんなさい、私は何も説明することができないの。でも、あなたに危害を加えることはないから、安心して」

 少女はすまなさそうに体を寄せてきた。こうして間近で見ると、本当に可愛い子だ。まるで人形みたいだ。

「私の名前はシャロン」

「シャロン……」

 外見は西洋人のその少女の日本語は完璧だった。さらに彼女はこう告げた。

「あなたは、エレ」

 エレ? 私はそんな名前じゃない。

「違う、私は――」

 といいかけた口をシャロンが手のひらでそっと押さえて、首を振った。よくわからなかったけれど、名前はいわないほうがいいみたいだ。シャロンは手を下ろした。彼女の手のひらは、甘い果物のような香りがした。

「ここはいったいどこなの? 確かさっきは洞窟のような場所にいたと思ったんだけど。私はどうやってここへ?」

「今はまだいえません。ここはあなたがいた世界とは別の場所だとしか。ごめんなさい」

 私がいた世界? 世界ってどういうことだろう。いろいろと突っ込みたくなったけれど、努めて平静を装って、さも当たり前のことのようにいった。

「私、家に帰らなければならないの。夕方には息子が学校から帰ってくるから、それまでに戻ってやらないと」

 シャロンは申し訳なさそうにうつむくだけで、何もいわない。

 今、何時だろう。窓の外を見ると、既に陽が傾きつつあるようだ。シャロンにそっと手を握られた。

 ふと、彼女に握られている右手を見て気がついた。

 指輪がない。

 取り上げられたのだろうか。結構気に入っていたのに。もしかして、と耳たぶに触れると、ピアスもなくなっている。とても嫌な感じがした。

 いや、それよりも、何か変だ。私の手、こんなにすべすべしてたっけ。四十歳を越えると、どうしてもそれなりに体は衰えていく。特に加齢が如実に現れるのが手だ。でもこの手は皺ひとつなく、爪もまるで透明なマニキュアを塗ったみたいにつやつやと輝いている。しかも、肌の色がびっくりするくらい白い。

 おかしい。ぜったいに変だ。

 シャロンはこちらを見てうなずくと、そっと手を差し伸べて立つように促した。そして、チェストの上の鏡の前に導いた。

 そこでようやく、それまでずっと感じていた違和感の正体を理解した。

 鏡の中にいたのは、自分とは似ても似つかない、金髪の少女だった。

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