未来から来た女「あなただからです」
湊がぴしゃりと空き教室のドアを閉める。
ここはいわゆる進路指導室で、普通の教室よりは面積が狭い。それでも、今の湊との間に流れるこの微妙な空気のせいで、私にとっては広く感じられて心許なかった。
「あの」
私がかけた声を遮るように、
「榎本さん、ここ、座りなよ」
湊が椅子を勧めてくる。
ということはつまり、彼は私をすぐに解放するつもりはないらしい。
それは湊自身に、私に何か話したいことがあるからか。
それとも私の様子に気づいて、その話がきっと長いだろうことを悟ったからか。
促されて座った私の前に、湊が片膝をつく。おかげで今は湊が私を少しだけ見上げるような形になっている。
先に口を開いたのは湊だ。
「もしこれが、僕の気のせいだったら申し訳ないんだけど。もしかして榎本さん、何か隠してる?」
「……!」
「いや、抱えてる、って言ったほうがいいのかな。それが何かはもちろん僕なんかじゃ分からないけど、普段はしっかりしてる君が倒れるほど取り乱したりするのは、それが原因なんじゃない?」
下から見上げられる眼差しは、まさに風の凪いだ海のよう。
「『ミナト』が死んだことが、その原因?」
「なっ、んで、あなたがそれを!?」
ガタリと、私は椅子から立ち上がっていた。
湊が死んでしまったことを、なぜか本人が知っている。その衝撃は計り知れず、私は動揺することしかできない。
「君が取り乱しながら言ったんだよ。『ミナト、死んじゃった』って。そのときはさすがに僕も驚いた。だってまさか、自分と同じ名前が出てくるなんて思わないだろ?」
「わたし……」
「しかも君は、どうやらその『ミナト』が好きみたいだし。死んだ人間にこう思うのは酷いかもしれないけど、なんで僕と同じ名前なんだって、そのときは思ったよ。どうせならその名前の『ミナト』が僕だったらよかったのに、とも。……とりあえず座って榎本さん。話はまだあるから」
衝撃が冷めやらぬ私が立ったまま呆然としていると、湊が私の腕を引っ張って座らせてくる。
じゃあ湊は、だから『湊』が自分ではないと確信に近い勘違いをしていたのかと、妙に納得した。
「でもさ、今度は君が僕に言ったんだ。『大っ嫌い』って。それは『ミナト』にしか抱かない感情なんだろ? なのにそれを、君は僕に言ったんだ」
おそらくそれが何を意味するのか、湊はもうほとんど分かっている。けれど最大の矛盾が、湊に確証を持たせない。
だって湊は、今こうして生きているのだから。
「ねぇ、教えてよ。君の言う『ミナト』はいったい誰なの? 僕だと思っていいの? それともやっぱり他の奴? それならなんで君は、僕に大っ嫌いって言ったあとにあんなことを言ったの? 実はあれも演技だった?」
だんだんと湊の声が辛そうに掠れていく。
眉根も寄っていて、じっと見つめられる瞳は切なげに揺れていた。
この人にそんな思いを抱かせてまで、私はいったい何を守ろうとしていたのだろう。急に何もかもが分からなくなっていく。
なんだか今の湊は、捨てられた子犬のようで。
中途半端に好意を見せられて、でも結局捨てられてしまって、新たに見せられる好意に期待したいのにしたくない、みたいな。そんな葛藤に心を揺らしている。
そして彼をそうさせているのは、他でもない、私の身勝手さだ。
私はあのときから何も変わってない。自分勝手な思いで突っ走って、湊を傷つけて失った、あの日の自分から。
そんな私が、どうして湊を救えるだろう。
あの日と変わらない私が、未来を変えようだなんておこがましいにもほどがある。
(本当に私は、何をやっているんでしょう……。これじゃあ、"あのひと"に笑われてしまいますね)
だったらやることは一つじゃないのか。私は自分自身にそう問いかけた。
未来を変える前に、まずは自分が変わる。
彼を失わないために。
大切な人を、これ以上傷つけないために。
私が、変わらなければ。
意地を張って差し伸べられる手を取らず、自分一人で突っ走ってきた、愚かな自分から。
小さく、深呼吸をした。
「――――九條くん、あなたの中間テストの順位は、私が7位以上であれば8位で、私が8位以下であれば、きっと7位でしょう」
「……は?」
「茉莉ちゃんの順位は私が変えようと動いたので分かりませんが、同じ要領で相模くんの順位は私が53位以上であれば54位で、それ以下であれば53位です」
「ちょっと待って榎本さん、急にどうしたの? なんで中間の順位なんか……発表は
「そうです。でも私にとっては、すでに発表された結果です。ちなみに今回の中間での1位は、おそらくあの男だと思います」
「あの男って、中原くん?」
私は頷く。すると湊が困ったように頬を掻いた。
「どうして君がそんなことを知ってるのって、訊いてもいいのかな?」
「まだ待ってください。来週、結果が発表されたらお教えします。たぶんそのほうが、信じてくれると思いますので」
「僕が君の言うことを、そうでもしないと信じないって?」
ああもう、なんでこの人はそんな女の子がときめくようなことをさらりと言ってしまえるのか。
これを誰にでも分け隔てなくやっていたら、120パーセントの確率で彼は今頃みんなのアイドルだったに違いない。
そんなこの人を好きになって、好きになってもらえた私は、なんて幸せな女の子なのだろう。
「拗ねないでください。私があなたに打ち明けようとしている話は、相手があなただからこそ、打ち明けようと思ったんです。だからつまり、むしろ信じているからこそ、なんですよ。あなたじゃなかったら一生口を閉ざしてます」
「……本当に?」
「私の言うこと、信じられませんか?」
今度は私が唇を尖らせてそう言うと、湊が一瞬ののちに小さく吹き出した。
「はは、うん、そうだね。これに関しては僕の負けだ。君の言うことを信じて待つよ。来週だね?」
「はい、来週です。私もそれまでには、心を決めておきます」
「? 分かった。じゃあそれは置いといて。次は中原くんのこと訊きたいんだけど」
「あー……あの人については……少しその話に関係しているといいますか」
言い淀む私を、湊は逃さないように凝視してくる。
ただそんな目で見られても私だって困ってしまう。
「まあ、九條くんも見たとおり、彼は粘着質といいますか。でもたぶん大丈夫です。九條くんのおかげで逃げていきましたし、あんな絶望したあいつの顔は、初めて見ましたから」
「前からあんなふうに迫られてたの?」
「うーん……そうとも言えますし、そうとは言えませんし……」
「なんか煮え切らないね」
「うっ……。で、でも、これだけは間違いありません。私はあいつが嫌いです。二度と顔も見たくないほど。だから九條くんは、絶対あいつに近づいたらダメですよ。あいつにもし私に関することで呼び出しなんかくらっても、絶対に応じちゃいけませんからね!」
分かりました? と強く言い聞かせるように忠告する。
もうないとは思うけれど、念には念を入れておきたい。それにあいつの執念深さを身をもって知っている私としては、奴に対してだけは疑いすぎるくらい疑わないと落ち着かないのだ。
「はいはい、分かったよ。今はその説明で我慢してあげる」
「あ、その感じ、絶対適当に言ってますね? 流そうたってそうはいきません!」
「……なんか、やっぱり榎本さんって僕のこと好きだよね? なんで僕が適当に返事したって分かるの」
「やっぱり適当なんじゃ……って、そういうこと普通に言わないでくれます!?」
「んー……だって触れると真っ赤になるし、さっきは僕の言うことに素直で、むしろ『ここにキスしろ』って命令されてるのに喜んでたような……」
「ぅオッホン!! 誰がそんなこと命令されて喜ぶんですか! あ、あれはっ、仕方なく、仕方なくやったことですからね!?」
「仕方なくやったことに、君は舌まで使うと」
「は……い!? なんのことですかっ」
「僕が首筋を指定したとき、ちょっとだけぺろって舐めたよね? 僕が気づかないとでも思った?」
「わ、あ、ああああれはっ」
「もしかして、自分でも無意識だったの?」
「ぶほぉっ」
「……え、本当に?」
「ちちちちがっ、違い、違わないけど違いますっ!」
「ふはっ、ははは! え、やばい。本当に? そうなの? でもそれ、どっちにしても恥ずかしいやつだよ、榎本さん」
「!?」
湊がお腹を抱えて笑い出す。
声を上げて笑う彼はなんだか久しぶりのような気がして、不覚にも私の鼓動が高く鳴る。
湊に指摘されたとおり、私はそれを無意識にやっていた。やったあとにはたと気づいて、必死に平常心を保っていた私の苦労はいったい何だったというのか。
あのときは何も言われなかったから、湊は気づいてないと思っていたのに。
「あーもうやばい。どうしてそんなかわいいの、君は。いちいち僕のツボを突いてくるよね」
「し、知りませんそんなのっ」
「ほんと、君のその反応がたまんない。大好きだよ、榎本さん」
「〜〜っ今それを
「そうかな? でもずるいって、どうして?」
ニヤニヤと意地悪く訊いてくる。これは絶対からわれている。
本当に、腹黒王子から腹黒魔王に転換してしまえばいいと思う、この人。いや、それだと生ぬるいか。やっぱり腹黒"大"魔王のほうが――
「あ、今僕のこと、腹黒とか思ったでしょ」
「――っ」
なぜ、と思わず内心の思いを顔に出してしまう。
「榎本さんて結構分かりやすいよね。じゃあご期待にお応えして、これから中間発表までの間、覚悟しておくといいよ」
「?、?」
そう言って意味深に口角を上げた湊によって、のちの私は寿命を半分以上減らされる羽目になっていた。
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