未来から来た女「湊だけです」


 突如目の前に現れた湊に、私はもちろん、あいつもこれ以上ないくらいぎょっとしていた。

 少しだけこの場に糸を張ったような緊張が落ちるけれど、すぐに湊の落ち着いた、でも凍えそうなほど冷たい声が空気を震わせる。


「中原くんだっけ? ずいぶん好き勝手言ってくれるね。榎本さんがおまえを好き? 両想い? は、笑わせないでよ」

「――っ」


 私の位置からでは湊の背中しか見えないけど、きっとその瞳が絶対零度の感情を映しているだろうことは、見えなくても分かった。

 基本的に事勿れ主義の湊だから、彼が本気で怒ることは珍しい。

 珍しいからこそ、湊は怒ると怖いのだ。

 怒りのオーラでその場を支配してしまえそうな、怒鳴り散らすというよりも暗くて冷たい深海の中に一人放り込まれたような感じの、得体の知れない怖さ。

 あの湊を前にすると、どんな言い訳も意味がないと悟る。

 無駄な悪足掻きをするくらいなら、いっそのこと認めてしまったほうが楽になれると本能も察知する。

 私がこの状態になる湊を見たのは、これで二回目だった。

 一年前、自分がこの男に嵌められたときでさえ、彼は怒らなかったというのに。


「おまえみたいなタイプは、一度はっきり分からせてやらないと目を覚まさないんだよね……」


 ひとり言のようにそう呟いたあと、湊が私を振り返ってきた。

 内心で「湊……?」と首を傾げる私をよそに、彼は私の腕を掴んでぐいっと引っ張る。

 いきなりのことで何の構えもしていなかった私の体は、そのまま簡単に湊の胸に飛び込む形になっていた。

 とくんとくんと、湊の心臓の音が聞こえてくる。


「その前に、先に自己紹介をしておこうか」


 私を自分の腕の中に閉じ込めた湊が、何の脈絡もなくそう言う。

 これにはあいつだけじゃなく、私も口をぽかんと開けて湊を見上げた。

 なんでここで自己紹介?


「初めまして、中原くん。僕は九條湊。榎本さんとは同じクラスなんだけど……実はそれだけじゃないんだ」

「そ、それだけじゃ、ない?」

「あの、く――」


 九條くん? と彼の真意を窺おうとしたら、湊が私の顔を自分の胸に強く押しつける。おかげで私の声は湊の胸の中に吸収されて消えてしまった。

 もう何がなんだか分からない。

 湊が何をしたいのか、混乱する頭では考えることもままならない。


「さて。じゃあ僕の名前が分かったところで、話を最初に戻そうか。おまえに思い知らせてあげなきゃいけないことがあるからね」


 そうだよね、榎本さん? と耳元で低く囁かれる。

 その声音はひどく蠱惑的で、まるで背筋をつぅと撫でられたような錯覚を覚えた。


「ほら、あいつに教えてやってよ。君が本当に好きな男の名前を」

「っ――」


 片手で髪を掻き上げられて、露わになった首筋にわざとらしく彼の唇を近づけられる。

 ふっとかかる温かい吐息が、私の肌を浸透していった。

 そこからじわりと痺れるような感覚が広がっていって、そのせいで体から力が抜けそうになる。けれど私の腰を抱いていた湊の左腕が、そんな私をしっかりと支えてくれている。

 その普段の彼からは想像もできない力強さに、私の胸は甘く疼く。

 きっと今の私は、肌という肌全てを朱色に染めていることだろう。

 湊に何をされているのか、それがあいつにどういうふうに見えているのか、その全てを私は正しく理解している。

 しているからこそ、今すぐここから逃げ出したいくらい恥ずかしくて、でも湊からこうされる喜びを確かに感じていた。

 

 認めざるを得ない。

 私は間違いなく変態だ。それも、湊限定の。

 だってこんな状況でも、私は湊に触れてもらえることを嬉しいと思っている。


「遠慮なんてしなくていいよ。あいつに分からせてやろう。君が誰を好きで、誰を求めてやまないのか。おまえなんか入る隙はないって、思い知らせてやるといいよ」


 いつになく強引な口調。

 その強引さにまた胸をときめかせる私は、一度死んだほうがいいんじゃないかと本気で思う。

 きっと湊は私を助けようとしてくれているだけなのに、当の私がそんな湊に見惚れてしまっているのだから。

 

 ああもう、どうして。

 どうしてあなたは、そんなにかっこいいんですか。

 おとぎ話から飛び出してきた王子様のようとは、残念ながら言えないけれど。

 私の好みをぎゅっと詰め込んだみたいに、あなたはいつも私のツボを押さえてくる。

 私だけの、腹黒王子様。


 あなたはきっと、私に「湊が好き」だと言わせたいのでしょう?

 その"湊"が、たとえ自分じゃないとしても。

 今の湊が勘違いしているように、あいつにも同じ勘違いをさせようとしているのでしょう?

 そんなことをすれば、自分だって傷つくのを分かっていながら。

 

(そうでした……そうでしたね。初めて湊がキレたのを見たのも、私を守るためでしたね)


 あなたはそういう人だった。

 いつだって、私を守ろうとしてくれる。

 自分のことには無頓着のくせに、私が傷つけられると本気で怒ってくれた、優しい人。

 あなたのそういうところが愛しくて、どうしようもないくらい愛しくて、だからこそ、あなたをこれ以上傷つけたくないと思ってしまう。

 私だって、あなたに嫌われてでもあなたを守りたかったのに……。


「……ええ、そうですね。の言うとおりです。はっきり分からせてやりましょう。私が好きなのは湊であり、それ以外の人なんて私にとってはその他大勢と一緒なのだと」


 湊のシャツをぎゅっと握って、私は奴に無関心な瞳を向ける。

 私が自分の意図を理解してくれたと思った湊は、そのまま挑発的な笑みを崩さない。

 けどそれが、私の心に小さな痛みを連れてくる。

 ポーカーフェイスが得意なあなた。あなたは今、どんな思いで私を助けてくれていますか。


「もう一度言ってあげましょう。私が好きで、心の底から大好きで、だからこそ私の『大っ嫌い』にもなれちゃう人は、世界中で湊だけです」


 そう、湊だけだ。

 湊だけが、私に「大っ嫌い」を言わせることができる。

 未だかつて私がその言葉をぶつけたことがあるのは、彼ただ一人だけ。

 だって大好きだからこそ、すれ違った思いが悲しかった。悲しくて痛くて苦しくて、だから大好きな分だけ裏切られた思いが強くなってしまって、その言葉が生まれてしまった。

 

(湊は気づいてくれるでしょうか。私は、あなたにもそれを言ったんですよ)


「だから勘違いしないでもらえますか。私があなたに『嫌い』だと言ったのは、そもそもそれ以上強い感情を抱けるほどあなたに関心がないから。つまり私にとっての『大っ嫌い』は、大好きの裏返しってわけです」


 そのとき、湊のほうから息を呑む気配が伝わってきた。

 真っ直ぐ射抜くようにあいつを捉えていた彼の瞳が、このときばかりは私に向けられた気配を感じる。


(湊、私はあなたに嫌われたかったけど、あなたを傷つけたかったわけじゃあ、ないんですよ?)


「で、でも、君に彼氏なんて、い、いないじゃないか!」


 知ってるんだぞ、という空気を滲ませてくるあいつに、今度は私が挑発的な笑みを浮かべてやる。

 

「それは当然です。だって私の片想いですから。ずっとアプローチしてるのに、湊ったら全然私になびいてくれないんです。無理やりキスだってしてやったのに、私の誘惑に引っかからない男なんですもん。ねぇ湊、今度はもっとふかぁ〜いキスでもしてやれば、私に落ちてくれます?」


 まるでドラマにでも出てきそうな妖艶な女になったつもりで、私は湊の体にしなだれるように密着する。

 さっきのお返しと言わんばかりに、もったいぶるような手つきで彼の首から鎖骨をすすすと撫でてやった。

 そんな私に一瞬だけぴくりと眉根を反応させた湊は、でもその次にはもう私と同じように人を誘惑する笑みで私を見返してきた。


「へぇ? それは楽しみだな。僕を落とすのはなかなか難しいよ?」

「意地悪ですね。まあ、そんなところも好きですけど」

「ふぅん。じゃあ今度、せいぜい僕を満足させられるよう――」

「いいえ。今、満足させてあげますよ」

「え、」


 湊の短く驚いた声を飲み込むように、私は彼の口を遠慮なく塞ぐ。

 その大胆な行動は、余裕の演技をしていた湊の不意をつくには十分だったようだ。至近距離から見る彼の瞳は、いつもの何倍もの大きさに見開かれていた。

 きっと、私が人前でこんなことをするとは思ってもみなかったのだろう。そうでなくても、寝ぼけてもない私が自分にキスをしてくるなんて、今の湊は頭の片隅にも思わなかったに違いない。

 確かに私は通常なら人前でこんなことはしない。普通に恥ずかしいからだ。

 でも色々と限界を超えていたこのときの私は、たぶんちょっとだけヤケになっていた。


 あいつに湊の悪口を言われたのもそうだし。

 湊を傷つけている自分に嫌気が差したのもそうだ。

 あいつの口ぶりからあいつが湊をバカにしているような感じがして、それもやっぱり気にくわない。

 けど何よりも、湊が自分の心を犠牲にしてまで助けてくれようとしているのに、そんな彼に何もしてあげられない自分が一番気にくわなかった。

 

「……っはぁ、口開けて、湊……」

「…………僕を満足させてくれるんじゃなかったの?」

「……」


 ここにきて本来の自分を取り戻したのか、ニヤリと意地悪く口角を上げられる。そんな湊がちょっとだけ憎たらしい。

 そこは察して開けてくれてもいいと思うんですが。


「いじわる」

「君限定のね」

「っ、……バカ」

「うん、そうだね。きっと僕はバカなんだよ」


 ――演技うそでも、嬉しいから。

 私にだけ聞こえるようにそう呟いたあと、湊が自分の舌で私の唇を押し開いてくる。

 私はそれを待ってましたと言わんばかりに受け入れて、口内を侵す湊の熱いそれに自分のを絡めた。

 くちゅりと卑猥的な音が響く中、私は横目であの男を見やる。

 一年前はさすがにこいつの前でこんな強硬手段は取らなかったので――思いつきもしなかった――奴の反応が気になった。

 これで思い知ってくれないだろうか。私はあなたじゃなく、湊が好きなんだと。


 すると意外なことに、ちらりと薄目で覗いた奴の顔面が、これ以上ないくらい絶望に染まって震えていた。

 前は何をやっても何を言っても功を成さなかったというのに、その奴が、今は口をわなわなと震えさせて、信じられないものでも見るように私たちの絡み合いをガン見している。

 どうやら湊もそれに気づいたようで、一度唇を離すと、ふっと軽く笑みを漏らした。


「足りないなぁ。こんなもの? 君の実力は」

「!」


 濡れた自分の唇を親指で拭いながら、湊がいつになく愉しそうに私を見下ろしてくる。

 でも正直そんなことを言われても、私はもうこれ以上は無理だった。

 何をどうすればいいのかも分からないし、自分で仕掛けたこととはいえ、まだこんな恥ずかしいことを続けなきゃいけないのかと内心ではテンパっている。

 湊にそれとなくそれらを伝えようと彼の瞳をじっと見つめてみるも、彼がそれに気づく気配はない。

 というより、たぶん。

 

(あの黒い笑み……私の考えを分かっててあえて無視してますね!?)


 なんて男だ。何もここにきて調子づかなくても良いのに。

 こうなった湊は、本当に自分が満足するまで追撃の手をやめてくれないから厄介だった。


「じゃあさ、こういうのはどう? 僕が言った場所にキスしてよ」

「!? ちょ――」

「僕のこと、落とすんでしょ?」


 つい素に戻りそうになった私の声を遮るように、湊が揶揄を入れる。

 そのフォローはとても助かったけれど、今の提案は却下だとできれば叫んでやりたい。

 ほんと、何を言い出してくれてんでしょうねこの魔王は。

 さすがの私も演技どころじゃなくなってしまう。湊が言ったところにキスをするなんて、ある意味普通のキスよりも恥ずかしい。


「それじゃ、最初はここから」


 そう言って湊が指したのは、いきなり彼の鎖骨というなかなかハードなところだった。


(最初くらい手とか頬とか、無難なところでいいじゃないですか! それをなんでっ)


 なんで、よりにもよって鎖骨なのか。

 そこにキスをするということは、少しだけ湊のシャツをはだけさせなければならない。

 それが私にとってS級クラスの難易度だということを、この男は分かっているのだろうか。いや、分かっててやっているのだろう、間違いなく。


「ほら、おいで」

「……っ……」


 凄く生き生きとした顔で言われるも、こちらとしてはなんだか屈辱的な気分だ。

 でも湊の有無を言わさない雰囲気が、私の体を見えない手で操ってくる。

 いつのまにか私は言われたとおり湊のネクタイを緩めていて、彼の男らしい鎖骨にちゅっと軽いキスを落としていた。


「はい、よくできました。じゃあ次は耳」


 そのあとも湊の命令は続き、私は言われるがままキスの雨を彼の体に降らせる。

 でもそんなことをしていると、なんだかだんだんとこっちがおかしな気分になってきて、自然と息が上がってくる。

 しかも言われた場所にキスをすると、そのたびに湊が優しく頬を撫でてくれて、それがまるで湊の支配欲の表れのようで心が震えた。

 どうやら悲しいことに、いつのまにか私は湊によってM気質にされていたらしい。

 

(そんなの自覚したくありませんでした……)


 ちゅ、と湊の目尻から唇を離す。そのまま湊の瞳をじっと見つめていると、それに気づいた湊が眉を垂れ下げて苦笑した。


「そんなに見つめないで。しかも、そんな目で」


 そんな目? と小首を傾げる私に、湊はまた優しく頬を撫でてくれる。

 それから「見て」と彼が小さく言い、指された先に視線を持っていくと。


「――……あれ、いなく、なってます?」

「うん、逃げていったよ。泣きながら」

「泣きながら!?」

「なんかぶつぶつ言ってたけど……ああそうそう、こんなに乱れた天使は俺の天使じゃないっ、だったかな。バカだよね、乱れてる榎本さんなんて貴重かつ最高なのに」


 くすくすと湊が笑う。


「……からかわないでください」

「それは無理だよ。だってさ、あいつが逃げていったことにも気づかないほど、僕のお願いに夢中になってくれてたみたいだし? 榎本さんってどんだけ僕のこと好きなのって、つい思っちゃったくらいなんだから」

「〜〜っ」

「まあでも、安心してよ。さっきのは演技だって分かってる。君が好きな『ミナト』は――」

「っ違います! あなたは勘違いしていますっ。私が寝ぼけながら求めた『湊』も、今好きだと言った『湊』も、本当は……本当は……っ」


 その続きの言葉が喉に引っかかる。あともう少し私に勇気があれば、彼の誤解も解けるだろうに。

 傷つけたくない。これ以上誤解されたくもない。

 何よりも、湊の無理して笑う顔を、これ以上見たくない。


「……」


 葛藤する私を湊が無言で見つめてくる。

 それから何かを考えるように視線をふっと逸らしたあと、湊が「来て」と短く呟いて問答無用に私を空き教室に引っ張っていく。

 そんな彼の広い背中を見つめながら、私はきゅっと唇を噛み締めた。

 

 

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