前世の記憶を持つ男「誰が渡すか」
――"私はあなたが大っ嫌いです。もう二度と、私にあんな
その鋭利な言葉は、僕の胸を容易く貫いた。
榎本さんが教室を出て行ったあと、僕は少しの間呆然としていた。
急に態度が冷たくなった榎本さん。
全身から僕を拒絶する雰囲気を醸し出していて、そのあまりの変わりように僕の脳はなかなか現状処理ができずにいた。
でもそれは僕だけじゃなく、近くにいた茉莉も同じだったようだ。
教室に残っていた二、三人のクラスメイトも、どこか心配そうな瞳で僕をちらちらと窺っている。
「ね、ねぇ、湊」
「……なに?」
「ましろ、急にどうしたの? なんであんな……さっきまで普通だったよね?」
そうだ。
茉莉の言うとおり、さっきまでは普通だったんだ。
今までも彼女に嫌われているんじゃないかと思うような態度を取られたことはあったけど、今回のはそれの比ではない。
むしろ最近はようやく榎本さんが僕に心を開いてきてくれたんじゃないかと、そう思えるようになってきたところだったのに。
あいつだ。
あの男が訪ねてきてからだ。
榎本さんの様子が、びっくりするくらい激変したのは。
「茉莉、あいつ、どんな奴?」
「あいつって、中原くんのこと?」
「中原っていうの? 榎本さんの知り合い?」
「分かんない。だって今までそんなこと聞いたことなかったし、そんな素振りもなかったもん。それにね、ましろって、私の教室には絶対に来たがらなかったの。理由聞いても教えてはくれなかったんだけど、今思うともしかして……」
「なるほどね」
あの中原という男が榎本さんとどういう関係なのかは分からないけど、榎本さんのあの様子、あれは絶対に好意的な感情を持つ相手への態度ではないだろう。
むしろ最大限に警戒していたというか、あいつが来てから榎本さんは僕への態度を変えたのだ。
まるであいつに見せつけるように。
"大っ嫌い"と、わざわざあいつにも聞こえるような音量で。
あのときの彼女は僕に背中を向けていて、その表情を見せてはくれなかった。
――"申し訳ありませんが、あなたのそれは余計なお節介です"
さっきの榎本さんの言葉が甦る。
彼女が急変して最初に口にした言葉――申し訳ありませんが。
(なんで、君が謝ったの……?)
あんなに口を酸っぱくして僕に簡単に謝るなと言った彼女が、どうしてそこで謝罪の言葉を口にしたのか。
僕はその理由を必死に考える。
彼女は言った。僕に。
他人の分まで背負うなと。自分が悪いと思ったときにだけ、謝ればいいのだと。
(じゃあ榎本さんも、そう思ったからあのとき謝った……?)
――"私は、あなたが大っ嫌いです"
それを言うことに、もしかして君は僕に罪悪感を感じていた?
だから、謝罪の言葉なんて使ったのだろうか。
だから、あんなにも辛そうな声を出したのだろうか。
君は気づいていたのかな。
そう言ったときの君の手が、小刻みに震えるほどぎゅっと握られていたことを。
まるで何かを耐えるように。
何かを誤魔化すように。
「茉莉。茉莉から見て、榎本さんは僕のことどう思ってると思う?」
「え? こんなときに何?」
「こんなときだからだよ。情けないけど、今彼女を追いかけて拒絶されたら、さすがの僕もしばらくは立ち直れそうにないからさ」
「……つまり、追いかけてくれるのね?」
「そのつもり」
「よく言った! それでこそ腹黒大魔王よ。大丈夫、自信持ちなさい。ましろは絶対、湊のこと嫌ってなんかないはずだから」
「なんか今聞き捨てならない悪口も聞こえたんだけど」
「いいのよ、こういうときなんだから。そっちのが湊らしいじゃない」
「茉莉なりの励ましの言葉ってわけか」
「そういうこと。それにね、ましろが言った『大っ嫌い』が、なんでだろうね、私には逆の意味に聞こえたんだ」
「逆?」
そう言った茉莉の瞳が、悲しそうに榎本さんの消えた先を見つめている。
「だってとても、泣きそうな声だった」
「……」
それは僕も思ったことだ。
でも、その理由までは確信できなかった。
そもそもそんな都合のいいこと、現実に起こるとは思えなかったから。
(そういえば前、榎本さんが取り乱したときも……)
喘ぐように彼女が必死に言い募っていた声が、どうしてか今、思い起こされる。
――"謝ります! 謝りますから! 大っ嫌いも訂正します。好きなんです……大好きなんですっ。だからいかないで、湊……っ"
まるで恋人のケンカのようだと、それを聞いたときに思った。
本当は大好きなのに、ちょっとのすれ違いでつい言ってしまった「大っ嫌い」。
本当に嫌いなわけじゃなく、ただ勢いに任せて滑らせてしまった「大っ嫌い」。
「嫌い」なんじゃなく、「大っ嫌い」と彼女がわざわざ言ったのは……。
僕の中で、到底現実的ではない仮説が立てられる。
けれどもうそのときには、僕の足は動いていた。
「茉莉、ありがと」
「おうよ。しっかり捕まえてきなさいよ。私は湊のこと、応援してるんだから」
「僕も応援してるよ、おまえと祐介のこと」
「はいはい。ここで茶化さなくていいから」
さっさと行け、と手を雑に振る茉莉に苦笑して、僕は放課後の人が少なくなった廊下を駆け出した。
廊下を走るなと書かれた張り紙は、もちろん今の僕には見えていない。
先に下駄箱に行き、まだ榎本さんの靴があることを確認する。
そのあとはもう、自分の感に任せてひたすら走った。
それがいかに非効率的で無茶苦茶なことかは分かっていたけど、でもなぜか、このときの僕は榎本さんの元に辿り着けると確信していた。
まるでそれが運命のように、僕はきっと彼女の元に導かれる。そんな感じがするのだ。
いや、実際に僕は導かれた。千年前、来世でもう一度会おうと約束した、"彼女"の魂を持つ榎本さんの元に。
運命なんてクソくらえと、今世の僕は思うような人間だけど。
それが君に続いているというのなら、少しは信じてみたいと思っている。
(なんて、都合のいい考え方かな、それは)
そうこう考えている内に、僕は特別棟の方へやってきた。
ここは理科室や家庭科室など、授業のときにしか使われない教室があるところだ。
ただでさえ放課後は人も少なくなるのだから、授業以外ではあまり使われない特別棟なんかはほとんど人が見当たらない。
でもその静寂のおかげで、僕の耳は誰かが話している声を拾う。
声質からそれが男と女のものだと分かったから、走る足は自然と速くなる。
声がだんだんと大きくなってきて、音源に近づいていることを確信しながらまた足を速める。
やがてただの声が意味を持つようになってきたとき、僕は自分がいる階段下の空きスペースに人影をちらりと認めた。
あいつだ。
中原とかいう男だ。
「君のような可憐な天使に、あんな悪魔みたいな男は、似合わないよ。その、君にはお、俺みたいな、一途な男のほうが、似合うと思うんだ」
やっと全ての声が明瞭に聞こえるところまで来たと思ったら、いきなりそんな言葉を吐かれて僕は思わず立ち止まる。
気持ち的には「はあ?」と唖然としたいところだ。なんで見ず知らずの男に悪魔とか言われなきゃならないんだ。
(というよりあいつ、なんかおかしくないか?)
言動が、というか。雰囲気が、というか。
「あいつには大っ嫌いって言って、俺には嫌いだったから、つまりあれだよね? 俺のことは、好きってことなんだよね?」
「なんっ――」
しかも今度は耳を疑うような妄言が聞こえてきた。
榎本さんも仰天したのか、彼女の短く驚いた声が僕にも届く。
「あ、あの、じゃありょ、両想いだし、キス、してもいいよね?」
あ、ダメだこいつ。
僕の顔に青筋が浮かぶ。
あんな奴に榎本さんのあの蕩けた顔を見せてやるとか冗談じゃない。妄想も大概にしろ。
僕は一段一段下りる手間を厭い、一気に階段を飛び下りる。
すると僕の着地と同時、榎本さんの威勢のいい叫び声が響き渡った。
「少しは現実を見なさいってんですこのストーカー男がっっ!」
いやもう本当に。
全くもってそのとおりだ。
それか現実じゃなくて地獄を見にいってくれないかな。
榎本さんの足が奴に攻撃を加えようとしているのを、僕はあえて止めに入る。
だって彼女の髪の毛一本だって、こんな奴に触れさせたくはないだろ? それが彼女の綺麗な足だというのなら、なおさらこんな奴に触れさせてたまるか。
「おまえさ、いくらなんでもふざけすぎだよ、色々と」
誰がおまえなんかに、彼女を渡すかってんだ。
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