未来から来た女「ふざけんな?」
お昼休みの屋上で一年前のことを思い出して取り乱してしまった私は、おそらく誰かが運んでくれただろう保健室でもとんでもないことをやらかした。
目を開けたら目の前に湊がいて、意識を失う直前に彼の事故のときのことを思い出してしまっていたから、それらを繋げた私は目の前の湊を夢の住人だと信じて疑わなかったのだ。
そして夢ならば、甘えてもいいかと思った。
現実の今の湊は、私が触れる資格のない人だから。
だから、触れたくても触れられない彼の代わりに、夢の中の彼になら思う存分触れても大丈夫だろうとタガを外してしまった。
そのときの湊の柔らかい感触は、たとえ寝ぼけていたとしても鮮明に覚えている。
夢にしては彼の息遣いや温もりがリアルだなとは思ったけれど、久しぶりの湊とのキスは、簡単に私の理性を破壊した。
もっと深く味わいたいと思って湊の中に自分の舌を差し込もうとするのに、それがなかなか上手くいかなくてもどかしかったのも覚えている。
キスはいつも湊がリードしてくれていたから、私が自分からできるのは唇同士が触れ合うだけのプレッシャーキスだけだった。
そんな私に気づいたのか、はたまたそれまでにも気づいていたけどわざと意地悪く気づかないふりをされていたのか、どっちなのかは定かではないけれど。
湊の閉じられていた口が、ようやくそっと
私はその瞬間を逃さないよう、すぐさま自分の舌を彼の中にねじ込む。そのあともやっぱり上手くできない私は拙いキスを繰り返していたけど、ある拍子にそれまでの湊と私の立場が逆転する。
急にぐっと唇を強く押しつけられて、びっくりした私が舌を引っ込めると、それを追うように今度は湊が私の中に入ってくる。
互いの唾液が絡む音が、久々だったからか、いつもより恥ずかしく感じて。
それでも私は幸せだった。たとえ夢でも湊とこうして触れ合えるその時間が、もっとずっと続けばいいのにと願ってしまうくらい。
だから目の前にいる湊が現実の湊だと知ったとき、私は足元が崩れていく感覚を味わった。
なんてことをしてしまったんだろうと、また倒れないのが不思議なくらい血の気が引いた。
だって現実では、私は今の湊の告白を断っている。
嫌われるためにそれは絶対のことで、だからこそ、中途半端なことをしてはいけない人だったのに。
しかも湊は勘違いしている。私が誰か別の人と湊とを、重ねてキスをしたんだと。
ある意味それは正しくて、間違っているのだけど、とても真実なんて本人には話せない。
だからあえて誤解を与えたままにする私は、本当に酷い奴だ。
(でもそのほうが、好都合ではあるんですけどね……)
中間テスト期間もようやく終わりに差しかかり、私は暇を持て余した時間を使って次の作戦を練っている。
今は現代文のテスト中で、得意科目でもあり二度目でもあるこのテストは、早々に終わってしまった。けどもちろん、私は今回のテストで1位を取らないよう、点数配分を考えて答案用紙を埋めている。
(何も起こらないといいですが……。念のため、あの男のいそうなところに行くのは避けておきましょう)
湊が一週間の停学処分をくらった事件。
事の発端は、この中間テストで私が学年1位を取ってしまったことにある。
それが中原宏輝という男のプライドを傷つけ、同時に彼の興味対象者になってしまった。
なんでも中原くんは、身体が弱いゆえに今まで勉強ばかりの人生を送ってきたんだとか。親しい友人もおらず、休みがちのせいでなかなかクラスにも馴染めない。
だからこそ、勉強だけが彼の心の支えになっていたらしい。
いい成績を取れば教師は褒めてくれ、親は喜び、周りの同年代は頭がいい奴だと一目置く。
中学で一度もトップを落としたことがなかった彼は、けれど高校生になって初のテストで私にトップを取られたせいで、絶望にも似た思いを味わったらしい。
結果を見てすぐ、奴は私がどういう人間なのかを知るため、私たちのクラスにやってきた。
そしてそこで――自分で言うのもなんだけど――なんと私に一目惚れをしたんだとか。
(なんてはた迷惑なっ。人に好意的な気持ちを寄せられてそう思ったのは、あの男が初めてです!)
彼はいわゆる、ストーカー気質の人間だった。
自分が手に入れると決めたものは、とにかくなんでも手に入れないと気が済まないタイプ。
そのときすでに私は湊と付き合っていたので、もちろん彼からの告白は丁重にお断りする。
今思えば、これが二つ目の発端――ターニングポイントだったのだろう。
それから奴のストーカー紛いの行動が始まった。
(なんでしたっけ……連絡先を教えてもないのに毎日電話をかけてきて、家を教えてもないのに毎朝家の前で待ち伏せされ、休みの日に何をしていたか全て当てられ……なんか他にも色々と……)
色々とありすぎたから、逆に思い出せない。
しかも奴は巧妙で、その全てに証拠を残さない。あのときの私は何度こう思ったことか。
電話じゃなくてライン寄越せってんですよ!
これが私一人だったら、確実に発狂していただろう。
それでも自分を保っていられたのは、ひとえに湊がいてくれたからだ。
私の様子がおかしいといち早く気づいた湊が、奴から私を守ってくれた。するとぱたりとストーカー行為が止んだので、私たちはようやくあいつが諦めたんだと思ったのだ。
そうしたら、今度は標的を湊に変え、奴は放課後の見回りの先生が来るタイミングを見計らい、さも湊に暴力を振るわれたような演技でもって湊を停学処分にまで追い込んだ。
もともと奴が病弱なことはある程度の人が知っていたし、奴が警察には湊の将来のためにも言わなくていいとふざけた泣きの演技をしたもんだから、周りはみんな湊を悪者扱い。
警察を呼ばなかったのは、逆に自分の狂言を暴かれる可能性があったからで、得したのはむしろ奴のほうだ。しかも奴は湊の性格を分かっていたのか、湊が事をさらに荒げようと反論してくることはないだろうと踏んでいた。
だから代わりに私が受けたストーカー被害をぶちまけてやろうかと思ったけど、証拠がなく、私と湊が付き合っているのはクラスの人も知っていたから、私が湊を庇うために嘘をついていると思われるのが関の山だった。
というか、きっとそうなるから何も言わなくていいと憤慨する私を宥めたのは、当の湊である。
本人にそう言われては、私も強く押しきれなかった。
(どうしましょう……怒りが……思い出し笑いならぬ怒りで震えが止まらないんですが……!)
ボキ、と鉛筆の芯が折れる。
今時にしては珍しく、私はテストのときはシャーペンではなく鉛筆派だ。
いや、それはどうでもいいとして。
(…………もう書けない。けどまあ、ちょうどいいですかね)
先生の「やめ」の合図が響いたあと、私は6割ほど埋めた回答用紙を提出した。
「んー! やあっと終わった! もうほんと、テストなんか期末だけでいいのにね」
中間テストの最終日である今日が終わり、テスト期間中は活動禁止だった部活動も、ほとんどのところが今日から活動を再開する。
茉莉ちゃんの彼氏である相模くんが所属するバスケ部もその例に漏れず、私は今茉莉ちゃんから帰りのお誘いを受けたところだった。
すでに帰る準備を終えていた茉莉ちゃんは、わざわざ私のクラスまで迎えに来てくれていた。
「今回はどうでした? 手応えは?」
テストは期末だけでいい云々はとても同意できるけれど、それよりも私は茉莉ちゃんのテストが気がかりだった。
彼女は一年前、赤点を取っている。
そうさせないよう今まで一緒に勉強してきたけれど。
「ん? 今回"は"?」
「あっ、いえ、その、テスト大丈夫でした? 赤点は免れそうですか?」
つい口走ってしまったことを慌てて誤魔化す。
するとさほど茉莉ちゃんもそれを気にしないでくれたようで、にかっと歯を見せてピースサインをしてくれた。
「もう全然余裕! 赤点なんて絶対ないね。私史上初の高得点取れそう」
「本当ですか!? それならよかった……」
「ましろのおかげね。でもましろは大丈夫? 私の勉強ばっかり見てたけど」
「問題ありません。むしろ私は、目指せ30位以下です」
「以下!?」
「これには並々ならぬ事情がありますので」
わざとらしく真剣な顔をして見せれば、茉莉ちゃんは「お、おおう……」と若干引いてくれる。
よし、これで深くは追求されないだろう。
「でも榎本さん、途中で鉛筆折ってなかった?」
「っ、」
その瞬間、私の心臓が思いきり跳ねた。
後ろから降ってきた低い声は、私の大好きな湊のもの。
キス事件があってから、私の心臓はたったこれだけのことで簡単に動悸を引き起こす。
「あ、あれはちょっと、色々ありまして……」
「ましろあんた、何があったら鉛筆なんて折んのよ」
「ボキって聞こえたとき僕寝てたのに、思わず起きちゃったよ」
「寝てた!? 何その余裕! くっ……なんで私の周りには頭のいい奴が多いんだ……!」
私は後ろを振り返れない。
最近、自分でも泣きたくなるというか頭を殴りたくなる衝動に私はよく駆られる。
それというのも、湊の顔を見れば、私の視線は自然と湊の薄い唇にいってしまうからだ。
あの普段は固く引き結ばれていることが多い、でも実際は見た目以上に柔らかい感触を持つ彼の唇を、あの日、私は飢えた獣のごとく味わい尽くした。
漏れる彼の生温い吐息や、どちらとも知れぬ唾液が彼の顎をつぅと滴っていく様を視界の端に捉えたとき、そのあまりの色気に私は完全に発情したメスと化した。
いや、あれはもうオスだ。発情したオスだった。
あのときの羞恥心やらなんやらが一気に頭の中を駆け巡るものだから、ここ最近、私はまともに湊の顔を見られていない。
そしてもちろん、湊はそれに気づかない男ではないし、それを意地悪くからかわない男でもない。
「それにしても榎本さん」
「……」
「さっきからずっとこっち見ないね? どうしたの?」
ニヤニヤと腹黒い笑みを浮かべているだろうことが簡単に想像できる声音だ。
屈辱的ではあるけれど、それでも私は振り返らない。振り返れない。
「もしかして体調でも崩した? なんならまた僕が運んであげてもいいよ? 保健室に」
「――っ!」
湊が「保健室に」の部分に妖しい気配を漂わせる。
しかもさっきより声が近いような感じがするのは、私の気のせいだろうか。
「きゃーっなになに。なんなの二人のこの空気! え、ついに? ついに?」
「茉莉ちゃん、あなたは少し黙りましょうか」
「やぁだだってぇー、私的に湊はオススメよ? 性格も腹黒いのを除けばいい奴だし……まあ9割方腹黒だけど。見た目も今じゃ誰もが認めるイケメンっぷりだし!」
「ちょっと途中で一番問題ある発言が聞こえた気がしますけど」
「え? そんなの気にしない気にしない!」
大口開けて茉莉ちゃんが笑う。
いや、そこ一番気にしましょうね? と私の頬が引きつったのは言うまでもない。
「あの、茉莉ちゃん、帰りません? いや今すぐ帰りましょう」
「えぇ〜。もうちょっと湊とお話しててもいいんだよ?」
「茉莉ちゃん本気でその口閉じてもらえませんかね」
「やだかわいい。ましろが怒ってる」
「怒ってるのにかわいいはおかしいと思うんです」
今ほど茉莉ちゃんと会話のキャッチボールが成り立たないと感じたことはない。
それともあれか、イラッとする私のほうがおかしいのか。
「ね、湊もそう思うでしょ?」
そこ話振らないで!?
「うーん、そうだね。見た目に反してかわいい性格してるなとは、確かに思うね」
いやそれどういう意味? どういう意味で言ってんですか表出ろや腹黒め!
「まあでも? 僕は榎本さんがかわいいだけじゃないことも、知ってるけどね?」
「なっ、にを……」
まさかこの魔王、あのことを言うつもりでは……
「なになに、たとえば?」
「うん。たとえばキ――」
「ぎゃああああそれはここで言うことじゃないでしょうが腹黒おおおぉ!」
私が予想したとおりのことを言おうとした湊の口を、私は大急ぎで塞いだ。
私のその俊敏な動きにびっくりした茉莉ちゃんは鳩が豆鉄砲を食ったようになっていたけれど、そんなのは無視である。
「あなたには羞恥心というものがないんですかっ」
「残念ながら、それは千年前の君によって鍛えられた」
「はあ? 意味分かんないですもっとマシな嘘つけってんですよ!」
「あーあ、もう一回見たいなぁ。あのときの榎本さんのキ……」
「だあっからその話はやめてくれません!?」
「もの凄く色気があって、僕もこうふ……」
「やだやだやだああああ言わないでぇえ!」
「そういえば君も僕に興奮して……」
「それもっと言わないでぇぇええ!!」
このときまばらに残っていたクラスの人たちが、私たちのこのやり取りを見てのちにこう噂した。
あの二人、実は付き合ってるらしいよ。
ふざけんな?
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