前世の記憶を持つ男「忘れたら許さないから」


 榎本さんにされるがまま少しの間唇を貪られていた僕は、一向に終わる気配のないキスにそろそろ色んな意味で限界だった。

 遠くに聞こえていた部活動の音も、今は全くと言っていいほど聞こえない。

 代わりに聞こえるのは、榎本さんと僕の吐息が混ざり合う音。

 

 彼女はきっと、これが初めてのキスではないのだろう。

 何度も何度も角度を変えながら僕の唇を攻めてくる様子は、どこか慣れてさえいて。

 それに僕の胸がツキリと痛むけれど、あえて気づかないフリをして彼女の好きなようにさせていた。

 他の男を想ってキスされるのは嫌なのに、そこが男の悲しいところで、それでも好きな人から積極的に押しつけられる柔らかな感触を自分から手放すことができない。

 

 でもそんなとき、僕は少しの違和感を感じた。

 さっきから一生懸命僕の唇を貪ろうとする彼女は、たぶんその先のこともやろうとしている。

 言ってしまえばディープキスだ。

 しかしそれは不慣れなのか、僕の閉ざされた口をなんとか開こうとして、結局失敗に終わってまた口を吸うの繰り返し。

 いやもうほんと、なにしてんのって言いたい。

 

(あーやばい、かわいすぎる。これ、いつまで寝ぼけててくれるのかな)


 最低な僕はついそんなことを考えてしまった。

 だんだんと意地になってきているのか、榎本さんから漏れる吐息に苦しそうな音が混ざる。

 ちらりと薄目を開けてみれば、若干潤んだ瞳を細めて彼女は一心不乱に僕を求めていた。


(〜〜って、それはなしだろ!)


 その苦しそうに歪む瞳は、僕の嗜虐心を大いにくすぐる。おかげで今すぐ彼女を押し倒してしまいたくなった。

 押し倒して、欲望のままに今度は僕が榎本さんを貪りたい。

 が、なんとかそれを思いとどまって、僕は彼女のタイミングを見計らって薄く口を開ける。

 僕にとってはファーストキスであるこれは、でも前世の記憶があるおかげで僕もある意味慣れていた。

 だからこそ彼女のやりたいことが分かったわけだし、僕が口を開けた瞬間にぬるりと入ってきた彼女の舌を、今度は僕が絡め取って攻めてみる。

 しばらく僕らの交わる水音だけが耳を侵して、僕も榎本さんも互いをただただ味わい尽くすようなキスばかりを繰り返した。

 

 時間にすれば結構長かったんじゃないかと思うけれど、僕にとっては凄く短く感じて。

 でももうそろそろ、冗談抜きで僕の理性がやばくなってきた。それを伝えるように、僕は榎本さんの肩をぐっと押しやる。

 名残惜しいけれど、終わりの時間だ。

 

「ぃやっ、まだ、まだ離れたくありませんっ」

「!?」


 僕がなけなしの理性を総動員させて離した彼女自身が、それを拒むように再び僕に抱きついてくる。

 しかもベッドの上にいる彼女のほうが高い位置にいるせいで、僕の頭を抱え込むように抱きしめられる。

 今の僕の目の前にあるものがなんなのか、それを意識したら僕は終わると思った。色んな意味で。

 もうね。ほんとね。勘弁してくださいって榎本さん!


「ちょ、離して。これ以上はさすがに僕もやばいからっ」

「嫌です嫌です絶対嫌っ。だって、だって湊、死んじゃった……夢にも出てきてくれませんでした! 化けて出てきてくれてもよかったのにっ。なのに……なのに……っ」

「は……? なにを……死ん……?」


 あまりの衝撃に、僕は一瞬フリーズする。

 それからもう一度意味を理解しようと、頭の中で彼女の言葉を繰り返した。

 そして間違いなく、その正しい意味を理解する。

 死んだ――つまり、亡くなったということ。

 榎本さんの言う、『ミナト』が。


「やっと、やっと夢に出てきてくれたんです。私がれられない湊じゃなくて、私だけの、私だけが触れられる湊が……っ」

「榎本さん……」

「なんで名字で呼ぶんですかっ。前みたいにましろって呼んでくださいよ……!」

「……ごめん、それだけは、できないよ」


 僕がそう言うと、榎本さんの僕を抱きしめる力が少しだけ緩んだ。


「目を覚まして、榎本さん。酷なこと言うかもしれないけど、今君の前にいる僕は、君の知ってる『ミナト』じゃないよ」

「……」


 ゆっくりと、榎本さんの腕が僕の体を解放していく。

 どこか戸惑うような彼女を真っ直ぐと見据えて、僕は懇願にも近い声音で言った。


「ちゃんと起きて。僕は九條湊だ。だから僕をちゃんと見て。お願いだ、榎本さん」

「――っ!?」


 やがて僕を捉えた彼女の瞳が、これでもかと見開いた。

 どうやらようやく本当の意味で目を覚ましてくれたらしい。

 するとみるみるうちに、そんな榎本さんの顔色が蒼白を通り越して真っ白になっていく。

 さすがにこれには慌てた。


「榎本さん、落ち着いて。大丈夫だからゆっくり呼吸して」

「あ……うそ……くじょ、くん……?」

「うん、そうだよ。僕ちゃんといるから、とにかく横になって」

「うそ……やだ……なんで、なんで九條くん、いるんですか……っ」


 無理やり榎本さんを横にさせていたとき、掠れた声でそう言われる。

 そんなことを言われると、僕だって普通に傷つくってことを彼女は気づいてくれないかな。

 でもどうしてかそんな榎本さんが、顔を両手で覆って喘ぐように僕に謝ってきた。


「ごめんなさい、ごめんなさい。私今、混乱してて……っ。やっちゃいけないこと、しました」

「……それは、キスのこと?」

「……っ」


 こくり、と榎本さんが小さく頷く。

 やっぱり彼女は寝ぼけて僕にキスしたらしい。

 僕と同じ名前の、僕の知らない『ミナト』と間違えて。


「ちなみに榎本さん、君は寝ぼけてたわけだけど、どれくらい覚えてる?」

「は……え?」

「全部覚えてる?」

「え、え? や、あの、それは」

「覚えてるの、覚えてないの」

「おっ………………覚えて、ます」


 最後は消え入りそうな声だった。


「じゃあ許してあげる」

「え……?」

「だって覚えてるんでしょ? とキスしたこと」

「! あああああのっ、あのあのっ」

「忘れたら許さないから。君は僕とキスをした。たとえ寝ぼけてたんだとしても、君がキスした相手は僕だった。それをちゃんと覚えててくれるなら、許してあげる」

「な、なななに、を……っ」

「それにしても、榎本さんって結構大胆だよね。あんなに求められるなんてびっくりだった」

「いやあああっ。お願いですから忘れてくださいぃぃ!」

「残念。それはできない相談だね。まだ感触残ってるし」


 そう言って、僕はわざとらしく自分の唇をぺろりと舐めとる。

 そのときの榎本さんの反応は、たぶんあとで思い出しても笑えそうだ。ボンっという効果音がつきそうな勢いで顔から火を吹き、そのまま一瞬意識を飛ばす。でもすぐに我に返って、今度は慌ててベッドの布団に潜り込んで雪だるまのお腹のように丸まってしまった。

 耳を澄ましてみれば、そこからお経のように榎本さんが何かを唱えているのが聞こえてくる。

 全部は聞き取れなかったけど、おそらく「私の中の色魔滅びろ」とか言ってたような気がして、僕はつい吹き出してしまった。

 ちょっとそれズレてるよ、とはあえて教えてあげない。


「さて、元気になった?」

「…………逆に疲れました」

「一応もうすぐ君の親御さんが迎えに来てくれるみたいだよ」

「そうですか。あの、ご迷惑をおかけしてすみませんでした」

「気にしないで。僕にとっては嬉しいハプニングもあったから」


 戯けたように笑って言う。

 こうしておいたほうが、彼女が気に病むこともないだろう。

 そう思ったのに。


「ダメです。誤魔化されませんよ。九條くんにとってあれは、嬉しいハプニングなんかじゃなかったでしょう? きっと私を気遣ってそう言ってくれたんですよね。でも、自分でも分かってます。酷いことしたって」

「……そっか。榎本さん、人の感情の機微には敏感なんだね」

「?」


 "彼女"もそうだった。

 本人はなんてことないように相手を気遣っていたけれど、他の人ならきっと気づくこともないだろう心の動きを。

 


 ――姫様は不思議です。まるで心を読んでいるように私の気持ちを汲み取ってくれるのですね。

 ――ふふ。いいえ、これは不思議でもなんでもないわ。それに私が分かるのは、あなたのことだけだもの。

 ――そうなのですか?

 ――ええ。だって……



 確か、そのあとに続いた言葉は――


「私が人の感情の機微に敏感かどうかは分かりませんが、でも今そう思ったのは、あなただからですよ?」

「――え?」

「だって、あなたのことを知りたいと、ずっと見ていましたから。そのおかげか、あなたの表情の変化には敏くなってたんです」

「!」



 ――ええ。だって、私はあなたのことならなんでも知りたいと、いつも御簾からあなたを見ていたんだもの。お慕いする方の変化は、やはり一番に気づきたいものでしょう? それが女心というものよ。

 


「……っ、そ、なんだ……」

「九條くん? なんか顔が赤いですけど」

「や、大丈夫。うん、ほんと全然平気。ちょっと不意打ちくらったっていうかね」

「??」


 頭の上にたくさんのハテナを浮かべて、榎本さんは不思議そうに僕を見上げてくる。

 彼女の中の僕がどういう存在なのかは、まだよく分からないけれど。

 どうやらさらっとそんなことを言ってくれるくらいには、僕は案外嫌われていないんじゃないかと思えてくる。

 それとも彼女はまだ、さっきの混乱の中にいるのだろうか。

 だとしても当然のように告げられたからこそ、僕は頬が緩むのを抑えられない。

 嫌われていないのなら、まだ僕にも彼女の心に入る隙間はあるというものだ。

 

(それで絶対に、『ミナト』なんかより僕を好きだって言わせよう)

 

 このとき立てたこの目標を、僕はのちに全力で恥ずかしがることになるんだけど、それはもう少し先の話。


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