前世の記憶を持つ男「僕だって君が好きなんだ」
榎本さんが錯乱状態に陥った昼休みから、今はもう放課後になってしまった。
その間一度も目を覚まさない彼女は、静かに呼吸を繰り返している。
そのことに安心するも、昼の彼女の様子を思い出すたび、胸の内には言い知れない不安がぽつぽつとシミを作っていく。
さすがに養護教諭の林先生がずっと付き添うことを許してはくれなかったため、僕は休み時間のたびに保健室を訪れていたんだけど、どうやら茉莉も気がかりだったらしく、今は僕と一緒に榎本さんが寝ているベッドの隣に腰掛けている。
「祐介は?」
「祐介には僕と榎本さんの分のカバンを頼んでる」
「え、じゃあなに。自分のカバンも片付けずに来たの?」
「その時間が惜しい」
「惜しいってあんた……。まったく、湊が恋するとそんなに情熱的だとは知らなかったな」
「僕って情熱的なの?」
「え、自覚なし? 人前であんなに告っておきながら?」
「思ったことを口にしただけだけど」
「あ、さいですかー」
茉莉が遠い目をする。
言いたいことは分からなくもないけれど、僕としてはどうしても前世の記憶がちらついて、ずっと長いこと彼女を求めていた気がして仕方ないんだ。
前世と今を、混同したくはないと思うのに。
それでも、僕が好きになったのは"彼女"じゃなく、榎本さんなんだとは胸を張って宣言できる。
ただ前世では叶わなかったがゆえに、今世では絶対に叶えたいという焦りのようなものが生じているのは否定できない。
「ねぇ湊」
「ん?」
「ましろが言ってた『ミナト』って、誰のことだろうね?」
「それ、僕もさっきからずっと考えてる。なんでよりによって僕と同じ名前なんだよって」
「やっぱり、ましろの好きな人、だよね?」
「それ僕の前で言う? ふつう」
「や、ごめん。悪気はないんだよ。事実確認っていうか」
「いいよ。僕も頭の中整理したいしね」
「……元彼、とか」
「そういうのは女友達のが詳しいんじゃないの」
「残念ながら、そういえばましろの恋バナって聞いたことないかも」
「……」
「あ、今役立たずって思ったでしょ」
「思った」
「そこはオブラートに包みなさいよ!」
ばしっと肩を叩かれる。理不尽だ。
「こら二人とも。彼女寝てるんだからもっと静かにね」
「はぁい」
「すみません、先生」
茉莉のせいで林先生にまで怒られた。なんだか踏んだり蹴ったりだ。
「みっなと〜。カバン持って来たぞー」
「だから静かになさいっ」
「えっ、あ、すんません……?」
かわいそうに祐介。完全に僕らのとばっちりだな。
そのあと僕らが座っているところに祐介がそっと近寄って来た。その手には自分の分も含めた三つのカバンが握られている。
「ほらこれ、湊のと、榎本さんの」
「助かったよ祐介」
「それで、まだ目ぇ覚まさねぇの?」
「そうなの。ましろの家ね、ご両親が共働きみたいで、まだ迎えに来れないんだって」
「じゃあ目ぇ覚ますまで課題でもやっとく?」
「祐介……いいの?」
「当然だろ。榎本さんはまあ変わった人だけど、もう友達だと思ってるし」
「祐介、あんたいい男!」
「おうよ。もっと褒めてもいいんだぜ?」
「よっ、さすが色おと――」
「ちょっと黙ろうか、そこのバカップル」
「「はい……」」
僕は短く息を吐く。
仲が良いことはいいんだけど、林先生がまた僕らを睨みつけてたからね。さすがに二度も同じことで注意されるのはごめんだ。
「まあでも、二人は先に帰ったらどう?」
「え?」
「榎本さんなら迎えが来るまで僕が看てるから。先生もいるし」
「でも湊……ましろに変なこと」
「むしろそれはやれっていう前フリ?」
ダメだ。やっぱり茉莉には早めの退出を願おう。
僕の冗談でさえグッと親指を立ててくるあたり、奴を残すのは間違いなく面倒だと僕の直感が告げている。
「祐介、さっさとその異常にノリのいい奴を連れて帰って。頼むから」
「お、おう」
最終的に、榎本さんがもし目を覚ましたらそれをラインで教えるということで決着はつき、祐介と茉莉は先に帰っていった。
二人が出て行くと、しんと静かな空間ができあがる。
二人がいなくなっただけで一気にこの場から騒がしさのようなものが減った。どうやら人というのは、そこにいるだけで案外存在感を主張しているものらしい。
それとも、あの二人の存在が単にうるさかっただけなのか。
今は先生が紙に走らせるボールペンの軽快な音と、窓の外から微かに風に乗って聞こえてくる部活動の音だけが、この部屋の中を漂っていた。
「九條くん、ちょっと」
すると、林先生から小声で手招きされる。
僕は座っていた丸イスから立ち上がり、榎本さんの様子を一瞥してから先生の元に向かう。
「悪いんだけど、先生これから職員会議があって。少しだけここを空けるんだけどいいかしら?」
「僕はかまいませんよ」
「助かるわ。もともと今日の放課後は絶対安静の人以外には解放しないつもりだったのよ。部屋の鍵はかけていくから、誰か来ても緊急時以外は対応しなくていいからね」
「分かりました。こちらこそありがとうございます」
「たぶん彼女の親御さんが来る頃には戻ってこられるから。それまでよろしくね」
「はい」
それから林先生は言ったとおり鍵をかけてから保健室をあとにした。
また一人といなくなったここは、さらに静けさを増していく。
ボールペンの音がしなくなると、いよいよこの部屋には外の部活動の音しかしなくなる。
カキーンと清々しい音は野球部のもの。
パァンと乾いた音は陸上部のもの。
ピピーッと少しだけ長い笛の音は、おそらくサッカー部から聞こえてくるものだろう。
夏が始まろうとするこの季節、すでに太陽の陽射しは強かった。
それが今は西陽となり、真っ白な保健室を橙色に染め上げていく。
開いている窓から入る柔らかな風が、榎本さんの前髪をくすぐった。
そのせいで目にかかってしまった彼女の髪を、僕はそっと横に流す。
寝顔は、とても穏やかなのに。
(君をあんなに取り乱させる『ミナト』は、いったいどんな奴なんだろうね?)
それが実は僕でしたっていう少女漫画的なオチはないものかと、僕は頭の中で何度も何度も考えた。
でも考えるたび、逆に思い知らされるのだ。
それは絶対、僕ではないと。なぜなら。
(好きなんて言われたこともなければ、意外に大っ嫌いとも、言われたことがないんだよね)
でもどうしてか、榎本さんの言った大っ嫌いが、僕にはその逆の意味に聞こえて仕方なかった。
大好きだからこそ、きっとケンカして、許せなくなっちゃって、それが「大っ嫌い」なんて言葉を口走ってしまう結果に繋がったような、そんな感じがした。
だからたぶん、彼女が本当にそう思って言った言葉ではないのだろう。
ないからこそ、胸が痛む。
あれほど取り乱しながら必死に好きだと伝えていた彼女は、本当にその『ミナト』を大切に想っている。それは誰の目にも明らかだった。
いっそのこと言葉どおりの思いを込めて、その『ミナト』に大っ嫌いだと伝えてくれていたらよかったのに――。
「榎本さん、好きだよ。僕だって、君が好きなんだよ……」
前世の僕を足していいのなら、千年も前からずっと。
きっと僕は酷い男だ。
自分はあんなに"彼女"との約束を否定していたくせに、いざ榎本さんにそこまで好きな人がいると知ると、少しだけ彼女を責めたい思いに駆られてしまう。
なんて自分勝手な男だろう。本当に最低だ。
でも、約束したじゃないかって、どうしても思ってしまって。
――"ねぇ昌義、約束よ?"
懐かしい声が、耳に甦る。
――はい、なんなりと、姫様。
――私たちはきっと結ばれない。この時代では、添い遂げられない。
――……そうですね。
――だからね、来世では必ず、添い遂げましょう。私はあなたを探すわ。だからあなたも、私を探して。
――はい……はい。もちろんです。そのときは、私がお迎えに参りましょう。
――それまで余所見はダメよ?
――ええ、分かっております。我が心は、すでにあなた様だけに捧げておりますゆえ。
――ふふ、私の心も、もうあなたにあげてしまっているわ。
――光栄です、姫様……
――昌義……
(ってあ゛ーーっ。その続きは思い出さなくていいから! ていうか思い出すなッ)
余計なことまで頭の中でもわんと思い出されそうになって、僕は慌てて
(とりあえず、今だけは榎本さんを見ないようにしよう)
そうして思い出される、茉莉の言葉。
――"でも湊……ましろに変なこと"
(茉莉あいつっ……やっぱり余計なことしか言わないな!)
なおのこと榎本さんのほうを向けなくなった。
勘弁してほしい。なんで僕は眠ってる体調不良の子を前にこんな思いをしているんだ。
茉莉には明日色々とお返しでもしてやろうと、固く心に誓った。
「はぁ、早く戻って来てくれないかな、先生……」
「……んん……」
「!」
僕が情けない声を上げたとき、それに続くように榎本さんから短い呻き声が聞こえてくる。
慌てて彼女の顔を覗き込むと、彼女は眉間にしわを寄せて、どこか苦しそうに表情を歪ませていた。
「榎本さん? 大丈夫?」
恐る恐る声をかけるけど、榎本さんが目を開ける気配はない。
それでも彼女の眉根がどんどん深く寄っていくから、思わず僕は叩き起こすようにぺちぺちと彼女の頬を軽く打つ。
「榎本さん、起きて。起きて榎本さん」
「んっ――――んー……?」
そのとき、彼女の瞳がぼんやりと姿を現した。
そのことにほっとして、僕は軽くでも叩いてしまった彼女の頬を労わるように撫でる。
「おはよう、榎本さん。気分はどう?」
「み、なと……?」
「!」
寝起きの彼女から発されたその名前に、僕は心臓をぎゅっと鷲掴みにされる。
同じ名前のはずなのに、僕のことじゃないと分かっているだけで、こんなにも響き方が違うのか。
「榎本さん、申し訳ないけど、僕は君の言う『ミナト』じゃ……」
「みなと……湊……よかった……」
榎本さんの腕がするりと僕の首に回される。
それにドキッと反応する自分の心臓を、今日ほど恨めしく思ったことはない。
(頼むから反応しないでくれ……っ)
だって彼女は、僕を他の男と間違えているだけなのだから。
それでも切実な僕の願いは虚しく、おそらく寝ぼけているだろう榎本さんの体が密着するたび、僕の鼓動はどんどん加速していった。
抗えない温もりと、柔らかな感触と、彼女の優しい匂いが、僕の頭の中から彼女を引き剥がすという選択肢を黒く塗り潰してしまう。
「湊……私、ちゃんと好きですよ、湊のこと」
(っなんで……)
「本当に、大好きなんですよ」
(どうしてっ……)
「ねぇ、湊。湊は私のこと、好きですか?」
(どうして君の『ミナト』は、僕じゃないんだっ)
榎本さんが僕の頬にすり寄ってくる。
もし僕が君の『ミナト』なら、今すぐその問いに答えてあげるのに。
今すぐに、君の体を強く、強く、抱きしめ返してあげるのに。
好きだ。好きだよ。
僕も君が、好きなんだ――。
榎本さんが僕の肩口に顔を
まるで僕の匂いを嗅ぐように、彼女が僕の首筋を這っていく。
その途中で何度か押しつけられる湿った感触は、否が応でも僕の欲望を掻き立てた。
たとえその行為が、僕じゃない男を求めていると知っていても。
(……僕は、謝らないよ……榎本さん)
彼女が僕の頭を固定する。
そのまま傾けた顔を近づけてきて、より一層強く彼女の匂いが鼻腔をくすぐった。
ああこれ、知ってる匂いに似ているなと、頭の片隅で思いながら目を閉じた――刹那。
「……ん」
僕と彼女の唇が、そっと重なった。
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