前世の記憶を持つ男「大っ嫌いなんて言わないで」
「待って榎本さん!」
僕はこのとき、そう叫んでしまった自分を今すぐ呪い殺してやりたくなった。
なぜなら僕が彼女の名前を叫んだ瞬間、それを聞いた彼女がさらに速度を上げて逃げてしまったからだ。
ここから、僕と榎本さんの鬼ごっこが始まった。
「なんで逃げるの!」
「逆になんで追いかけて来るんですか!」
「君が逃げるからだろ!」
「あなたが追いかけて来なければ私も逃げませんっ」
「嘘つけ! その前に逃げてったくせに!」
「で、でも今はそうですっ」
「じゃあ僕も止まるから止まってよ!」
「無理、です!」
自慢じゃないけど、僕は運動が嫌いなんだ。
疲れるし面倒だし、必要にかられない限り頼まれたって全力疾走なんてしない。
でもさ、運動が嫌いなのと苦手なのとでは、全然意味合いが違うってことを知っておいてほしいな。
(僕を本気にさせるとか、なかなか面倒な人だよね、榎本さんって)
僕の一番嫌いなタイプだ。面倒くさい人。
なのに彼女に対しては、その面倒だってどうでもよくなるから不思議だ。
僕はラストスパートよろしく一気に地を蹴った。
ぐんぐん彼女との距離を詰めて、ついにその手を掴めそうな距離にまで近づくと、そのまま彼女の腕を強く掴む。
でもそれだけでは僕の手を振り払おうと暴れる榎本さんを抑えられないので、僕は遠慮なく榎本さんの体を抱きしめて捕まえた。
「……っ、……っ……っ!」
腕の中で彼女がまだ逃げようとして暴れるけれど、走ったせいで息切れを起こしているようで、その力は弱々しい。
「落ち着いて、榎本さん。あんまり暴れると、もっと強く抱きしめるよ?」
「っ、」
どうやらそれは嫌だったようで、電池の切れたロボットのごとく彼女はぴたりと動きを止める。
それはそれでなんだか面白くない気分にさせられるけど、とりあえず僕は捕まえた榎本さんをそのままずるずると引っ張っていった。
ちょうど近くに小さな公園があったから、そこのベンチに彼女を座らせる。
今は大人しくなってきたけど、油断するとまた逃げられそうだから、退路を断つ意味でも僕は彼女の前に片膝をついた。
でも本当は、僕がただ榎本さんの顔を見たかっただけなんだ。
「榎本さん、こっち向いて」
僕の見間違いでなければ、茉莉の家を出る直前に彼女が見せたのは、真紅の薔薇のように真っ赤な顔だ。それをもう一度見たかった。
だってそれは、僕のせいなんだろ?
僕がさせた、君の反応なんだろ?
「お願い、榎本さん。顔、見せて」
「っ、や、です」
「どうして?」
「わ、たし、いま、酷い顔してますからっ」
「どんな?」
「そんなの知りません! でも、酷いんです……っ」
「じゃあ僕が確かめてあげるから、顔上げてよ」
「だから嫌だって――――!?」
彼女が叫ぼうとした瞬間、僕は問答無用で彼女の顎を掴んで上に向けさせた。
正直言うと、このやりとりが面倒くさくなったのもある。僕は早く榎本さんの顔を見たいのに、拒み続ける彼女に耐えられなくなった。
そんなに僕が嫌いなのかと、少しのイラつきも混じっていたように思う。
でも、いざ無理やり榎本さんの顔を露わにさせてみたら、そんなことするんじゃなかったという後悔が一気に胸の内に広がった。
だって、それは卑怯だよ、榎本さん。
「――っ」
案の定真っ赤な顔をしていた彼女は、なぜかちょっと涙目で。
僕が強引に顔を自分の方に向けさせたからか、戸惑うようにその濡れた瞳が揺れてもいて。
一瞬で、自分の顔に熱が集まるのが分かった。
彼女の泣きそうな顔に男の欲が反応したのに気づいて、今度は僕のほうが戸惑ってしまう。
最低だろ。いくらなんでも。
すでに泣かせているのに、どうしたらもっと泣くかなとか、そんなことを片隅にでも考えるなんて。
「ふいて」
「……え?」
「涙、拭いて。泣くのは卑怯だ」
「っ、す、すみまっ」
「違う。違うそうじゃない……違うんだ。今のは言い方が悪かった。ちょっと自分でも混乱してて。とにかく、それはやばい」
「ど、どういうことです?」
「なんでそこ訊くの」
僕は思わず片手で自分の顔を覆った。
それ、答えなきゃダメ? でも答えたら絶対榎本さんに軽蔑されそうだ。
ただでさえ彼女には嫌われているかもしれないのに。
覆った手の隙間からちらりと榎本さんを覗くと、不安そうに僕を見つめてくる瞳と視線がぶつかる。
だからその顔がダメなんだって。とはもちろん言えない僕は、でもあまりに榎本さんがいつもの毅然とした彼女と違ってなんだか弱々しかったから、僕の中の庇護欲が自分のプライドを上回る。
「あーもうっ、いいよもう白状するよ。その代わり絶対引かないでね?」
「?、?」
なんでこう、男ってバカな生き物なのかな。
庇護欲なんかクソくらえ。
そう思うのに、結局やっぱり彼女を泣かせるくらいなら、という思いが
だからか、僕はいっそ開き直ったようにそれを口にしていた。
「泣いてる君を見てかわいいと思った。僕がそうさせてるならもっと泣かせてみたいとも思った。泣かせて、その涙にキスしたいと思った」
「!!?」
「もっと言っていいならまだあるよ? 瞳にキスして、そのままあわよくば唇にもしたいなとか。そしたらどんな反応してくれるのかなとか。もし僕が榎本さんの好きな人なんだったら、きっと真っ赤になって所在なさげに瞳を泳がせるんだろうなとか。そんなことされたらこっちとしてはたまったもんじゃな……ってああもう最悪だよ何言ってんだろ僕は……」
つい調子に乗って色々と暴露しすぎたんじゃないだろうか。
本当に最悪だ。これただの変態だよな?
嫌いな奴からこんなこと言われたら、普通に気持ち悪いよな?
(やばい……榎本さんの顔が怖くて見れない……)
さっきまであんなに見せてとか言っておいて、今度は見たくないとか自分勝手すぎるだろ。
内心でそう突っ込むも、こればっかりはどうしようもない。
けどそこで、僕はこの場が沈黙を保っていることに違和感を覚えた。
榎本さんのことだ。もしこんな僕に気持ち悪いないしはそれに近い感情を持ったなら、すぐにでもここから逃げていきそうなものである。
でも彼女にそんな気配は一切なく、僕は恐る恐る榎本さんの反応を確認した。
すると。
「……え」
さっきでさえ真紅の薔薇のように真っ赤だった彼女の頬が、今はそんなの優に超えて、まるでマグマみたいに触ったら火傷では済まされなそうな熱を帯びていることが一目で分かった。
小さな口は餌を求める鯉のようにパクパクと動いていて、きっと何かを言おうとしているのに、けどそれが言葉にできないくらい衝撃を受けているんだろうことも読み取れる。
(なんっで、君はそう……)
そんな、反応をするのか。
そんな反応は、比喩でもなんでもなく、好きな奴にそう言われたときにするものだ。
バカだ。バカだよ。僕も君も、大バカだ。
自然と僕の手が伸びる。
心臓が耳の奥でうるさいほどに鳴っている。
触れた彼女の頬は、想像どおり熱かった。
僕の視線は吸い寄せられるように榎本さんの唇に落ちていて。
その引力に逆らわず、僕は彼女の唇と自分のそれを重ねようとして――
「っ、ごめん」
なんとか理性を総動員させて、涙の滲む目尻にそっと触れるだけに留めた。
それでも完全に止められなかった僕は、唇を離しながら榎本さんの様子を窺うようにその瞳を覗き込む。
すると、みるみるうちに開かれていく彼女の瞳の中に、不安そうに、でも真剣に彼女を見つめる自分の姿が映っていて。
ああ僕は、今こんなにも情けない表情をしているのか、と思った。
彼女への欲を抑えきれない色を滲ませて、それでもやってしまったことの後悔もそこには混ざっていて。
こんなことを勝手にして、彼女にさらに嫌われるんじゃないだろうか。その恐怖が、たぶん僕を緊張させている。
榎本さんは何も言わない。
僕の突然の行動に意表を突かれすぎてしまっているのか、固まったまま何も言ってくれない。
「榎本さん、お願いだから、何か言って……?」
じゃないと、不安で胸が押し潰されそうだ。
唇じゃないとはいえ、こんなことをした僕を君はどう思った?
軽蔑した? 嫌いになった? もう二度と顔も見たくなくなった?
願わくは、せめて、"大っ嫌い"と言わないで。
「……んで」
か細い声が耳に届いて、僕の肩が小さく跳ねる。
情けない。たった一人の人の反応が、ここまで怖いだなんて。
「なんで、謝ったん、です?」
「え?」
なのに、それは僕を責める言葉ではなく、ましてや嫌悪する言葉でもなく。
あまりに予想外のことを尋ねられて、僕の脳は一瞬彼女の言葉を処理できなかった。
「あの、もう一回……」
「ですから、なぜ、謝ったんです? 私、言いましたよね。あなたが悪いと思ったことにだけ謝ればいいと。じゃああなたは今、悪いと思って、私にあ、あんなことを、したんですか? そんな気持ちで、私にキスなんてっ――」
「そりゃ、思うよ。だって僕は、君のことなんて考えずに自分の欲求を優先したんだから」
「――へ?」
「それでも一応我慢したんだよ? 君は抵抗しないし、あのままだったら本当は唇にしてた。僕だって男なんだ。好きな人から涙目の上目遣いで見つめられたら、変な衝動だって起こしたくもなる。だいたいあんな顔されたら、分かってても勘違いするんだよ、バカな男は」
もしかして僕のこと、好きなのかなって。
「――――や、いやいやいや!? 今とんでもないことさらっと言いませんでした!?」
「とんでもないこと?」
首を捻る。そんなこと言ったっけ?
「言いましたよ! わた、私を、すす、すきっ、な人って……!」
「? 別にとんでもないことじゃなくない?」
「はい!?」
だってそもそも、そうじゃなかったらキスしたいなんて思わないし。
僕は生来面倒くさがり屋なんだから、祐介のような女関係は絶対にごめんだと思ってる。あいつのようにたとえ
僕はそこまで器用でもないんだ。自分の心の中にいる人を無視して、何とも思っていない人の相手をするのは想像しただけでも疲れる。
「なんであなたはそこで照れというものを持たないんです!?」
「だって、それよりも照れそうなこと、先にしちゃったし」
「っ、」
「それに今は、照れよりも恐怖のほうが大きいんだけど?」
「き、恐怖……?」
「自分で言うのもなんだけど、榎本さんは気持ち悪くなかったの? 僕なんかにあんなことされて」
「そんなことっ――――……いえ、何でもありません。いやほんと、本当になんでもありませんので今のは忘れてください」
かーっと頬に熱を集めて、榎本さんが僕から視線を逸らす。
ほら、君のその行動が、
「榎本ましろさん」
本当は、もうちょっと君を籠絡してから伝えたかったんだけど。
「僕は君が好きだよ。たぶん、初めて出逢ったときから」
どうやら僕の完敗らしい。
前世のことで頑なになっていた僕の心を簡単に解した君に、僕が勝てる未来なんてそもそもなかったんだ。
――"ふふ。私に勝とうなんて、百年早いわよ、昌義"
いいや。
千年経った今でも、残念ながら僕らは君たちに勝てそうにない。
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