未来から来た女「私を嫌ってください!」
これは夢だ。
夢だと分かって見る夢を、明晰夢って言うらしいよと教えてくれたのは、今まさにその明晰夢に出てきている彼だった。
『ましろ? 何してるの』
『見てください湊! この猫、湊に似ていると思いません?』
二人でよく一緒に通った帰り道。付き合うようになってから、私たちはなんだかんだ言っていつも一緒に帰っていた。
二人とも帰宅部というやる気のない部活にお世話になっていたし、日直なんかがあったときはそれが終わるのを互いに待っていたりもした。
だからやっぱりなんだかんだ言って、私たちは仲のいいカップルだったのだ。
『ねぇましろ。もっとよく見て。その猫、どのへんが僕に似てるの?』
『えぇー、そんなの決まってます。この全てのことが面倒くさそうなどっぷりと構える素晴らしい貫禄! そっくりじゃありませんか』
『うん、君が僕のことどんなふうに思ってるのか、なんとなく分かったよ』
低い塀の上で、
全身真っ黒で、退屈そうにあくびをかみ殺している。
ちょっとのことでは動じなさそうで、餌をもらうために誰にでも愛嬌を振るうような猫とは違い、むしろ「俺は物で釣られてなんかやらないぜ」みたいな態度が私にとっては好ましかった。
『ふふ、湊もこんな感じですよね』
『なにが? そのふざけただらしない態度が? ケンカ売ってる?』
『違いますよ。この、誰にでも簡単に靡く感じがしないところが、です。最近は湊に変な虫が寄ってきて大変ですので、私としてはそんな湊の態度に救われてもいるんです』
『へぇ……知らなかった。君、もしかして嫉妬してくれてたの?』
『……私ばっかりやきもきしてる、と思うくらいには』
私が拗ねたようにそう言うと、湊がどこかおかしそうに吹き出したのを覚えている。
『残念。僕なんかほぼ毎日やきもきしてるよ。君がもう少し自分の価値を客観的に見てくれたら助かるのに、って思うくらいには』
『それは……私も知りませんでした』
『男の嫉妬は醜いらしいからね』
苦笑して肩を竦めた湊に、誰だそんな余計なことを湊に教えた奴は、と実はこのとき内心で若干の怒りを感じていたことも、私は覚えている。
全ては巻き戻してもらった、存在しない時間の中に置いてきた思い出だ。
だから、これは夢なのだ。
湊はもう私を「ましろ」とは呼ばないし、私ももう湊を「湊」とは呼べなくなってしまった。
(ああ、そうでした……確か湊に『男の嫉妬は醜い』とかふざけたことを教え込んだのって、相模くんじゃありませんでした?)
私は湊が嫉妬してくれてたなんてこれっぽっちも気づいてなかったから、それを知ったときは湊に申し訳ないと思いながらもやっぱり嬉しかったのだ。
私だけが抱く感情じゃないんだと、安心もした。
だから、そんな余計なことを湊に吹き込んでくれた相模くんには、理不尽な八つ当たりをしたくなったんだっけ――
「……っ……許す、まじ……相模のバカたれめっ」
「ちょ、なにこの子。なんで寝言で俺の悪口言ってんの? てか寝言だよね?」
「いやほんと、普通にムカつくな、おまえ」
「なんで!? なんで湊までそんなこと言ってくんの!? 俺なんかした?」
「榎本さんの夢に出てる。しかも呼び捨てにされてる」
「…………は? え、は? ちょっと待ってくれ。え? は? はああああ!?」
「うるさいよ祐介。榎本さんが起きたらどうするの」
「や、だって! え? ちょっとタンマ、マジでタンマ。どういうことだ? 湊って榎本さんのこと嫌いなんじゃねぇの? だから俺……」
「僕がいつそんなこと言った?」
「えぇ!? だ、だってさ、榎本さんが突っかかってくるたび、ため息ついてたし……。だいたいあんだけ嫌味言われたら、普通は嫌いになるだろ?」
「ため息はただ単に『この人いつになったら僕のこと嫌いにならなくなるのかな』っていう意味で、嫌味をどれだけ言われようと、僕が彼女を嫌いになることはないよ」
「なんで……」
「だって知ってるから。彼女の本質を」
「本質……? いやてか、おい……じゃあまさか…………好き、とか?」
「さあ? それはどうだろう」
「はああ!?」
「だから祐介、そんな大きい声出すと起きるだろ」
「んなもん出したくもな――」
「ん、……ぃ……で」
「「!」」
「行かな……で、……しの……」
「やっば、起こしたか?」
「行かないで、私の苺タルっ――――……ト?」
「「……」」
ト? の部分で私はハッと目を覚ます。
いや、目を覚ます、というよりは。
大好物の苺タルトを意地悪な湊に奪われて、それを追いかけていたら突然目の前が開けたというか。
夢の内容がころころ変わるのはありがちだけど、実際にあった過去を見たあとに、現実とは何ら関係ない夢を見たのはこれが初めてだ。
たとえば中学生のときの友達が、なぜか湊や相模くんとも知り合いで、みんなで一緒の職場で働いている夢、みたいな。
現実にいる人物なのに、事実とは違う背景。夢によくある意味不明な設定だ。
今回のはそれの最たるもので、なぜか私から苺タルトを奪った湊を、私はひたすら追いかけ続けていた。
「最悪の目覚めです……。湊め、私をいじめて楽しんでやがりましたね」
もちろんそれは夢の中の湊が、なのだけれど。
ちなみに寝起きだったこのときの私は、完全に油断していた。今が朝かと錯覚すらしていた。
だからここは自分の家だと思っていて、私はいつも寝るときには横に置いているスマホで時間を確認しようと、寝返りを打つ。
するとそのとき視界に入ったのは、今さっきまで夢に見ていた人の顔で。
「……」
「……」
私はそっと手を伸ばす。
たぶんそれは無意識だったのだろう。夢の延長かと思っていた。
伸ばした手が、彼の頬に触れる。
そのとき見開かれていく彼の瞳に、私はようやく「ん?」と違和感を覚えた。
夢にしては、リアルな感触。確かな温もり。
(や、その前に私、そういえば目が覚めたんじゃなかったでしたっけ……)
その感覚さえ夢だったというのだろうか?
否。間違いなく、私は起きたはずだ。
「んんんー?」
「ちょ、痛い痛い痛いっ。引っ張ってるよ榎本さん!」
「ぅえっ、本物!?」
「うん、まあ、本物か偽物か訊かれたら、本物だろうね」
私と違って湊が冷静だったからこそ、私は冷水を浴びせられたように飛び起きる。
わけが分からず周りを見渡せば、そこは知らない誰かの部屋――と言えたらよかったのに。
残念ながら、私は自分の現在地をここで正確に把握した。
(なん、で、湊の部屋にいるんです!?)
そう、ここは。
付き合っていた頃に何度もお邪魔したことがある、湊の部屋だった。
私は声にならない声で、これはどういうことかと湊に尋ねる。
そんな私の視線を正しく理解した湊が淡々と答えた。
「途中で榎本さんが気を失っちゃったから、とりあえず一番近い僕の家に運んだんだ。だからここは僕の部屋。で、そこは僕がいつも寝てるベッド」
「そこは教えてくれなくて結構ですから!」
たとえそうだとしても、そんなのわざわざ声に出してくれなくていいのに。絶対湊のことだから、私をからかうつもりでそう言ったのだろう。
本当に意地悪な人だ。だから私はあんな夢を見る羽目になったんじゃないだろうか。
(……ん? 夢? ってあれ、そういえば私、なんか叫んだような気が……)
「それで榎本さん、体調はどう? 急に倒れるなんて、どこか悪かったの?」
「え? いえ、そういうわけではありません」
「そうなの? じゃあもう平気?」
なんか湊が優しい。
口調が穏やかで、表情も柔らかくて。
だからこそ――――怖い。
(知ってる。私知ってますよこの湊! 嵐の前の静けさよろしく何か意地悪なことを考えてるときの湊ですよ、これ!)
彼と親しい間柄の者たちならば、すぐにその空気を察することができるだろう。
彼の醸し出す、独特の空気を。
案の定視界の端に映った相模くんが、そっと身を引いたところだった。
「そっか。何もないならよかったよ。これで思う存分に訊けるね?」
「――っ」
背筋に氷塊が滑り落ちた。
「じゃあまず、祐介を巻き込んだ理由から」
「……」
私は黙秘権を行使しようと、口を引き結んで湊から視線を逃す。
「どうやって祐介を抱き込んだの?」
「……」
「祐介とは付き合ってないってことでいいんだよね?」
「……」
「そういえば何か夢でも見てたみたいだね。なんだっけ、『許すまじ、相模のバカたれめ』だったっけ?」
「うっ……」
(やっぱり寝言言っちゃってましたよ……っ。でもでも、それくらいならどうとでも誤魔か――)
「あと、『湊め、私をいじめて楽しんでやがりましたね』だっけ?」
「ぶほぉっ!?」
「…………分っかりやっす」
「ちょっと黙っててくれます相模くん!?」
思わず咳き込んでしまった呼吸を整えて、私はバクバクしている心臓を宥めながら反論を開始する。
「気のせいです」
「『湊め、私をいじめて――』」
「繰り返さなくていいですから! 言いたいことは分かりますよええごめんなさいねッ。でもそれはあなたじゃなくて別の『湊』のことであなたは知るはずもない人のことです!」
「そうなんだ? でも僕、別にその『湊』が僕のことだなんて言ってないけどね? 僕は君の寝言を教えてあげただけだ。なのにそんなに必死に否定するのは、逆に怪しいとは思わない?」
「……っ……っ……!」
なんっなんですかこの人はッ!!
私は二度目の声にならない声で絶叫した。
湊ってこういう人だったのか。一年前は出逢って二ヶ月もしないうちに付き合うようになったから、彼を敵に回すとこうも厄介だったなんて知らなかった。
というか、なんで湊はこんなにしつこく追求してくるのだろう。
途中までは何事もなく、順調に湊に嫌われていたはずの私だ。
だったら嫌いな相手のことなんて、別に知ろうとしなくていいのにと思う。
我知らず唇を噛んで、ぎゅっと拳を握った。
「うーん、ちょっといじめ過ぎたかな」
「……?」
すると、湊がどこか気まずそうに頬を掻いて、困ったように眉尻を垂れ下げる。
「ごめん、榎本さん。僕が君のことを知りたいからって、ちょっと攻めすぎた。今日はもう何も訊かない。だからそんな顔しないで」
ぽん、と頭に優しい温もりが降りてきた。
まるで泣いている子供をあやすようなその仕草は、付き合っていた頃にもよくされたもので――。
引きずられる。
時間が、急速に戻っていく。
――"ましろはさ、こうされるの好きだよね"
好きです。大好きです。
だって、子供扱いみたいだけど、それでもあなたの温もりがとても心地よかったから。
「……っき」
「え?」
「気持ち悪いです触らないでください!」
私は余計なことを言おうとした自分の口を慌てて軌道修正して、湊をキッと睨んでやる。
今は嫌い。嫌いなのだ。
その温もりも、あなたの優しさも。
私はそれを、忘れてはならない。
「だいたい私は前に言いましたよね? 簡単に謝るなって。なんであなたはまた謝ってるんですか」
「うん、だって、今回はちゃんと僕が悪いと思ったから。さっきも言ったけど、僕が君のこと知りたいからって、それで君を困らせていい理由にはならないだろ?」
「し、知りたいとか、意味不明です! 嫌いな人間のことを知って、どうするつもりです? まさか私を脅すつもりですか」
「認識の違いだね。そもそも僕は君を嫌いだなんて一言も言ってない」
「………………は?」
自分の耳を疑う。私は今、信じられない言葉を、いや、信じたくない言葉を聞かされた気がする。
とりあえずあれだ、今すぐ耳鼻科に行ってきてもいいですか。
「まったく、祐介といい君といい、なんでそういうことになってるの?」
「いや、俺は榎本さんからそう聞かされたから……」
「そう聞かされたって?」
「あー……その、湊は榎本さんを嫌ってるのに、最近なんでかよくかまってくるから、幼なじみの目を覚まさせてやりましょうって。何も知らない連中が湊のことを『美人に嫌われてるのにしつこい冴えない男』って噂するのも我慢ならねぇし。そもそも湊が面白がって榎本さんにかまわなければ、そんな噂が立つこともないっつーのにさ」
「なるほど。それで協力したのか。祐介と僕の関係性を利用したわけだな。でもよく知ってたね、僕らの昔の関係なんか」
あなたが教えてくれたんですよ、と私は内心で答えておいた。
でもそんなことよりも、私には確認したいことがある。
「あの、私のこと嫌いじゃないって、本気で言ってるんですか……?」
「今はまだ、ね」
「な、なんでです? 結構散々酷いこと言ってやった気がするんですけど」
「そこ本人に言っちゃうの? 面白いね榎本さん。ああそういえば君、僕に嫌われたいんだっけ」
私は全力で首を縦に振った。
そっか。なんで私はこんな簡単なことを今まで思いつかなかったのだろう。
嫌われたいのなら、いっそのこと本人に訊けばよかったのだ。
どうしたら私を嫌ってくれますか、と。
または私を嫌ってくださいとお願いするのもいいかもしれない。
え、やばい。これって名案じゃないですか!
「名案じゃないし声に出てるし目を輝かせることでもないからな? なんてーか、俺、榎本さんってもっとクールな人かと思ってたんだけど。なにこの天然。それともただのバカなんかな」
「ばっ……!? あなたには言われたくないんですけどこの浮気者!」
「うわき……!? 俺がいつ浮気したって言うんだよ!?」
「現在進行形ですよ! 知りませんでした、あなたが茉莉ちゃんを好きだったなんて!」
「うっせぇよ! つかあんたとは演技だろっ。それで浮気者とか……」
「私のことじゃありませんよこのチャラ男めがぁぁあ!」
「いだ!?」
今の彼らは知らないだろうから仕方ないけど、茉莉ちゃんこと高木茉莉は私の数少ない友人なのだ。
茉莉ちゃんは湊や相模くんと同じ中学で、そのときから仲がよかったらしいんだけど、実はその茉莉ちゃんの好きな人がこの浮気者の相模くんなのである。
中学のとき、どうやら茉莉ちゃんは相模くんに告白されたらしいんだけど、それは修学旅行のときの男子のノリ――つまりはゲームに負けた罰ゲームで告白されたらしく、偶然それを知ってしまった茉莉ちゃんは怒って告白を断ってしまったそうだ。
いや当然ですよ。そんな告白されて喜ぶ女は滅多といませんよ。
これを聞いた私は相模くんをとてもとても軽蔑したのだけど、それはとりあえず置いといて。
とにかく、そんな経緯から、相模くんが茉莉ちゃんを好きだったなんてこっちとしては寝耳に水なわけである。
「この女の敵め! 滅びろ、滅びてしまえっ」
「ちょ、待っ、痛くねぇけどやめてくんない!?」
げしげしと恨みの込めたキックを連続でお見舞いしてやる。
「はいはい、ストップ。落ち着いて榎本さん」
するとそんな私の後ろから、湊が抱き込むように私を取り押さえてきた。
しかもそのままズルズルと移動させられて、湊もろとも二人でベッドにぼふんっと座る形になる。
つまり、私、オン湊、オンベッド、的な?
さらにさらに、足技を繰り広げていたからか、湊はその長い足で私の足をしっかりホールドしてきて。
「!? ……!? っっっ!?」
「あ、大人しくなった」
ピシッ。
私は石像よろしく石化した。
耳に湊の吐息があたる。
「ああ、これいいな。榎本さんが大人しくなる。覚えておこう」
「いや、あのさ湊、さすがにそれは……ちょっと……」
「? なんか問題ある?」
「いやありまくりっつーか。むしろ不思議そうに首を傾げられたことにびっくりっつーか」
「まあ、仕方ないよね。榎本さんが暴れるから。これは僕が悪いわけじゃないし、謝らなくていいんだよね? 榎本さん」
いや、これは謝って?
切実にそう思った。
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