失楽編

九話 あの空を覚えていますか?

 北風が絶えず吹く。流れる。

 冷たく、風が撫でていた。


 撫でたまま、どこかへ。

 一方向に流れ去ってしまう。


 まるで時間だ。


 絶えず流れ、進む。

 一般相対性理論いわく、不可逆的な存在。


 そして、不可逆から逃れる為に、人は夢を見る。

 だって、人は不可逆を壊せないから。


 「隣に座っていいかな」


 小さな背中を見ていられず、声をかける小さな僕。過去の思い出。その追体験。

例に漏れず、僕も夢を見る愚かな一人だった。


 「僕の父さんってさ。鬼なんだ」


 小さな少女の返事を待たず、僕は彼女の隣に座る。満開の星空の下、せわしなく揺れる草の上へ。


 「日曜日になると人を喰らう、殺人鬼」

 「……それ。上手く言ったつもり?」


 毒舌少女は鼻を鳴らす。


 「あなたのお父さんがした事は知ってる。私の家のみんなを殺したんでしょ」


 涙一つも浮かべず、そう言い放つ。

 そんな彼女の声は冷たく、驚くほどに落ち着いている。


 「知ってるんだ。なら……」

 「なら、何でって? 何で悲しそうにしないのか――って?」


 草の上に身を投げ出す少女。


 「だって、悲しくないんだもん。そりゃ、あの人たちは私に良くしてくれたけど。そうしてくれたのは、自分達の為だって分かってたから」


 風の音に紛れて、聞こえた本音。


 「いなくなって、せいせいした」


 彼女自身、この状況に置かれるまで気付かなかったはずの本音。

 気付いてはいけなかったもの。

それを僕の父は、彼女に知らせてしまっていたのだ。


 お前は誰も愛していなかったのだよ、と。

 お前は誰にも愛されていなかったのだよ、と。

お前は空っぽなんだよ、と。


 酷く冷徹な手段によって。


 「嘘だ」


 僕は溜まらず、少女を抱き寄せる。

 無責任にも。


 「それは嘘だ」

 「でも……」

 「僕は、君が泣いているのを見たんだ」


 一つ嘘をつく。


 「本当に?」

 「本当だ。今だってビショビショだ」


 息をのむ音がして、背中を少女の手が滑る。


 「……ねえ、めちゃくちゃだよ。何言ってるか分かってるの?」

 「ああ」

 「最初と最後。本当、ヤバいよ」

 「だろうな」


 少しの間、二人は抱き合った。

 風の音さえ聞こえなくなった、その場所で。寄り添い、支え合う。


 「謝罪なんて大嫌いだよ。贖罪しょくざいだったら、もっと嫌い」

 「分かってる」

 「どんなに謝ったって、無かった事にはしてあげないから」


 無かった事にして欲しいなんて、思ってもいなかった。僕の父がしたことは、償っても償いきれないと分かっていた。


 「だって、きっとあなたは――」


 短期的に見て、長期的な殺人。

 その中、代表的かつ有名な事件。

京都老舗料亭、吉安の女将殺し。


 料亭の営業時間中の犯行、庭園の木に張り付けにして首を切り、店の軒先にその頭を串刺しにして飾るという手口の残虐さと大胆さから、当時メディアはこの事件を大々的に報じた。


 けれども、この事件が本当に酷かったのはここから。


 事件後、旦那は一人娘を残して自殺。

 女将夫婦と一緒に暮らしていた旦那の母は、娘を八つ当たりで虐待した挙句、早々に病にふせり、一ヵ月と経たず、死んでしまって。


 みんなみんな、死んでしまって。


 「だから、私のものになってね。あっくん」


 そうして娘――姫野琴葉は一人になった。

 僕の父が、一人にした。


 「代わりに、私があなたを守ってあげる」


 僕が彼女を満たさねば。

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